短編
- ナノ -


 ありのままが好きだよ


「酔っちゃったぜ」

 ふぅん、と素知らぬ顔と声音を心掛けて返事はしたものの、テーブルの向かい側にいるダンデさんはゆるんだ顔を微塵も変えない。寧ろ「つれないぜ」なんて言いたげにほんのり口の端だけ上げて笑う。きゅっと細まる目元も、微かに持ち上がった頬も、けれど私からは赤くなどおよそ見えなかった。
 酒盛りを初めてまだ一時間足らず。数杯酒を飲んだだけで仕上がったのが、こうして目の前で無防備を装う大男である。

「酔っちゃったぜ」

 私の反応が芳しくなかったのか、または本当に酔っているからなのか。恐らく後者ではないと踏んでいるので、二度目のアピールもスルーして適当にメニュー表を開いた。酒は飲めるだけ飲んだしそろそろお腹はいっぱいになったが、締めはほしい。

「なぁ、なぁ、酔っちゃったんだぜ」
「フィッシュ&チップスください」
「む……」

 呼んだ店員に注文をする間、ダンデさんはくたりと頭を上体ごとテーブルに預けて、腕で作ったスペースに顔を埋めていた。でも店員がいなくなるとすかさず面を上げて、変に楽しそうにしながら、またゆるく笑う。こてん、と自分で作っている狭いスペースの中で首を傾けるオプション付きで。

「このままじゃ、一人で帰れないぞ」
「タクシー呼んでおきますね」
「そうじゃない」
「住所は自分で伝えてくださいね」
「なあ、オレ、酔ってるんだぜ?」
「二日酔いにならないといいですね」

 早速スマホでタクシーの予約アプリを開いて、この時間帯にしては珍しいが運よく空いているものをつかまえられた。もちろん一人分だ。すべきことは無事に終えたのでグラスに僅かに残っていたお酒を一気に飲み干した。氷が溶けきったそれは既にかなり薄まっていて、精々アルコールの風味程度しか感じられなかったしザルなので物足りなさはあったが、気持ち的にも十分に飲んだのでこれにて私の酒盛りは完了。フィッシュ&チップスで今夜は完璧にお開き。管を巻く自称酔っちゃったのさんにはきちんと安全な帰路も用意してある。自分の注文分の計算も済ませた。なんて素晴らしい私。

「あ、ドラマの予約忘れてた。早く帰らないと」
「俺とドラマどっちが大切なんだ?」
「ドラマです」
「……こんなに無防備にしてやってるのに。君は平気で据え膳を捨て置くのか」

 そういうのって、どちらかと言えば私側が言う台詞な気がする。



 財布を開くよりも先にさっさとチェックしたダンデさんにより私の計算は晴れて無駄となった。袖を引いて食い止めたが、こういう時ばかり酔ったなどとのたまった無防備さを散らしてにこやかに笑い、私の財布を封じてくる。小さくとも借りや口実を作るのは嫌なのでしっかり支払いをしたかったのに、有無を言わせず店員にカードを渡してしまったからもうどうしようもない。せめて現金でダンデさんに手渡ししようとしても、さも当然のように、頑なに受け取ろうとしてくれない。

「これで次の約束ができるな」

 申し訳ないと思うのなら次も付き合えと。はあああ、と小さくはない溜息が零れた。呆れのそれだ。だからしっかり計算したのに。
 不服を抱えたまま連れ立って外へ出てタクシーの待合場に着いた瞬間、いきなりダンデさんが背後から抱き着いてきた。誰もいないからといって。そのまま、まるで甘えるように私の首筋に鼻を擦り付けてくる。驚きはしたが、これが初めてのことではないのでまた溜息が零れた。

「本当は酔ってないんでしょう」
「よってるぜ……」

 途端に舌っ足らずに。あっという間に小さな子供に変身して、腕を巻き付けて私のお腹の前で手を組んで拘束する。しかしその力強さは子供のものでないことは言うまでもない。

「さっきまであんなしゃんとしてたのに。重たいですよ」
「酔いが回ってまっすぐ立てないんだ、許してくれ」

 体重をかけてきていかにもを演出している。すりすりと高い鼻を押し当ててきて、すう、と匂いを嗅がれればぞわっと鳥肌が立ったが、巻き付く腕がかなりの強さで振りほどけない。
 しかし瞬間ぴんときた。このままジャケットのポケットにでもさっきの注文分のお金をねじ込んでしまえばいいのだと。これで次の約束をしなくて済むし後腐れもない。思い立ったら即行動。なんてダンデさんではないが、手で受け取ってくれないのならば無理くり突っ込むしかないじゃないか。いそいそと不自由ながら鞄から財布を取り出して開いた矢先、気が付いたダンデさんが妙に甘ったるい声音で「んう?」と呻いた。それから私がお金を出そうとしているのを目に留めた瞬間、不機嫌そうに口を尖らせたのが視界の端っこに映った。

「……情緒がない」
「自分の食べた分のお金を払う。常識ですよ」
「いらない」
「駄々こねない」

 ダンデさんの手により、逆再生宜しくせっかく出した財布は鞄へと戻っていった。このままダンデさんのペースに乗せられるととんでもないことが起こるのは必定。だから、力では勝てなくても示す意志で対抗しなくては。けれどそれがいつだって気に食わないダンデさんは、なんとも大人らしからぬことに嫌々と首を振る。そのついでに額をぐりぐりと後頭部に押し付けてくるから振動で頭が揺れた。むずがるでかい子供みたいな男に、また溜息が零れる。今夜はいつもと比べて随分としつこい。

「なぁ、今なら俺のこと、好きにできるんだぜ?転がしても縛ってもいい、イリスの好きに」
「下世話なプレゼンは間に合ってます」
「……いい匂いがする。本当に酔いそうだ」
「言質!」
「いや酔ってるぜ」
「今自分で言ったくせに!」

 頭と首の境辺りに鼻を埋めたダンデさんの腕をばしばしと叩いたが、これっぽっちも効いていない。それどころか巻き付く力を込めてくる始末だ。うげ、と胃の中身が逆流しそうなくらい圧迫されて別の意味で降参したくなった。けれど、この場で降参する、それは即ち、これから文字通り身を削る羽目になる。

「何が不満なんだ。俺を持ち帰れるんだぞ」
「ドラマ見たいのでもういいですか?そろそろタクシーも来るし、どうぞお帰りください」
「いつもそうやってはぐらかす」

 背後の屈強な自称酔いどれが不満で喉を鳴らしていた。機嫌の良し悪しがわかりやすくて、こういうところはポケモンみたいだなぁと思う。

 変な人だなぁ、とつくづく。あんなに溌溂と、元気いっぱいにガラル中を走り回って、みんなのヒーローをしているのに、何がどうしたのか私の前ではこうして、無防備を装ってくる。
 こういうの、ドラマで何度も見たことがある。計算高い女が相手をモノにする算段としてわざと隙を見せてうまくベッドへ運ぶのだ。正に今のダンデさんみたいに。もしやそういうものに感化されているのだろうか、などとくだらない勘繰りをしている間も、ダンデさんの鼻はずっと私に押しつけられていた。匂いを取り込んでうっとりと息を吐きながら、またすりすり。ドラマの役と違うのは、媚びているというよりも、単純に甘えるような仕草に見えることだ。もちろん行く末にはベッド、しかも自分が好きにされる方、と私を巻き込もうとしてはくるが、なんだろう、これは懐き度がマックスになったポケモンのように、構って構ってとアピールしてくるのに近いかもしれない。うっかりすれば足まで絡めてきそうなダンデさんは、ここまでくるとまさか本当に酔っているのかと思わなくはないが、ただ酒に酔っている雰囲気ともまた違う。

「ダンデさん、タクシー来ましたよ」
「一緒に帰ろう。綺麗にしてある。朝までゆっくりしていってくれ」
「いや行かないですって」
「何が不満なんだ……?」
「何故そこを疑問に思う……?」

 心底不思議そうに目を丸めて私を覗き込んでくるから、こちらこそどうして頷くと思うのか甚だ疑問である。私達は恋人関係ではないのだ。しかし次の瞬間には寂しそうに目を潤ませて言葉なく何やら訴えてくる。この人顔はいいのでこれで落ちる人間は多くいるに違いないが、私は顔で騙されないよう鉄を胸に仕込んできているので残念ながら通じない。
 思えば前回一緒に酒を共にした際も同じような顔をされたな。それで危うく私が狼狽えかけたのをきちんと覚えているどころか味を占めている。もしや、それがあったから今夜はこんなに的確に仕留めようとしているのかもしれない。まったくもってスムーズではない誘い方ではあるが、そろそろぐいぐいと押せばいけると思われたのやも。心外である。

「ほらきびきび歩いて。すいませんこの人家までお願いします」
「おいで」
「閉めますよ」
「なぁ本当にいいのか?このまま帰していいのか?」
「やばっドラマ始まっちゃう」

 ずるずると背後の重たい男を引き摺りながら、空からやって来たタクシーのドアを開けてほら、と促してあげる。ここまでくれば、結局今夜も押しきれないと悟ったのか、隠しもせず顔をむすりとしつつも、それはもう不承不承と、ダンデさんはようやく私から離れて筐体の中に足を乗せた。じ、と恨めしそうに私を見つめたままで。
 シートに座ってからも、硝子のはめ込みのない窓枠によりかかるように手を置いたら、そこに自分の顎を乗せて、上目に私を見上げるのは最後のあがきだろうか。だからそういうのは可愛い女優がやるから効果があるのであって、貴方みたいな、髭面で、筋肉盛りもりで体格のいい男がやってもちっとも可愛くはないよと言ってあげた方が良いのだろうかと、非常にどうでもいいことに一瞬悩んだ。でも私を見上げる瞳は誇張なく本気で寂しそうだったので、言葉になる前に飲み込んでしまう。

「……次も、酒を飲もう」
「お酒ばっかり」
「次もきっと、俺は酔うぜ」
「変な宣言ですね」
「俺のこと、好きにしてもいいのに。君だけ特別なんだぜ」
「……はぁ」

 特別って言葉に人が弱いと知る上での発言だとわかった。大衆の注目を集める手腕など磨き上げている人だ。陥落させるためにはなりふり構わないところは、寧ろ尊敬できるポイントになり得るかもしれない。かと言って、今夜その特別になりたいとはならないけれど。

「そろそろ出しますよー」
「お願いします。じゃあ、ごちそうさまでした」
「……ああ」
「あと、」

 タクシーの運転手のおじさんの呼びかけのお陰で一度止まった私達の空気に、ダンデさんもそれ以上は埒開かないととうとう諦めたらしい。しょんぼりとしながら、でも縋るように相も変わらず私を見つめてくる。きっと私が地上から見えなくなるまでそうしているのだろうと思えた。
 それを、容易に想像できて、つい笑ってしまった。本当に、変な人だ。いつも酒の力であやふやになろうとして、誤魔化そうとする。自分だって酔わないくせに。
 窓枠に手をついて、一気に距離を埋めた。ずずい、と顔を寄せたら、動体視力のいいダンデさんは早くも目を丸くしていたが、顔を引かなかった。

「次は、最後まで素面でいてほしいです」

 ――むに、と押し当てただけの唇は、湿っていた。軽く押し当てただけのそれはリップ音も鳴らずに済んで、少しホッとする。
 対してダンデさんは、目玉が零れ落ちんばかりに見開いて、閉じていた口をあんぐりとあけて呆然としていた。店を出る前に直した口紅が薄っすら移ってしまっている。今自分に何が起きたのかさっぱり理解できない様子に、ほらやっぱり酔ってないと笑ってしまった。
 タイミングが最高なことに、我を取り戻したダンデさんが声を発するより先に、タクシーが地面から浮いた。全く構えていなかったダンデさんの体はそのままよろめき、一瞬窓から消えていった。多分床に落ちかけたのだろう。すぐさま慌てたようにひょこっと戻ってきた顔は暗がりのせいでもうあんまりはっきりとは見えないが、私のフィルターも通したイメージの中のダンデさんなら真っ赤にしている。はくはくと唇が何かしら言葉を生んでいるのがかろうじて見えたが、あっという間に空へ飛び立つタクシーとはそれなりに地上との差が生まれているので、声もろくに届かない。だから、そういうのは可愛い女優か、私がするべき反応なのに。

 ひらひらと、視認できるかは知らないが手を振ってあげた。ちょっぴり気恥ずかしさは残っているので、はにかんでいるかもしれない。目が合っているかもとっくにわからないが、絶対ダンデさんは、見えなくなるまで私を見ている筈だ。


20230915