短編
- ナノ -


 腹の中でも笑う

※現パロ

 広大で排気ガスの蔓延する土地の片隅の、傾いた区画の傾きかけるボロアパートの、これまた傾斜の激しい階段の数はとうに覚えていた。丁度陽の影になって黒く染まっているためよくよく気を付けなければ踏み違えそうだが、最早目を瞑っていても上り切れる自信がある程足の持ち上げ方も足裏の感触も身に染みついている。数えなくても段数が頭の中に点滅するそれを、ぎしぎしと怪しい音を立てながら踏みしめ、けれど軽やかに上っていく。単に女に会えることに気が逸っているのだ。
 二階の、右奥から一個手前の潜めいた部屋。本当は角部屋が良かったらしいが、生憎空いていなかったので渋々と一個隣を選んだらしい。勝手に拝借しているスペアで鍵を回し、きぃ、とか細い音を鳴らすドアを開けると同時にむわりと熱気の洗礼を受ける。外と大差ない空気だ。
 来たぞ、と靴を脱ぎながら室内の奥目がけて声を発すれば、んなぁ、と返事らしからぬ鳴き声が聞こえた。甚だ、まこと猫のような女である。

「なんだ、珍しく起きてら」

 イリスは敷いたままの布団の中に丸まっていた。そのしなやかな手足の伸ばし方と折り方が、本当に猫の寝方と酷似していて、思わずくつくつと笑ってしまう。のそりとこちらに動かされた頭に連なる長い髪が、薄いカーテンに負けて注ぐ陽の橙に染まった布団の上で線を描いていて、頭に引っ張られてさらさらと波打つ。丸い瞳が俺を仰いだ。次いで、きゅ、と細められる。やはり猫のようだ。

「お腹空いたぁ」
「もっと熱烈な歓迎が欲しいもんだ」

 媚びる笑みの作り方にまた笑った。こちらは今すぐその肢体に飛び込んで埋まりたいが、こんな風に甘えてねだられたら応えてやりたくなるもの。まぁ、そもそも普段からろくなものを食べていないイリスのために料理はしてやるつもりだったので、予定の内と言えばその通りだが。
 二階の、右奥から一個手前の潜めいた部屋。ピッキングにもあっさり負けそうな古めいたアパートを、イリスはとても気に入っている。レトロで可愛いじゃん、と以前布団の中で幸せそうに笑うその様に、これはレトロで収まる程度なのかと暫し悩んだが、彼女が気に入っているのでそれはそれで構わない。よく言えばレトロ。ノスタルジー。悪く言えばとにかくボロい。清潔感や防犯が強かったり、洒落たデザイナーズマンションが人気のこの時代には前時代的なデザインで、若い女が住まうには少々イメージの悪くなる物件である。そういう物件は改修が進められるか採算に見合わなければ取り壊しになるケースも多い中、いくらボロくて勝手の悪い建物でも家賃の安さに引かれて人は集まってくる。
 そうして誘蛾灯にかどわかされたようにふらふらと居を構えた一人がイリスだ。曰く、職場も駅も近くないのに丁度いいらしい。一見すればまともに見える面はあるのに、アパート同様傾いた女なのだ。

「ほれ、机片付けろ」
「えーん、起き上がれないよぉ」
「休みだからって布団の中に朝からずっといたんじゃあ、体も言うこときかねぇだろうな」

 どうせ空腹だろうと、手早く済ませられるよう炒めただけの品を小さくて足の短いテーブルに持っていこうとした矢先、そこに物がたんまり乗っていたことに気が付いて促したものの、俺に両手を伸ばして起こせとアピールされた。はぁ、と溜息を漏らしたが、にやける口元は隠す気がなかった。猫のような女の気紛れに付き合うのは最初から好きなのだ。
 畳の上を進むも、たったの数歩でキッチンから布団まで辿り着けてしまう。簡単に一周できてしまえる程の狭い部屋なのである。けれどお陰で時間をかけずにイリスの元へと辿り着けた。膝を折って、経年の埃や煙に薄く汚れた天井に伸ばす手を、それぞれ包んだ。指の間に指を指し込んで、すりすりと、まずは軽くいなす。擽ったそうにイリスが身を捩った。全く起き上がろうとする気配を見せない。けれど、その唇はずっと口角を上げていた。丸い瞳も更に円くなっている。なんて愛らしいのだろう。
 すりすり。指の先の僅かな脂を塗り付けるように、指と指の間に。途中たまらず舌を這わせた。べろりと舐め上げると「きゃぁ」と少女がはしゃぐように無邪気な声を上げる。けれど、すぐにわかった。舐める指の先に、べったり女の匂いと味が染みこんでいる。鼻の奥へもそれが入り込んで、それにつられて部屋へ到着する寸前までの情景を思い浮かべると、匂いと味と共に衝動がずくんと蠢く腹の奥へと落ちていく。すぐさま骨も残さず喰いつきたい。

「なぁ」
「よいしょ」

 小さくて細い指を唾液でコーディングを始めた途端、ぐいっと腕が引かれて、反射で踏ん張るとその反動を利用してイリスが起き上がった。起きれるじゃねえか、と咄嗟に不満を顔に出すも、イリスが意に介すわけもない。俺の方が体重も体躯もあるから支えになったとはいえ、急に先程までの気だるさを感じさせない、随分と軽やかな身の起こし方である。

「お腹空いた。あーん」
「ったく、零すなよ」

 恐らくイリスも欲を天秤にかけていたと思うが、結局空腹の方に傾いたらしい。上体は起こしたくせに動くつもりはないイリスが、ぺたんと膝を曲げた足を布団につけたまま、微かに首だけ伸ばしてぽっかり口を開けた。赤い舌と白い歯と、唾液のきらめき。途端に不満など矮小に縮んで部屋を満たす陽の橙と同化するというものだ。暑くても扇風機だけで凌ごうとするからいつも薄着で、下着もつけていないキャミソールのせいで胸が動きに合わせてゆるくたわむ。だらしなさを助長するように肩紐が一本落ちていてもどうでもよさそうだった。
 陽に染まっても尚、青白い首を汗が僅かに滑っていた。多分、俺もだ。

「あむ」
「うまいだろ」
「うん」

 箸で少量つまんで小さくて赤い口の中へと運んでやると、ぱくりと食いついて咀嚼しながら、に、と笑う。好みは把握しているので文句はないだろうが、どうせ文句があったところでほいほいと口にしないのがイリスと言う女である。そういう悪いものは飄々とした笑みで丸めて食ってしまえる性分で、きっともっと味を濃くしろとか、本音はあっても簡単には曝け出さない。そういうところが好きでもあるが、もっと暴いてやろうと気が持ち上がる瞬間も間々ある。こちとら常々骨まで見透かしたいわけだ。

「もう一口」

 あ、とイリスが赤い深淵を開く。どこまでも吸い込まれそうで、赤い、涅槃への入り口のようなそこを自然と見つめた。可笑しそうにイリスが首を傾げて、笑う。食べ物を口に入れたことで増えた唾液を早く啜りたかった。

「わぁ、やらしー目してる」
「お前がそんな格好してんのも悪い」
「自分の家でどんな格好してても私の勝手でしょ」
「俺が来るってわかってて一人で楽しんでたくせに」
「えへ」

 どうせバレるとわかってて楽しんでいたのだ。暇だったのか、それともただの気紛れか。どちらでも構わないが、部屋の中の温度がそれなりに元々あるせいで、さっきから体が熱くて汗も止まらない。かぐわしさを纏う女を目の前にしているのだ、腹の奥も喚いてやまない。お前の全部を啜って取り込んでやりたい。手ずから作ったものを取り込ませるのと同様に、俺のことも。

「腹は満ちたか?」
「全然だってぇ。まだ一口しか食べてないもん。……でも、」

 首だけ伸ばしていたイリスが、今度は四つん這いになって俺の元へ這ってくるから、持ったままだった箸は皿の上に置いた。猫が狙いを定めて慎重に忍び寄る様となんとなく似てはいるが、そこまでには及んでいない、洗練されていない泥臭さがあった。

「そんなやらしー目で見られたら、余計欲しくなっちゃうかも」

 ――色真っ盛りの女だ。若くて、瑞々しくて、湿っていて。傾いてどこか無邪気で。女の中身がいつだって心地よかった。だから、この先熟れても変わらず愛する自信があった。
 吐息と共に秘密を漏らしたような囁きを生んだ赤い唇に啄まれて、すかさず舌を送り込んだ。赤い深淵の奥まで招いてもらって、熱い唾液と口の中を堪能する。食べさせた料理の味がするのが生々しくてこちらの唾液の量も増えた。ぐっと体の熱が大袈裟に上がった気がする。張り付くシャツが邪魔で仕方ない。冷房は光熱費がかさむので猛暑の日にしか使わない、この女の気だるくて重くて軽薄な、時代錯誤の城の真ん中で、窓から容赦なく入る陽の下、首に回る華奢で白い腕を歓迎した。汗ばんでいるせいで熱いのに少しひんやりとした、湿った肌。女の匂いと汗の匂い。キャミソールから零れ落ちそうな胸に手を差し向けると、女の目尻が力なく下がっていく。とんと笑う女である。

「もう、準備してあるよ。セキもわかってるくせに」
「俺は頭から楽しむ男よ。だからもっと舌出しな」
「へへ、嬉しいね」

 好きな女の全部を堪能するのだ。女の思い通りになるのに愉悦を覚える節はあれど、どうしたらさっさと楽しい時間を終わらせられるのか。


20230830