短編
- ナノ -


 同じでいられたら(拍手お礼)


 彼女の口癖はいつも摩訶不思議だった。

「私はきっと、いつか消えるから」

 出会った頃からそう笑う彼女は、けれどいたって普通の女の子だった。十歳になる直前に、ある日突然引っ越してきた女の子。特に偏った思想もなく、特に突出したものもなく。両親に愛される、ありふれた一人の女の子で、病気とか抱えていたわけでもない。だけどどこか大人ぶっている。後から聞いた話ではどこかの養護施設から今の両親に引き取られた子供だったらしいが、小さな頃はそんなのわからなかったから、彼女は親のどちらともそんなに似ていないなぁ、くらいにしか思っていなかった。
 そういえばポケモンは少し遠巻きにしていたような気がする。あっちに野生のココガラの群れがいる、と指差しながら連れ出そうとしても、彼女は困ったように笑うばかりで俺に着いては来てくれないから、幼い頃は彼女よりもソニアとポケモンの話をした記憶しかない。
 でも、摩訶不思議な口癖がいつも酷く頭にこびりついていた。この子は何を言っているのだろうと理解不能に直面したが、どこか諦めたような、子供のくせに大人のように割り切っているような雰囲気が、なんだかちぐはぐに見えておかしかった。

 ジムチャレンジには参加したかったみたいだが、推薦状の伝手もなかったからすぐさま断念していた。どの道ポケモンを遠巻きにしていたのだから、そんな状態でガラル中を巡る旅は厳しいだろうに、変なところで欲張りな女の子だと思った。でも試合は一度も観に来てくれなかった。ソニアの方も同様で、テレビで観ているから十分だって困ったように笑う。偶には観に来てくれよ、とねだっても、あれこれと理由をつけて首を振るだけ。そうして、最後には静かに笑うのだ。
 思えば、泣いた顔は数える程度しかないかもしれない。それも、怪我をしたから痛くて泣いただけで、感情的になって感傷に泣き腫らすような場面は、思い出しても記憶にほとんどなかった。ただその分、強烈に焼き付いた涙はある。

「ダンデ、忙しいんだから、無理に会いに来なくてもいいんだよ?」
「そんな言い方しなくてもいいだろ」

 俺がチャンピオンになって以降の方が、どちらかと言えば話す機会はあったような気がする。俺がハロンを出てからはソニアとは疎遠になっていたから、態度を変えない彼女の方を無意識に選んでいたのだと今ならわかる。別に彼女を特別意識していたからとか、甘酸っぱい類ではない。この頃はまだ、変な女の子だと思い込んでいたのだ。

「なぁ、今度シュートシティに来ないか?あっちは商業施設もたくさんあるぜ」
「うーん……いいかなぁ。私、いついなくなるかわからないから」
「それ、昔からよく言うけど、どういう意味なんだ?病気しているわけでもないだろ?」
「そのままだよ」

 通いだしたスクールの宿題にばかり目を向ける彼女に、少しばかりむっとして、強引にペンを奪った。弾かれたように丸くて大きな瞳が俺に当たる。黒くて吸い込まれそうな、奇妙な引力を持ったそれ。間近でそれと初めて向き合ったような気がして、やっと気が付いた。彼女はあまり、俺達を見ようとしない。
 違う、俺だけじゃない。

 今度は手首を鷲掴みにして、突然のことに声も出せないのか抵抗も遅い彼女を、無理矢理外に連れ出した。外に出るのだ、と分かった瞬間、ようやく「どこに行くの?」と彼女が恐る恐る声を発する。無視して、とにかく突き進んだ。目的地が頭の中にあって、ハロンの外れの丘の上にきのみがたくさん生る木と花が咲いている場所があるから、そこにしようと漠然と決めた。本当はどこでも良かったけれど、彼女の物が最低限しか置かれていない部屋の中で、一際花瓶の花の彩が美しかったから、もしかしたら花なら好きなのかもしれないと、単純な思考回路が弾いた憶測である。
 だけど、散々迷子癖で周囲を困らせてきた俺だ。いつまで経っても目的地には辿り付けなくて、気が付いたらもう陽がオレンジ色になっていた。畑と畑の真ん中の道で、途方に暮れる俺の手を握り締めて、彼女が仕方なさそうに笑った。帰ろう、優しく、そう。

「……あ」

 来た道は薄っすら覚えているからと、今度は彼女が俺の手を引いて先導する途中、不意に立ち止まった彼女が、そんなか細い声を漏らした。どうしたのかと見やれば、彼女はほんの少し口を開けたまま、夕陽を見ていた。そこに雲はかかっていなくて、地平線の彼方へ消え去ろうとしている丸い太陽。どこか気になるところでもあるのかと、訊ねた瞬間。

「……きれい、だなぁ」

 ――彼女は、泣いたのだ。鼻を真っ赤にして、ぽろぽろと、雫を垂らして。
 急に泣くからびっくりして意味もなく空いている手を宙で舞わせていると、彼女はにこりと笑って、でもくしゃくしゃの顔で泣き続ける。決して可愛くはない顔だったのに、不思議で目に焼き付いている。あれは彼女が閉じ込めてきた感情の、きっと輝きだったのだ。

「どこでも、同じなんだ」

 涙を拭いもせず、何の変哲もない夕陽に感動して、彼女は笑って泣いていた。まるで陽がそこにあったことを今頃知ったように。陽だけではない。ぐるっと辺り一面を見渡して、遠くに見える人影を見つめる。親子だ。

「違うけど、同じなんだ」

 その頭上を鳥ポケモンが過ぎ去っていく。もっと遠くには、ワタシラガのような影が数匹風に乗っている。どこも可笑しくはない、不思議はない、当たり前の光景ばかりなのに。
 だけど、彼女はそうやって、笑って、泣いていた。それから歩き出した足が、どこかずっしりしている。自分が今いる世界に、ようやく足をつけたように見えた。

「ダンデの手、凄くあったかいね」

 俺の手を握り締めて、口を開けて笑った。



「いつか消えると思うから。……だけど、消えたくないなぁって、思う瞬間もあるの」

 彼女の口癖に、あの夕陽に感動した日以降にバリエーションが生まれた。消えるけど、消えたくない。そんなニュアンスだ。

「なんで消えるんだよ」
「一度経験したから」
「はあ……?」

 相も変わらず殺風景な部屋には、色彩がない。彼女は物欲が全くない。誕生日も、クリスマスも、何も要らないとのたまう。せいぜい飾るのは花くらいで、あと部屋に置かれているのはスクールで必要なものだけ。服も数えるほどしかない。お洒落に興味がないのかと思いきや、時折ソニアのワンピースを眩しそうに眺めている時もあるから、微塵もないわけではなさそう。せっかく足がずっしりしたのに、やはりまだ、宙に浮いたままでいたいような感じ。

「誕生日、何がほしい?」

 来月がそうだったと思い出して訊ねてみたが、案の定笑って首を振り返されるだけだ。

「要らないよ、気にしないで」
「無欲だな」
「物に価値を見出しちゃだめなの」
「でも花は飾るんだな」
「花は、枯れるから」

 ますます理解ができない。もう十六歳になるのに、未だに彼女のことがわからない。両親も何かと欲のない彼女にあれこれ与えようとしているらしいが、どれもかれも彼女は要らないと答える。やっと血の繋がりがないことを知った矢先だったので、遠慮しているのだろうかと思ったが。花は、枯れるから置いてもいい。俺には全くわからない。

「消える消えるってよく言うけど……ずっとここにいるじゃないか」
「前触れなく、それは突然やってくるの」

 消えるって口癖で言うけれど、彼女はこうして大きくなった。女性の端くれとして、入り口に立っている彼女は、顔から幼さを消し去りつつある。もう、何年もここにいるのに。
 今までは言われるがまま素直にプレゼントを用意しなかったが、なんだか無性に腹が立ってしまって、いつまでも消える消える詐欺を続けてどうするんだって、妙に苛立ちが静まらなかった。俺の手を握って、あったかいねって笑ったあの顔は永遠に俺の中で刻まれたような感覚なのに、本人はもう忘れたように、或いはまた閉じ込めたように、消える、消える、などと。

「……なんで」

 彼女の誕生日の夜。女の子へのプレゼントなんて全く思い浮かばないから、とりあえず目についたぬいぐるみを買った。ヒトカゲの、生地がもこもことしている手触りのいいやつだ。十六歳の女の子にぬいぐるみ、と大人だったら笑ってくれるかもしれないが、この時の俺はそういうことを毛ほどもわからない男だったのである。

「要らないって、言ったのに」
「あげたいからあげるんだ。いいから、受け取れよ」

 目を見開く彼女に、また苛立ちが募ってついぶっきらぼうに言い放ったが、取り繕う余裕もない。女の子へプレゼント、に欠片も羞恥心がないわけではなかった。

「……あり、がとう」

 存外、拒否はされず素直に彼女は受け取った。ただし、いつかのように、ぽろぽろと泣きながら、だけど。家のドアの前、ということもすっかり頭から抜けているようだ。

「どうしよう」
「何が?」
「うれ、しい。大切に、したい。でも、たいせつにしちゃった、ら」

 泣きながら俺のあげたヒトカゲのぬいぐるみを抱き締めて、もこもこに顔を埋める彼女は、また奇妙なことを口にし始めた。俺には知らない葛藤があるらしいが、大切にしてくれるならばそうしてほしいのに。そうこっそり苛立って、無理矢理頬を挟んで顔を上げさせた。黒い瞳の涙に街灯が薄っすら反射して、少し、綺麗だった。

「ずっと大切にしてくれよ。ずっと大切にして、部屋に置いて、眺めて、そうやって、この先も、ずっと、消えるなよ」

 俺の言葉を反芻するように口の中で噛んでほどいた後、みるみると彼女が泣きだして、ついには大声で泣き始めてしまった。さすがにぎょっとして手をぱっと離したら、追いかけるように、彼女の白くてほんのり黄味がかった手が、俺の掌を掴んだ。ぎゅ、て、確かに、強く。お互いの存在を分かち合うように。

「…………うんッ」

 不細工な泣き顔で、笑うこともなく、彼女はただうんうん頷いた。とうとう彼女の両親に気付かれて顔を出されてしまったが、真っ先に泣きじゃくる彼女が目に入ったらしく、大慌てで抱き締めてやる。彼女は一切抵抗せず、繋がりがない両親の腕の中で、ずっと泣いた。



「ここが目的地だったんだね」

 風になびく黒い髪を耳にかけて、彼女はしゃがんで足元の花を愛でるように指で揺らした。ワンピースの裾が草についてもどうでもよさそうで、一応注意してやっても、洗えばいいもん、とけたけた笑われてしまった。

「ほんとだ、きのみいっぱい」
「うまそうだろ」
「良し悪しはまだわからないかなぁ」

 二十歳も過ぎた頃。彼女は俺の隣で、大きな木を見上げて無邪気に笑った。最近は二人で出掛けることも多くて、だけどアーマーガアタクシーはまだ怖いと言われてしまうので、列車移動がもっぱらだ。もうポケモンを遠巻きにはしないものの、触れてこなかった分おっかなびっくりしていて、つい笑ったらむすりとされた。でも、それでよかった。彼女の気持ちの片鱗を、まだまだたくさん見せてほしい。
 そういえば列車の中で、ぽつぽつと、彼女から話を聞いた。いつか消えるだろうと、幼い頃からの口癖の真意だ。とても言いにくそうに、言い淀みながら教えてくれた口癖となる経緯に荒唐無稽な話だなぁとは思ったけれど、彼女が言うのならそうなのだろうと、だけど今ここにいるから、彼女がそれを受け入れているからいいかと、俺はただ耳を傾けるだけだ。そうして、手を握り合うのだ。温かさをわけあって、寂しさをどうしても引き摺る彼女を、自分の肩にもたれかからせながら。自分だったらどうだろうと、置き換えて考えてもみればそれはもう寂しくてたまらなくなる。当たり前にあったものが一瞬でなくなるのだ。だからもう責めはしない。責めはしないが、ここにいてほしい我儘は消えないから、俺は彼女の隣に居る。

「もうあんまり覚えてないけど、お父さんに肩車してもらって、木の天辺まで連れていってなんてねだった気がする」
「本当の父親か?」
「そう。お母さんは確か、危ないからって怒ってた気がする。もう、顔も思い出せないや」
「結構好奇心の強い子供だったんだな」
「かなぁ。お父さんの実家は山の中にある田舎で、虫だらけで、私が手づかみしてお母さんに持っていくから、お母さん嫌がってたや」
「はは、お転婆だ」
「ちっちゃかったからねぇ。カエルも掴まえて見せびらかしてた。それで、犬の散歩して、おばあちゃんが切ってくれたスイカ食べて。もう、あんまり、覚えてないけど」

 年齢で見てしまえば、彼女がもうここにいる時間の方が、本当の両親と過ごした時間よりも長くなってしまった。この十数年、口癖とは裏腹に、一向に、彼女が消える気配はない。少なくとも、今この瞬間、俺と手を握り合う彼女は、ここにいて、ここにいるのだと、笑っている。

「今度面接行くんだ。ダンデ、練習に付き合ってね」
「構わないが、一般企業の面接なんか、俺まったくわからないぞ?」
「いいの!とりあえず私が話してるとこ見てて」

 消えないでほしい。願うのは我がままだ。突然起こったことだから、今後絶対にないとは言い切れない。でも、少しずつ居場所を増やして、いつまでも子供に与えるようなぬいぐるみを大切にしてくれる彼女は、少なくとも俺の手はこの先も握ってくれるはずだ。