短編
- ナノ -


 天邪鬼(拍手お礼)


「どえらい別嬪さんよう、ちょいといいか?」

 別嬪なんて褒め言葉はとっくのとうに慣れていた。過去に平然とそう言い放つと幾人かには眉を顰められてしまったこともあるが、私にとってその言葉に特別性はなかった。父も母も私が生まれた時から、可愛い、かわいい、とそれはもう褒めそやしてくれたものだから、私はそういうものだと幼い頃は真剣に思っていた。
 それが、この人に口にされると、どうにもむずむずするというか、もどかしい。

「聞いてるか?」
「聞いておりませんよ」
「聞いてるじぇねえかよ」

 自称色男のせっかちさんは、今日も今日とて陽が昇って少ししか経っていない頃合いに私の前に現れた。まだ朝の務めをこれから始めよう、と皆が準備をしている段階の訪問に、私はてきぱきと足を動かしながら背を向ける。けれどせっかちなすけこましは、そんな私の手をさらりと取って、じ、と手の甲を見つめたと思えば。

「……はい?」
「西の方の国の文化を学者先生から教えてもらってよう」
「まっ!不潔!」
「でっ!」

 不覚にも何事かと立ち止まって静観してしまった自分の方こそ叩いてやりたいが、現実にははたかれたのは相手方の方である。なにせ私の手の甲に許可なく唇で触れたのだから。まだ情を交わしていない、共寝もしていない男女がそんな不埒なことをしてはならない、と即座に弾いた思考は、そのままの勢いで少し陽に焼けている肌を打った。

「わたくし、貴方のような方とてもきっ……苦手です!」

 貞操を粛々と守るように躾けられてきたので、容易に接触できてしまえることに信じられない気持ちでいっぱいになった。顔ではなく私の手を取ったその、自分の数倍はありそうな掌を思い切り叩いたのだから、せめてもの容赦と思ってほしい。けれどひらひらと打たれた手を揺らすばかりで、自らを色男と言ってはばからない人――セキさんの相好は崩れてくれない。だからふん、と鼻を鳴らしてもう一度背を向けた。
 そうして、本部の扉を閉めた途端、我慢できなくなって自分の手を握り締めてぐぬぬ、と苦悶の声を上げた。人を叩くと自分も痛いとは。こういうことこそ、父と母に教えてもらいたかった。


 昼刻になったのでムベさんの店へ足を伸ばすか伸ばすまいか悩む私に、共に仕事をこなす同僚に、腹にはかえられんでしょう、と、早い話が諦めろと諭されて部屋から出されてしまった。それはそうだけれども。腹が減ってはなんとやら。戦はもう百年単位で起きてはいないから錆びた言葉ではあるものの、体の資本は押さえておかねば生きてはゆけない。
 直前まで一人で入ることに尻込みしたが、腹の虫ががなり声を上げたため、仕方なく、渋々、私は戸を開けた。その瞬間振り向いて私を見つけた彼の、その満面の笑みと言ったら。

「好きなもん教えてくれよ」

 案の定戸の向こうでは髪を結って、たすき掛けで袖を留めているセキさんがおり、むむむ、と口を結んだ。弟子入りしただなんて、嘘であってほしかったのに。

「……注文をとってくださいまし」
「要するにそれが好きなもんてことになるよな?」

 こんな人だったなんて思わなんだ。私がコトブキムラに迎えてもらうよりも前から出入りしているらしいセキさんは、遠くから見る分には出立も素敵な人だとは思ったけれど。男の人は慣れないからそれはもう一際。一応生家に出入りする人間は大勢いたが、商人も奉公人も誰も彼もなんだか野暮ったい人ばかりだったから、特に初めて見た時は輝いているようにすら見えた。けれど、それはあくまで外面に対してのこと。男の人との交流を禁じられていた私には、ここまで人目も気にせずこられると却って萎縮してしまうわけだ。
 けれどもまぁ、こちらがお前の嫁ぐ方だよ、と突然会わされた人と比べれば、月となんとやらではある。

「ほら、お待ち」

 ぼんやり待ちわびていると、間もなく頼んだ食事が運ばれてきた。まるで自らこしらえたような顔で持ってきているが、実際はまだ修行中の身で、料理を作っているのは未だにムベさんだと知っている。

「……?あの、これは?頼んでないと思います」
「俺が作った」
「はあ?」
「感想、よろしくな」

 膳の隅にちょこんと添えられた小鉢。葉物の和え物のようだが、訊ねてもみればそんな回答があった。しかも、微かに耳に口を寄せて囁きながら、柔和な笑み付きで。そこらの女性ならそれにころりと落ちるのだろうなと己を律しながら、頼んでないものはいただけないと突っ撥ねようとしたのに、他の客に呼ばれてセキさんはさっさと行ってしまった。
 しばし、膳と睨み合う。けれど、仕方ないと溜息を吐いてから箸を伸ばした。せっかくの料理が冷めてしまうし、食べ物を無駄にするのは性に合わない。そう、色々と言い訳を胸の中に並べながら。

「どうだった?」
「まぁ……食べられなくはなかったです」
「あんた、やっぱ相当な天邪鬼だな」
「なんですって?」
「一口食った瞬間、うまそうに笑ってたじゃねえか」

 お金を支払う折になってやはり感想を求められたので、目を伏せながら答えれば。見られていた、と絶句した。顔を上げてもみればしてやったりな、文字通りのにやけたしたり顔。ぼっと顔から火を噴くかと思った。

「お仕事中なら、それに集中してください!」
「集中して客の反応を伺っていたわけよ」
「貴方こそ天邪鬼ではありませんか!」
「そんなことねえって、俺は素直な男よ。だから、あんたを見てたんだ」

 ああ言えばこう言う。面白くなくてむっとしたら、それすら丸めて受け止めるようにくつくつ笑われてしまった。
 なにせ美味しいと思ったのは事実だ。でもそれをそのまま伝えるなんて嫌だ。だって、私が作るよりも美味しかったのだから。私はコトブキムラに来てから料理を覚え始めているのに、セキさんの方がさっさと腕を上げているだなんて、悔しくて認めたくないじゃないか。
 その内見返してやろう。私のほうが料理が上手よって、鼻で笑ってあげるのだ。けれどどうしてだろう、想像してはみたものの、セキさんはそんな私の不遜さなどなんでもなさそうに、うまいと頬張ってくれそうだ。



「ほんっと、天邪鬼だなぁ、あんたは」

 医療隊の寝台の上に寝かされていたら、どこからか噂を聞きつけたのか、今一番会いたくない人が顔を覗き込んできて、さっと掛布団を顔まで上げた。こんな情けない姿この人にだけは見られたくなかったのに、キネさんのばか、と心の中だけで文句を垂れて。わかっていて、きっとここまで通したに違いない。

「頑張るのはいいが、頑張りすぎてこれじゃあ意味ねえだろ」
「……うるさいです」

 言い返せないから困った。夜通し働きすぎて、こっそり練習を続けて、体調を崩した、なんて、いい年して恥ずかしすぎて顔を上げられない。労働もコトブキムラに来てから初めてすることだから加減がわからなかった、とは、ただの言い訳だ。加減もわからないくらい、私は物も常識も世も知らない。

「指も傷だらけじゃねえか。不器用だなぁ」
「……」
「針仕事も、初めてやったんだろ?そんなんでよくぼんぐりを削れると思ったもんだぜ。できるって豪語するのは簡単だが、きちんと教えを乞うておくことも大切だぞ」
「なんなんですか?文句を言いにきたんですか?」
「小言くらい許せよ。心配したんだ」

 だったらもっと優しい言葉をかけてほしい。これが家の人間だったらもっと……、そこまで考えてしまって、急に海に消えたくなった。よりにもよってあの家と比べるなんて、なんて恥知らずなのだろう。
 何のために私は家を飛び出して、こんな場所まで遥々やって来たのかと。裕福な両親の元に生まれたが故に、蝶よ花よと育てられて、たくさんの人にたくさんのことを任せて、何もできない女でも許されて生きて、そのくせ好きでもない人と結婚したくなかったから、思い切って全部捨ててきた筈なのに。

「なぁ、いい加減意地張るの、やめろよ」
「……意地って、なんです」
「そういうのだよ。もっと、楽に構えろ。できないなら覚えていけばいい。最初から頑なになるな」

 セキさんのそういうところが、ずっと苦手だった。私は、一人でも生きていけると証明するために家を抜け出してきたのだ。何もできない女のまま好きでもない人の妻となれ、そう求められた瞬間、目の前が真っ暗になったのだ。それからようやく、自分を省みることができたのは奇跡のようなもの。
 気付いてしまった途端、もう、何もできない女ではいたくなかった。嫁ぐ人に頼って、甘やかされて、自分の着るものすら用意してもらって。突然嫁ぐ方だと引き合わされた瞬間、急に、そういう自分に気が付いたら嫌になったから。一生そういう自分でいろと求められることがあまりにも悔しかったから。だからこんな危険な土地に足を置いて、せめて手に職をと思って製造隊に回してもらったのに、針一本持ったことがない私には、何もかもが不思議に思えて。かといって帳簿を管理できる経験も才もない。そうして、恥ずかしいからと何もできない自分を隠して仕事をしようとしたツケが、これだ。

「……セキさんと話をしていると、何もできない自分が、惨めに思えてきます」
「卑屈になるなって。頑張りたいなら、頑張りどころを間違えなけりゃいいだけだ。やる気は並々あるんだから」

 そうっと、セキさんが私の顔の上の布団を下げた。どうしようと思ったけど、あまりに優しい声音だったから、やめてって言えなかった。
 そうして対面した私の顔をまた見て、眉を下げて笑うのだ。子供でもあやすように、頬から耳の横にかけて、撫でるように擦ってくれる。当たり前のように、零れていた涙は払ってくれた。なんて慈悲深い手つきなのだろう。

「あんたは、知らないことを無理にやろうとするからこけるんだ。知るところから始めろ。誰だって初心者の時分はある。料理だって、今の俺なら教えてやれる」
「……それもなんだか悔しい」
「気骨はあるんだよなぁ。ほんと、そういうとこが好きだぜ」

 初めて会った日から再三耳に吹き込まれてきた言葉は、すんなりと、今は耳の中に入ってきた。頭の中でゆるく浸透して、ぐ、と喉が詰まる。そんな私がわかっているのか、セキさんは尚もまなじりを緩めて、私を許すように微笑むばかり。そのかんばせが、どうしようもなく眩しかった。
 本当に悔しい。男の人に嫁げばそれでいいのだと育てられて、それに嫌気がさしたから逃げてきたのに。なのに、この人に見初められたいと願う自分が、とても悔しい。認めてくれた、慕う人となら結ばれたいって、結局、思ってしまうのが。