短編
- ナノ -


 糸は解いちゃう-2


 真横のダンデはとても熱い。元々体温が高い上に代謝もかなりいいから、触れるといつもあったかいを通り越して熱いくらいの感覚だった。いくらスパイクタウンがシャッター街で、外気が抜けにくくて籠りやすいという性質を加味しても。今も、顔や言葉では抑えているものの興奮しているのだろう、そのせいで伝わる温度は素肌に触れる時並みに熱く感じられた。
 その体が好きだ。いやらしい意味ではなく、そのダンデの生き方そのものを表しているみたいな体躯が。心も好きだけど、傷や火傷の跡が少なからず残るその体は綺麗とはお世辞にも賞賛できなくて、だけど気味が悪いと思ったことは一度もない。見栄えがよくないよな、と苦笑したダンデにどうして恥じる必要があるのかと不思議だった。だからよくダンデの人生の形跡に一つずつキスをすると、ダンデは目を丸めた後柔らかく微笑んで幸せそうにしたあの瞬間が、いつまでも色褪せない。ポケモンと、バトルと、向き合ってきた軌跡だと、私の心の声が聴こえたように、それ以来私の前で傷のことで苦笑することはなくなった。
 そういう顔を見なくなってから、どれくらい経ったのか、いつからか数えるのはとっくにやめていた。思い出せるのは過去の中のことばかりで。そもそも、こうやって隣り合って座るのも、はたしていつぶりだろう。

「……ネズとは」
「だから違うって。偶然そこで出くわしただけ。二人きりで話をしたのは今が初めて」

 こだわるのはそこなのかと呆れてしまった。呆れを声音にも乗せてしまったが、ダンデの眉は尚も落ち着かないようにぴくぴくするばかりで、まだ何かしら疑いがあるのか、すんなりと納得はしていない様子だ。

「まぁ、一先ず今はいい。置いておく」
「本当に、絶対に、何もないから。どれだけ疑ってもそれだけは」
「本当だったとしても、冗談だったとしても、俺は本気で怒るぞ」

 まだ言うのかとむっとしても、ダンデの顔は真剣だった。真剣に、心の底から、私がネズさんに乗り換えるって言葉が許せない。それは嫉妬がゆえんなのか、はたまた所有物がとられそうになっているからなのか、なんてダンデの気持ちを邪推する自分が嫌だ。素直にダンデの怒りと向き合えなくて、そうしてこの期に及んで自分を守ろうとしている。やっとまともに顔を見られる位置にいれるのに。
 だから、つい零してしまったわけだ。

「……それって、私が好きだから怒ってるの?」
「は?」

 途端に怪訝そうな顔が私を向いたけれど、私も唇を噛み締めるのに精いっぱいで、それ以上うまく言葉が出てこない。押し殺してきた感情の一端が滲んでしまったことに気が付いているのは多分まだ私だけで、きっといきなりだって思うダンデには意味が分からないだろう。
 でも、一つ滲めば、ぞろぞろと、じわじわと、止まることなく拡がっていく。それは紙に水が滲むのを自分では止められないのと同じことで、自分の気持ちなのに自分の意志で歯止めはきかなくなる。だからこそ、今までずっと我慢して、ぶつけないで、頑張って留めてきたのに。

「ちゃんと、私が好きなの?」
「……何言ってるんだ」
「いつもそう、人の気持ちに鈍感で、私のことなんかみてない」

 反論なのかわからないが何か言いかけたので、被せる形でとにかく口を動かし続けた。今そういう話をしたくてダンデと隣り合っているわけではなかったのに、多分、話したいことと言えば結局それしかないのだ。案の定ダンデは心底意味がわからなさそうに眉を寄せて、私を苛立たし気に見ている。怒りとは少し違った感情の様相に、自嘲が零れた。こんな風にしか、ダンデの顔が見られないのは悲しい。

「見てるだろ」
「そうじゃないよ、そうじゃなくて」
「心変わりなんてしてないし、連絡だってしてる」
「一方的な、ね」
「……言いたいことがあるなら、はっきり言え。俺がまどろっこしいのが苦手なのは知っているだろ」

 良くも悪くもストレートなのがダンデで、それは持ち味だけれど、覆しようもない欠点にもなり得る。含みなんか持たなくて衒いない言葉にドキドキしたりすることもあったが、同時にそんな言い方しなくても、と内心へこむことだって。もちろん私が気にする顔をすれば慌てて謝ってくれて、こういう意味だったんだって釈明してくれた。だけど、今はそうじゃないのだろうなと、薄っすら思った。私達は隣り合っているのに、きっと見ている方向が違う。

「私、めんどくさいって思うでしょ。自分でもそう思うよ」
「自虐なら今はいい」
「面倒なら、もう、無理に会おうとしなくてもいいよ」
「……」

 何か言いかけるように口を開いたが、あ、と小さく開いた唇は最後には噤まれた。少なからず私が傷付くような言葉を出しかけたのだ。感情の制御は得意なくせに、自分の言葉が誤解されやすいことも知っているから、一度躊躇って飲み込んだらしい。誤解も何も、今言おうとしたことが恐らく、本当だとは思うけれど。

「……それは、別れたいって、ことか」
「どうなんだろう。でも、少し、距離が要るかもしれない、かも」

 ただでさえ物理的な距離は作っていたけれど。下手なことしか浮かばなくて自嘲で笑った。でもそれが余計にお気に召さないらしく、ダンデが咄嗟なのか、ぎゅっと私の腕を掴んだ。衝動的な行動に力加減は見られなくて、思わず「いたっ」と眉を顰めたら、ハッとして慌てて離してくれたが、それで溜飲が下がったわけでもなさそうだ。

「もう、約束を断る連絡もいい。約束もしなくていい。守れない約束は、もう嫌だ。会えないって言われる度に、自分がすり減ってく感じがするの」
「守るつもりではいた。でもどうしても急に都合がつかなくなることばかりで、だから、」
「プレゼントも要らない。申し訳ないけど、全部趣味じゃないよ。私、別に高いものが欲しいんじゃない。ああ、丁度今なら返せるね」
「要らない!俺だって約束を反故にするのはいつも辛いんだ!心から悪いと思うから、せめてものお詫びと思って。すぐ用意できるものも限られていたんだ、だから女性が喜ぶものを調べて、それで」

 今回こそ、と期待する自分はまだ甘く現実を見ていた。そもそもダンデと私では立場も働き方も違うから、こうなることは予測できたはずなのに。もちろんダンデが悪いと思っていることだってわかっていた。でも、約束は破って、物で片付けようとして、それなのにセックスのために会いにはくるんだって、わかりたくない現実を理解してしまったら、期待することすら怖くてたまらなかった。私はダンデと会うために日程を調節して、めいっぱい自分を着飾って、ダンデと笑っていたかったのに。もう、そういう自分を用意するのに、労力を要するようになってしまった。

「会いたいって、私ばっか思ってるみたい」
「俺だって会いたいっていつも思ってる!」
「ダンデの都合でいつもだめになっちゃう。次は大丈夫って自分を誤魔化すの、ごめん……苦しい」

 はっきりと言い切れなくて、未だに言葉を模索するのは、ダンデを傷つけたくないからなのか、自分を守りたいのかすらわからない。ネズさんには疲れたって正直に言えたのに、いざ本人を目の前にするとどうしても躊躇われた。ダンデにはオブラートに包まない言葉が一番いいと経験上わかっているのに。

「一緒にいたかったの。別にどこだってよかった。欲しいものなんかたったの一つだったよ。ただ、それだけで」
「――じゃあ、結婚するか」
「…………は?」
「そうすれば、わざわざ約束しなくても、会えるし一緒にいられるだろ」

 間を置いてから放たれた言葉の意味に頭がやっと追いついた頃、口を間抜けに開けたままダンデを見上げたら、あったのは不機嫌そうに眉間に皺を作った、相変わらずの顰め面のままで。真剣には見えるけれど、そこに私への甘さも、情緒もない。私が見ないようにフィルターをかけている可能性もあるが、今、私にはそういう風にしか見えない。
 ダンデの表情の中の感情を見分けるのは、得意だと思っていた。メディアの中の貼り付けた笑みの奥の本音を私は見つけられる。私の前ではそういう造り物は見せなかったけれど、だからこそそれが私の自慢でもあって、密かな喜びだった。でも今、どういう気持ちでそれを言っているのか、どうしてもわかりたくない。気持ちを隠しているだけなのか、本気でそう口にしているのか、わかってしまう自分が何よりも恨めしい。どうか間違っていてほしいと、願うほどに。

 瞬間、沸き上がったのは――悲しさだけだった。

「……ちがうッ」

 我ながらあまりに悲痛な声過ぎて、でもそれを取り繕う余裕も、なかった。胸の奥が縛り付けられるように痛い。怒りとかそういうものとも違うが、とにかく、わからないんだって、憤りに近いものはあった。夢を見ていなかったわけではない言葉を、こんなタイミングでもたらされたことへも。

「そうじゃないっ、そうじゃないよぉ……っ!」
「何が違うんだ。それが一緒にいられる手段だろ。籍をまだ入れたくないなら、一先ず同じ家に暮らすことから始めてもいい」

 合理性が欲しいわけじゃない。高いものと同じくらい、そんなもの要らない。確かに私は何もかも晒せたわけではなくて、ネズさんに吐き出せたように全部口にできたわけでもなかった。剥き出しの感情を躊躇ったのは私で、でも、だからといって、よりにもよって、そんなことを言ってしまうのかって、言えてしまえるのかって、暴れそうな悲しさが目の奥を焼いた。

「イリス、」
「もういいっ」
「俺は」
「もういいっ!」

 名前を呼ばれるだけで嬉しかったのに。安心できたのに。ダンデが愛せるものは少ないから、自分の名前が世界で特別なものになったと思えたのに。体の中で見えないものが暴れていて、それを許容できなくなったら、弾かれたように立ち上がった。滲んだ世界の中で、ダンデの顔が曖昧に見える。お陰でその表情が薄くしか見えなくて助かった。本心とか隠しているとか、そういうことを難しく考えなくて済む。

「……ッ」

 続けて何か言いかけたけれど、結局何も出てこない。頭が回っていないから言葉すらろくに。開けばしょっぱい涙が口に入ってきてしまうから、それを内心で言い訳にした。でもそれが今の私なのかもしれない。気持ちの全てを自分で把握しきれてもいないから、ぶつける言葉すら持っていない。
 だから、情けないが背中を向けてダンデを視界から追い出した。自分のバッグをきつくきつく握り締めて、とりあえず歩き出す。ダンデは名前を呼びながら私の肩を掴んだが、振り払う素振りを見せたら、驚いたように手を引っ込めた。ダンデは何度か私の名前を呼んでいたが、私は俯いてその顔を見ないように努めた。声音からも感情を読みたくなかった。

「……しばらく、会いたくない」

 どうせ会えないことばかりだし。答えが出せないくせにそんなことばかり言う悪い口だ。疲れちゃったって、ここまできても正直にぶつけられなくて、これからどうしたいかも決まらないのに、そういう目先のことばかり。
 格好悪くて、自分が惨めで、いたたまれなくて、ダンデを見ないまままた歩き出した。重たい足のくせにてきぱきと動くものだ。そうして前など見ていなかったのに上手にスパイクタウンの入り口まで着いたところで、そういえばブランド品を詰め込んだ袋を置いてきてしまったとようやく思い出したが、別に使わないからもういいやって、その時は。
 けれど、それをうまく枷にできたのか、一度立ち止まって振り向いても、そこには寂しい雰囲気を醸す町の様子ばかりで、ダンデの顔はない。あんなもの二人揃って価値を見出していないのだから、置き去りにしようと思えばきっと簡単な筈だ。そんなことを考えてしまう自分が嫌で、許せなくて、やっぱり面倒くさくて。嫌気に包まれるせいで、また泣いた。

 無償の愛なんて、幻だ。


20230714