短編
- ナノ -


 あなたなしでは生きていけない


「いいぜ、帰りたきゃ帰っても」

 開けた口から音が出たのかは、自分のことであるのに定かでなかった。予想だにしていなかった言葉に目を見開いて驚く私に対し、セキは動じる気配が一切ない。よもやそんな返答があるとは微塵も想定していなくて、どうせ否定されて留まれろと言われると思い込んでいたと言うべきか。縋られたいと思っていたわけではないし、寧ろこちらはセキを責める心積もりだったのだから、逆上されたりしなくてよかったと安堵すべきで、それどころか快く帰っても良いと口にしたのだから、素直に喜ぶべきである。
 その筈なのに、私は可笑しいかな、呆けて人形のように声が出なかった。

「ノボリさんも帰ったらしいじゃねえか。在るべき場所を思い出して、その手段があるのなら、そうした方がいいだろうよ。無駄な時間を無為に過ごすべきじゃない」

 なんて触りの良い言葉だろうと、反発などせず受け入れるべきなのだ。自分が生まれた場所を思い出して、本来在るべき世界が見えたのなら、即座に。だけど、私はセキを責めたくて、いいやそういう気持ちすらしっかり形があったわけでもなくて、とにかく喚き散らしたかっただけだと思う。何から何まで否定するには難しいほど、私はこの男を愛していた。けれど、愛しているからこそ憎たらしくてたまらないのだ。
 数年前に私を拾った時、意識も記憶も朦朧としていたのをいいことに、私を愛していると囁いて時間をそうかけない内に娶り、まるで昔からこの土地で生きてきた人間であったかのように刷り込んでいって。里ぐるみで口を噤んで、夫婦にさせた。根気よく記憶の曖昧な私に常に寄り添いながら、愛と優しさで包んでくれたのに、あれは全て夢幻だったのだと思い知ったからには、もう絶望するしかないじゃないか。
 愛していたからこそ、一人で胸の内に抱えきれない程、とにかく悲しかった。

 セキは傍らに横たわる小さな頭を慈愛の目で見つめて、優しく撫でながら、もう一度私を見やる。その瞳に動揺は欠片もなく、恐らくはいつかこんな日が来るとわかっていたかのように冷静だった。

「悪かったと思わなくはないぜ。記憶が定かでなかったイリスに、元からお前はヒスイの人間だと嘯いたのは。でもよう、一目見た瞬間からどうしてもお前が欲しくなったんだ。周りを説き伏せるのは骨が折れたが、こいつとじゃなきゃ世継ぎは残さないと言ったらどうにか頷いてくれてよう」

 唇を噛んで堪えていると、自然と涙が零れた。拭っても拭っても落ちるそれは、悲しさと、悔しさと、やるせなさと、憎たらしさと、愛しさと、私の中に渦巻いて一つ一つ拾い切れない感情の集合体みたいだ。
 自分が元々ヒスイで生まれた人間ではなかった上に、うまく嘘を吐かれて、剰え初対面の男の妻にされていたことが悔しいのに、ここはそういう場所なのだ、そういう時代なのだと、曲がりなりにもここで暮らした経験から納得できてしまう反面もあって、いつの間にか変化していた自分にますます息苦しくなる。でも全て思い出したからにはこのまま知らんぷりはできないのだ。どうにか目元を拭って、目先の膨らんだ腹から顔を上げて情けない顔ながらも相対する。セキは、いつもの快活さをしまいこんで、変わらず静かに笑んでいる。

「だから、思い出したのなら、好きにすればいいさ」
「……すき、に」
「ああ。こいつを置いていくも、連れて行くのも、な。できるのかはわからないが、試してみてもいいだろ」

 そう言って、もう一度小さな頭をとびきり優しく撫でる。けれど、タイミングの悪いことに、小さな頭の持ち主が目を覚ましてしまった。あどけない顔で撫でてくれる手の持ち主を見上げて、それが誰なのかわかった途端、ゆるく頬を持ち上げる。セキも、応えるように笑みを向ける。すっかり目が覚めてしまったらしく、頭の上の手を握りながら起き上がったら、甘えるようにセキの懐へ潜り込んでいった。
 私と、セキの子供だ。数えでもう五つになる男の子。セキと婚姻を結んであまり時が立たない内に身籠って、お産の際は中々出てこなくて苦労した、いつまでも愛しくてたまらない我が子。しかし今目の前で仲睦まじい親子らしく笑い合う光景に、冷や水を浴びせられたような心地であることを、子供には知られたくなかった。

「なぁ、かか様が遠くに行きたいらしいんだ」
「とーく……?かかさま、どっかいっちゃうの?やだっ、とおくいっちゃやだよう……」
「ああ。でもお前と一緒にだ」
「ぼくも?やったぁ!」
「でも、とと様とはさよならだ」

 小さな子供にやめてくれと言いたかったのに、一瞥貰うと体が動けなくなった。遅かれ早かれ、私が帰るとなれば子供には話をせねばならない。それは避けては通れない道で、時間を惜しむセキは起き抜けのいたいけな子供に、そうしていきなり残酷な話を始めてしまった。
 置いていかれると思ったのだろう、子供はすぐ悲しそうに顔を歪めて泣きそうな顔をしたが、自分も一緒だと聞かされると破顔して喜びに頬を赤くした。うきうきと弾んだような声音で笑って、まだ感情をうまく露わにできないから手をぎゅって丸めたり伸ばしたりを繰り返して、体でも喜びを表現する。旅行にでも行くような気分なのだろう。これがこんな状況下でなければ愛らしいと微笑んで、額を合わせてやったのに。
 それが、セキの最後の言葉に、また首を傾げた。遠出する際には必ず三人一緒だったから、単純に不思議なのだ。

「どうして?」
「とと様が行けない場所にかか様は行きたいんだ。お前も行けるかはわからないが、かか様ともう会えなくなるのは嫌だろ?」
「あえなくなっちゃうの?」
「そうだ」
「でも、ととさまは?」
「とと様はここにいなきゃならねえんだ。だから、とと様は行けない。かか様だけ帰れればとと様はこれからも一緒だが、やっぱりかか様とはさよならになる」
「ととさま、さよならするの?」
「そうだ、さよならだ。この里からも、友達とも、じじ様達とも、全部にさよならだ」

 諭して言い聞かせるように、ゆっくり、落ち着いた声音で、セキは子供には辛くて苦しい現実を教えていく。案の定セキの言葉を耳にすると困惑に眉を下げて、子供ながらに胸が痛いのかぎゅうっと手を握り締めてセキの服を掴む。あれは違うと否定してほしい時の癖だ。
 腰を浮かせかけて、けれど結局立ち上がれない自分が不甲斐なくて。痺れたわけでもないのに私の足が意志を失くしていた。あの子の泣きそうな顔を見る度に私も泣きそうになって、体が裂けそうなくらい痛くてどうしようもなくなる。私とセキの顔をそれぞれ、何度も何度も見て、言葉の意味を理解しようとする子供が可哀想で、今すぐ抱き締めて大丈夫よって言いたい。母親ならそうしてやるべきなのに、セキの視線に縫い付けられたように、足が動かなくて歯がゆくていたたまれない。呼吸が荒くなってきたのはもどかしさのせいだ。

「やだ!ととさまとさよならやだ!」
「じゃあかか様とさよならできるか?」
「かかさまもやだぁ!なんでかかさまとととさまとさよならするの!?ぼくやだよぉ!」
「いやでも聞き入れるんだ。しょうがねえだろ。かか様は、自分の家に帰りたいんだ」
「ここがかかさまのいえだもん!ぼくといっしょだもん!ととさまもいっしょだ!」

 とうとう小さな体では抑えきれなくなったらしく、癇癪を起したように泣いて喚いて手足をばたつかせる幼子に堪えきれなくなったら。その瞬間一度は止めた涙がぶわっと溢れてしまった。縫い留められたと思い込んでいた足がひとりでに動いて、着物の裾で足を縺れさせかけたが、本来ならいけないが今は我が身などどうでもいいと、セキの懐で頭を嫌々と振る子供を、きつくきつく抱き締めた。手を伸ばした矢先から弾かれるように飛び込んでくるのだから、今の私にそうやって勢いよく飛びついてはいけないと口酸っぱく注意していたにも関わらずそれすらも言えなくて、もう胸が張り裂けそうだ。そうしたら、まだやだやだと泣くけれど、幾分癇癪が治まったようにも思える。でも今度はぐすぐすと泣いて、私の着物を手繰り寄せるように握り締めるのだ。甘えてもいい存在なのだとわかっている私にぐりぐりと顔を押し付けて、精一杯体で訴えてくる。それが苦しくて痛くて辛くてどうしようもない。

「かかさまばいばいしないで……ととさまもばいばいやだぁ……っ」

 心臓も、肺も、喉も、痛くて苦しくて、もう言葉も出てこない。愛しくてたまらない我が子が、私と同じように痛みと苦しみに喘いでいるのに、無力な私はただ抱き締めてやるしかない。情けなくて、涙が止まらなくて、だけど矛盾だらけの気持ちが。目の前のことに押し潰されそうな私の中の渦巻くものが、自ら自由を手放そうとしているみたいに。

「こいつもイリスと同じところに行けたとして。そこは今とはがらっと異なる世界なんだろ?人間も、ポケモンも、文明も、何もかもが違う場所だ。そこで、こいつはやっていけるのか?故郷と家族と離して、うまくやっていけそうか?俺だったら楽しめるかもしれないが、こいつはまだ世の理も知らない子供だ」

 それは追い込むよりも、単に確認したいがための声音だった。装っているだけなのかその腹は知れないが、少なくともそういう風に聞こえた。
 うまくやっていけるかなんて、そんなの私にはわからない。この子の心はこの子のものだ。故郷や家族、友人と当たり前だった生活から離れて生きる痛みは、今正にセキに見初められる以前を思い出した私の中にあって、それがどうしても一人で抱えきれなくなったからセキを責めにきたのに。それを、私の感情一つでこの子にも強いるのか。はたして強いれるのかと、自問の答えが一向に出てこない。そういうケースが全くないものではないと知っているのに、いざ自分が直面してみると、こんな辛そうな泣き顔を見ていたら、どうしても気持ちが揺らいで目の前が暗くなっていく。元々答えを出してセキの元へ来たわけではないから、殊更湖面の波のように揺らいでやまない。私の意思など、こんなにも脆弱だったのか。

「……かか様のこと、好き?」
「だいすきだよ……」
「とと様、は?」
「だいすきだもん……ばいばいやだ……」

 いやだ、いやだ、とひたすら泣く子供の頭に顔を埋めて、頬ずりをして、呼応するように泣いた。体を抱いていると、余計に気持ちが伝わってくる。それが私の中で混じり合って、また涙を呼んだ。

「……悪いとは本当に思ってるんだぜ?でも、愛してやまないのも事実だ。今も、それは変わらないぜ」

 目の前のセキが、私にそう囁いた。止まらない滂沱の涙を自らの指で掬って、慈しみを分け与えるように頬を撫でる。愛されるとき、いつもそうされてきた。数年かけて私に愛を注ぎ込んできたセキに目を向けると、言葉の通り、その顔から滲む私への愛情は薄れていないように、一見すれば。

「縛り付けたいとか、支配したいとか、そんなんじゃねえんだ。辛いが帰りたいなら受け入れる。でも俺はただ、イリスと、こいつと、幸せに暮らしたいだけだ。コンゴウ団もゆくゆくは解体になるだろう。そうしたら、皆でよそへ移ってもいい。家族だけで、楽しく暮らそうぜ」

 好きにすればいいと淡々に言い放ちながら、楽しく暮らそうなどと。
 けれど、多分、帰ると告げればセキは寂しそうに笑いつつも、確かに言う通りにはさせてくれるのだろうと思う。子供を連れて行っても、恐らくは。本心はちらつかせてはいるが、最終的な結論は私に委ねる心積もりであるのはうかがえる。普段は豪快で溌溂としているのに、こういった決めごとをする場において、長らしく他方の立場をそれぞれ鑑みて、それを踏まえた上で意見をまとめあげるその片鱗をこんなところで。思慮深くはないが、人の気持ちを掬うのがうまい男だ。そうして、うまく言い包められて妻となり子供も産んだ。しかしそれは、偽りなく私がセキを愛したからこそ、でもある。
 今も、そうだった。憎たらしいのに、憎み切れない自分がいることをここまできても誤魔化せない。子供の存在の問題ではなく、目の前の男を、わかっていても憎悪だけの目では見られない。そう見られないくらいに、セキを、コンゴウ団を、そしてヒスイの地を、私は愛してしまった。

「かかさま……」

 腕の中の子供が、不安に涙を零しながら縋るように真っ赤な目で私を見上げる。いたいけで無垢な、何の罪もないまっさらな愛し子。母親と父親が全ての、小さな、子供。愛する人たちと同じ時を過ごせることに喜びを覚えている、私達の。
 自然とまだまだ小さくて柔らかい、守られねばならない手を、そうっと包んだ。温もりを分かち合うようにすると、いくらか不安が和らいだのか、変化が膨大過ぎる上に全く想像のつかない先のことに首を振っていた子供の瞳に希望の光が戻ってくる。開けっぱなしの口元から頬にかけて解すように片手で擦りながら、なるべく優しく笑いかければ、子供の涙が少しずつながらも止まり始める。最後に顎の先から落ちたそれと、私のそれが、私の腕を伝って一つに溶けて着物の袖に消えていった。

「かか様は、ずうっと、一緒よ」
「ほんとう?ととさまは?」
「……一緒、よ」
「やったぁ!」

 途端に嬉しさを露にぱっと顔色を咲かせて、不安など最初からなかったかのように満面で笑う子供が、感情を制御できない時分らしく腕の中ではしゃぐものだから、落ち着かせるようにその頭を撫でて、背中も撫でて、何度も、繰り返し、繰り返し。でもようやく私の体に遠慮なくぶつかってはいけなかったのだと思い出したらしく、悲しそうな顔をして俯いたら、今度は聞き分けのできる子供らしく一歩後ろに下がった。されど私は、今だけは子供を抱き寄せて離しはしない。決して失くしてはならない、曇らせてはいけない存在を、心から愛しているから。

「ととさま!かかさまどっかいかないって!」
「応、よかったなぁ」

 膝を擦りながら私と子供の前にまで寄ったら、私達を丸ごと抱き抱えるように腕を拡げて、セキは自分の懐へと寄せた。二人に包み込まれて子供は心底幸せそうに、泣いた跡の残る顔で笑う。セキがその跡を拭ってやった後、私と子供の手を一つずつ手にした。

「これからも、同じ時を過ごしていこうな」

 父の言葉に子供はうんと頷き、かかさまも、というように私をあどけない顔で見上げる。

「……うん」

 満足そうに子供がにこにことして、私に頭を擦り付けた。真似するようにセキも私の顔の横に顔を寄せて、側面同士で擦り付けてくる。愛と慈しみを、そうして私にいつも注ぎ込むのだ。

「愛してるぜ。腹の中の子も、こいつと同じく大事に育てような」
「おとうとかな?いもうとかな?」
「お前はどっちがいいんだ?」
「どっちもほしい!」
「はは、そうか」

 楽しそうに笑い合う二人を見て、私も笑った。全部捨てて、新しいものを手にして、これからも生きていくのだ。生まれ故郷も、友達も、人生も。今同じ時を過ごすものこそ、私の愛すべきもの。愛しくてたまらないものたちに、感情が蠢いたのか一粒だけ涙が落ちて、それは目敏く見つけたセキが一際優しく舌で啜ってくれた。

 ――一番縋っているのは、誰だろう。


20230710