短編
- ナノ -


 理知的な下心


 せーんせ、と意識して弾んだ声を掛けながら近寄ったら、途端に手足を強張らせてどきまぎとしだしたのがめちゃくちゃ面白くて隠れて笑ってしまった。初めて寝た時だってそんなかちこちじゃなかったのに。普段は丸い背中をこういう時ばっかぴーんと伸ばして、どうしよう面白くてやっぱり笑ってしまう。

「はっ、はい、なんでしょう……」
「ここわかんなかったのぉ、教えてもらえますか?」
「じゃ、じゃあ、ここに座ってください……」
「はあい」

 一応生物室の周囲に人がいないことは確認済みなので、ちょっとジニア先生の座る椅子を後ろに躊躇いなく引いた。ハテナマークを浮かべる間抜けな顔が可愛くてまた堪えられずに笑ってから、言われた通りひょいっと座る。どこでもない先生の膝の上に、だ。でもそうすると「うえッ!?」と素っ頓狂な声を上げるから、あまりに狙い通り過ぎて悪いけど本格的にお腹抱えて笑いそうである。

「なっなんでそこに座るんですかあ!?」
「ここ座ってって言ったから」
「そこじゃなくて、こっちですよお!」
「え〜?ここって言ったように思ったんだけどなぁ」

 膝の上に横向きで座ったら見るからに慌てふためいている。存外固くてしまっている太腿は座り心地は良くはないが贅沢は言わない。でもそう余裕ぶっこいていられるのは私だけで、先生は今にもひっくり返りそうになっている。だけど思い切り振り落とそうという素振りは絶対に見せない。変なところで優しいというかなんというか。
 行き場のない手を宙に浮かせて、そうじゃない、と半泣きなのはどういう心情なのだろうとそこを想像するだけでも満足しかけたが、まぁ私だっていつ誰が部屋の外を通るかわからないので膝の上に長居する気など毛頭ない。でもこんな反応見たらもうちょっとくらい、と邪な欲望がつつかれてしまうわけだ。

「ねえ早く教えてよ」
「こんな格好じゃ教えられませんよ……」
「もう、先生なんだからしっかりして」
「そもそもイリスさんがいけないのに……」
「私のせいにするんだ〜」

 顔を覆ってさめざめとするので、手の甲をちょんとつつきながらほんのり口を尖らせた。
 私はちゃんと、事前にアカデミーに入学することにしたよ、と伝えたのに。ジニアは研究を纏めるのに夢中で私の話なんかろくに聞いていなかったかもしれないが、それでも私は三回は言った。だから突然私が新入生として大勢に混じって入学してきたわけではないのに、私を見つけた瞬間のジニアの驚きようといったら。指差ししかけて寸でのところでやめたようで、でもその場で腰を抜かしそうな勢いで口をあわあわとさせていたから他の先生や生徒達にはかなり訝し気にされて。だけど私が恋人だってことは当然誰一人にも白状できないから、少しの間妙に心配されていた。
 相談もできず私に触れることもできず。社会的に先生が生徒に手を出せるわけがないのだ。それが例え、アカデミーに入る直前までは自分の彼女だったとしても。

「私はちゃんと言ったもん。聞いてなかったのはそっちだから」
「でも……」
「ほらあ、早く教えてよ、“せんせい”」

 わざと顎の下の方から覗き込んで、その胸元にしなだれかかって、上目でせんせい、と囁くように呼んだら、ぐっと唇を噛み締めて生唾を飲み込み、ぶるっと微かに震えて何かを堪えていた。心なしか頬が赤くなって汗ばんできた気もする。そういうプレイが好きだったなんて全く知らなかったので、早く教えてくれれば生徒になる前にもっとたくさん面白いことができたのに。

「せ、せめて、隣に座ってください」
「やだ、ここがいいな」
「こんなんじゃ、教えるどころじゃないです……それに、いつ誰に見られるか……」
「見られたら、ジニア先生大変なことになっちゃうねぇ」

 その辺は私だって気にしているから、さっきからこうしてからかいつつも廊下の気配は窺っているが、ジニアは今それどころではないのだ。私がわからないところを教えてほしくて訪ねたのは本当のことだからさっさと教えてくれればそれで終わるのに、色々と葛藤しているらしい頭がふしだらに染まりかけているジニアには全然余裕がなさそう。でもまぁ当然かもしれない。私が寮に入ってしまったから、私達は外で気兼ねなく会えなくなってしまったし、触れ合いだってそれこそ入学した日からは微塵も。キスもできないのだからそれ以上はもちろんのことで。
 しかし卒業まで我慢をし続けることを余儀なくされたジニアの視線は、最近は随分と熱くなってきていて、それに気が付いたからこそこうしてわざと顔を見せにきたのもあるが、万が一を憂いての確認でもあった。けれどこの調子なら過ぎたる懸念だったらしい。こんな真っ赤な顔をしているんじゃ、よそで発散はしていないだろう。

「隠れて手を出してこないのがらしいよね、ジニア先生」
「だって、だめですよお……先生と生徒は、いけないことですから……それにもしもクラベル校長に知られでもしたら……」
「わかってるのにもうこんなんじゃ、この先もまだまだ長いのに大丈夫?」

 さっきからお尻に当たってるのが何かなんて生娘でもないので惚ける必要もない。私が膝の上に乗っただけでこれじゃあ、あと数年どうするのだろう。物理的に接触しなくても、こっそりだが濡れた視線をこの数日の間頻繁に私に向けているのに。しかも他に生徒がいる場合でもこっそり垣間見せる瞬間もあるのでどうしたものかと。

「あ、こら……動かさないでよ」
「……ッ」
「私だって一応我慢してるのに」

 頭の中までゆるゆるになってきているらしいジニアの胸を押して距離を取ろうとしたら、それより早く腕が私の体に回って、おでこが肩の上に擦り付けられた。荒い息が肩口をほんのり湿らせる。今すぐ何もかもかなぐり捨ててでも縋りたくてたまらなさそうなのに、どうにか必死に自分の中の衝動を抑え込んでいる。
 可哀想かなぁと思わなくはなかったが、立場的にこれ以上何もしようがない。その上で逡巡はしたけれど、仕方なくよしよしと頭を撫で回してあげた。生徒が先生を撫でてどうするのかとは思うが、今の私の中では先生と生徒という強固で分厚い壁よりも、好きな男を慰めたいという面の方が勝ってしまった。そうしたら、すり、と微かに頭があげられて、眼鏡の下で細められた瞳がぐるぐると何かを訴えているのに、唇をぎゅっと噛みしめている。こんな、私以外の生徒には見せてはいけない劣情の顔。無意識になのか、ささくれている手が制服の半ズボンから伸びているむきだしの太腿に伸びたので、それはだめだよと、ぺし、と軽くはたいた。

「がんばれ、がんばれせーんせ」
「がんばってます……」
「……頑張って我慢に我慢を重ねた後って、どうなっちゃうんだろうね」

 私が無事に卒業して、またただの男と女に戻ったら。数年は先の未来を想像したのか、ごく、とまた喉仏を上下させるのが肩の上に頭があるせいでしっかりと伝わった。
 私だって反応が面白可笑しいのでつい煽るだけ煽ってしまったが、自分だけ地獄を見ているわけではないということはちゃんとわかってほしいところだ。お互い、手が伸ばせる距離にいても健全でいることを強制している現状。倫理に準ずるならばどれだけ辛くて苦しくても割り切らないと。こっちもたくさん好きな人に触れていたいのは山々なのに、自分で決めたことだからと、押し殺したり切り捨てていることはこれでも数えきれない。

「だから、ちゃんと卒業させてね、せんせい」

 ぎゅ、と相変わらず寝ぐせのついた頭ごと抱き締めているので、今しがたのセリフの説得力は皆無だろうが、それでもあっさり離せなかった。どこかで誰かに見られるかもしれないとスリルに酔っている自覚は正直ある。ジニアが日々なんとか辛抱しているところに弄ぶようにして悪いなって気持ちだって。それでもアカデミーでやりたいことがあったから自分で選んだ道で、それくらいはジニアだってわかっている。ままならないことだが、立場を飲み込んで、やるべきことがあるのはお互い様。

「ほら、ここ、ちゃんと教えてね」
「……はい」

 顔は依然赤いが教える気にはなろうとしているらしく、ずり下がった眼鏡をかけ直して、私のために教科書を開いてくれる。人の気配がしたら膝から飛び降りる心積もりだったが、その辺も抗議しても無駄だと諦めたらしい。いや、下手をしたら自分でもこのままでいたい気持ちが欠片くらいはあるのかもしれない。正真正銘、ジニアにここまで近づいて触れたのは数ヶ月ぶりだから。人の目を盗めば、と短絡的に思わなくはないが、覚悟の上でアカデミーに来たのだから、心から理性的な人間であらねば。
 なので、別に誰かが通りがかったわけではないけれど、そうっとジニアの膝の上から下りて、きちんと隣に椅子を持ってきてそこに座り直した。案の定名残惜しそうな目を向けてくるジニアだったが、私がここ、とわからない箇所を指差すと、ハッとして慌てながら目も顔も先生に戻してくれた。

「せんせ、気が散るから」
「無茶言わないでくださあい……」
「ごめんって、泣かない泣かない」

 しかし隣に座ったことで今背中を丸めてる原因が視界にどうしても入るからお願いしてみたが、簡単なことではないので情けない返事があった。こちらも理性的とか殊勝な言い方をしてはみたものの。半泣きの顔が可愛いからもうちょっとくらいからかいたくなったが、これ以上は毒にしかならなさそうだから、私ももっと我慢しないと。


20230606