短編
- ナノ -


 愛の本性


「あら、汚い野良ネコ」

 ――イリスとチリの邂逅は、その一言より始まった。


 チリは朝一番に起きる必要がない。気儘に生きて暮らせばいいとのお達しを始めの日から受けているため、好きな時間に起きて好きな時間に床に就く。元からあらゆるものに縛られて生きるのを苦に思うタイプだったため、それを寛容に許してもらえるのはかなりありがたかった。
 ただし、イリスの家で生きるのには少なからずルールは存在した。頑なな約束ではないが、出来るならばそうしてほしいという、イリスからの願いのようなものだ。うるさいなぁとは思うが、家主からのお言葉を無視することはできない。

「おはよう。今日は早めに帰れるから」

 チリがベッドから抜けて、くあ、と欠伸を恥じらいもせず大きくしながらリビングへ向かうと、丁度イリスが出勤するか否かという瀬戸際だった。なので、すぐさま欠伸は手で隠しなさいと起き抜けの頭に食らって反射的に顰め面を作る。面倒だなと、チリは内心独り言ちた。どうせなら顔を合わせないまま朝食の席につきたかった。

「あ、そ」
「ええ。それじゃあ」

 へいへい、と適当に手を振って、すぐに寝間着のトレーナーのポケットの中に手を突っ込んだ。見送りはこれで十分だろうと、無言の示しである。イリスはそれを特に咎めることもせず、に、とほんの少しルージュの赤い唇を引き上げて、ひらっとスカートを翻らせてドアへ向かおうとしたけれど、何か思いついたようにスカートを再び翻してチリの元へ足音も立てずに歩み寄った。

「イイコでね、私のネコちゃん」

 チリの背後からふわりと腕を巻き付けて、背伸びをして寝起きの頬へと口付ける。何の意味もない戯れ。これは毛を逆立てるチリを面白がっているだけ。わかっていながらまだ覚醒しきらないぼんやりとしたままのチリは、そうして簡単に接触を許してしまったわけだ。しかし何すんねんと噛みつこうとして逡巡する。別にイリスに言い付けられている訳ではないが、やはりここで好きに生きることを許してもらっている手前、噛みつくときは噛みつくが、表立った抗議はちょっと憚られる。
 それでも面食らって、けれど次の瞬間にはうげ、と口も目も歪ませるチリに、不服さもなく満足そうにイリスは笑う。艶も乗った赤い唇が、華やかに弧を描いている。ふわ、と甘いのにしつこくはないフレグランスの香りが舞った。どんな反応があるかわかっていたかのように、そこに動じは一切ない。歯向かっても素気無くしても噛みついても眉を少しも吊り上げない、常に妙な余裕を孕む女だった。
 ようやくイリスが家から出て行った後、はあ、と盛大な溜息が零れた。家主の柔らかな唇の感触を払拭するように頬を乱暴に擦ると、べったりとチリの趣味ではない真っ赤なルージュが手について、更に溜息が零れた。



 ジョウトで生まれたチリに、パルデアの空気はすんなり馴染んでくれない。パルデアの人間の考え方も、物の捉え方も、生き方も。結局あんな毎日でも自分には地元の空気が一番性に合っていたのだと痛感する日々で、こんなことなら家を出てこなければよかったなんて、ささやかな後悔に身が浸り始めた頃のこと。
 歩くのすら面倒になって道の端っこに座り込んで、時間も自分も持て余していると、俄雨が降って来たのだから余計に気持ちがささくれ立った。目の前を往きかう人間達は特に驚きも焦りもせず、まぁいつものことだ、何を急ぐことがある、と言わんばかりの平然さで歩いている。余裕とはまた違うが、慣れが人を作るのだ。それにも感情がマイナスに振れた。こればかりがチリを刺激するのではないが、やはりここに馴染むのは難しいのかもしれない、なんて感づいてはいたけれど早々に認めたくはなかったこと。

 ――連鎖的に過去のふらふらとしていた時代のことを思い返して、途端に朝食がまずく感じられた。思わず眉を顰める。イリスが作る料理は舌が肥えていないチリでも一級品だとわかるレベルで、けれど反抗的な気持ちが消えないわけでもないので、朝から豪勢で胃もたれしそうなどと一人で悪態をつく。
 しかし思い出してしまったことは簡単には頭の中から出て行かず、溜息が漏れた。イリスに拾われてどれくらいの月日が経ったのだろう、そんなどうでもいいことを考えてしまう自分も嫌だった。チリは別に、あの女を好いてここに留まっているわけではない。
 イリスは妙な女だった。チリよりいくつか年上で、仕事をしているのはわかるが、どこでどういう仕事をしているのかは全く知らない。聞く必要もないから未だにどうでもいい。ただ、道端で拾った小汚いチリに衣食住を無償で提供している、頭の可笑しな女。でも、チリを野良ネコと呼んでうっそりと笑った、赤い唇の動き方だけは、やたらと脳裏に焼き付いている。一瞬だけ垣間見た、瞳の奥の深い煌めきも。

 食器を片付けてから、やることもなくて暫くぼんやりとソファに座ってテレビを眺めた。はしたなく足を拡げながら、背もたれに適当にもたれつつ。なんとなく腹を別のもので満たしたくてチープなスナック菓子をつまみながら、今日はどうするかと思案した。一応はイリスが暇潰しにと用意してくれたものが多々あるが、元来面倒くさがりのチリの食指は易々と向かない。かといって外をぶらつく自由な金はないから、どの道そうして暇を潰すしかないと、選択肢は限られてくるのだが。
 チリに金は持たせない分、イリスが財布を開く。だから今チリの身の回りにある物は全てイリスが買い与えたものだけだ。困るのは一定の値段以上の店ばかり連れて行かれること。セール品でも問題なく使えるチリにとってはうげ、と目を背けたくなるような値札ばかりで、気後れしているわけではないが、なんだか落ち着かないというか。
 まず、このイリスの家もそうである。パルデアの都心部に位置するマンションの高層階、インテリアもシックだが決して安物ではなく、一点一点が傷を疎かにしていいものではない。家を探すのすら億劫でキャンプで凌いできた環境とは雲泥の差。チリの手持ちは大型のポケモンばかりで、その全てをボールから出しても平気、という金を匂わす構造。とはいえイリスが叩き売りされているものを身に着けている様はどうにも想像ができなくて、あああの女は然るべくして、と。自分に合っていれば物の価値などどうでもいい、のが信条ではあるけれど、どうしてもイリスは今の様が板についていると思わせた。そうして、だからこそこれが道楽であるのだと、チリは思っている。金を持て余した人間の悪趣味な遊び。それが、今のチリなのだ。

 昼を過ぎた頃合い。テレビに飽きて、スマホにも飽きて、ポケモン達とも一通り遊んだ後。結局イリスが用意した暇潰しに取り掛かることにした。正直嫌々やっているだけだが、何もしないよりかはマシなだけだ。イリスが用意したのはバトルの解説書だったり、ビジネスマナーについてだったり、チリが進んで読みたいジャンルは搾られているのでバトルの関連書ばかり手が伸びるが、何故か読んでいないジャンルはバレて小言を言われてしまうので、仕方なくパラパラと捲った。最近は言葉についての本も増えた。基本的にチリのやることなすことにとやかくは言ってこないくせに、チリの暇潰しの内容に関しては何故か細かいのだ。


 ある日は、イリスが休みらしく、久しぶりに外へ連れ出された。別にイリスが仕事に行っている間に外に出ないわけではないが、如何せん金の問題もあるので。
 早速誘われた、これまた敷居の高そうな、自分一人だったら絶対に入りたくない店構えに、どうせなら困らせてやろうと悪戯心が働いて、わざと目についた値の張る物をねだってみたら、あっさりと頷かれたので歯がゆい。これが初めてではないのだが、いつもそうなのだ。しかもチリがこれがいいと適当に言ったところで、気に入らなければそれはお前に似合わないとイリスが首を振ることも少なくはなかった。

「貴女がどう思っていても、貴女の身に着けるもので人は判断する。ただ着られているだけでもだめ。それでも、物の良し悪しがわからなくても。貴女が選ぶものが貴女の価値を作るのよ」

 口癖のようによくそう言われた。結局自分の眼鏡に適ったものしか買ってくれないくせに、と口を尖らせるチリに、その内わかる日が来るわよ、とイリスは綺麗にファンデーションを塗った顔でにこにことする。しかし、口癖は呪文のようにチリの中に浸透していっているらしく、最近は趣味も変わってきたような気がしないでもない。ふらふらとしていた頃は楽な格好や動きやすさを重視していたが、ここのところはデザインにも目を向けるようになった。とはいえ自分の思考の真ん中にイリスがいることに気が付いてしまえば少々憤ってしまうのだが。選ぶものが価値であると言うのならば全部高級ブランドに固めてしまえばいいのかとガンつけながら文句を垂れてみたところで、それも一つの選択だが悪手にもなるとさらりと返ってくる。外側だけ高級ブランドのオンパレードは時に下品にしかならない。

「制服ならば所属を表して、どこに行っても所属の顔として機能する。所属のイメージは制服を纏う人間とイコールになる。それは制服でなくても同じだけれど。身に着けるもの一つが人生を左右することもある」
「は?」
「人間は、自覚を持たねばならない。外も、中身も。裸のままでは生きられないでしょう。心証は大事よ。そうでなければ泥を塗る対象が多すぎる。何より自分に泥を塗るのは最もいけない」
「何の話?」
「清濁は併せ呑まないと。そこに自分の自由は少ないけれど、自由を得るためには、どうしたらいいのかしらね」
「なんなん、謎かけ?」
「さあ」

 そうのたまうイリスこそ高級品ばかり身に着けているのだが。ご高説こそ力のある証拠やん、なんて。矛盾とまではいかずとも説得力ないやん、とやっぱりそこそこの値段のするカフェの中でコーヒーを啜ったら、音を立てないの、と小言を言われた。家では足を拡げていても何も言わないのに、ここでは足を閉じていろと目では笑いながらも注意される。自由にさせられているチリだが、特に外ではマナーについての判定が厳しいのである。まだまだ野良ネコねぇ、などと組んだ指に顎を乗せたイリスにせせら笑われてふんっとそっぽを向く。
 当然のように全ての支払いを済ませたイリスは、今度は美術館にチリを連れて行った。前は博物館で、その前は観劇だった。芸術にはてんで疎いので欠片も面白くはないが、静かに美術品を見つめるイリスの横顔は、作品に最適な調整をされた光の下だからかなんだか美しい。
 触発されたのか、真似するようにチリも見つめてみた。技法とかそういうのは何一つわかりやしないが、そうしていると急に迫力を感じる。そこに染みこんだ人の情念とか、長い年月が作った重みだとか。感性など無いに等しいと自負があるので感想を述べろと言われたら頭を痛くしそうだが、黙って見つめていると、曖昧な感覚的にだが、言葉にはなりそこねるものの胸に生まれるものがあるような気がする。気が付いたら、そんなチリを、イリスは静かに笑って見ていた。
 翌日からチリの暇潰しに美術関係の本が追加された。図鑑のように眺めるだけで面白味はないのが正直だが、読んでいるとイリスは満足そうだった。


 またある日はバトルの観戦に連れ出された。そうして今更のように、そういえばイリスはトレーナーではないのかと疑問が生まれる。家の中でイリスのポケモンは一匹も見たことがない。けれどもまぁそんなのどうでもいいかと、すぐに目の前のバトルへと集中した。
 イベント用のバトルスタジアムで開催されたトーナメント方式のそれは、別に強者ばかりではなかったが、チリを疼かせるには十分だった。バトルは強い方だと自分でも思っていて、地元でもそれなりに名を轟かせた。それは絡んでくる輩をねじ伏せてきたと同義にもなるが、少なくともそれなりの腕はあると思っている。それはもちろん、パルデアに渡ってからも同じだ。目が合っても彼等はバトルをしてはくれないけれど。

「楽しそう」
「バトルは好きやねん」
「そう」

 チリの目が輝くのが面白いのか、イリスはくすくすと笑いながらもそんなチリを楽しそうに見ていた。ころころと上品に笑うイリスは、口元に手を添えてやんわりと。対してチリは身を乗り出し、今にも立ち上がりそうで、そういうところにも生まれ育った差を感じざるを得ない。だからといって自分の今までの生き方が悪いとは到底思えないが。
 チリはあんな、淑やかではいられない。それこそ昔は女の子らしくしなさいなんて口酸っぱく言われてきて、幼い頃は言う通りにしてきたけれど、ある時突然何もかも馬鹿らしくなってからは、人のいうことと反対の道を生きてきた。服も、歩き方も。そうして周囲の声を突っ撥ねて持ち前の長い手足で飛び出した。奔放と言えばそう言えるのだろう。それは、本当は見た目への決めつけに対する底知れない嫌悪や反発から始まったことだったとしても。
 でも、イリスはきっと違うのだ。感性を磨ける環境に生きて、金を生める力量があって、野良ネコを拾って飼う余裕まである。だからこその道楽だ。建前と本音を使い分けて、腹の中は容易に見せなくても軽やかに振る舞える技術を持っている。生まれた国も異なるので性根が全く反対なのは自然なことだろうが、それ以上に、チリとイリスには決定的な差がある。それを、わざわざ言葉にはしないが、チリには出会った瞬間からわかっている。イリスは恐らく、与える側なのだ。


  ◇◇


 暇潰しが多岐に渡ってきたのが最近不思議だった。最早ジャンルに偏りがない。フィクションからノンフィクション、図鑑、ファッション誌、哲学書。経済誌などほんの少しも興味はなかったのに、朝のニュースを見ている最中にぺらぺらとイリスが話をするから、断片的にだが仕組みがわかってきた。バトル関連ももちろん。美術系はなんとなく楽しめるようにもなった。多分イリスと眺めた絵画がたくさん載っていたからだ。本の内容について話をする機会も増えて、最初はぴんとこなかったが、段々と、ああそういえば読んだ本に書いてあったな、なんて気付くこともある。
 イリスと入った店では自分で好きに選んでいいとお達しが下ったので、それならばと勇んで足を伸ばしてみたが、店の人間に対する礼儀を忘れるべからず、と予め言いつけられていたせいか、いつもよりは人当たりが良かった気もする。イリスがどうしても気に入らないアイテムは相変わらずチリの手中にはならないが、最早何を選べばいいのかもわかってきた。それはチリも気に入らなければ話にならないので、今の自分も気に入るものが一番だが、一緒にいた時間がそれなりに経ったことが原因なのか、選ぶものもどこか似通ってきた。というよりも、趣味が変わって来たのかもしれない。以前までと比べても、身に着けるものへの漠然とあった抵抗感が薄まってきていた。どんなものだって、自分に似合っているものであれば選り好みしない。
 あとは、礼節を弁えた店の人間と接するようになった影響か。どことなくだが、パルデアに来たばかりのあの頃よりも少しずつながら粗暴な喋り方も鳴りを潜めてきたし、なんだかイリスと共に過ごす時間が増えたのにも関わらず、あまり共にいても苦ではなくなってきたのが。

「ネコちゃん、支度しなさいな」
「なん?またどっか行くん?」
「ええ。今日は、一日中私のことをエスコートしてね」

 既に化粧も服も完璧に整え終えたイリスが、朝食を食べ終えた途端にそう切り出した。なんや朝から気合入っとんなぁ、と呑気にしていたチリだったが、そのいきなりの指示に口を開けた。

「せやかて、どこ行けばええの?」
「それは全部自分で決めなさい」

 戸惑うチリなど構わず、イリスは食器をさっさと下げていく。こうなったらイリスはてこでも曲がらないので、チリも渋々と出掛ける準備をした。クローゼットを開けて、どれにしようかと悩む。もうそこに、くたびれたぶかぶかのパーカーの存在感はなく、一応は隅っこに残してあるけれど、あれに袖を通さなくなってどれくらい経っただろう。別に着てはいけないと言われたわけではないが、あの男物の服は反発心から選んだものだったから。イリスのことは今でもいけ好かない女だなと苦々しく思う節はあれど、あの女に牙を剥きたいという気持ちは、もうそれ程ない。
 結局この前買ったものを選んだ。スマートなデザインのシャツとロングスカートは体のラインが浮き彫りになるが、それを隠したいとは思わなくて。それに、あの女の隣に立つのだから見栄えも考えなくては。向かう先はまだ悩み途中だが、どこに行ってもしっくり来る服でないと。今お気に入りのピアスを何個もつけて、髪を梳かして。チェックの上着を羽織ってドアまで行くと、イリスは鞄も持ってそこに待っていた。

「行きますかいな」
「お願いね、私のネコちゃん」
「にゃあ」

 おどけてそう返事をすると、イリスが珍しく目を丸めて、ぱちくりとさせていた。隙を普段から見せないその女の顔はちょっとあどけなくすら見えて、いつでも完璧な赤いルージュが浮いて見えるくらいのそれに、チリはナハハと笑う。様々なものが複雑に絡み合って簡単には解けないバリアが一枚剥がれたみたいな。意趣返しのつもりではなかったが、この女のこんな間抜けな顔は初めて見た。とうとう、イリスから一本取れた気がした。
 その日のチリはとてもよく出来たと自分でも褒めてやりたかった。イリスの手を引いて値の張る場所にも気後れせず入り、でも緩急をつけるために敢えてチェーンの店も選んだ。イリスは嫌がらずに席についてくれたし、スムーズに話もできて移動中だって退屈させなかった筈。引き出しが増えたお陰で話題には事欠かなかったし、話術も段違いにレベルアップしたと思う。チリの言葉遣いは威圧感を与えるとイリスに指摘されたから言葉遣いにも気を配った。以前は誰にでもぶっきらぼうにして、あちらも顰め面をして応戦のループだったが、その賜物か誰からも丁寧に接してもらえたわけだ。
 終始イリスは満足そうで、チリはどうだと度々胸を張った。我ながらパルデアに来る前の自分が今の自分を見たら腰を抜かす自信がある。

「立派な毛並みのネコちゃんになったわね」

 帰り際、呼んだタクシーの中で、イリスが窓の向こうを眺めながら、ぽつりと零していた。チリからは見えなかったが、たおやかに笑っていたと思う。


 それから半月も経たない内に、チリにパルデアリーグからの声がかかった。突然のオファーに仰天はしたが、リーグトップ直々の申し出に、そんな大層なもんとは思いつつも、一考の後受けることを一人で決めた。必要な書類を握り締めてイリスの家に帰り、早速リーグのことを伝えると、イリスはまぁ、と口元に手を当てながら驚いた素振りは見せたが、すぐにやんわりと笑った。

「この前のバトル見て是非にやって」
「よかったじゃない。栄転ね」

 最近は観戦するだけだったトーナメントに出場するようになっていて、そこでオモダカはチリを見初めたらしい。まだそんな何度も出場しているわけではないのに、とは思うが、実力を認められて悪い気はしない。

「じゃあ、お別れね」
「あ?」
「もうここにいる理由もないでしょう。ちゃんとした仕事に就くのだから」

 それはそうだが。イリスの口から齎されてようやく、そうか、とチリはぼんやりと思う。野良ネコとして、道楽で拾われただけだから、チリが真っ当なルートを進もうというのであればイリスがチリを置いておく理由もなくなるらしい。家も仕事もなかったからこそチリはひょいっと拾われたわけだ。そういうものだと理解はあるけれど、どうしてか手放しに喜べなくて、少しの間呆けてしまった。すっかりそういう考えが抜け落ちていたのは確かだ。

「私も、この家を引き払おうと思っていたの。丁度よかった」
「え、そうなん?」
「そう。ここですべきことは終わったから。パルデアを出るの」
「なんや早く言ってや」
「これで気兼ねなく貴女も出て行けるでしょう」
「人の話聞けえや」

 会話が噛み合わなくて少し苛ついたが、まぁタイミングがいいと言うべきなので、苛立つ場面ではない。自分でもわかっているのでそれ以上突っかかりはしないが、どうにも釈然としないのが気持ち悪い。別に、色恋の真似事をさせられるために拾われたものではなかったし、いけ好かない女とこれ以上共に過ごさなくてもよくなるのだと喜べばいいのに。特別な感情が生まれたわけではないが、欠片も名残惜しくないのかと、問われたら。
 この女はこうもあっさりと。寂しいわ、なんて嘘でもおくびにも出さず。ここからでもリーグは通えるのに、などと一瞬沸いたがすぐに沈めた。

「おめでとう、チリ」

 その時、あまりに今更のことだが、イリスと出会って初めて、名前を呼ばれた。認めたくはないが、体の中を風が吹き抜けていったような奇妙な感覚があった。胸の奥がぎゅうっと締められる。特段イリスと暮らした日々が好ましかったわけではない。汚い野良ネコ、と開口一番も鮮明に覚えている。
 だったらどうして、こんなにも、イリスがいなくなった後のことを、考えないようにしているのだろう。もうきっと、この女と会うことはないのだと、予感があるからかもしれない。

「……とても楽しかったわ。チリと過ごした時間は。本当にいい拾い物をした。これで野良ネコも卒業ね。もう、しゃんと背筋を伸ばして、歩いていきなさい」

 この日見たイリスの顔は、誇張なく、チリの中では一番優しい女の顔だった。


  ◇◇


「チリ、贈り物ですよ」
「はぁ」

 リーグに招集されて、いよいよこれから四天王の一角として新たな人生を始めるという日。わざわざ家まで迎えに来たオモダカの手には異様な存在感を放つ四角い箱があった。綺麗に包装がされていて、けれど上品さが滲み出ている。
 リーグに向かうのは今日が初めてではなく、既にオモダカの手招きで他のスタッフと顔合わせは済ませてある。事前の挨拶に失敗はこれっぽっちもなかった。もうこなれてしまったと言えるだろう。ああいう対外的なやり取りは、いつの間にやらすっかりと慣れてしまっている。バトルだけではなく多方面に明るくて話術も巧みなチリは、すぐさま周囲と打ち解けられた。威圧感を与えない話し方も笑顔の作り方も会得しているのだ。対人関係で気に病むタイプではないが、思ったよりも違和感もなくすんなり入り込めた気はしている。

「誰からです?いきなりそんな」
「さあ」
「さあって、どうしますのこれ爆弾とかやったら」
「そうしたら、私と貴女が仲良く天国に行くだけですよ」

 しょうもな、と思いつつ、どうせ抜かりなくチェックはしてあると踏んで、チリは箱を受け取る。でも、いざ体に近づけてもみたら、息が一度止まって、どんどんと目が見開いていく。ただの四角い紙製の箱なのに、知っている匂いがした。
 力任せに開けようとして、寸前に思い留まり、きちんと包装を順番に解いて。ようやく蓋を開けたら、今のチリの好みど真ん中の一張羅が詰め込まれていた。もう体にぴったりとしたシャツとスラックスに抵抗はない。ご丁寧にネクタイまでつけられている。

「あら、素敵ですね」
「……」

 中身を遠慮なく覗き込んで笑うオモダカに、チリがじとりと目を向けても、彼女はどこ吹く風と言った様子で、動じた様子は万に一つもない。グローブともデザインの相性よさそうですね、なんて穏やかに笑うばかりだ。
 けれど、それであしらわれるチリではなかった。勘どころの騒ぎではない。これはもう、どこからどう見てもそうで、どこをどう考えても明らかなことで。

「……なぁ」
「はい?」
「あんた、イリスって女、知っとるやろ」

 もうパルデアにはいない、頭の中にずっといた女の名前を口にしても、オモダカはやはり「さあ」と笑うだけだった。


20230603