短編
- ナノ -


 ここが最果て


 朝から晩までダンデの手を借りて生きるのは、どうなのだろうと最近思う。ダンデに全てを任せて、私はただぼんやりと息をして、部屋の中を歩いて、眠って。辛くて辞めた仕事に行かなくてもいいのは精神的に随分と楽になったけれど、いざ今の生活をこの先も続けるとなれば、それはどうなのだろうなんて、漠然と、まぁ。

「今日は少し遅くなるからな」
「はあい」
「昼はこれ。夕飯前にどうしても食べたくなったらこれ。温めて食べてくれ」

 それはつまりは、帰るまでお利口に待っていなさい、という意味だ。お腹を空かせてもどこにも買いに行かず、食べにも行かず、デリバリーを頼みもせず。ダンデは私に自分が作ったものだけをなるべく食べさせたいらしい。
 くあ、と欠伸をしながらダンデの作ってくれたスクランブルエッグをプレートの上で無意味にかきまぜていたら、こら、と小さな窘めを受けた。行儀が悪いだろ、ってやかましい指摘である。でも私が行儀悪くというか、気ままにしていると喜ぶのはどちらかと言えばダンデなので、わざとやっていると言えなくもなかった。ダンデは手のかかる人間が大好きなのだ。

「ほら、座り直して。先に髪を整えよう」

 ちんたらしているとダンデの出る時間も迫るので、食事を適当なところで切り上げてから、ダンデはさっさと私の後ろに回った。手に櫛を握って、ミストをめいっぱいふりかけてから梳かして手際よくふんわりと巻いていく。視界の端で揺れる髪が頬にあたるのがこそばゆくて体を少し捩ると、可笑しそうに後ろのダンデがくすくすとした。次いで、私の頭にうっとりとした瞳を向ける気配。自堕落な生活を送っているくせに枝毛が一本もなくて艶もあるのが密やかな自慢だが、どれもこれも、ダンデが毎朝毎晩丁寧に髪を扱ってくれるお陰だ。

 髪を整え終えたら次は顔。導入効果のあるスプレーの化粧水をこれまた顔にふきかけて掌で浸透させて、最初に口紅を塗ってからベースメイクにとりかかる。部分ごとに下地を使い分けて、リキッドファンデーションを手際よく私の顔にスポンジで塗り拡げてタッピングしてから、ルースパウダーをパフに揉み込んで、時々ブラシに持ち替えたりして艶を出しつつ仕上げていく。眉やアイメイクにだって恐れもなく。正直アイシャドウは私の好みの色ではなくてダンデの好みだが、私の人生はダンデの好みに浸るものだからそれで満足いくのなら構わない。睫毛もくるんと上手に上向きキープ。アイランを優しく引き終えたら目元は終わり。最後にチークをそっと乗せたら私の顔は完成だ。
 ダンデが用意してくれた洋服に今度は着替える。ダンデが好きなデザインのブラを付け直してもらってから、体型にぴったりなワンピースを足から入れて貰って、後ろのジッパーももちろんダンデの手で。一応はメイクも服も私が口を挟んだら汲んではくれるが、基本的にダンデの好きに任せている。そうして、外出の予定もないのに完璧な私ができあがったわけだ。

「どう?」
「可愛い……凄く、凄く、可愛いぜ」
「よかった」

 どう?って必ず訊いた方がいい。自分で仕上げた私の評価を本人にわざわざうかがって、可愛いと呼びたくてたまらないらしい私のことをその口に促す。感極まったように頬を赤らめたダンデは、私の前で膝をついて、腹にそうっと顔を埋めた。私は無言でその頭を撫でてやる。私はダンデの人生の上に乗せてもらっているので、ダンデが満足なら、それでいい。
 ダンデを送り出す時も欠かさずついていく。ドアの前までぴったりはりついて、別に鞄を預かる役目も仰せつかっていなくとも、私はただダンデにいってらっしゃいとキスをねだればいいだけだ。ダンデも軽く自分で色を乗せた唇を食んで、眉尻をほんのり下げて嬉しさを微塵も隠さずに笑う。

「早く帰ってきてね」
「努力するぜ」

 ダンデがいないとつまらないから。何もやることがないし、どこに出掛けるわけでもないし。とにかく膨大な時間をやり過ごさねばならない。仕事を、とは考えなくてはないが、辛くて辞めた前職を思い出すと指はそちらには中々向けられない。


 ダンデの用意してくれていた昼食を食べていると、メッセージの着信音が鳴った。生放送のバトルをテレビで眺めていた最中だったが、ダンデのバトルはつい先程終わったから今は控室か。内容は簡単に予測できるものだ。私がバトルを見ていたかどうかを問うメッセージ。

『見てたよ。かっこよかった』

 当たり前のようにダンデは勝って、でもそれは当たり前でないことも昔からきちんと知っている。ダンデのバトルはいつもキラキラしていて、子供みたいに楽しそうにバトルをして、けれど情熱的で、バトルに詳しくなくても飽きを感じさせない。なので素直に気持ちを打ち込むと、すぐさま弾んだ返事があった。続けて、これからインタビューを受けて終わればマクロコスモスに向かうと報告。私も今昼食を食べていることを伝える。凄く美味しいよってお決まりみたいな言葉も添えて。
 昼食も済ませて、生放送も終わって、適当にテレビのザッピングも飽きて、ソファの上でごろんと寝転がった。スマホも投げ出すくらい、お腹もいっぱいだし動きたくない。皿は食洗器にセットするだけだし、なんならダンデはそれすらもやらなくていいとのたまう。それくらいは流石にできますよ、とこうして昼は自分で食洗器任せでも洗っているが、そんな程度でも暇を潰す一つにはなってくれるのだ。
 少しの間うとうととした後、なんだか急に目が覚めてのそのそと起き上がる。あんまり頓着せずに自堕落をやるとメイクもよれるし服も皺になるから、これくらいの昼寝が丁度いい。とはいえ、私がメイクを崩しても、服に皺を作っても、ダンデは一切怒らない。酔狂というか、最早ここまでくると崇高とまで言える男かもしれない。

 今の私の人生はダンデの人生の上に乗っかっている。正しくは生活と言うべきだが、ダンデは口癖にように「私の人生は俺と共に」と口にするからか、いつの間にやら生活という単語は私の頭の中で人生にすり替わっている。雛への教育のような、刷り込みのような、なんだっていいがダンデに人生を委ねてからそう長い年数は経っていなくて、せいぜいここ数ヶ月程度の話だ。私が仕事を辞めてダンデの家に置いてもらうようになってから始まった、なし崩しの同棲はそうしてダンデ主導で絶賛進行している。ダンデは元々私と暮らしたかったらしいが、私はまだそういうのはいいかなぁ、とあまり真剣には考えていなかったから、ダンデはそれはもう大はしゃぎだった。今もまだ、その大はしゃぎが続いているのだと、私は考えている。苦手だと言っていた家事を率先してやるようになり、今では付き合い初めの頃の私が腰を抜かしてビックリするほど完璧にこなしてみせる。
 でも、何も最初からそうだったわけでもなくて。私が掃除の仕方を褒めると、ものの数日で隅々まで綺麗にできるようになった。洗濯の仕分けを教えたらすぐ理解して、飲み込みが早いと褒めればあっという間に色落ちしやすい種類やいたみやすい種類を把握した。料理も似たような流れだ。包丁の握り方から初めて、保存の仕方に至るまで。覚えたての拙さなどあっという間に払拭されてどんどん吸収していってはそれを発揮する。今や私よりもレシピを覚えているくらいである。

 ダンデが突出した力を発揮するのは決して、ポケモンに関することだけではなかった。元から潜在能力が桁違いなのだと思う。興味があることにはとことんという性格であることは承知していたものの、他はてんでダメと言うのが自称だったし、実際ついこの前まではその通りだった。それが、今では。忙しい傍らどんどんとわからなかったことを覚えて、私の世話もして、嫌な顔を欠片も見せない。
 心の声を表に出すのならば、今物凄く楽だ。私に何もなせないダンデは、本当に何でも進んでやってくれる。始まりは精神的に摩耗した私をゆっくりさせたいがためだったとしても、今では何やら上機嫌に全てを自らの手でこなしている。うっかりすると歯磨きまでやってくれる始末だ。赤ちゃんの世話でもしているかのように、私の世話に傾倒するダンデは、本当に嫌な顔一つせず、寧ろ喜び勇んでしてくれるから。一歩外に出れば四方八方から手を伸ばされて賞賛される人生を送ってきた影響なのか、単に私を手放さない手段なのか、未だにダンデの心意をわかりかねることも少なからずあるが、そうして私を丸め込んで悦に入っていることは確かだ。
 しかし、最初は誰かが全部やってくれることに開放感を得ていたけれど、ここ最近はすんなりと大の字で呑気にいられなくなってきていて、それが少しもやもやと心に雲をかけていた。それは心が回復してきた証拠でもあるだろうが、そうすると目を背けていたことにも自ずと気が付いてくると言うものだ。

 私、このままでいいのかなぁ。


  ◇◇


 夕飯時を少しばかり過ぎてからダンデは帰ってきた。なのでソファで丸まっていた体をひょいと跳ねさせて猫みたいにそそくさと。ドアの前では電気をつけたばかりのダンデがちゃんといて、おかえりぃ、と間延びした声を出しながら抱き着くと、一等嬉しそうに破顔して見せる。ただいま、と穏やかだが静かな喜びが乗っかっている。外とほんのり汗の、働いた後の男の匂いを纏ったダンデは、電気の下とはいえそれはそれは眩しく今の私の目には映った。

「お腹空いただろう?先に食べようか」
「うん」
「ああ、ルージュが……」
「もう落とすだけだし、いいでしょ」

 朝は完璧だった唇も、この時間になれば色落ちしたりしても仕方のないこと。惜しむ声音はいつものことなので私はあっけらかんとダンデの腕に巻き付いた。スポンジで叩き込む技にフィックスも覚えたその手腕によりファンデは一切の崩れを見せないが、こればっかしは本当にどうしようもないことだ。ダンデは覚えたてだから自分が施したものがよれたりすることへの苦手意識がまだあるらしい。髪も同様に。悲しそうな顔をするのでなるべく崩れないよう意識はしているが、どうしたって巻いた髪も夜になればとれるというものだ。
 口紅一つでそんな顔しなくても、と思いつつ腕を引いてキッチンへ誘導すると、気を切り替えたのかてきぱきと夕飯の準備を始めてくれた。私が大人しくダンデを待って腹を空かせていたことが冷蔵庫を開けた瞬間にわかったらしく、食べていてもよかったのに、と口では嘯くも目は雄弁。待っていたことに微かでも嬉しさが透けている。

「美味しい」
「我ながらうまくできたと思うぜ!」
「ほんと、すっかり私よりうまくなっちゃった」
「イリスが教えてくれた賜物さ」
「そうだね……。メイクも、髪も、ぜんぶ……」
「イリス?」

 朝から仕込んでいた、たれにつけていたメインディッシュも、スープも、デザートも、とても美味しかった。こだわることには余念のないダンデは下準備も面倒くさがらないし、目標を決めればそこへ向けてひたすら邁進する。とどのつまりは、家庭のレベルからひょこんと抜け出そうとしているわけだ、既に。
 メイクも、私より技術を持ってしまった。髪の巻き方もぞんざいにされたことはただの一度もない。服だって、下手をすれば私よりもセンスを上げている。これで家事も卒なくこなせるようになったのだから、なんだかもう。などと、いつもならただ目の前のことを享受するだけなのだが、今日はずっと物思いに耽っていたせいか、すんなりと目の前の現状を取り込めないでいるようだった。だからか、動かしていた手を止めて、じっと空いた皿を見つめる。すると、何も特別なものに触発されたわけではないが、とうとうぽろっと、口から気持ちが滲んで落ちていった。

「……そろそろ仕事見つけようかな」
「……!いい!まだ休んでいればいいだろう!」

 ――でも、途端にこれだ。

 焦ったようにがたっと椅子から立ち上って、どたどたと私の隣まで回ってきたら、ぎゅうっと真横から抱き締めてくる。危ないからナイフとフォークは皿の上にからんと放る。空になった手で、そうっとダンデの二の腕あたりに触れた。嫌々というように首を振っているせいでそこにも振動が伝ってくる。

「あんな顔してまで仕事はするものじゃないぜ……」
「もう元気になってきたし。それに、何から何までやってもらうの、冷静になってみたらちょっと気が引けてきたというか」
「そんなの気にすることないぜ!俺が好きでやっていることだから……」
「一緒に暮らしてるのにお金一銭も私から出してないし。生活費どころか化粧品も服も全部ダンデが買ってくれるから」
「俺が全部出すからいいんだ……」
「でも」
「好きなだけゆっくりしてくれていいんだ、もう仕事だってしなくてもいいと思ってるくらいだぜ。食事も、洗濯も、掃除も、全部俺がやる。イリスは好きにしてほしい」
「じゃあしごと、」
「以外で」
「せめて掃除くらい、」
「しなくていい」

 やらなくていいとの意思表示なのか、その度にぎゅっぎゅっと私を抱き締めてくる。まるで別れ話をされて縋りついてくる男みたいな潤んだ顔をしているが、実体は私をダメ人間にする男なので、はあと溜息が零れた。楽は楽でよかったのだが、ダンデは勝手に私一人で外に出ることも嫌がるようになったしまったのでそれがネックでもある。確かに仕事で疲弊して酷い顔をしていた自覚はあったが、多分、ダンデがこうして嫌がるのはそれだけではないと予感もあった。私は別にダンデのように仮面をつけていたわけでもないのに。

「……嫌か?俺がイリスに色々とするのは」
「いや、嫌じゃないんだけど……何もしないのはもうそろそろ苦痛というか……外にも気軽に出たいし」
「じゃあ明日は出掛けよう。丁度休みだし、新しい服でも化粧品でもみにいこう。レストランで美味しいものを食べても……ああでも、イリスが口にするものはできるだけ俺が用意したいんだが」
「そういうんじゃないというか……」

 はて?と不思議そうに首を傾げるダンデはやはり私の言いたいことが伝わっていない様子。ああ言えばこう言うのが最近のダンデの傾向である。見える範囲に置いておきたいということかな、独占欲だろうか、とまぁ解釈はしているが、私が仕事をやめてから突然始まったそれに正直困惑が一切ないわけでもない。多分、私が褒めたのも一因かもしれない、なんて。そもそもできることが増えて楽しかったのだろうし、私が素直にそれを受け入れてしまったから拍車をかけてしまった。でもあれこれと覚えて私のために色々とやってくれたことは心から嬉しかったのもまた事実である。難しいな、と知らず眉を下げた。

「なんかさぁ……このままだと、うーん」
「このままだと?」

 身の回りのことは今、何もかもダンデがしてくれている。自分のことにすら手を出さなくていい始末。食事の用意も、家事の全部も、化粧も、コーディネートも、着替えも、シャワーも、私に関わることは誇張なく端から端まで全てダンデが。私は今本当に息をしているだけと言っても過言ではない。だけどダンデは私に人形たれと求めているわけではなさそう。だからこそ、はたして、いつまでもそんなことを続けていけるのだろうか、と。このままこの状態を維持していったら、私はきっとこの先。

「……ダンデがいないと文字通り生きていけなくなりそう」

 私の人生はダンデの上に乗っけられている。ダンデが掌握している、と言って正しい。この先、絶対に私はダンデがいないと何一つできない人間になってしまう自信があった。
 でも、想像してあまりにダメな自分に恐々と零したその言葉に、ダンデは一瞬目を丸めた後、すぐさま頬を薄っすらと紅潮させたのだ。徐々に上がる口角。一切隠しもしない興奮の表れ。嬉しさというか、それはもう恍惚だ。口を噤んでも今更の話だ。

「――いいなぁ、それ」

 噛みしめるように返ってきた声に、やってしまったなぁと頭の中で嘆いた。


20230529