短編
- ナノ -


 真っ白でいたい


 君への気持ちに鍵を掛けた。頑丈な錠前を選んで、唯一それを開けられる鍵は、飲み込んで、腹の中で溶かして、表には簡単に出てこられなくした。苦しくないとか、痛くないとか、言ったら嘘になってしまうけれど、そうすれば君は目の前で陽のように笑っていてくれるから。自分で決めたことなのだから、苦しいも痛いも、本当は感知してはいけない。

「雪だ!」

 喜怒哀楽の豊かなイリスは、舞い始めた雪を追いかけて、掌を上に向けて、受け止めようとする。感受性も豊かな彼女は季節にも敏感で、時季の行事だとか、そういうのも大切にする。今も冬が始まる、とわくわくしているのだろう。ほんのりと赤く染まった頬と、好奇心のような感情が表れているその顔を見ていればわかる。だから、その横顔を眺めながら、ただただ笑った。彼女の、そういうところを愛していた。

「チリ!雪!」
「せやなぁ」
「もうちょっと喜んでよぉ」
「そう言われてもなぁ……チリちゃん雪見慣れとるもん。イリスやって見慣れとるやろ」
「今年の雪は、今年しかないよ!」

 あっけらかんとしていたら、頬を膨らませてむくれてしまった。ホシガリスみたいな顔にぷっと噴き出すと、ますます頬を膨らませる。そういう子供みたいなところも可愛い。

「チリはもうちょっと、情緒とか、そういうの磨いた方がいいね」
「これでもチリちゃん、センスいいってリーグ内でも人気なんよ?」

 拗ねたイリスの隣に立って、ぱんぱんに膨らんでいる頬をそうっと挟み込むと、ひんやりと冷たくて少し驚いた。子供体温のくせに、天気に簡単に左右される体。この世界の全部を取り込んで、心から共に生きているような、なんでも受けとめて優しくしてくれる彼女らしいとさえ思えた。楽しければ素直に笑って、はしゃいで、拗ねもするけれど、感動作と銘打った映画にもすんなり泣くような、そんな人間だった。

「つべたぁ、はよどっかはいろ」
「あったかいの飲みたいな」
「当たり前や」
「それで、甘いものも食べようね」

 冷えた頬を温めるように擦ると、心地よさそうに目を細めて、イリスはむくれていたことなんか忘れたかのように丸くしていた頬を元に戻して、くすくすと何が楽しいのか笑い始める。昔からころころと表情が変わる。その一つ一つは、いつだって目に焼き付いて仕方ない。他愛ない一挙手一投足から常に目を背けられなくて、見えないところでその陽だまりのような温かみが曇りやしないかと、そんな余計な心配だってしているくらいに。君にはたくさん笑っていてほしい。
 優しくて、明るくて、包み込んでくれる。隣に立って笑ってくれるイリスは、まるで眩しい宝物だった。
 別に、こうやって二人でいることが特別だからとか、そういう理由で笑っているわけではなくても。


 二人がカフェで向かい合う時間が好きだった。適切な空調と、二人の好きなものをテーブルに並べて、くだらないのに楽しい話を時間など忘れていつまでもするのだ。親しい仲だからと、お裾分けみたいに少し分け合ったりしながら、時計が進んでいることなんか忘れて時間を溶かしていく。

「チリ、口についてるよ」
「ええ〜?どこ?」
「ここ、ここ」
「ここ?」
「へたくそ!もう、そのままでいてね」

 実際下手くそな演技だって自覚はあった。だけどイリスから触れて欲しくて、わざとすっとぼけて指摘されたところと全く別の位置を拭っていれば、しょうがなさそうにイリスが指を伸ばしてくる。黙って任せると、ケーキの欠片が見事に払われた。触れられた口の端っこがこそばゆいこちらなど気付かず、満足そうにイリスはまた笑った。

「チリって、結構おっちょこちょいだよね」
「こんくらいでそんなん言うの?」
「変なとこで子供みたい」
「あかん、でっかい赤ちゃんみたいなんに言われたないわ」
「ひどい!」

 軽口を交わすだけの時間でも楽しくて、永遠にここでこうしていたいと身勝手にも願っていた。
 全部わかっていてやっていると白状したら、君はどんな顔をするだろう。しょうがないなぁ、といつもみたいに笑うのだろうか。困ったように眉をほんのり下げて、だけど心底嫌だなって気持ちは出さないで。本音から人を嫌えないイリスは砂糖菓子みたいに甘いのに、その甘さを隠れて啜るだけの、求めることすらできない、つけこみもできない目の前の臆病で悪い人間に。とはいえ、イリスの気持ちを殺したくもないのだ。
 窓の向こうはすっかりと真っ白に染まっていた。外と中の温度差のせいで結露が出ている濁った窓の向こうでは、ずっと雪が舞っている。眺めていることに気が付いたらしいイリスがつられて顔をそちらに向けた。真っ白だ、なんて嬉しそうに笑う彼女は、どんな季節でもそうして笑う。花が咲く季節になれば花を愛でて笑い、暑い季節になれば冷たい水に触れて気持ちいいと笑う。今も積もったらダイブしたいのだろうなと想像できて、頭の中の顔をべしゃべしゃにした彼女につい笑ってしまった。急に噴き出したことに、変なこと考えてるでしょう、とイリスは唇を突き出していた。

「……チリさぁ」
「ん?」
「最近どう?お仕事、うまくいってる?」

 話が急に方向転換したように見せかけて、ここからが本題なのだと経験からわかっている。
 ――そういうところが好きでたまらなくて、今すぐ抱き締めてしまいたかった。人目も憚らず、イリスの気持ちすら無視して、自分の気持ちだけを振りかざして。
 優しさの塊みたいなイリスには、言葉にしなくても筒抜けてしまうことがよくある。世界を取り込んで軽やかに歩いているようにも見えるのに、その実人の機微に敏感だった。確かに先日仕事で小さいながらミスをしてしまって、注意を受けていた。特に落ち込んでいたわけではないものの、爪先程のしこりを、彼女は見逃さないでくれたのだ。
 そのことを素直に打ち明けて、けれどそのままイリスの仕事の話まで切り替えさせた。それで構わない。話を聞いてほしいのではなく、イリスの声を聴いていたいから。耳を擽るような柔らかくて丸みのある声がいたく好きで、せっかく直接顔を突き合わせているのだから、こちらの話よりもイリスの話を聴いていたい。

 そうして心の中でこっそり喜んで、二人の時間を噛み締めて、まるで後ろめたいようかのように胸の内でわざとらしく謝るのだ。
 ごめんな、イリスみたいな好きでいられなくて。もっと上手に、君を好きになりたかった。


  ◇◇


 最寄りが違うせいで駅の改札を抜けたら別れることになる。だけど一分一秒も惜しくて、自分は乗らない列車の前まで付き添う。イリスはいいのに、と気を遣ってくれるけれど、話し足りないからと答えれば顔を綻ばせて許してくれる。本当は家まで送っていきたいけれど、どこかで線を引いておかないと、いつか自分を許せなくなりそうだった。
 再び冷たい空気に晒されたイリスの頬は、やっぱり薄っすら赤くなっている。それも可愛くてたまらなくて、でも寒そうなのが可哀想で、一歩分隣との距離を詰めたら、イリスはけたけたと笑った。こっちが寒いと思われたらしい。

「さっむ」
「さむいねえ」
「鼻垂れる」
「やだかんでよ」

 くだらなくて中身のない、雪と同じくただ消えていくだけの会話を続けていると、あまり待たない間に列車の到着がアナウンスされた。まだ来ないでくれと願うも、こういう時ばかりすんなりと到着した列車の開かれたドアのむこうから、むわりと籠った空気が放たれて顔に容赦なく当たった。ず、と鼻が鳴った。

「じゃあ、またね」
「気を付けてな」
「一緒に待っててくれてありがとう。チリも気を付けてね。また連絡するから」
「うん」

 列車のドアの中に乗り込んだイリスが、振り返って真っ白な手を振った。ポケットに片手を突っ込みながら、もう片方を真似して左右に振る。はにかむその笑みを懲りずに目に焼き付けて、でもそのバイバイをする手を握ってこっちに引き寄せたら、一体どうなるのだろうかと、詮無い妄想をした。世界を取り込んで、今も真っ白な頬を赤く染める彼女を、世界から切り離して、腕の中に閉じ込めて、好きなだけ触れたら、その笑みはあっけなく崩れてしまうのだろうか。それとも、しょうがないと笑って、受け入れてくれるだろうか。泣かせたくはないのに、涙も美しい君は、そうなっても名前を、呼んでくれるのだろうか。
 あくまでも詮無い妄想なので、実際に手を引いたりはしないが、したくないわけでもない。面倒な自分を飼い殺しながら、ドアが閉まるのを手と笑みで返しながら見届ける。窓枠の分だけになったイリスは、列車が発車するまでにこにこ笑って手を振っていた。

 あっという間に過ぎ去った、イリスを連れて行った列車を、名残惜しくも少しの間見つめた。手を引くとか、そういう乱暴なことじゃなくて、ただ一緒に乗りこめばよかっただけのことなのに。線を引いておかないとなんて、常に自分を誤魔化してばかりだ。
 バイバイをしあった自分の掌を、今度は眺めた。確かにあの頬に触れて、熱を分け合った。柔らかくて、滑らかで、雪に負けず劣らず真っ白だった。そこにさした赤味が、酷く愛らしかった。無意味に掌を握って、開いて、丸めて、それでも飽き足らず自分の頬に当てた。イリスよりも冷たいそこは、掌から熱を奪ってあっという間に冷えていく。彼女から貰った熱がもうそこにはないとわかっているのに、ただただ馬鹿みたいなことをしていた。
 もう一度、その熱に触れたかった。さっきまで他愛ない話で笑い合って、たくさん、笑顔を見せてくれたのに。でも、もう触れたくてたまらなかった。向けられた言葉と、温かい笑みと、記憶の中の一時だけ貰った熱が、いつまでも体から出ていかない。
 胸の奥深くの、鍵も溶かして開けられなくした場所に、君だけが住んでいる。



 暗いのに白い夜道を、ゆっくり、ゆっくり、時間をかけて歩いた。滑らないようにという注意と、タクシーは悪天候だと中々つかまらないという理由もあった。でも、別に寒さにぶつかりながら歩くのは存外悪くはないのだ。火照った気持ちを静めるのに、こういう空気は打ってつけだから。残念なのは、今夜は星空が見られない一点。だって、イリスはパルデアの星空をとても愛している。
 どうしたらいいんだろうなぁ、と口の中だけでぼやいた後、すぐに結論は出てくる。どうしようもない、だ。正解など、それしかない。他には怖いものなんか何もないのに、イリスのことになると急に怖くなるのは、可笑しな話である。だから、せっかく鍵も溶かしたのに、まるで意志でも持っているかのような、一々顔を覗かせようとするその厄介さを厭わなくてはならない。
 その時丁度スマホロトムが受信を知らせたので、立ち止まって開くよう伝えた。幸いなことに前後に人はいないから、端に寄らなくても済んだ。

『傑作ができた』

 一番愛しい名前のトークルームに、一枚の写真が送られてきていた。それは小さな雪だるまの写真である。でも、子供が作るような典型的なデザインではなくて、葉っぱと枝でどうにか髪型を作って、下手な笑顔を作らせているそれは、自惚れなくても正体がわかってしまう。ぎゅうっ、と胸の奥の何かが締まった気がした。
 たまらず発信すれば、一秒もかけずイリスは応答してくれた。

「チリちゃんそんな不細工とちゃうやろ!もっと美人さんや」
『でも自分だってすぐわかってるじゃん!』
「もっと目はおっきいし、鼻も高くて筋通ってるやろ!」
『似てるって!ぜーったい似てる!めちゃくちゃ自信あるよ!他の人にも聞いてみるから!』
「やめろや!そんなん他のやつに見せんといてや!というか、アンタ今どこにおるん!?それまだ家とちゃうやろ!」
『だって今すぐ作りたくなって……』
「はよ帰りや!どうせまぁたほっぺ真っ赤にしてんのやろ!風邪引いてまう!」
『……じゃあ家着くまでこのまま繋いでてね。私だって、ほんとはもっとチリとお喋りしたかったんだから』

 そんな、いじらしい傑作を他のやつに見せてたまるかと思った矢先、しおらしくそんなことを吐露されてしまえば、一度呼吸の仕方を忘れそうになるのだ。でもそんな束の間の揺れなんて露知らないイリスは、どこか照れくさそうに、へへ、と次の瞬間には笑う。
 通話だから。相手の顔が見えないから。なのに、少しの間片手で顔を覆って俯いた。もっとすぐ近くでかわいい声を聴いていたいから、宙に浮かせていたスマホロトムに耳の横に来るように伝えて。こうして再開したくだらない話の連続の最中、指先がうずうずするのは寒さのせいじゃなかった。電波に乗ってくる君の声はどうしても機械的な音声の筈なのに、どうしようもなく耳の奥に響いてやまない。何度か顔が見たいと言いかけたけれど、こんな顔彼女に晒せるわけもなかったから、その都度寸でのところで飲み込んだ。
 雪の舞う、冷える夜だ。どうせ今も頬を赤らめて、一々雪にはしゃいで、それを掴もうとして、溶けちゃったって笑っているのだろう。雪なんか珍しくもないのに。手も冷たくさせてまで、雪だるまなんか作って。それで、無邪気に笑っているのだ。親友だと思ってくれているチリちゃんと楽しくお喋りをして。親友だからこそ、こうして無垢でいてくれる。
 独り善がりで、虚しい筈で。だけどすぐ近くで君の声が聴こえるのが幸せだった。本当はもっと、色々と言いたいことは言えて、したいことはして、前に進める人間だと思ってきたけれど、君のこととなると急に、前に進むことが怖くなる。進める道すらあるのかと、そんな憶測にも満たない空想をして、その度に勝手に立ち止まる。そんな自分を許せないのに、怖いものなんかろくにないのに、君に許せないと思われることの方がよっぽど怖かった。誰かに女々しい自分が見つかりでもすれば、きっと眉を顰めてあほらしいと嘲るに違いない。

『チリ?』

 イリスの顔を思い描くだけで喉を詰まらせる自分が馬鹿で、だけど鍵すら溶かして、蓋を開けられなくしたそこに隠した気持ちを、今この場でぶつまけてしまいたいと、乱暴な衝動が腹を突き破りそうになる。君に酔いしれている自分に発破をかけてやりたくても、柔らかい声音が耳を打つと、馬鹿な真似はよせと心臓が縮こまるような気もした。

『どうかした?黙って……あ、寒くて鼻垂れてきたんでしょ』
「あかん、見えとるんか」
『見えてなくてもチリのことならわかるよ〜、ははっ!鼻真っ赤なチリ思い出したらおかしくなってきた!今も真っ赤なんでしょ!』
「なっとらんわ、見せたろかい」
『そろそろ家に着くからいいや』

 ああもう終わりなのかと、悔しい気持ちと、これ以上何かしらの誤解を与えないで済むと、嫌な安堵感。部屋を暖かくして待っている人間がいるのだから、こうして繋いでいられる時間はもう僅かだ。こちらも、いい加減道のど真ん中で止まっていないで、どれだけ億劫でも一人で歩き始めないといけない。

『じゃあねチリ、ほんと今日は楽しかったよ。おやすみ』
「おやすみ」

 別々の夜を過ごすイリスとは、ここでやっと本当にさよならだ。通話の切れた画面を、また少しの間ぼんやりと眺めた。まだ余韻に浸っていたくて、耳の奥を擽った声を同じ空の下で思い出していたかった。

 鍵は溶かしてしまったから、だから、もう開けられないのだ。壊してもいい日がこない限り、腹の奥から蘇ることはない。這い上がってきたら、胸を突き破りそうになったら、押しとどめて何でもない顔でいないといけない。
 笑った顔が好きだから。無邪気で、明るくて、天真爛漫で。正反対のような君がいつどんなときだって眩しくて泣きそうになる。手を取り合って歩ける陽の道を夢見るだけの不毛な日々なんか、どうか知らないでいてほしい。こんな、雪のように真っ白とは程遠い気持ちなんか。


20230410