短編
- ナノ -


 焼け野が原の真ん中から


 ドアが開くとほぼ同時にダンデが倒れ込んできて、我ながら惚れ惚れするような瞬発力で受け止めようと腕を拡げたけれど、大幹を崩す鍛えられた大きな体を、当然支えることなんか私になど無理な芸当であった。
 最早詳しく語るでもない。そのまま雪崩れるようにして二人、その場に倒れ込んで、のしかかられた形となった私は、ダンデの巨体の下からバンバンとその体をそれはもう遠慮なく叩きまくった。だって出会い頭に深く親しくもない女の上にのしかかるだなんて、怒りが沸くのは自然のことだ。だけどダンデからの反応が芳しくないことにその時ようやく気が付いて、ハッとその顔を覗き込んで言葉を失った。

「たすけてってそういうこと……?」

 顔が真っ赤。目はほとんど開いていないし、開いていてもとろんとしていて虚ろなそれはどこを見ているのかわからない。加えて、触れている体がシャツ越しでも燃えているように熱くて、酷く汗ばんでいる。
 どう考えたって熱があった。



 ダンデが体調不良なんて人生で初めて目の当たりにした。インタビューやソニア曰く、食事は適当にしていても体を鍛えることには余念のなかったダンデは、体調を崩してはチャンピオンの責務を全うできないと長年考えていたようだった。あれだけの脚光と期待を浴びて、かつ先陣を切り、そしてなんでも自分が解決してみせると、豪語するだけでなく実績でその力をガラルに示してきたダンデは、自らをそう仕立てることで長年先頭に立ってきた。だからこそ体調の崩れなどあってはならないと考えてきたわけで。
 それが今、38℃超えの発熱。ぐずる鼻。しゃがれた声。立派な風邪だ。

「薬は?」
「ない……」
「もう、先に言ってよ。たすけてだけじゃわかんないって」
「俺もまさかこうなるなんて思わなくて……」

 どれだけ自分の体に自信があるんだって呆れてしまった。常備薬の一つくらいは持っておけと言いたいが、実際私だって体調を崩してから薬を考えるので、あまり責められはしない。そもそもダンデは元から体調不良とは縁遠かったため、用意しようだなんて常日頃考えていたわけでもないだろう。体温計だけでも家にあったのは僥倖に近い。

「それにしてもなんで私?」
「……押したらつながったのがイリスだった」
「その時点でもう意識が朦朧としてたのね」

 ダンデとは甘い関係でもなんでもない。なのにどうして、どうやら真っ先に私にヘルプコールをしたのか不思議だったのだが、ただの偶然だったらしい。それにしたってびっくりしたものだ。なにせ顔もほとんど合わせないし話だって偶にしかしない、連絡だってあまり取り合わない私に、どうしていきなりたすけて、なんて声を掛けてきたのか。
 でもまぁ、私で良かったのかもしれない。これがソニアだったら物理的な距離もあるので移動に時間がかかるし、家族も同様。他に誰と連絡を取り合っているのか、その親交についてはあまり知らないけれど、リーグスタッフだったら大騒ぎしたかもしれないし。本当に偶然、同じシュートシティに住んでいて、仕事も休みで家でだらだら配信動画を見ていた私に繋がったからこそ、すぐにこうしてダンデの家まで向かえたのだから。

「他に欲しいものある?ご飯は?薬飲むなら何か食べないと」
「食欲ないぜ……」
「なくても食べなきゃ。ダンデ、好き嫌いはなかったよね?冷蔵庫見るけど許してね」

 常備薬一つないなら今から買いにいかないといけない。ついでに胃に何かいれさせないと。そう思い立ち上がると、何故かダンデにスカートの端を握られた。は?と目をぱちくりさせるも、ダンデの瞼は今にも閉じそうなくらいとろんとしているので、意識しているのか正直見た目だけではわからない。

「どこに行くんだ……?」
「え、だから、薬とか買いに」
「……そうか」

 さっきそう言ったばかりなのに聞こえていなかったのだろうか。そもそもよりにもよって女のスカートを握るとは、と怒りたくなったが、一応は病人なのでなんとか飲み込んでおく。まず私はただの昔の同期なのであって、ダンデの家族でも恋人でもないのだから、病人でなければ一発いれても許されるはずだ。
 冷蔵庫にはろくなものが入っていなかったので、食料調達も兼ねて街中へ再び繰り出した。料理なんかダンデのためにするのは面倒だし時間もかかるので、胃に負担がかからない出来合いも見つけないといけない。どうしてせっかくの休日にさして親しくもない私がダンデの世話を、と欠片くらいはついつい苦くなるが、あのダンデでも風邪に苦しんでいる姿を見てしまったので、しょうがないかと諦めも混じっていた。

 昔は憎たらしくてたまらなかったなぁ、とドラッグストアで風邪薬を探しながら、ふと思い出してしまった。今でこそ、たまに同期で集まるときには話を少しくらいはするが、ジムチャレンジ当時は笑顔で負かしてきて、手も足も出なかったと悔しむ私の前で、勝つことは当たり前みたいな顔をしていたから、何度殴りかかろうとしたかわからない。もっとしっかり育てた方がいいぜ、なんて言われた日には本気でそうしたかった。私が勝てなかったジムもあっさり勝って、ダンデがチャンピオンになったあの日の光景を、色んな意味で今でも忘れられない。
 早くキバナさんに負けろとか、もう誰でもいいからアイツを負かせとか、そんな鬱屈としたことをテレビに吐き捨てた日もあった。勝てないと悟った幼いあの日から、私の世界は焼け野が原になったように色褪せて、寒くて、中々そこから歩け出せなくなって。バトルしかないって思っていた私が突きつけられた現実は、そんなモノクロだった。

 けれど実際、ダンデが負けた日には、どうしてか呆然として、声を殺して泣いてしまったのは絶対に誰にも秘密である。眩しいライトと煌めく紙吹雪。賞賛と労いを伝えるような、軽やかな音楽。かつて、私が戦えなかったスタジアムで、同じように笑っていた少年が、自身のあの頃とそう変わらない子供の手を笑顔で高く掲げていた。それを自分でもわからない涙の中で、ただ見つめた。
 みんな大人になってしまったのだな、なんて。


  ◇◇


 顔見知りであっても家の鍵を他人に簡単に預けるなんて不用心なのか、何も考えていないのか。これまた複雑な気持ちを抱きながらダンデの家のドアを開ける。どの道頭は一切回っていなさそうだからそこまで考えていないに違いない。

「ダンデ……は?まって、何してんの?」
「イリス……」

 寝室へ直行すると、何故かダンデがベッドから半分落ちたところで止まっていたではないか。何事かと近寄って肩を貸してやれば、か細い声で、きがえ、と零した。汗だくだから着替えようとベッドから下りようとして、途中で力尽きたらしい。重たくてしょうがないので力任せに引き上げてから、天井を仰いだ。

「はぁ、もう……取ってきてあげるから。どこ?あそこのクローゼット?」
「ああ……」
「余所行き用とか知らないから、目についたやつ出すからね」

 ベッドになんとか戻してやってから、クローゼットを遠慮なく開けてみたが、驚く程服のバリエーションに乏しくてこれもまた呆れた。昔から服なんか着られればいい様子だったが、今でもそうなのかって。チャンピオンの頃はスポンサー宣伝のためにユニフォームとマントをなるべく着るように言われていたようだったし、今も公式の場では決められた服装があるから、私服はあまり着る機会もないのだろうが。でもお陰で普段着ぽいシャツはすぐに見つけられた。少しくたびれた、モンスターボールのイラストだけの、安っぽいやつ。私の何倍も稼ぐのにとちょっとだけ驚いて、でもダンデらしいと思ったのは内緒だ。

「ほら、これ」
「ありがとう」
「一人で着替えられる?」
「……できない」
「は〜〜〜〜〜」

 私はお母さんじゃない、と言いたくても、お母さんでなくても病人を相手にすればみんな同じことかと開き直って、どうせダンデだし、と割り切ることにした。勢いよく着ているシャツを捲って、強引に腕からも首からも抜いて、一旦シーツの上に投げる。でも汗で濡れているから、先に拭いた方がよさげだった。悪いがそのまま座って待ってろと言いつけて、今度はタオル探しである。
 これがダンデのファンだったら垂涎ものだろうなと馬鹿なことを考えながら、ダンデの体を拭いた。男の体を見慣れていないわけでもないし、でも今までの男と比べれば逞しい体つきだなと思わなくはない。さすがに探すのも嫌なので下着は我慢させて、見える範囲を拭き終えてから、やっとモンスターボールのシャツを被せてやった。

「そのまま起きてて。これ食べて、そんで薬飲んで」
「うん……」

 うんって、ますます子供みたいだ。下手をすれば一緒にいるのが私だってことももう忘れているかもしれない。
 あんな、生意気で、上からで、無邪気だけど純粋故に容赦のない、子供だったのに。しかし絵に描いたような子供らしい子供でもなかっただろうから、今更子供みたいって思うのも可笑しな話かもしれない。
 けれど、本当に子供返りしたのかと見紛うことまで起きた。なんと、買ってきたミルクリゾットを一人では食べられないとのたまうのだ。

「……私何やってんだろ」

 ぼんやりとどこを見ているのかわからないダンデの口元に、一口ずつ、スプーンを運んで。たまに咽るからペットボトルの口も唇に添えて。なんて甲斐甲斐しい私。今でこそ大人として対応できるようになっただけで、昔は本当に本当に殴りつけてやりたかった、ダンデに。
 だけど不思議なもので、まるで甘えているようなダンデを見ていると、どうしてか力が抜けてくるのだ。もう憎たらしかった、と過去形に言えるようになっているからなのか、はたまた弱っている姿を見ているからなのか。ただ、あのダンデも風邪には負けるのかって、思ってしまって。
 ああ思っていたよりも人間らしかったのだと、今更のように、思ってしまって。サイボーグのように見ていたわけではないにしても、こうやって風邪を引いて、誰かに甘えたくなるありきたりな人間だったんだ。

 自分を追い込む男だった。無邪気な子供から、責任と立場ある子供になったダンデ。純粋だけじゃ生きていけなくなった、でも私がなりたかったものになったダンデ。追い込まざるを得なくなっただけかもしれないが、だとしても、そうやってチャンピオンとしてガラルの看板になってきた。私がバトルはもうしないって、スクールの進級と進学に悩んで、就職先に迷っている間、ダンデはチャンピオンとして数多の功績を立てては、賞賛を浴びてきた。でも賞賛だけで終わらなかったことは私でも知っている。人間の感情は複雑怪奇で、プラスの感情ばかりではない。私だって、負けろって、呪詛みたいにテレビに吐き捨てた。
 それが今、私に体を支えてもらいながら、生まれたてのココガラみたいに小さく口を開けて、食べ物や水をねだってる。いくら風邪で朦朧としていても、この私に。

「……美味しい?」
「ああ。もう、おなかいっぱいだ」
「じゃあ、ほら、薬」

 今なら何を言っても、何をしても、スルーしてくれそうなくらい無防備だ。殴ってももしかすれば覚えていないかもしれない。もしも抱き締めてやったとしても、多分同じだ。
 そんなアホ極まりないことを考えては捨てて、自分を振り払うように錠剤をダンデの口に放り込んで、ペットボトルの口も突っ込んで強引に飲ませてやった。勢いのせいで咳き込んでしまったダンデの背中を一応さすってやりながら、はぁ、と大きく息を吐きだして。落ち着いてきたらそっと枕の上に戻して、布団をかけ直してやる。
 可笑しいな私。ダンデはただ風邪を引いているだけで、私を呼んだのだって偶然に偶然が重なっただけで、私を呼びたくてここに呼んだわけではないのに。本当は私の顔なんか頭になかったはずで、家族やソニアを、呼びたかったかもしれないのに。
 でも、近場に頼れる人間は、一体どれ程いるのだろう。ガラル中に愛されている筈の男が、プライベートにまで入れられる人間は。

「もう寝なよ」
「イリスは……?」
「私?……さぁ、どうしよう。もうちょっと様子見たら帰るかもしれない。まだわかんないよ。ダンデの体調次第。でも、さすがに泊まりはしないから。夜通し看てほしいなら悪いけど家族とか呼んで」
「そうか……」

 ――なのに、熱のせいで潤んだ瞳が、縋るように私を見上げるのだから。

「……なに?」
「まだ、側にいてくれ」
「……」

 他意などない。私とダンデは親しい間柄ではない。かつてバトルは何度もしたが、今ではすっかり。きっと同期の一人として頭の片隅にぽつねんと置かれているだけの、ソニアやルリナほど顔を合わせる機会もない。
 にしたって、あのダンデがこんなことを言うなんてと、どうにも変な心地はあった。もう額に汗をかいているのでタオルで拭いながら、今にもいなくなってしまいそうな力のない顔を改めて見て。だって弱気など吐いた試しがあるのかと疑いたくなるような、鮮烈で堂々とした振る舞いばかり長年見てきたから。

 負けたんだもんな、ダンデ。本当に、負けたんだもんな。憎たらしい気持ちで描いた妄想じゃなくて、負けは、現実にあったんだもんな。
 勝てなくて、そこで私の世界は焼け野が原みたいになって、その光景にとっくに慣れて、馴染んで、起伏のない人生を最後には選んだけれど、ダンデはもう自分の戦う場所を作って、そこで新たな夢に向かって歩いている。一度焼け野が原に立たされても、ダンデはもう、そこから出て行くことができている。恨めしくて、羨ましくて、何もなくなった世界で甘んじる私がちっぽけな存在にしか思えなくなるから、きっと今でも顔を合わせることを避けてきたような気がする。だから、同期で集まろうって声を掛けられた時もめったに行かなかったし、行ったとしても、ダンデの側にはなるべく寄らないようにして、ろくに話もしなかった。

 なのに、側にいて、とか。
 あながち嘘でもなかったのかもしれない、なんて。集まる度にダンデが貴女のこと気にしてるのよ、なんて言いにくそうにしていた、ルリナの言葉は。そんなことをふと思い出してしまって、いやでもやはりそんなわけなかろうと、薄く目を閉じた。

「そういうのは恋人とか、大切な人にだけ言いな」
「じゃあ可笑しくない」

 は?と開けた口から声が、ちゃんと漏れたのか、自分ではわからなかった。
 固まる私をよそに、ダンデが布団の中から手を出して、タオルを握ったままの私の手首を、どうしてか掴む。汗ばんで、燃えそうなくらい熱い掌。胡乱そうな瞳は明らか熱に浮かされている。昔この手に握られて、バトルたのしかった!と笑われた時には、そのまま砕いてやりたかった。
 でももう、あの小ささは、どこにもないのも、認めたくはないが事実だった。

「俺は、お前のこと、憎たらしく思ったこと、一度もないぜ」

 少しどきりとした。筒抜けだったのか、かつての、ダンデへの負の感情は。

「イリスとのバトルはいつも楽しかった」
「……惨敗だったけど」
「勝敗は関係ない。ただ、楽しかった。今日も、来てくれたのがイリスで、よかった」
「ただの偶然でしょ」
「勝って当たり前なんて、思ってなかった。勝ちたかっただけで、そこまでは。……避けられてると気付いて寂しくなったのは、大人になってからだけど」
「……」
「これからも……から…………」
「……え待って寝た?嘘でしょ」

 よりにもよって色々と言いかけのまま眠りに入ってしまったダンデに絶句して、病人とか忘れてその頬をぱしぱしと叩いてみたが、よほど体がしんどいのかなんなのか、ぴくりともしないではないか。あまりに反応がないため、まさか死んだ?とちょっとばかし疑って顔を近づけてみると、しっかりと寝息が微かにも聞こえたので、きちんと生きているようで大きな溜息が零れた。
 手首は握られたままだ。寝ているお陰か、力が緩んでいるので、その手を外すことは容易に思える。頬を叩いても起きないのだから、多少強引に引きはがしたとしても影響はなさそうだ。
 だけど、私は、固まっているから。――違う、動かなかった。

「……馬鹿みたい」

 誰が本当の馬鹿なのか、わからないままそんなことを独り言ちて。
 ダンデも、私も。馬鹿で、頭悪くて。
 続きを言わないまま眠ったダンデも。私は私で、弱った姿を見て。

 もう好きとか嫌いとかの話じゃないの。そう、思ってきた。憎たらしくも嫌いでもない。ただ、眩しいと、目を逸らしたくて、泣いてしまっただけで。
 私はまだ、自分が範囲を定めた空想の焼け野が原に立っているから。出る気のなくなった私と、とっくにそこから出て空に近い場所でバトルをするダンデ。だけど、今同じ地に足をつけて、風邪なんか引いて、一人じゃなんにもできないくらい弱って、私の手首を握ってる。
 まさかバレているのかな。最近ボックスに預けたままだったかつてのパートナーと共に、あのガラルで一番高い建物の中に足を踏み入れて、片手で数え終えるくらいの回数で帰っていたこと。恥ずかしくて誰にも言っていなかった。だってブランクを埋めたわけではないままだから、あっさり負けてばかりで当然昇級戦など程遠い。
 それでも焼け野が原を緑豊かに戻そうと思ってしまったのは、間違いなく、ダンデのせいだ。

「……」

 多分私とダンデの気持ちは違う。まだ、同じラインに立っていない。立てる程私はダンデのことを好ましい人間だと思えていないし、ダンデは幼い感情を引き摺っているだけだろう。
 でも、もしも同じラインに戻れるなら。一度も同じラインに立ったことなんか、きっと今まで一度もないだろうけれど、でも、こうして風邪で弱って、私の手首を握るのなら。

「間抜け顔」

 ぴんっ、とおでこを指で弾いたら、う、と今度は小さく呻いたのが可笑しくて、一人でけたけた笑った。風邪に負けるかつての英雄を、憎たらしかった子供を、もう暫くは堪能してもいいかもしれない。


20230226