短編
- ナノ -


 君にはハッピータイム


 あさごはんの匂いがするな、と目が覚めて、起きようって頭が動いたまではよかった。ただし起き抜けのせいでぼんやりが全然抜けていなかっただけで、なんなら体がめちゃくちゃ、鉛でもくっつけられているように重くてだるかっただけで。それでもお腹が空いたな、という欲の方が強くて、お湯の沸く音とかも聞こえたから、ああ珍しく先に起きて朝ご飯用意してくれているんだ嬉しいなって、思って。
 結果、ベッドから下りようとしたら。運悪く床に散らばっていた服を思い切りふんづけたらしく、それはもう詳しく語る必要もない程、そのままするんっと足が滑った。繰り返すが未だ起き抜けの覚醒しきらない頭のため、判断能力なんか底辺にあったため対処できなかったのだ。だから体は無念にも滑った浮遊感を感じる暇もなく、体を中途半端に起こしていたこともあってか、漫画みたいに綺麗にするんっとシーツから転げ落ちて。

 そうして、盛大に床に背中から叩きつけられた。

「うわああああああああッ!?」
「なんだ!?じしんか!?」

 咄嗟に出た叫び声と同時に、背中を中心に走る衝撃とかなりの痛み。どすん!と衝突音と微かな揺れが起きる始末に、自分に起きた状況を正確に把握できないまま、言葉もなくひたすら呻いてやまない。人間あまりの痛みに遭遇すると声も出せないらしい。

「……どうした?」
「見てわかるだろ!!」

 叫ぶと力んだせいで背中と腰がとにかく痛くてまたも呻いてしまった。絨毯もしかれていないそこは肌にひんやりと冷たさばかりを伝えてくるため、それも相俟って身震いする。
 すぐさまどたどたと足音が耳からも床からも直接響き、キッチンからすっ飛んできてくれたダンデは、しかし私の格好を見て目をぱちくりさせている。私が買ってあげたエプロンをつけていることと、朝の匂いを纏っていることから、やはり先に起きて朝ご飯の用意をしてくれていたことはわかったが、フライ返しを手にしたままなので一応は慌てて様子を見に来てくれたようだ。
 だけど、次の瞬間には怒りが沸点を超えて火山噴火するかと思えた。

「ぷっ、くっ……くぅっ……ぷ、はっ……まっ……はははっ!ははは!」
「〜〜〜〜〜ッ!こっ……おまっ……!」
「だって……!ふはっ、ははは!」
「誰のせいでこうなったと思ってんだ……!」

 あろうことに人が床にすっころんで大の字を決めている姿を見て、腹を抱えて笑い始めやがった。そりゃあこんな滑稽極まりない姿を見たらそうなることもあるかもしれないが、私だって全裸のこんな格好人に見せたいわけないのに。予測の範疇外のことばかりが重なった結果こうなっているだけで、羞恥心がゼロなわけでもない。しかし現在勝っているのは痛みなのでこうして大の字を甘んじているが、そうでなければいくらダンデ相手でも人前でこんな情けない格好見せたいわけがない。なのに恐らくは段々と笑いが込み上げてきたからと言ってこんな腹抱えて笑い飛ばすとは、奴には人の心がないのだろうか。

「すまっ……だって……!」
「ぜったい許さないからね」
「まさかそんなっ……そんな格好になってるなんて……!」
「しばらく私には指一本触らないでください。今夜も別々に寝る」
「それは嫌だぜ!」

 そもそも起きた時から体が重だるくて力が入らなかったのは全部ダンデのせいなのに。大抵朝に足腰立たないことはダンデだってわかっているくせに、そうやって人が床にダイブして決めた大の字を目の当たりにして、真っ先に心配して起こしてくれるどころか涙浮かべるくらい笑うとは。これは最早許せないどころの話ではない。
 しかし触れるな、と言った直後に即座に真面目な顔をして嫌々と首を振ったダンデが、そそくさと私の横にまでやって来て、でもフライ返しを手にしたままだったことに今頃気が付いたのか、一度キッチンへ置きにいった後、そっと背中から抱き起してくれた。もちろん心配が遅いしさわんな、と吐き捨てたものの、ダンデは眉を下げてごめんごめんと、気持ちが籠っているのか籠っていないのか微妙なトーンで謝ってくる。でもその口角がまだ元の位置に戻っていないのは私にも見えているぞ。

「ほうら、立てるか?歩けるか?」
「むり」
「じゃあ抱っこしてあげよう。飯は食えるか?」
「先シャワーがいい。べったべた。自分一人だけ先にしれっと浴びやがって」
「じゃあ連れて行ってあげるから。大丈夫だ、俺が隅々まで洗ってやるぜ」

 背中と腰を支えて正面から抱き上げたダンデに、いやそこは横に抱けよ、と言いかけたが、打ち付けた腰の辺りを軽くさすってくれたから一応黙っておく。続いてご機嫌取りのためにか、ちゅ、ちゅ、と私の頭や顔中にキスをし始めた。これじゃまるっきり拗ねた子供をあやす図である。

「髪の毛も俺が乾かしてやるからな」
「今日一日歩けないから。家からも出たくない」
「嬉しいな、俺は今日一日ずっとイリスを抱っこできるんだな」
「にこにこしやがって……」
「移動はもちろん、飯も食べさせてやるし、着替えも俺がやるからな。ちゃんと動きたい時は俺に言うんだぞ?」
「なんでわくわくしてんの」

 確かに体が重いし色んなところが痛くはあるが、本当は別に歩けないことはない。よたよたでもゆっくりなら家の中を移動するくらいはできる筈。それを多分ダンデも気付いていて、でもこんな茶番みたいなやり取りに乗っかってくれているのかと思いきや、どうやら本気で私の世話をする気でいるらしい。いや歩けるよ、と言ったらこの世の終わりみたいな顔をする予感がして、そんな顔させてやりたいなという気持ちと、このまま一日中甘えの限りを尽くしたい欲が競り合い、結果甘える方が軍配を上げた。普段はダンデのことを甘やかしてやるから、今日くらいは何もできない人間になっても罰は当たらないだろう。
 そもそも私がベッドから無事に起き上がれなかったのは全部ダンデのせいなのだから。体が思ったように動かなかったのも一つだが、よくよくも見てみれば私が踏んづけた服はダンデのものだ。この男、昨夜脱ぎ散らかした服をそのまんまにしてシャワーと朝ご飯の準備をしていたわけだ。まずは床から片付けろと声高に言ってやりたいのは山々だが、先に起きれたことも朝ご飯も及第点だから、敢えて口を噤んでおいてやる。まぁ、どうせ洗濯もさせるつもりなので、後々未だに床で散らばっている服を回収するのはダンデの役目にはなるが。

「……いやダンデも脱ぐの?」
「当たり前だろう?濡れるに違いないんだから」
「朝ご飯は?準備途中じゃないの?」
「また温めればいいだけさ」

 いやお茶目な顔してウィンクされても。多分匂いから考えてトーストとスクランブルエッグだったと思うけど、もう一度パンを焼いたら固くなったりとか、パサパサになったりしないかとか。色々と懸念はあったが、何せ私は今ダンデに全てを握られていると言っても過言ではなく、既に浴室に放り込まれている状態である。鼻歌でも歌いそうな上機嫌で服をばさばさと脱いで私と同じく裸になったダンデが、お湯加減の調節も始めてしまった。
 まぁ、いいのかもしれない。せっかくダンデがあれこれとしてくれるのだから、今日くらいは好きにさせてやろう。ダンデはお兄ちゃんだし、長年ガラル中に頼りにされてきたせいか、根っから人に頼られるのが好きな人間だ。甘えさせてあげると存分に甘えてくるが、私に何かしたい面もある。本当に鼻歌を歌い始めたので、せっかくだし大人しく何もできない人間に徹しようじゃないか。実際体を動かすのは不便なわけなのだから。

「いやらしい触り方したらひっぱたくからね。今日はもう嫌だから」
「えっ」
「はぁ?」
「努力するぜ」
「ボディクリーム買ったばかりだから塗るとき使い過ぎないで。化粧水も高いから絶対零さないで。……そんで、私が満足したら、一緒に寝てあげる。夜はお肉がいい」
「……!頑張るぜ!」
「あとでマッサージしてね」
「喜んでする!」

 喜ぶのはいいけど思い切り頭の天辺からシャワーを当ててきたので、目の前がお湯の滝しかないしもう口を開けない。かと思えば、今度は体の前にシャワーを優しく当てながら、背中に張り付いてきてびしょびしょになった頭にキスしてくる。多分口にしたいんだろうが、もしや許可待ちなのかもしれない。変なところで律儀な男だ。


20230131