短編
- ナノ -


 甘くてにがくてやさしい


 他の誰よりもチリちゃんのことが大好きだ。付き合いが長いのもあって気の置けない最も親しい、私の好き嫌いだって全部把握してくれている、とても理解ある友達だ。構ってほしいときと放っておいてほしいときの絶妙なバランスまで、チリちゃんはわかってくれている。
 私は一般的な商社勤めをしているけれど、チリちゃんが四天王の一角なんていう大層な仕事に就いたのは、他人のことなのにも関わらず凄く嬉しくて自慢だった。一番の親友が名誉ある職に就いたのだ、喜ばないわけもない。お祝いしよ!と二人で美味しいものをたらふく食べて飲み明かしたことはようく覚えている。雰囲気のいいお店で向かい合って、笑い合って、飲み合って。チリちゃんの、酔って赤らめた頬も、当人よりもはしゃいでいる私を嬉しそうに眺めていた、睫毛の影がかかった潤むような優しい瞳も。

 優しくて気が利く、明るくて話のうまい、よくできたチリちゃん。他にも友達は何人かいるけれど、チリちゃん程頻繁には会わないし、なんでも話が通じるわけじゃない。ご飯もよく食べに行くし、お互いの家に泊まり合うし、旅行だって行っているが、大抵は私の意見が優先されてしまって、嬉しいけどちょっとだけ気が引けるのは嘘ではない。なんなら、私の好きそうな店が今度オープンするから一緒に、なんて誘いはいつもチリちゃんの方からしてくる。偶には我儘言ってよぉ、と腕を引っ張ってむすりとしたこともあるが、イリスが楽しい顔見てるのが一番だなんて、なんだか彼氏みたいなことを言ってのける。実際チリちゃんと会う前日に付き合い始めたばかりの彼氏に同じセリフを言われたものだから、それ彼氏とおんなじこといってるよ、とけたけた笑うと、チリちゃんもナハハと可笑しそうに笑っていた。

「チリちゃん聞いてよぉ……」
「おん?」

 仕事の愚痴も、恋愛の愚痴も、全部チリちゃんが聞いてくれる。そういう時に真っ先に頭に浮かぶのはチリちゃんだけだ。私が仕事をしている間に丁度いいお店を予約してくれて、残業もせず真っすぐ待ち合わせ場所に来てくれる。他の子は連絡すれば返事をくれるけれど、真っ先に私の欲しい慰めはあまりくれない。それはイリスが悪いよ、の一点張りで、建前だけでも共感もしてくれない。もちろん私が悪いのならそれでいいのだが、最初から否定で来られると萎縮してしまうから。男の人に相談するのも同じだ。彼等は過程ではなく結果しか見えない。
 だからと言ってチリちゃんも、何も全てを肯定してくれるわけではない。私が悪いと思えばちゃんと指摘してくれるし、直した方がいいところはそう言ってくれる。でも最初から面倒そうに否定はしないでくれる。双方の気持ちを想像してくれて、その上で話をしてくれるから、やっぱりチリちゃんしかわかってくれる人はいないんだって、その都度馬鹿みたいに感動する。
 試しに彼氏への不満をかなり要約してちらっと職場の先輩にも相談してみたけれど、そんなにぐちぐち言ってるならさっさと別れちゃえばいいのに、で素っ気なく済まされてしまった。こんなことを言うのも意地が悪いかもしれないが、最近恋人とうまくいっていないらしいから半分は八つ当たりだったと思う。確かに先輩の言う通り考えることもあるけれど、それで済ませられれば楽だけれど、そういうことじゃないのにって、やっぱりチリちゃんしか私の気持ちわかってくれないんだって。ただ再認識するだけだった。

 チリちゃんと一緒にいると、楽だ。愛想良くして媚びる必要もないし、私のことは何でも理解してくれているから、ついつい甘えてしまうことも多い。寧ろチリちゃんが甘やかしてくると言っても過言ではないものの、それで居心地の良さがいつだってある。正直、彼氏といるよりも、チリちゃんと一緒にいた方が楽しい時だって多いくらい。最初は私に好きってたくさん言ってくれて、優しくしてくれるし色々と買ってくれたのに、ここのところは私の好き嫌いを許せなかったり、デートをドタキャンされたりと踏んだり蹴ったりで不貞腐れていた。マンネリなのか、それとも。想像の範疇なので大きくは言えないが、嫌な兆候があるように感じてならなかった。
 チリちゃんだったらこんなことにならないのになってよく思う。女同士だから、波長が合えば何をしていたって全然苦にならない。彼氏が困っていたとしても、チリちゃんが困っていればきっとそちらを優先するだろう。

 この前は、彼氏にドタキャンされた、と泣いてたら家においでってすぐに招いてくれて、私が好きな料理をたくさん作ってくれた。敢えて外ではなくて、他人の目が遮断された場所にしてくれたのだ。

「可哀想になぁ」
「飽きちゃったのかな……」
「見る目がないやつやっちゃで、ホンマに」

 肩を抱いて慰めてくれるチリちゃんが、毛の長いポケモンにするように私の頭をわしゃわしゃとかき混ぜて、最後に受けとめるようにぎゅってしてくれる。よくしてくれる慰め方だ。私の中にできた傷をそっと手で撫でて、治すまではできなくても、絆創膏を貼ってくれるみたいな。

「ほんなら、今度気晴らしに買い物にでもいこか?テーブルシティにまた新しいブティックできたやん。まだチリちゃんも行ってないんよ」
「行く!」
「よかった。イリスと行こうとおもてて、わざと一人じゃ行かなかったんやで」

 そういうところが好き。私のことずっと気にしてくれて、考えてくれる。私の好きな料理とお酒と、大好きなチリちゃん。慰めてもらってばっかで、甘えてばっかだけど、チリちゃんがいてくれるから私はまだ元気に立ててる。大袈裟じゃなく、本当にそう痛感していた。

「ありがと……大好きチリちゃん。チリちゃんだけだよこんなに話聞いてくれるの」
「嬉しいわ〜〜、チリちゃんもイリスのことだいっすきや」

 昔からそうだった。何かあったらチリちゃんにヘルプして、いつからかチリちゃんの方からまるで危険予知のように、私に何かあったらすぐ見つけて抱き締めにきてくれる。私の機嫌の取り方も熟知しているチリちゃんの手にかかれば、あっという間に悲しみとか辛さとかも払拭できてしまえるから、不思議な魔法つかいみたい。それくらいチリちゃんが誰よりも私のことを見てくれて大事にしてくれるからだ。それこそ、恋人よりも、断然に。
 それからチリちゃんと顔を寄せ合って、今度行こうと決めたお店のことを調べたりしている内に、話がどんどん拡がって最後には別地方まで旅行に行こうという話までいった。女二人で気兼ねなく、景色の良くて空気も美味しい、料理も美味しいところ。温泉とかあればいいよね、とか。二人であれこれと希望を出し合って、場所は追々すり合わせるとして、そうやって中身がまだふわふわの会話でわいわいと笑い合った。彼氏とだとこうはいかない。中身がない会話を嫌がるから、希望がまだなくても具体的なことを言わないといけないから疲れる。
 そこまで考えて、ふと、何とも言えないような気持ちになった。

 別に、本当に彼氏いなくてもいいんじゃ、なんて。


  ◇◇


 彼氏よりもチリちゃんといた方が楽しくて、私は心から笑っている。思い返してもみれば、彼氏にプレゼントされたものよりも、チリちゃんとお揃いで買ったものの方を大事に使っている。彼氏は私の髪型の変化も、メイクの変化も見えてないから口にしてくれないけど、チリちゃんは絶対に気付いて褒めてくれる。それに気が付いてしまったからか、不満が募っていたからなのか理由は定かでないが、いい加減疲れも無視できないので別れるかどうかしばし悩んだ。好きなのはまぁ好きだけど、不満とか、気疲れとか、そういうのが少しずつ少しずつ蓄積している。先輩の八つ当たり通りになるのはちょっと癪だが、このまま変に疑惑とか不安を抱き続けるよりはいいのかもしれないなんて。今の彼氏は、今までと比べてもいい人だなって初めは思っていたのに、今じゃすっかりとこのザマだ。いつも長続きしない。
 なにせ買い物も、ご飯も、旅行も。全部チリちゃんとした方が楽しい。そりゃあ付き合いの年数を考えれば圧倒的にチリちゃんの方が長いのだから当然かもしれないし、女同士のシンパシーもあるから彼氏と比べるものではないかもしれないが。でも今のところ結婚とかを考えているわけでもないから、特に今の彼氏に縋りつく必要もない。もしも私に飽きて他に女がいたとしても、そっか、で終えられそうだった。

「あれ、イリスやん。どうしたん?仕事終わったん?」
「チリちゃんだ!偶然だね!チリちゃんこそどうしたの?もう仕事終わったの?」
「いんや。疲れたから休憩がてらなんか腹にいれようかなとおもて」
「そっかぁ」

 仕事帰り、なんだか得体の知れないもやもやが散っていかなくて、真っすぐ家に帰る気にもなれなかったから、テーブルシティでとりあえずウィンドウショッピングをぼんやりしていたとき。後ろから耳に馴染みすぎている声が聞こえたから嬉々として振り向くと、案の定そこには目を丸めているチリちゃんが立っていた。驚きはしたが、偶然チリちゃんと会えたのが嬉しくてにこにことしていると、チリちゃんがくすくすとして、私の髪の毛を整えるように梳いてくれた。少しだけぼさついていたらしい。こういうところも大好きなところの一つだった。他の人なら知らんぷりすることも、チリちゃんはすこぅしも見逃さない。いきなり髪に触る人間はあまり好きじゃなくてもチリちゃんだけはもちろん特別だ。

「私もお腹空いたなぁ……ねー、一緒にご飯食べようよ」
「チリちゃんもそうしたいんやけど、生憎チリちゃん一人だけじゃないんよ。ごめんな」
「え?」

 困ったように笑われて、ようやくチリちゃんの隣に居る人がただの通行人ではなかったことがわかった。愛想よく浮かべられた笑みの愛らしい、私達とそう歳の変わらなさそうな女の人だった。会釈して名乗ってくれたから私も慌てて会釈したけれど、これまた妙なことに、変なざわざわが胸をかきむしるように襲っていた。指先が冷たいのは、多分気のせいなんかじゃない。
 だって、チリちゃんが私の誘いを断ったことなんかない。



 何かが目の前でぴーちくぱーちく鳴いてたけど、ただうるさいなぁとしか思えなかった。頭の中にあるのはチリちゃんの顔だけで、だけどそこに滲みでてくるようにさっきの女の人の愛想笑いが消えなくて、頭の中が纏まらなくてずっとぐるぐるしていた。
 チリちゃんが私の誘いを断ったから、なんだって言うんだろう。今はまだお仕事中で、ただ休憩にきただけで、一緒にいた人は職場の人だ。それも男の人じゃなくて女の人。職場の人といたなら私ではなくそっちを優先すべきだし、微塵も可笑しな点はない。なのだが、チリちゃんの交友関係が私ただ一人だなんて思っていたわけではないけれど、漠然と、チリちゃんの一番は私なんだって思い込んでいたような節が、確かにある。私が一番で私が一番大事。自分の頭の中で浮かべた字面だけを見るとあまりに我儘で自分勝手だなと思うけれど。チリちゃんに恋人ができたとか、私より仲の良い人ができたとか、そういうのじゃないのに。なのにこんなにもやつくのは変だなぁって、頭が長いことぐるぐるしていた。

 ご飯も買い物も旅行も、チリちゃんしか考えてこなかった。考えてもみればチリちゃんの口から私以外の友人だとか、そういう話はあんまりなかった気がする。仕事の話とかはするけど、誰とどこに行ったとか、そういう類はほとんど。だからか、私が一番なんだって、勝手に決めつけていた。チリちゃんにはチリちゃんの世界があるのに。
 もしもチリちゃんの一番が私じゃなかったら。もしくは、これから一番じゃなくなっちゃったら。そうしたら。
 そんなことを、私じゃなくて職場の人と休憩に行ったからってそれだけの理由で、へんてこなことを考えている私は。

「何しとんねん、おたく」

 目の前のぴーちくぱーちくが急に消えて、パッと意識に明かりが灯ったように、その声が酷くクリアに聞こえた。顔を上げてもみれば、思った通り大好きなチリちゃんがいたけれど、何故かもう一人全く知らない男の人がいて、肩が跳ねる程びっくりした。

「用ないならさっさと去ねや」

 美人が凄むと迫力があるんだなって、その時初めて気が付いた。私の前では優しくてにこにこしているから、チリちゃんのこんな顔初めて目の当たりにした。自分が睨まれているわけでもないのに萎縮しかけてしまうほど。男の人は睨むチリちゃんの静かな威圧感に恐れをなしたのか、あっという間に走り去っていく。その背中があまりに情けなくて、あの変な人は一体何だったのだろうと今になって疑念が沸いた。

「イリス平気やね?どこも怪我とかしとらんな?」
「え?ああ、うん」
「ほんっまぼんやりした子やでアンタは……チリちゃんおらんかったら何されてたか」

 はあとお腹から溜息を吐いているチリちゃんを見てようやく、ああもしかして今の見知らぬ男に絡まれていたのかもしれないと、そんな可能性にやっと思い至った。ぴーちくぱーちく鳴いていたのは、顔もろくに見なかった、というよりも目に入っていなかったあの男の人だったようだ。
 そんなことよりも、チリちゃんが戻ってきたことの方が重要だった。嬉しくていつの間にか座っていたベンチの隣をぽんぽんと叩いておいでってアピールしても、チリちゃんが長い足に履いている黒いスラックスのポケットの中に手を突っ込んだまま、どうしてか私の前にしゃがんだ。下から私を覗き込むようにして、子供に話しかけるように首を僅かに傾ける。

「なんで帰っとらんの?寒くないん?もう一時間近くここにおるんか?」
「そんなに経った?」
「チリちゃんが休憩であそこ入ってる間ここにおったんなら、そうやねぇ」

 あそこ、と顎で示したのは、さっきチリちゃんと職場の人が入っていったカフェだ。でも、もうさっき、とも気軽に言えない時間らしい。

「休憩終わり?」
「せやで」
「一緒だった人は?」
「先戻ってもろた。イリス見えたから」

 チリちゃんが膝に置いた私の手を取って、黒い手袋に覆われた両手で包んでくれる。ポケットにあったからか触れるとじんわりとする。冷えとるやん、と嘆くチリちゃん。彼氏はこんなことまでしてくれないから、にこにことしちゃって握手みたいに握り返すと、チリちゃんが苦笑した。

「何にまにましとんねん」
「へへ、チリちゃん来てくれて嬉しいなぁって」
「さよかぁ。チリちゃんも、イリスが笑ってるの見るの好きやで。でもこんなおてて冷たくしとるんは嫌やなぁ」

 職場の人より私のこと気にしてくれたのがまた嬉しくてにこにこしちゃう。でも、チリちゃんが私じゃない人と行っちゃったことは消えないから、それだけが小さくて丸いしこりみたいに胸にずっと残っている。

「……なんかあったんやろ。どうしたん。なんで、落ち込んどるの」
「ええ?……わかんない。落ち込んでるの?これ」
「チリちゃんにはそう見えるんよ」

 指摘されても自分じゃ判然としなかったけれど、私のことを誰よりも理解してくれているチリちゃんがそう言うのならそうなのかもしれない。そうか、このもやもやは、落ち込んでいたのか。でも理由が理由だけに自分勝手さと、それってどうなの、なんて気持ちに苛まれて、すんなりとチリちゃんには伝えられそうにない。いつもチリちゃんには何でも言えるのに、こればっかしはどう言えばいいものか。
 だってこれじゃあただの行き過ぎた独占欲だ。女同士だとたまに起こり得ることかなと思うが、私以外と仲良くしないでよって、つまりはそういうこと。

「もしかして、チリちゃんがさっき一緒にご飯行かなかったから?」
「……」
「別の人とあそこ入ったから?」

 うん、と一つ一つに素直に頷けなくて困った。頷いたら、チリちゃんどう思うだろう。昔からの付き合いだから私が我儘言う、そういうタイプだってことはわかってくれているし、その上で今までずっと友達でいてくれたけれど。さすがにこの歳になって他の人と仲良くしないで、は、簡単に口にしていいものとは思えない。でも、言ってしまいたいくらい、本音ではチリちゃんを誰かにとられたくなかった。

「言うてみ?怒らんから」
「……ほんとに?」
「うん」
「呆れない?嫌だなって、面倒だって言わない?」
「アンタが面倒な子だってのは端から承知や」
「ひどい」

 けたけたとわざと剽軽そうに笑うチリちゃんにつられて、私の口もちょっと柔らかくなった。結局なんであろうと今更と言えば今更だ。長いこと散々チリちゃんを振り回してきたのだから。

「……あのね、チリちゃんに断られたの初めてだったから、ちょっと、凹んじゃった」
「それだけ?」
「…………。さっきの人と、よく話す?」
「まぁ仕事の話は。同じとこで働いとるからな」
「よく一緒に休憩いく?仕事以外で話す?どっか遊びにいったりしたことない?」
「……ないよ。今日も、流れで一緒やっただけ。お疲れさん、て別れたらもうそれだけの人や」

 チリちゃんの言葉に安心している自分は否めない。私の目を見て、手を握って、チリちゃんは私が欲しかった言葉をくれた。たまらず握り合う手をぎゅうってする。

「そっかぁ」
「なんや嫉妬かいな、これまたかわいいことを」
「だって……チリちゃん大好きだもん。チリちゃんと一番長く一緒にいて一番仲良しなの、私だって思ってたから」
「そんなんイリスだけや。イリスだけが、チリちゃんの特別なんよ」

 とくべつ。チリちゃんの口からそれが出てくると、とてつもなく、幸せな気持ちになれた。世界であり触れた言葉なのに、チリちゃんが私にくれると、それが他とは一線を画すもののように感じられて、心がふわふわとする。

「なぁ、せっかくやから、チリちゃんも訊いてええ?」
「いいよ!」
「チリちゃんのこと、ほんまに好き?」
「好きだよ。……なんか改めて言うといきなり恥ずかしくなってきた」
「どうして?」
「どうして?えー、だって、チリちゃんと一緒にいるのが一番楽しいもん。ご飯も買い物も旅行も、こうやって普通に話してるだけでも。チリちゃん見てるとなんか嬉しくなっちゃう」
「他の誰よりも?」
「もちろん」
「彼氏より?」

 どうしてか急にハッとして、いきなり私の意思とは関係なく体が固まった。自分でも考えていたことの筈なのに、全くそれを伝えていないチリちゃんに見透かされたように言われたら。何より、私を覗き込んで私を見つめるチリちゃんの瞳が、夜の暗さの中でも全く薄まらなくて、陰らなくて。少しだけ伏せた瞳に睫毛がかかって甘さが含まれている。その光に飲み込まれるみたいに、体の強張りが解けたら、私の口が思考回路をすっ飛ばして動いた。

「彼氏、より」
「今の、これまでの彼氏とも比べて、チリちゃん、どう?」
「一緒にいて安心するし、話たくさん聞いてくれて、私の好きなもの全部わかってくれてて、チリちゃんの好きな物とか私もわかってるけど、お祝いとかイベントもチリちゃんとした方が、全部楽しかった。他の人と仲良くしないでほしいくらい、チリちゃんともっと一緒が、いい」
「そっか。なら、」

 一度言葉を切ったチリちゃんが、私の手を殊更優しく撫でた。

「もしチリちゃんが男やったら、それ、どうなる?」

 途端に言葉を失くした私を笑って、でも私の手を撫でる手はとても優しかった。手の甲の薄い血管が指でなぞられる。でもその手つきは全く攻撃的ではない。いつも無邪気に繋いで、握ってくれる時みたいに。
 彼氏は外では手を繋いでくれなくなった。恥ずかしい、みたいな顔をして、腕を組もうとしても他人の目ばかり気にする。もしくは、私にべたべたされるのを嫌うようになったのかもしれない。そういう時よく思うのは、チリちゃんだったらこんなことないのになって。チリちゃんが私の手を面倒そうに振り払ったことは、ただの一度もない。
 ご飯も、買い物も、旅行も。他愛ない話も。誕生日もクリスマスもバレンタインも。私の思い出と好きの中には、どれにも欠けることなくチリちゃんがいる。

「――なぁ、チリちゃんこと、好き?」

 指と指を絡めて、まるで二人の手を一つみたいに繋げて、それを自分の口元に寄せたチリちゃんが、またこてんと首を傾けて私を上目で覗き込んだ。それでやっと、チリちゃんが隣に座らなかった理由が、わかった。私の前でかしずくように長い足を畳んで、視線だけで篭絡するように。いいや、胸の中に手を突っ込んでくるように。長い睫毛が上下する様がとても綺麗だった。

 ああ彼氏と別れなきゃって、そう思った。


20221216