短編
- ナノ -


 片道切符だけ握っている


「なかったことにしよか」

 そう先に切り出したのはチリの方だった。私はといえば、昨夜のやらかしを少しずつ思い出してきたところで、思い出せばその分唖然として信じられない気持ちでいっぱいだった。そんな私を目の当たりにして、チリは提案したのだと思う。

「後悔してるんやろ」
「……」
「言ったことは全部嘘やないけど。築いてきた時間に嘘もない。でも、イリスは気にするやろ」

 築いてきたものって、でもそれって下心の上で築いたものだったんじゃないか。出会ってからずっと女友達の顔をして、理解ある顔を作って、何かなくても何かあっても私の側にいた。恋愛で傷付く度に優しく慰めてくれて、次に進めるように腐っていた時期に寄り添ってくれたりもして。一人で入りづらい店にも率先してついてきてくれたし、相談事もチリに一番にした。誰よりも信頼できる、友達だったから。

「ほんま、チリちゃんが悪かった。ごめんな。イリスはなぁんも悪いことない。ここを出たら昨夜のことはお空の上。な?もちろん、もう顔もみたくなければ、それでええよ」

 酒も少し入っていたが、事を推し進めたのは確かにチリだ。けれど拒みはしたものの、流されたのは事実。初めて会ったときから好きだったって耳に吹き込まれたのを皮切りに、服に手をかけられて、胸を押し返したのに、最後まで拒めなかったのは私。ここで全力で拒否すれば、チリが泣くんじゃないかって、思ってしまったから。

「一生のお別れかもしれんから、一応言っとくな。……今まで、ありがとさん。そんで、ほんまごめん。今日は送ってやれへん、だからきぃつけて帰り。鍵は気にせんで」

 多分私が出て行きやすいようにか、先に着替えを済ませてチリは出て行った。自分の家のくせに。家主のいなくなったこの空間は、昔から出入りしていたからとっくに勝手知っている。シャワーの調節の仕方も、冷蔵庫の中身も、ストック用の棚の中も、好きなルームフレグランスの香りも。けれど、ふと、思い至ってしまって、チリの匂いのするベッドの中で未だ裸のまま丸まった。チリが触れた剥き出しの肩を抱いて、それは自分だけを守るみたいで、何故か少しばかり嫌気がさす。
 チリの好きな香りなんじゃない、これは私の好きな香りだった。まだ学生の頃、そういえば何気なく口にしたことがある。チリは、それをずっと覚えていてくれたのだ。
 昨夜のことをぽつぽつと思い返して、チリの匂いに包まれていると、勝手に腹の奥が泣いた。



 迷いはあったが、チリとは距離を置く日々を選んだ。なかったことにしたって、現実は頭にしつこくこびりついて忘れることができない。どの道チリの気持ちに応えられない私はもうあの子の側にいられない。何食わぬ顔で長年続けた友達を今後も続けられるほど私の神経は浅はかではない。しかしそれは、チリが傷付くからとか、そんな殊勝なことを考えてのことではなかった。所詮、私が傷付かないための、薄っぺらい防御。
 チリがいない毎日はなんだかとても静かだった。一人だけの時間はいくらでもあったはずなのに、チリと繋がらない状態が、こんなにも物寂しいものだったなんて、知らなかった。
 口がよく回るチリは話題に事欠かない人間で、思えば会話に困ったことなどただの一度もない。チリといるといつも楽しくて、気遣いにも長けたチリとは、私に恋人がいてもいなくても、会うことは絶対にやめなかった。私が言ったことは全部覚えていて、誕生日も他の誰よりも私の喜ぶやり方で祝ってくれた。それこそ、数人いた過去の恋人たちが、霞んで見えてしまうくらいに。
 でもそれって、チリの口にしたことを本当だとするのなら、何もかも私に好意があったから。下心を持っていて、それ故に、だった。不思議と気味悪さとかは感じていなかった。男の人と当然のように付き合ってきたが、チリのその、初めから存在したらしい気持ちを、真っ向から否定してやれない。簡単にそれが出来るほど、チリへの気持ちは決して軽くはない。色恋としての話ではなく、友達として付き合ってきた長い年月や、チリへの信頼感が、未だに瓦解していないのだ。あんなことをしてしまったのにも関わらず、どうしてか。私は応えられないって思っているのに。

 頻繁にやりとりをしていた連絡はあれ以来一切途切れている。私からはしていないし、チリからだって何もない。私に委ねるつもりらしかった。私が許せば、いや許すというか。チリの言った通り全部なかったことにして今までのような友達として今後もやっていこうというのであれば、チリは本当に私達が築いてきた友愛の元で、最も信頼できる同性の友達としていてくれるのだろう。もちろん、そうなれば私も何もなかった顔をして、今まで通りチリの横で笑う。言葉で表してもみればそう難しくはない。少し前までの二人に戻るだけ。
 じゃあ現実問題そうできるのかと。自分に問うても、胸を張って頷けないのが本音だった。なにせ今でも、脳裏をちらつくのだから。

 優しい顔だった、チリは。甘くて、愛おしさを滲ませて、私をずっと見ていた。心の詰まったすき、が耳の中でとろけて、荒々しくはない手つきや口の動きが、段々と私を可笑しくさせた。初めこそ困惑して、頭が真っ白になって、チリの囁きに抵抗を示したのに、ぎゅって手を握られると、そこから熱が解けていくようだった。体の関係は何度も他の人と結んできたのに、妙なことにも、初めて愛されたような、そんな気さえ持たせた。
 初めて男と寝た翌日。チリは酷く茫然とした顔で、私と会っただけでそれを言い当てた。恥ずかしくてたまらなかったけれど、私はあの時俯いて肯定した。チリはどんな気持ちで、その日も、それからも、私の横にいたのだろう。私が男のことで悩む度に、にこにこ笑いながら、親身になって話をきいてくれて、時に励ましてくれて、時に慰めてくれて、時に共感してくれて。泊まりに行く日は私の好きな香りで満たして、迎えていたのか。
 この先私は、チリなしで生きていけるのだろうかと、そんなことを考えた。とても大切で、信頼して、大好きな友達をなくして、私は、歩いていけるだろうか。
 一人でいると、余計にチリのことばかりが頭を斡旋する。同時に、私に触れた手も。今までで一番、優しくて、慈愛に満ちていて、気持ちが込められていた。だけど、ただの優しさだけではないものが潜んでいたことも、わかっていた。恐らく一筋縄ではいかない、深淵の中から覗いた、チリの気持ち。


  ◇◇


「アカンやん、こんな遅い時間に一人で」

 眉を潜められて、ああそういえばもうすっかり暗くなっていたんだって、今更のように気が付いた。何も気にせず慣れた道を真っすぐに歩いてきてしまったものだから、周囲の状況など何一つ気に留めていなかった。
 二人で遊んだ日の、暗い夜はチリが最後まで付き合ってくれた。チリだって一人じゃ危ないでしょ、と言っても自分なら相手を伸せるから、なんてふざけたように笑って、必ずチリが家まで送ってくれた。送るのが難しい時はタクシーを呼んで、私を何が何でも一人にさせなかった。

「……会いにきてくれたってことは、これからもおともだちやろってことで、ええの?」
「……」
「とりあえず、嫌やないなら入る?ドア開けたまんまやと、チリちゃん寒いわぁ」

 嘘だってすぐわかった。私が上着も着ないで外を歩いてきたから、そう促してくれている。
 閉められたドアの内側に立つと、余計に部屋の中の匂いが鼻を擽った。そこに、私の好きな香りは混じっていない。あるのはすっかり嗅ぎ慣れたチリの匂い。私が来訪する予定がなかったからあらかじめ用意していないのだ。

「なんかのむぅ?コーヒーと、ココアと、あー……紅茶は切らしとる」

 やはり、想像通りチリは普段通りを振る舞っている。今まで通りの友達を選ぶのであれば、チリならなかったことにしようって言ったことをきちんと封印して、私が見てきた私が一番信頼している大好きな友達としての自分で、これからも隣にいてくれるのだ。
 そこに、自分の気持ちは介在しない。私に隠してきた下心も、これからはなかったことにできてしまうんだ。

「ねえ」
「んー?」
「私のこと、好き?」

 しゃがんで棚の中のストックを確認していたチリの背中が硬直した。でもすぐ、折っていた膝を伸ばして、スラックスのポケットに手を突っ込んで私を音もなく振り返った。
 知っていたのに。あの指は細くて、長くて。繋いだことなんて数えきれないくらいにある。だけど、あの日私の指と絡んだチリの指は、とにかく、優しかった。優しくて、滑らかで、どこかおもたかった。

「好きやで」
「私が、恋愛対象は男だって、わかってて?」
「チリちゃんが勝手に好きなんやからそんなんどうでもええの」
「……今まで、たくさんいやな思いさせちゃったかな」
「チリちゃんの気持ちはチリちゃんしか知らんさかい、イリスが気にすることなんもないで」

 少しだけ首を傾けて、なんや友達続けてくれるんじゃないの、とチリが苦笑した。今のやり取りだけしてみればそう思われても仕方ない。でも、私は下を向いて首を振った。
 応えられない。なんて。自分を鼻で笑って、唇をこじ開けた。

「チリと、このまま離れちゃうの、やだ」
「そりゃあチリちゃんかてイリスと離れるの嫌や」
「私のこと、好きなままでいていいから」
「……アカンわぁ、この子自分の言うとる意味わかっとるんかね。それじゃあ友達に戻れんやないの」
「戻らなくてもいい。チリと、これからもいたい」

 その瞬間、チリが苛立った気配がした。微かにその気配に押されて胸がひりつく。ちらりと盗み見ると舌打ちでもしそうな顔をしていた。のしのしと細い足で私に迫って、手首を乱暴に鷲掴みしたら、強引に寝室まで引っ張られてベッドの上に投げられた。そのせいでスカートが捲れて膝上まで露わになってしまったが、直そうだなんて思うよりも早くチリが四つん這いで私の上に被さってきた。上げられた眉尻と眇めるような目が、バトルする時のそれとよく似ていた。

「アンタなぁ、言うてもいい冗談とそうやないもんがあるんやで?」
「……」
「自分の言ったことようく思い返してみ、つまりはまたこういうことになるんよ?」

 晒した足の内側をチリが撫でても、こんな顔を向けられたのは正真正銘初めてだって、そんなことを思っていた。こんな乱雑な扱いをされたのだって。チリが私に苛立ちや怒りを向けるのは見たことがない。それくらい、チリの中の私って、大きいのかな。

「……いいよ」
「……」
「大好きチリ」
「……それ、まだお揃いの気持ちとちゃうやろ」
「すぐお揃いになるよ。……それに、あんなの、忘れらんないよ」

 愛された経験はあった筈だった。だけど、生まれて初めて、本気で愛されたのはあの日だったって、思ってしまう自分がいるのが、殺せない程確かで。チリの気持ち全部ぶつけられたあの瞬間を忘れてしまうなんて、もう無理だ。
 チリは太腿を擽っていた手を止めて、一度顔を覆って俯いて深く息を吐いてから、するすると掌を下げて、その顔を私に見せた。明かりの点いていない暗い部屋の中でもわかる紅潮した目元は緩くなっていて、高揚が欠片も隠せていない。

「……あはっ、なら、もうなぁんも我慢せんからな」

 私の頬を宝物にでも触れるように撫でてチリが笑っている。今まで見たことのない、笑い方で。私が見てきたチリは、あくまで私を理解してくれる友達のチリだった。それを、まざまざと見せつけられているよう。

「覚悟しぃ、チリちゃんのながいながぁい片想いは、そう簡単なもんやないから」

 私の手を握る手が熱くて、じめっとしていて、それでいて繊細そうな形をしていた。指と指を絡めて、ぎゅうっと握ったと思えば、急に力を緩めて、今度はやわく握る。私は、絡めた指に、額を当てた。

 どこまでも一緒にいよう。私は決めたのだ。


20221203