短編
- ナノ -


 やさしい欲しがり


 店内の壁時計を見て、ああもう終わったな、と心が途端に浮足立った。いつも通りなら、すぐに仕事を切り上げてこの街まで下りてくるだろう。私ももうあがりだが、お迎えにきてもらうまではイイコに店内で待機だ。
 まだかな、まだかな、とちらちらとドアを確認していたら、いつもとさほど変わらない頃合いにチリちゃんが入ってきた。顔を見たらパって胸の中が咲いたみたいな気持ちになって、それがそのまま顔に出ると、チリちゃんは目をきゅってして嬉し気に笑った。

「お疲れさん」
「チリちゃんもお疲れ!かえろぉ」

 手を伸ばしたら躊躇うことなくとってくれて、そのまま私の手を引いてくれるチリちゃんと働いているカフェから出た。薔薇色の夕暮れのテーブルシティの街中で、こうしてチリちゃんと手を繋いで帰路につくのが日課だった。働きたいと言ったら最初はいい顔しなかったチリちゃんだけど、送りとお迎えを条件にこうして私は仕事に来ている。心配しなくても初めて会った時からチリちゃん以外どうでもいいのにね。
 真っ黒の手袋越しのチリちゃんの手をにぎにぎとすると、可笑しそうに私の顔を覗き込んだチリちゃんが握り返してくれる。こういう時、ああ楽しいなぁ、なんて思ったりもする。昔からチリちゃんが隣にいてくれるのが一番幸せだった。

「夕飯何にしよか?イリス何食べたい?」
「ん〜〜……ハンバーグ」
「おっけ」

 家に直行予定からルートをずらして、材料を買いに行くことに決めた。本当はなんでもよかったけど、チリちゃんと一緒にキッチンでお料理したかったから、敢えて手間のかかるものにした。疲れていても私の我儘は絶対に跳ねのけないチリちゃんは、私の言うことを拒否したりなんかしないのだ。


  ◇◇


「おはよぉさん。もう起きな」
「え〜……?もう少し……」
「んもう、イリスは寝坊助さんや」

 なんて言うくせに、まだシーツの中で丸くなる私の髪の毛をさらさらと梳いたり、むにむにと頬を摘まんだりするチリちゃんの声音が悪いものじゃないって知っている。チリちゃんは私を世界一甘やかしたい人間だから、私もまだぐずって目を開けない。もう身支度を整えているチリちゃんと、寝間着のままベッドの中で起きるのを嫌がる私の構図はそう珍しいものじゃない。

「お買い物行くんやろぉ?」
「うん……」
「せっかくイリスの好きなパン焼いたのになぁ」
「ん……」
「ピーナツバターとジャムも用意したんよ。甘いココアも」
「いいね……」
「はよ起きんとちゅうするで?」
「やだ」
「いけず」

 寝起きのキスはちょっと避けたいから、本当にちゅうしようって感じでチリちゃんが私の顔の横に手をついて迫ってきたので、さっとチリちゃんの口に手を押し付けて通せんぼする。でもこれはチリちゃんの常套手段だ。私が色々と気にしているのをわかっているから、こうすれば私が嫌がりながらも起きるって、朝はよくこのやり取りをしている。だけどちゅうがしたいのは冗談じゃないらしくて、シーツについている手とは反対の手が、私の乾いた唇をそろそろと撫でる。家の中だから手袋のない真っ白で細長い指が、ふに、と下唇を軽く押した。

「だっこぉ」
「はいはい。目的地は?」
「洗面台!」

 細い腰でものともせず、私を抱きあげたチリちゃんがくすくす笑いながら私を洗面所へ連れて行ってくれた。私もチリちゃんの肩に顔を乗せて子供みたいにすりすりする。チリちゃんは朝からいい匂いがするんだ。
 鏡の前で椅子に座らせて、私が歯を磨いている間に鼻歌でも歌いそうなご機嫌さで髪を櫛で梳いてくれるチリちゃんは、鏡越しに目が合うと静かに笑みをたたえた。目を閉じてにこりとするやつ。私は、こういう顔で私と相対している時のチリちゃんの心の中が手に取るようにわかるので、歯を磨くスピードを上げた。顔もさっさと洗っちゃおう。
 一先ずスキンケアまで終えると、ずっと後ろで腕を組みながら私の朝のルーティンを眺めていたチリちゃんが、顔を洗うために纏めていた髪のゴムを解いて、前髪も纏めていたクリップを外してくれる。そうしたら、やっと正面からゆるく抱き合った。まだちょっとだけ癖のついている前髪を流して、露わにしたおでこを、チリちゃんは目を細めて愛おしそうに見ていた。

「かわええ」

 チリちゃんの方が背中を折ってくれて、私もほんの少し踵を上げた。



 お買い物行こうねって。私の靴を選んでくれるって言ってたのに。ぶすくれる私の頭を、チリちゃんがおざなりに撫でまわした。そのせいで髪の毛がくしゃっとして乱れちゃった。ドオーを撫でる時はもっと丁寧なのに。そんなんじゃ私の機嫌が治るわけもないのに、今はハッサクさんと通話中だから、そっちに集中するせいで私への対応が今ばかりはあまりよろしくない。
 仕事の顔をするチリちゃんがノートパソコンをテーブルに置いて、ずっと難しい話ばっかでつまんない。電話はすぐに終わったけど、急ぎだからってパソコンと睨めっこを始めたチリちゃんが構ってくれないから、私は何もやることがなくなった。もうメイクも終えて、チリちゃんがこの前選んでくれたワンピースも着こんで、もう外に出るだけだったのに。お休みの日に申し訳ない、なんてハッサクさんの声がスマホから聞こえたけど、本当にそだよ、と頬を膨らませる私を、チリちゃんはまだ見てくれない。爪が短くてまぁるい、大好きなチリちゃんの指が触るのはさっきからずっとキーボードとマウスだけで、私は頭を適当に撫でられただけだ。

 早くはやくぅ、とソファに腰かけているチリちゃんの横から抱き着いて、じっと見つめて催促しても、うんうんとチリちゃんはただ頷くだけで、そこから何にも変わらない。それどころか、画面は見ちゃダメ、なんて言われてしまう始末である。リーグの情報になるから関係者ではない私が見てはならないというのはわかるけれど、だったら私がいない場所でやればいいのに、とまたまたぶすっとした。我儘は基本的に全部きいてくれるチリちゃんでも、仕事に関することだけは別なのだ。さすがにそれくらいは私だって理解しているが、じゃあ大人しくマテをできるような、懐の広さは生憎持ち合わせていない。チリちゃんだってそんなの小さい頃からわかっているだろうに。急ぎの仕事でなければ私の方を優先してくれるが、今はよほど早急な案件らしい。

「つまんないよぉ、陽が暮れちゃうよぉ」
「もうちょいやから、イイコやから、大人しくしとき」
「むぅ」

 チリちゃんの肩におでこをぐりぐりしても効果はなくて、結局ずるずると体を落としてチリちゃんの膝の上に着地したらごろんと寝転がった。無駄な肉のないチリちゃんの太腿は贅沢な感想ながら手放しに寛げる程心地良くはないけれど、甘えるのには中々適した場所だ。だからたゆんでいないお腹に顔を埋めて腰に巻き着いたり、そこでもぐりぐりと顔を押しつけたりしてアピールする。温かい体の温度が安らぎを与えてはくれるが、私が望む時間はくれない。片手があいた時だけやっぱり頭や頬を撫でたり、耳を擽ったりしてくれたが、言葉はくれなかった。くれたと思えば「よしよし」だって。そんなことばっかりされていると、段々ともう買い物とかどうでもよくなってきた。買い物は外でもチリちゃんを独占できるだけの行動なだけで、大きな意味があるわけではないのだ。もちろん二人で遊びに行くのはどこでだって楽しいけれど、チリちゃんが私を見ていなくちゃなんの意味もない。
 早く終われ、早く終われ、と念じながらその腰をやわやわと探っていて、ふとあることに気が付いた。相変わらず細い腰だけど、私を持ち上げるのに苦労しないチリちゃんの体の変化に、なんと今更ながら。

「チリちゃん太った?」
「はぁ?」
「なんかこの辺、改めて触ったら感触が……」
「なんやて?」

 いくらなんでもそれは看過できなかったのか、私を見下ろすチリちゃんの眉がぴくりと跳ねた。私はと言えばその反応にもうにまにまして、わざとらしく腰をぎゅっぎゅってする。その分チリちゃんの眉がぴくぴくとしているが、構うもんかって、今度はお腹を人差し指でつついた。

「見ただけじゃすぐわかんなかったけど、なんか違うよ」
「……イリス、構ってほしいからって、チリちゃんは騙されへんよ」
「嘘じゃないってば」

 やっと貰えるレスポンスに急激に機嫌が上昇して、調子に乗ってお腹を摘まんでやろうと指をコの字にした瞬間、ぐいっと体が引っ張られてしまった。脇の下に手を入れて、強引にチリちゃんの膝の上で向き合わされる。チリちゃんは引き攣った笑みのまま首を傾けて、私の唇をむにむにとやる。

「これが悪いオクチかいな?」
「事実だよ?」
「寝言はベッドの中だけにしとき」
「じゃあ確認したげる」
「えー?お買い物は?チリちゃん新しい靴選んであげたかったのに」
「次のお休みにしよ」

 困ったように笑うけれど、私はちゃぁんとわかっている。チリちゃんは、既に私の我儘を呑み込んでいる。こんなの口先だけのやり取りに過ぎない。しゃあないなぁ、なんて零すくせに私を抱きあげるチリちゃんの口角が上がっているのはきちんと見えているのだ。

「お仕事はもう終わったの?」
「せや。やから、外に出る気なら今の内やで。あの扉を潜ったらもう出られへんもん」
「じゃあいっぱい寝言言ったげるね」

 首に腕を回して、されるがまま抱き上げられて、柔らかい場所まで笑って攫われてあげる。

 小さい頃からそうだった。チリちゃんが私の家の近くにやって来てから、私達は大人になった今でもずっと同じだ。今じゃ同じ家に住んで、働く場所は違えどもそれ以外は同じ時間を共有する。我儘な私と、それをしょうがないなって許して甘やかしてくれるチリちゃん。チリちゃんはそういう私達が好きだ。私もそういう私達が好き。だから、今日もたくさん我儘して甘えてあげるの。


20221202