短編
- ナノ -


 全部越えていくわ


 ダンデの朝は早い。ほとんど陽の出とともに起床してきて、母親が朝ご飯を作るまでの間に小屋にいるウールー達全匹にフードをやり、放牧してある程度毛を繕ってやる。弟のホップが朝ご飯の匂いにつられて起きてくると、ようやくダンデも家の中に戻って、家族みんな揃って朝食の時間になる。ダンデとは違ってスクールに通っているホップは夜ふかしなんてのはザラで、それは勉強だったり友達と連絡をしあったりしているせいだけど、そのせいで毎朝欠伸をしながら目ぼけ眼でダイニングテーブルにつく。対して早起きは生活習慣の賜物でとっくに慣れたダンデは、ホップの爆発した頭を笑いながら撫でてやって、手ずから紅茶を淹れてやる。蒸らす時間がわりと好きだと言っていた。
 羊飼いの朝は早い。ダンデの毎日は、いつも決まっていた。

「やあ、おはよう」
「おはよう。今日も朝から元気だね」

 ウールーの毛を一匹ずつ順番に整えていたダンデに近づくと、麦わらの帽子を持ち上げて顔を見せながらにかりと笑ってくれた。まだまだ陽の高いこの時間に、その白い歯を見せる笑い方はかなり眩しく見えた。

「今日もまた帰れないのか」
「そうなの」

 ダンデの隣にしゃがんで、ウールーを眺めた。くめえ、と鳴くウールーは、不思議そうに首を傾けて私の周囲を見渡していた。撫でてやりたかったけれど、私は撫でられないからただ笑いかけるだけだ。

「明日には帰れるといいな」
「うん」
「退屈だろう。あとで本を読んでやろうか?ホップに昔読み聞かせた絵本がまだあるんだ」
「絵本かぁ。小さい頃読んだ以来かな、多分」
「絵本が嫌なら昨日読み終わった本があるんだ。リザードンの背に乗ってガラル中を旅した男の冒険譚。とても面白かったんだ。二日で読み終わってしまったよ」
「それってかなり分厚いんじゃない?」
「ああ。でも、退屈はなくなるだろ?」

 手を止めずに、手際よくウールー達の体調をチェックしたり、爪を切ってやるダンデは、柵で囲んだこの放牧場の草むらにあぐらをかいて座って、本の内容に思いを馳せているのか僅かに目を細めて薄く笑った。私も、その横顔を見つめて自然と笑った。麦わら帽子のせいで陰に染まったその顔は終始穏やかで、優しい青年そのものといった風情を感じさせる。

「……ダンデは、リザードン欲しいと思わない?」
「急にどうしたんだ?」
「なんとなく。ただ、随分その本がお気に入りみたいだから。憧れたりしないのかなぁ、なんて」

 ダンデがウールーから顔を上げて、私を見やった。きょとんとして、一瞬考える素振りを見せた後、可笑しそうにけたけたと笑った。

「はは!俺がポケモントレーナー?そんな暇ないぜ!」

 そっかって、私はもう一度笑った。



 目を開けたら夕陽といの一番に対面した。木々の枝や葉が大きく揺れているから、風が強いらしい。らしいというのも、強さを感じないのだ。私に髪は私が動かない限り毛一本も揺れやしない。かさかさと葉擦れの音は聞こえてくるが、冷たさも今の私にはわからない。
 ただ、見覚えのある景色ばかりがあるここは、未だにハロンタウンの中であるのだとすぐにわかった。ダンデの愛する放牧場の端っこ。

「あ」

 自分の真っ白い掌をぼんやり眺めていると、後ろからそんな声がした。振り返れば、風に飛ばされないようにか、一つに纏めた髪がばさばさと強風に揺らされているダンデが、目を見開いて私を見つめている。前髪は風にひっくり返って、形の良くてまぁるいおでこが露わになっていた。

「帰ってなかったのか」
「朝振り?」
「いいや、二日ぶりだぜ」
「そうなんだ」

 ということは、残念ながら本の読み聞かせは逃したことになる。約束をしたわけではないから互いに気にする必要はないだろうが、少し悪いなとは思った。それに、ダンデに本を読み聞かせてもらえる機会などこの先あるかわからないので、そこそこ楽しみにしていたのだけれど。

「寒くないのか?」
「わかんないや」
「そうか……」
「ダンデは?今日はもうお仕事終わりなの?」
「風がこんなに強いから。この後雨が降る」
「雨の予報なんだ」
「いいや、予報だと晴れだ」
「よく雨だってわかるね」
「風や雲の具合で自然とわかるようになったんだ。天気との勝負もあるからな、この仕事は。冷たい雨のせいでウールーが体調を崩すなんてのも多いし」

 柵の中にはウールー一匹もいないし、いつも使っている道具一つ残されていない。早々に片付け終えているようで、この後は家で家族団欒といくのだろう。
 ダンデは家族がとても大切だから、彼等のために何かすることを惜しまない。家のためにウールーの毛を使って商品を作ったり、或いは素材として売ったり。その売り上げもほとんど家に入れて、自分は今あるものを大事に使う。めったに浪費しないダンデは、金はあっても困らないものだけど使い方は未だによくわからない、とこの前困ったように苦笑していた。そういうとこは変わらないんだなぁ、と、心の中だけでそっと零したのを覚えている。
 唯一使い道として定めているのは、ホップの学費という。ダンデと比べても断然ポケモンの知識が豊富なホップは、将来のことはまだまだわからないが、可能性の一つとしてスクールに通っている。ポケモンの知識だけではなく一般教養も教えてくれるそこの卒業生には、隣のブラッシータウンにある研究所の孫娘もいて、今や祖母と同様に立派に博士をしているとのことだ。

「俺の部屋に来るか?」
「いいの?」
「ああ。先にみんなで夕飯を食べるから、その間部屋で待っててくれ。終わったらすぐ行くから。今度こそ本の読み聞かせをしてやろう」
「じゃあ、お邪魔しようかなぁ。さっき目が覚めたばかりで、この後どうしたらいいかわからなかったの」

 いつ意識がなくなって、また意識が浮上するのか、私自身にもわからない。気が付いたらそうなっているだけで、そもそも今のこの状況も、自分ではきちんと把握できていないのだ。

 帰りたいなとは思う。だけど、どこに帰るんだろうって、同時に思うのだ。

「じゃあ、ほら」

 ダンデがにっかりと笑いながら、私に手を差し出した。はた、と目を丸めたが、そんな私に構わず、ダンデは一歩一歩と近寄ってきたら、呆けている私の手を迷いなく取った。ただ一人、私がここで触れられるダンデ。でも、敢えて自分から触れようとはしていなかった。触れれば触れるだけ、焦がれてしまう予感があったからだ。話をして、声をきいて、笑う顔を見て。少しずつ少しずつ、胸の中がじりついていた。

「イリスは不思議な温度だなぁ」
「……ダンデ、は、熱いくらいだね」
「昔からそうなんだ。だから、ホップが小さい頃はよく暖房代わりにされたよ」

 覚えのある、ごつごつとして、細かな傷が残っている、まめだらけの手。私から繋ぐことが多かったけれど、覚えのあるものと何も変わらない。
 ダンデにだけ熱を感じられる。だからこそ、自ら進んで熱を分けてもらおうとはしなかった。理由があってのことではなく私の無意識がそうさせていた。
 でも、温かいダンデの手に触れてしまったら、何故か急に泣きそうになってきた。じわり、じわり、と、胸の中も温まって、氷がそうなるように溶けだしそうになる。どうして私がダンデにだけ触れられて、ダンデにだけ見えているのか、ほんの少しわかってくる。相棒を持たない、素朴な羊飼いの青年。それでも、私の心はきっと、求めるものをわかっていた。

 愛しい、愛しい。
 いとしい。



 目が覚めたら草むらの中にいた。草の匂いも擽られるような感触もしないが、大地に寝転がることも立つこともできる。何もわからないくせに我ながら難儀なものである。

「わ、びっくりした」
「……ダンデ?」
「急に出てきたから」

 隣にダンデがいたらしいが、その口ぶりからして、何もなかったそこに突然私が現れたようだ。だろうなとは思っていたが、やはり今までも実際そうだったらしい。ダンデは食事の途中だったようで、食べかけのサンドウィッチを片手に持っていた。ここで初めて会ったときもそうだった。外で、こうして草むらに座り込み、風のそよぐ中でリラックスしながら食べるのが好きで、母親の作るそれが一番うまくて、一口一口味わって食べているのだと、ダンデは愛おしそうに笑っていた。

「帰れないなぁ」
「帰れないねぇ」
「本の続き、読もうか?」
「この前は、ダンデが先に寝ちゃったもんね」

 ダンデの部屋に入れてもらった日、ダンデの隣に並んで、ダンデにリザードンの背に乗って旅をした男の話を読み聞かせてもらった。ヒトカゲと共に旅に出た少年が、困難を乗り越えながら成長していき、やがて進化した相棒に乗って大空を自由に飛ぶ。かなり昔に書かれた空想小説らしいが、ダンデのお墨付きであるそれは確かにとても面白かった。
 途中ホップが勉強を見てくれないかと部屋のドアを叩いたことで一旦読み聞かせ会は中断になって、少しの間二人だけで楽しそうに話をしていた。ホップとは違って、小さな頃から家の牧場を手伝ってきたダンデは、大人になっても当たり前にそれを続けて仕事にしているから、スクールに通った経験はない。そのために頭にあるのは計算方法と小売りのことくらいで、ホップに教えてくれと求められることなんか本当はほとんどわからない。だけど、頼られるのが嬉しいから夜中こっそり勉強しているらしい。
 まぁそうやってホップと楽しくお勉強をして、それを終えてホップが自分の部屋に戻ってから再び読み聞かせ会をしてくれたのだが、そこそこ夜も更けていたせいか、ダンデの方が寝落ちてしまって、呆気なく読み聞かせ会は終わってしまったのである。

「今取って来るよ。少しだけ待っててくれ」
「いい。いいから、このままここにいてよ」
「退屈じゃないのか?」
「ダンデが側にいれば、退屈じゃないよ」

 寝ぼけているふりをして、ごねて、丸まった。そうしたら、ふっと力を抜いたダンデの掌が、私の頭を優しく撫でてくれる。淡い、見守るような笑み。それに、体が軋みそうになった。咄嗟にその体に抱き着いて、しがみつきたくなったのに、私はそれをしてはいけない。
 私の気持ちがマイナスになっているとき、よく何も言わないであやしてくれたな。優しく撫でてくれたり、抱き締めてくれたり。言葉がないそれが酷く心地良くて安らげた。
 ハロンから出たことは数えられるくらいしかない、穏やかで優しい人。小さな町を愛して、自然を愛して、ウールーを愛して、自分の仕事を愛して、家族を愛する。この長閑な生活を愛する、ダンデ。
 だけど温かさも優しさも変わらない、ダンデ。



「帰らなくちゃ」

 そう吐き出すように言うと、途端に黙って話を聞いてくれていたダンデの顔が歪んだ。ざくざくと地面を踏みしめて、歯を食いしばりながら、強引に私の手首を掴んで引っ張る。羊飼いとは言え日々重労働であるし、変わらず鍛えられている体は屈強で、当然私の体はその熱い体に抱き込まれることになる。でも、お陰で熱に震えて涙は消えていってくれる。

「ありがとうダンデ。ダンデのお陰で、私が帰らなきゃいけないところ、思い出せたよ」
「いかないでくれ……っ」
「大丈夫。大丈夫だよダンデ。きっと、どこかに私がいる」
「でもそれって、ここに今いるイリスじゃないだろ」
「一緒だよ。絶対。私はダンデとここで過ごせて、同じなんだってわかった。姿かたちの話じゃない。本質は一緒」

 言い聞かせるように囁いても、ダンデは切羽詰まったように眉をぎゅっと寄せて、私を離すまいとしている。本音を語りたくはないが嬉しさがないわけではなかった。ダンデに愛されることは、私にとってとても尊いことだから。
 私のダンデではなくても。惜しんでもらえることは、口にはできないが嫌ではない。

「読み聞かせ、凄く楽しかったよ。ダンデは読書よりもバトルだから、新鮮だった」
「ここにいればいい。ここで、俺と一緒にいよう」
「いつも私が追いかけてきた。縋って、引き止めて。だから、そう言ってもらえることも嬉しいよ」
「イリスが現れてから俺の世界が少し変わったんだ。代わり映えのない毎日だったけど、不満はないし他にやろうと思うこともなかった。大切な家族と一緒にいられて、幸せだった。でも、イリスが側にいてくれると、自然と力が抜けて、穏やかな空気なのに胸が逸って、イリスがいない間は早くまた現れてくれないかっていつの間にか心待ちにしていた。俺にしかわからない君は俺の特別なんだって……いかないでくれ」
「行かないでって私が言って、ダンデは行っちゃったの。こんな気持ちだったんだ、あの時のダンデは」

 とんと背中を軽く叩いて、迷った末にそっと片手だけで撫でた。抱き締め返しはしない。この人は、私のダンデではないのだから。でも、こういう声のダンデにはほとほと弱い。弱音を中々吐かないダンデが時折見せるその片鱗に、私はいつも無視できなかった。強く真っすぐであろうと常にするダンデの、人にはひけらかせられない弱い部分を私の前で見せてくれるようになってから、ああこの人の側に死ぬまでいたいって、思って。でも、そんな私をよそに、ダンデはいつでもどこでも、前進して、誰かをその背に庇って、守る人間であろうとした。みんなのダンデで、ガラルのダンデ。私がここで目が覚める、前も。
 ここでダンデと過ごす時間は、きっと私が心の奥底では得たいと思って、得られなかった時間だった。

「ばいばいダンデ。ありがとう」

 それでも、どこでだって、どの世界でだって。私は私で、ダンデはダンデだ。

「……短い間だったけど、俺と、一緒にいてくれてありがとう。元気、で。幸せにな」
「うん」

 最後には私をそっと離して、名残惜しそうに肩を撫で、泣きそうな顔でありながらも、ダンデは笑ってくれた。


  ◇◇


 目が覚めたら、ぎゅううっと手が握りこまれた。見やれば、すっかりと泣き腫らした目のダンデが私を大きく目を見開いて見つめていた。あぐ、と一度音を出し損ねてから、やっと口がぎこちなく動いて、イリス、とか細く私の名を呼んだ。

「だん、で」
「イリスッ!!」

 わっと感情を巻き散らすかのように、ダンデが叫んで、私の体の上にのしかかってきた。痛みに呻いてしまったが、それでやめてほしいとは思えない。ただただ、私が覚えているダンデの熱と形を感じたかった。喉が渇いて声も掠れていたが、確かに呼んだダンデの名に、その肩は目に見える程に震えている。

「よかった目が覚めて……ッ、生きていて良かった……っ!」
「……うん」
「イリスがいないとダメなんだ……イリスがいないと俺はもう生きていけない……ッ」

 硬くなっている体のせいで腕を動かすのも苦労したが、時間をかけて持ち上げて、今度こそダンデを抱き締め返した。愛しい熱。私がどこにいっても、欲しかった熱。

「もう二度としないでくれあんなことっ」
「私のきもち、ちょっとはわかった?」

 暴れるポケモンを静めてくれとダンデが駆り出されることはよくあることだ。今回も例に漏れず声がかかって、ダンデは当たり前に応じた。もうチャンピオンでもないのだからその義務もないのに、誰かを守ることに疑問を持たないダンデはそうしたのだ。
 ムゲンダイナに、立ち向かった時のように。

 あの時頭に過ぎったのはブラックナイト再来の日のことで、私はどうしてもダンデを引き止めたかった。行かないでくれと縋っても、ダンデは困ったように一つ笑って、私の手を強引ではないものの丁寧に引きはがして、リザードンに乗って飛んで行ってしまった。居ても立ってもいられなくなって必死に追いかけて、そうしたら、丁度ダンデの死角から攻撃が向かってくる場面に直面してしまって。
 咄嗟という衝動は恐ろしいものだ。意識の介在もなく、私の体は一人でに動いていて、何も考える暇なく、ダンデを庇って、私がもろにその攻撃を受けた。体が吹っ飛ばされたことは薄っすらと覚えている。致命傷でなかったことは今ここでこうして目が覚めたことから肯定できて、不幸中の幸いと言えるのだろう。

「……ダンデじゃないダンデに、会ったよ」
「……?夢の話か?」
「どうだろう。でも、ダンデだった。だけど、どうしようもなく、ダンデに会いたくなった。会って、声を聞いて、抱き締めて。ダンデがいたから私はあのまま消えなかったのかもしれないね」
「ぞっとしない話だ。目が覚めたんだから、もうそれでいい」

 私の頬を壊れ物に触れるように撫でて、額をくっつけてくるダンデの顔色は相当に悪かった。艶も何もない、疲れと絶望が深く染みこんでいる。隈も酷くてろくに寝ずにいたのだろうことは容易にわかった。それ程、私を失うことに恐れを抱いてくれていたのだ。

「……愛してるんだ。イリスを失いたくない」
「私も、ダンデのこと失くしたくないよ」

 羊飼いの青年のお陰で、きっと私はここからいなくならずに済んだのだと、思っている。彼が私を繋ぎ止めてくれた。彼が送り出してくれたから、こうして戻ってこられたのだと。
 もう会えない、そんな気がした。でも、私は生涯忘れない。穏やかで優しいもう一人のダンデ。私を生かしてくれた、愛する人たち。


20221125