短編
- ナノ -


 矛盾でいいから生きている


 いらっしゃいおかえりぃ、と合鍵でリビングまで入ってきたダンデに、ソファに座ったまま顔だけで振り返ってそう迎えると、曖昧そうな返事があった。曖昧というか、ああ……、となんだか歯切れの悪そうな声色というか。
 どうしたかとやっと体ごと振り返ってもみれば、ダンデは笑ってはいるものの、そこに疲れを明らかに浮かべているから、かなり驚いてしまった。ダンデはいつも、そんな顔をして帰ってこないから。人に弱みを見せられないというか、見せ方すらもわからないダンデは、私の前でも何でもないように笑うのが通常である。滲ませる程度の、空笑いなら時々あったが、私の前でも弱みを見せられないようだから、敢えて指摘したこともない。これはダンデのプライドの問題だから、私は下手につついてはこなかった。
 それがどうだ。今ああして、いかにも疲れてますよ、という顔で笑っている。とはいえ笑い切れてもいない、無理くり笑っている、ちょっと痛ましいやつだ。

「……」
「あ、ブルスケッタ。作ったのか。いいな、俺も食べていいか」
「うん……」
「先に着替えてくるよ」

 マントを腕にかけて、私のそばまでやって来てテーブルの上を覗き込んだダンデは、笑っている。結局いつまでも笑って、なんでもないって装っている。そんな風にしか見えなくて、初めての顔と直接対面したことに、私はといえばなんて言えばいいのか全くわからなかった。口にしてもいいことなのかすらわからない。ダンデは私の前でもプライドのバリアを張っていたから、それを見ない振りをしてきた手前として、今更指摘してもいいことなのか、男のプライドは堅牢なのだからと、ただの一度もバリアを崩そうとしなかった私には。
 うちに置いているラフなシャツになって戻ってきたダンデは、さっきまでと比べれば幾分肩も軽そうだった。でもまだなんてことないように笑っている。もう癖なのだ、あれは。嫌な仕事でも笑っていなければいけないから、笑っていることを小さな頃から求められ続けたダンデは、あれがデフォルトになってしまったのだと思う。

「俺にもくれよ」
「グラスちょうだい」

 開けていたワインボトルを揺らせば、ダンデはほら、と私にグラスの口を傾けてみせた。そこに、零さないよう意識しつつ注ぎながら、ぐるぐると馬鹿みたいに考える。とぽとぽと水の音を聴きながら、ちらりとダンデを盗み見れば、やはりまだ笑っていた。
 隣で座り直したら、赤いワインの入ったグラスをダンデは少しの間じっと見つめていた。けれどテイスティングしたいわけではなさそうだった。証拠に、グラスのどこを見ているのかわからない。それは、何も考えていないのかもしれなかった。グラスの三分の一ほどしか注いでいない透明のグラスの大半は、自分の顔ばかり映っているだろう。そこに映る自分を観察しているのか、はたまた頭は空っぽなのか。
 ワインの匂いとは違う香りがした。それは当然、隣のダンデからである。鼻をつく匂いだ。

「……ねえ」
「ん?」
「グラス置いて」
「ええ?まだ一口も飲んでないぜ?」
「いいから」

 ぼんやり眺めたまま止まっているから、意を決してそう促せば、なんだよ、と思っているだろうに、ダンデは困ったように尚も笑う。だからなんでずっと笑うんだってむっとして、笑ったままやり過ごそうとするから強引にグラスを奪ってやった。面食らったように口をぽっかり開けるダンデは、けれど文句一つ言いやしない。
 プライドだけ世界一。もちろん世界一なのはプライドだけじゃないけれど、かっこつけたがりで、疲れているのに疲れているって言えないのは、そんなのはプライドで片付けてもいい類じゃないと思う。
 腕をぐいっと、容赦なく引っ張った。それでダンデが態勢を崩したのは本当に偶然の話だ。いつものダンデならこんなことで体をよろめかせも、倒しやしない。物理的にも力はあるし、誰かに隙を見せるのも苦手だから。それが今はどうだ。ぐらっと体を落として、私の体の上に中途半端に乗りかかっている。正確には、私の太腿の上だが。そこで、咄嗟にソファの上についた手で上半身を支えて、完全に崩れ落ちるのを阻止しているのは流石である。

「イリス?なんだ、ビックリするだろ」
「寝て」
「はあ?」
「ここ、頭乗せて」

 突拍子もないと思うのか怪訝そうな顔に、少しだけ満足した。冗談はよせよ、と言いたげな顔に、私は努めて平然を装って表情を変えないようにした。そうしたら、ダンデの内なるマイナスの部分で刺激されたのか、ますます眉を顰めてみせる。でも、それで私は良かった。

「お願い」

 しつこく訝しむ気配を見せていたが、私の顔を見て少しばかり気持ちが動いたのか、ダンデは少しずつ大人しくなっていく。思うところは山ほどあるだろうし、言いたいことも同じだろうが、私が折れやしないということがわかったのだろう。いつもなら折れてやることも多いが、今ばかりはそんなつもりは毛ほどもない。私も変に頑なになっているようだった。
 でも、だったらダンデだって、最初から自分の家に真っ直ぐ帰ればよかったのだ。
 渋々と。正に不承不承。まだ納得しきれない顔ながらも、そっと自分の腕を折って、時間をかけて、ダンデは私の太腿の上に頭を乗せた。耳を下にしようとしたので、こっちを向いて寝転がれと言いかけたが、ぐっと飲み込む。これはあくまで、ダンデの持っているバリアをめためたに壊したくてしようとしていることではないのだから。
 もぞもぞと、何度か首の角度を変えて落ち着く位置を探したダンデは、やがていいポジションと出会えたのか、その動きをやっと止めた。けれど不服そうに腕は組んでいる。覗ける限りの横顔は、腕で示す意思表示と同様に唇を引き結んでいる。
 私はそれ以上何も言わなかった。ダンデも同じように、言葉を噤む。微妙な空気が流れていたが、私は怯むことはしない。

「……」
「……」

 無言の攻防を続けようという気はないので、そっと、ダンデの頬に触れた。衣擦れの音や体が触れているお陰で振動がダイレクトに伝わるから、私の腕が動いたことはわかっていたようで、ダンデは特に驚く顔もしなかったが、頬に乗せた指を皮膚の上で這わせると、微かに眉がぴくりとした。
 シャワーも浴びていないから、その頬はかなりしっとりとしていた。悪く言えばべたついている。汗と脂の余韻が残るそこは、お世辞にも肌触りが良いとは言えない。ダンデは代謝が良いのかよく汗をかく上に、相棒のことを合わせれば自然とそうなる。けれど、炎の中で咆哮と汗を巻き散らすその様は、凄絶な生を、私に時折見せつけるようだった。そういうところが魅力的ではあるし、私もかっこいいと思う。
 だからと言って、生き急いでいいわけではない。

「……」

 目の下の隈にやさぁしく指を添わせると、ダンデの睫毛が瞬いた。何の許可なくこうしているが、幸いなことにダンデからは特に抗議の声が挙がらない。意識したのかはわからない。でも、少しばかり、その瞳から力が抜けた気がした。心なしか眉間の皺が薄くなって、同時に組んでいた腕も隙間ができるくらい緩んでいる。力が入らなくなった分足の上で感じるダンデの重みが増したが、これは歓迎すべきこと。太腿なんてべたなことしかできないが、そこでダンデが力を抜けるのなら。
 お疲れ様とか、がんばってるねとか、何か気の利いたことを言えればと思うが、言葉は薬にも毒にもなるから、微かに迷う。ダンデと正反対の気の緩さを持っている私がダンデに口にできる言葉なんか限られていて、二人それぞれ、受け取る意味だって違うこともある。多分私の努力はダンデには努力に満たなくて、ダンデの頑張ってるは私には頑張り過ぎている。でも、言葉がなくても、ダンデはこうして力を抜いてくれた。必要な言葉はこの世にたくさんあるが、要らない言葉だってあるのだから。他人を受け入れるのに言葉だけが絶対ではないのだから、それでいいのかもしれない。
 もういいかな、とダンデの変化を目の当たりにしたことで早々に満足感も出てきたので、動かしていた手をどけてもう体を起こしてもいいと口を開こうとした矢先、ダンデがハッとしたように体を反応させて、次の瞬間にはぱしりと私の手首を掴んだ。え、と目を丸めたら、なんとダンデも目を丸めている。無意識だったのか、自分で自分の行動にびっくりしているようだ。こんなびっくり顔も初めて見たかもしれない。

「ダンデ?」
「……」

 こちらに僅かに傾いた顔に声音で問うてみるも、自分の中で何か考えが巡っているのか、私の手首を掴む自分の手を見つめて、数秒逡巡した後、ダンデは乾いてはりついている唇をそっと開いた。

「やめなくて、いい」

 それにはちょっと笑いそうになってしまった。やめないでほしい、じゃなくて、やめなくていい、だって。あくまで私がやりたいからやっているスタイルで保ちたいらしい。なんて不器用な男。でもその不器用さ含めて愛しているわけだ。
 プライドを溶かしてやろうと思っているわけではないから。だから、ダンデの言う通りにした。やめなくてもいいそうなので、もう一度頬を掌で包むように撫でてから、乾いた唇も軽く撫でた後、髪で隠れている耳を露にさせて、淵を指で摘まむように軽くやる。頭の天辺から下りるように髪の上から撫でて、そのまま張っている肩もさする。ダンデの形は大きくて固くてでこぼこしていて、触れるととても熱い。
 不思議と私の手が動く分ダンデの力が消えていくのがわかった。私の掌に吸い取れる分は吸い取ってやる。そんな気持ちで、相変わらず口は閉じたままダンデの形に沿い続けた。少しずつ、少しずつ、私が感じるダンデの重みが増していく。気付けば腕はだらんとソファの上に投げられているし、膝を折ってソファの上でなんとか縮こまろうとしている。静かな瞳は何も見ていないようだ。私にはダンデの瞳から読み取れるものなど限られているが、それでも、今は何も見てなくてもいい。
 汗と埃と、炎の匂いを纏った偉大な男。今は私の足の上でちょっと丸くなっている。瞼は段々と閉じたり開いたりで、私の勘違いなどではなく心地よさそうに微睡んでいる。今ここにいる男は英雄ではなく、単なる人間だった。ダンデという名前のつけられた、私の愛しい、誰の前でもバリアを張ってしまうヒト。

「寝てもいいよ」
「……でも」
「明日は休みでしょ?誰も怒んないよ」
「……うん」

 また笑ってしまいそうになったが、素直なことはいいことだから、労わるように額を撫でてやった。頬よりもべたついているがどうでもいい。そのまま寝ても誰も怒らない。私も怒らない。だからダンデも怒らなくていい。ご飯もシャワーも済ませていないけれど、明日やればいいことならそうすればいいのだ。
 重たくなるダンデが愛おしい。まさかこんなダンデが見られるなんて思ってもみなかった。プライドが守れたのかはこれじゃわからないが、ダンデがいいのならそれで。もしも本人が、今後バリアを薄くしていくのであればそれも。プライドは力にもなるが枷にもなるから、バランスを取って、今からでも自分が落ち着ける位置を探せばいい。ご所望なら太腿くらいいくらでも貸してやろう。
 だが、ふと状況を改めて鑑みれば、私もここから一歩も動けなくなったことになっていることがようやくわかった。かろうじてテーブルに手は届くからお腹がすけば食べられるしワインも飲めるが、ベッドに移動することもこれでは難しい。寝てもいいよなんて平気で言ってしまったが、私はこの態勢のままどうにもできなくなった。

 しかし、ダンデの寝顔を見たら、途端に気が抜けてしまったわけだ。なんだか安心したように眠るダンデが、疲れて眠気に負けた子供みたいで。寝顔は数えきれない程に見てきたし、寝る時はいつもこんな顔をしていた筈なのに、まるで初めてダンデの寝顔を眺める気分になっていることが可笑しい。
 その寝顔を見ていたら、ああ私も寝ちゃおうってなった。明日からダンデがどんな顔で私の側にいるのかはわからない。恥じるかもしれないし、もっと気が緩められるかもしれない。バリアは強固になるのかそれとも。私はそのどちらでもいい。私の前では気を全部抜いてほしいとまでは思わないし、私だってダンデに全てを見せているわけでもないのだ。人間なんてそんなもの。ダンデの生き方はダンデが決めるものだし、バリアが必要なら張っていればいい。でも、時々でも、安心して眠ってもいい夜があるのだと、わかっていれば。


20221115