短編
- ナノ -


 消せない痕になりたい


「これ、どうしたの?痛くない?大丈夫?」

 え?とダンデが目を丸めてこちらを振り向いた。だから、ここ、と指でなぞると、一瞬不思議そうな顔をしたのに、すぐに何か思い当たるものが浮かんだのか、何やらにっこりと笑った。場所が場所だから自分からは全く見えない筈なのに。
 なんだ。一体何故そんな満面の笑みを浮かべるのだ。そんな私の胡乱な視線の訴えに怯むこともなく、狼狽えることもなく、ダンデは鼻歌でも歌いそうな上機嫌そのものという顔をする。


 あっという間のシャワーを終えてきたダンデは、出たから来てくれ、と私を洗面所に呼びつけたら、はい、とにこやかに笑ってドライヤーを差し出した。ご飯待ちのワンパチを意識しているらしい。私がいるときは私に髪を乾かしてもらうのが好きなのだ。私もこうやって甘えられると嬉しいから特段不満はないが、タオルドライすらもしていないびしょぬれのダンデの体からは、今もまだだらだらと水が滴り落ちている。もー、なんて言いながらタオルでその頭を包むと、やりやすいように体をかがめて自ら差し出してくれた。それがちょっとかわいいなんて前から思っているのだった。あんまりお母さんにはならないようにしたいのに、甘えられる環境ではない子供だったダンデにそうされると、強くは拒めないのが常で、見方によっては贅沢な悩みなのかもしれない。
 ダンデはこうしてシャワー浴びたてほやほやのびしょ濡れのまま私を呼ぶので、その体は当たり前のように服も着ていない。髪がこの状態なので下着も履いたところでびしょ濡れになるのがオチだから、いつだって全裸でお迎えされる。いくら見慣れているとはいえ、そんなに堂々とされたらこちらも一々気にしてはいられない。一先ずタオルでわしゃわしゃと髪を拭って、体を自分で拭かせて下着も履かせてから、洗面台の前の椅子に座らせる。髪も束ねていないせいでどうせまた濡れるから上はいつも着ない。

 そうして、ドライヤーを当てながら髪を持ち上げた時。やっとむきだしの背中を目の当たりにしたことで、ようやく気が付いたのだ。
 真新しい線状の傷。それもかなりの数。そんなところにそんな傷つくることある?と疑問に思ってついダンデに訊ねてしまったのだが、反応は思ったのと違ったからこちらは面白くない。鏡越しに何をにまにまするのかとその後頭部を軽くはたいたが、ダンデには欠片もダメージが通っている気配もない。

「なぁ、なんだと思う?」
「えー?ポケモンにつけられたんじゃないの?」
「そうだなぁ、ある意味ポケモンみたいなものかなぁ」
「はぁ〜?」

 相も変わらずにまにまにまにまと。鬱陶しいくらいのにまにまに怪訝な声を漏らしても、ダンデは寧ろ上機嫌になる一方である。意地悪をしているわけではなく、私に言い当ててほしいのか。
 冷静に、もう一度傷を観察した。前々から消えない傷は残っているがまた別のだ。引っかき傷のようである、それは。背中だったり肩の方だったり、脇の方に向かっていたりと、位置はまちまちだが複数ある。同じ方向に平行にまとまって傷ができていることから、指の数は数本。爪がある種族なのは明白。まだ赤みを持っている痛ましい見た目の傷もあれば、もう塞がりかけている傷もある。薄っすらと山のようになっているところはもう消える寸前のようだ。どのポケモンと遊んでいる内にこんなのつくったのだろうか……等々、まじまじと見てしまって、はたと気付くとすぐに後悔した。なにせ、考えるのも嫌になるくらい、正体に呆気なく思い至ってしまったのである。これには自分の馬鹿さ加減にほとほと呆れた。

「おいイリス?なぁ、わかったのか?」
「黙って髪乾かされて」
「なぁわかったんだろ?なぁ?」
「うっさ。あほらし。心配して損した」

 本当に損した。なんてことはない、私がつけた傷だ、これ全部。こんなベタなことを自分が訊くなんて思ってもみなかったし、肌に傷をつけてごめんって謝ろうかとも思ったが、ダンデのこのにまにまを見ているとそんな申し訳なさも消えていく。これは痛いとか全く思ってないし、痛くても気にしてなさそうだし、寧ろ喜んでいる。

「ちょっと待って、私のことポケモンって言ったな?」
「いいじゃないか。フェアリータイプみたいだイリスは。じゃれつくは最高で、いつだって可愛くて俺はしょうがないんだぜ」
「ちょっと嬉しいような嬉しくないような気がする」
「でもチョロネコみたいな引っかき傷だし、実家のチョロネコに似てる部分もあるし、あくタイプか?」
「正反対じゃん」

 それからもダンデはだらだらと何かを楽しそうに喋っていたが、私はドライヤーを再開したのでまるっと聞こえないふりをして無視した。だって、まだにまにましているからだ。どうせろくなことを言っていないに違いない。証拠に私が返事をしなくても一人でまだべらべらとやっている。私がつっけんどんしたって構わない、相当な上機嫌のようだ。
 でもちょっと、つけすぎたかもしれない、と背中を見ているとまた少しずつ反省の気持ちになってくるから不思議だった。同時に、私がつけてやったんだって、そういう何とも言えない気持ちにもなってくる。勝手に喜んではいけないのに、ダンデに爪痕を残せるのは。

「イリス」
「……ん?呼んだ?」
「やめないでくれよ」
「何が?」
「遠慮しなくていい。だからやめないでくれ」

 ドライヤーの音の間に、確かに名前を呼ばれて、その声音がおちょくる類のものではなかったので、一度ドライヤーを止めて鏡の中のダンデと目を合わせた。そうしたら、そんなことをのたまうのだ。
 なにを、というのは濁しているが、背中のことだというのは言われなくてもわかった。別に濁す必要もないだろうに、と苦笑いして、ドライヤーを動かしたまま、そっと背中の傷を指でなぞった。途端に愛しさなのかなんなのか、自分でも名前をつけられない感情が胸から生まれては指へ伝っていく。私の軌跡。ダンデに私だけがつけられる、私だけの。ダンデの肌に痕を残せるのは、ダンデが愛してその世界の置くものだけだ。勝手に喜んでは、とか。馬鹿らしいとか思ったものの、改めて思い起こすと、急にその傷が特別なものに見えてきてしまった。
 本人が上書きしていいと言ってくれるのなら。ムゲンダイナにつけられた消えない傷の上に、私が乗っていいのなら。許してくれるのであれば、遠慮なくいくらでもつけてやろう。

「でも人間としてちゃんと見て愛してほしいかなぁ」
「当たり前のこと言うなって」
「いや怪しいからわざわざ口にしてるんだってば」
「大丈夫だって。俺だって、その辺はきちんとわかってるよ。だから、こうやってイリスを愛しているんだから」
「……なんかうまく誤魔化された気がする」
「そんなことないぜ!」

 くはっと笑うから背中の筋肉の谷やら山やらが隆起する。一緒に、傷も形を変えるように動く。思い返してもみれば、あんまりダンデの背中をまじまじと見たことはなかったかもしれない。改めて見ても逞しい背中だ。ここにたくさんのものを背負ってきて、今でも背負っているのだと思うと。なんだか真後ろからそれを見ているのが新鮮で、思わずそこに口付けた。するとどうだ、ダンデは停止ボタンを押されたように大人しくなってしまった。嫌がりもしないので調子にのって、もう痕が消えかけているところに舌を這わせたら、ぴくりと肌が反応する。消えかけのこれは、どのくらい前に私がつけたのだろう。日が経つと消えてしまうのは、少し面白くない。私も永久に、ここに残りたい。謝る必要がないのであれば、私がいくらでも。

「……消える前に、新しいのつけていい?」
「もちろんだ」

 ちょっと前のめりの返事だったから、おもいきり笑ってしまった。まったく素直な男だ。


20221108