短編
- ナノ -


 もう防御はいらない(拍手お礼)


 開けた窓からは心地良い風が入ってきて、余計にドライビングの楽しみを増幅させてくれているようだ。ハンドルを誰かに任せるのもたまには悪くないと、私に思わせてくれる。

「懐かしいです」
「位置は逆ですけどねぇ」
「ええ。でも昔、こうして先生にドライブに連れて行ってもらったことが」
「あの頃のダンデ君はとにかくやんちゃで、当時私の自律神経は乱れに乱れましたね。ああ、懐かしいです」
「すいません……」

 苦笑するダンデ君の手にはハンドルが握られていて、そこに伸びてくっつく腕は太くてごつごつ感もあって、いかにもな筋肉がついており、そこに浮かぶ血管の筋も相俟って酷く男性的に見える。あの、昔の頃のように子供だけに許される柔らかさなんかとはもう程遠い。
 小さなダンデ君が側にくっついていた時には草っぽいというか、なのに焦げっぽいというか、砂っぽいというか。とにかく外の匂いがまとわりついていたけれど、今はラグジュアリーな香水の匂いが、窓を開けていてもこちらの鼻を掠める。身だしなみには拘りが今でもそんなにないようだが、今やそれくらいの嗜みは身に着けたらしい。

「ありがとうございました」
「また唐突な。癖はなおっていませんね」
「ははっ。……でも、本当に。先生にはずっと、感謝しているんです」
「私はただ貴方に勉強を教えただけですよ。まぁ、お偉い人達には内緒のエスケープまで教えてしまいましたけど」
「そのお陰で、俺はずっと立っていられたんです」

 もうとんと、懐かしいと目を細めてしまうような頃の話だ。私は小さなチャンプに一般常識や同年齢なら教わる勉学面の面倒を専属的にみていただけで。もう教職関係の仕事も辞めているし、先生でもなんでもない人間だ。ただ、ダンデ君はいきなり親元から離されたせいだとか、自分が思い描いていた夢の世界とのギャップを感じて、時折子供らしからない鬱屈とした顔を見せていたから、偶にこっそりこうやって、秘密のドライブに無理矢理連れ出していただけの。

「先生の影響で、こうやって車も買ったくらいです」
「高級車はいいですねぇ。もう大分走っていますが、お尻が痛まない」
「先生の車は途中から尻が痛くてじっとしていられませんでしたよ」
「ほう、嫌味を言えるくらいには大人になったんですか」
「おっと!」

 わざとらしくカーブを強引に曲がって、誤魔化したつもりのようだ。でも私達は大人だから、敢えてそれ以上拡げようとはしない。それに現金だがこの安定性が非常によい高級車に免じて許してやろうという気持ちすら持っている。あの生意気でやんちゃな子供がこんなお高い車を、とついつい目を細めてしまう。

 子供の頃のダンデ君は年齢が上がるにつれて、どんどん我儘が言えない子になっていった。十歳を過ぎて、一つ、また一つと誕生日を迎えるごとに、あの子の笑顔はとても上手になっていく。それを、周囲はとても喜んでいた。時に愛らしく子供っぽく。しかし落ち着いた笑みを浮かべれば理想のチャンプ像であると賞賛される。大人達は、ダンデ君が子供性を失っていくことに手を叩いて拍手した。子供の成長は大人であれば本来喜ばしいものではあるが、あれはどうにも、裏から見る分には歪だった。しかし当然ではあるのだ。子供であろうとダンデ君には、大人の決めた莫大な金が積もっていた。
 そんな、子供なのに大人をしなくてはならなかったダンデ君は空を飛ぶのが好きな子で、その頃だっただろう、夜になるとリザードンの背に乗って何時間も地上に戻ってこなくなったのは。

「……先生はね、ちょっとだけ、心配だったんですよ。ダンデ君は空が似合うけれど、ちゃんと、地面を歩いてほしくて」
「同じことをあの日も言っていましたね、イリス先生は」
「初めてダンデ君をドライブに連れて行った日ですね」

 漠然とした不安があったのは確かで、しかし言語化するには少し時間を要した。その上、今もまだはっきりと言葉は生まれていない。それに、私はただ、彼の勉学の面倒を見るだけの、決まった時間に決まった場所に赴いて、決まった部屋で接するだけの立場である。最初こそ座学に酸っぱい顔をして嫌々としていたのが、段々と勉強を嫌がらなくなり、大人しく私の話に耳を傾けるダンデ君に、何故かいいこになったと褒めてやれなかったのは、自分でも不思議だった。子供なのに急な速度で大人に迎合していく彼に、そうして不安を募らせて、聞き分けがよくなったと笑ってやることもできず、夜な夜な空を飛んでいると知って、ある日衝動的に私の車に無理矢理乗らせた。初めて授業をサボらせて、怠慢であれば叱責する立場である私自ら、まだ大人になれていない大きさのダンデ君の手を引いて。

「傲慢な言い方かもしれませんが、ダンデ君に、遥か高みにばかりいてほしくなかったんです。貴方はそれができてしまう子だったから、余計にそれが、なんだか寂しくて。……いいえ、恐ろしくて」
「今なら少し、わかるんです。イリス先生が当時、言いたかったことが」
「私達と同じ目線でいてほしかった、と言うのも何様のつもりだと思います。誰もが同じ目線でいるなんて、それでは世は成り立ちません。でも、ダンデ君に、空にずっと一人きりでいてほしくなかった」
「一人じゃないです。リザードンと一緒でした」
「そういうところですよ。でも、それはダンデ君にとっての正解であるんでしょうね。だけどそれはやっぱり、先生は寂しいことのように、恐ろしいことのように、思ってしまったんです。だめですねぇ、教える立場の人間がきちんと言葉で伝えられなかったのは」
「そんなことはないですよ。それに、言葉では表せない分は、行動で先生は教えてくれましたから」

 なんと、当時の心境を言葉にすればいいのかは、未だによくわかっていない。あったのは本当に漠然さだけであって、子供の彼に口にしたところで、という気持ちもあった。きっと賢い彼なら私の言葉を理解してくれたかもしれないが、あの頃の複雑な子供は、私の言葉を跳ねのけたような気もする。
 同じ目線なんて、人間平等と言えど有り得やしない。私の持つ世界とダンデ君の世界は、大袈裟ではなく生まれた瞬間から異なっていた。生まれた時代がずれているとか、育った環境が原因とか、そういう背景とはまた別種の、もっともっと根源的な話だ。それを無理矢理同じ枠組みに嵌めようだなんていうのはエゴでしかない。同じ枠組みではないからこそ、ダンデ君は年端も行かぬ内にチャンピオンとなり、長年その役を全うしてきたわけだ。
 気持ちに蓋をして。やりたくないこともやりたいように振る舞って。責任を自ら課して、追い込んで、顔にも出さず表に立ち続けて。そういうダンデ君を、一時でも勉学を教えるため側にいた私は、見てしまっただけで。

「だからダンデ君が、自分の車を持って、私達も使う、ありふれた道を今こうして走っていることが、なんだかとても嬉しいんですよ。別に車じゃなくても、自転車でも、歩きでも、なんでも。空はとても自由で楽しいでしょうが、楽しい道はいくらでもありますから」
「車に興味を持てたのはあの日がきっかけなので、これは先生の影響ですね。お陰で先生をこうして助手席に迎え入れることができました。唯一、あの日の先生を教訓に安全運転も心掛けられてますよ」
「あれはね、若気の至りでした。法定速度なんかくそくらえって思いながらとにかく走りましたからね」
「途中窓から振り落とされるんじゃないかって冷や冷やしましたよ。それに若気の至りって、イリス先生はまだまだお若いでしょうに」
「誉め言葉としてもらっておきましょう」

 漠然としたものに、今も言葉は与えられていない。でも、隣で楽しそうにハンドルを握って道を進むダンデ君に、どこか安心している自分はいた。これもまたエゴではあるのだろう。彼の世界は彼のもので、彼の道は彼のもので、彼は今や立派な大人になっている。誰かが強引に引っ張ってやるようなことではない。けれど、ダンデ君は自ら車を選んで、自分でルートを決めて、今私を乗せてくれている。それを、嬉しいと笑うくらいは許してほしい。

「……ありがとうございました、先生」
「こちらこそ、ありがとう」

 ダンデ君のお陰で、私もまた、自分の道を模索できるようになれた。苦しくても、仮面で気持ちを隠さなくてはならずとも。自分でいることを、私は諦めないように。今のダンデ君も、正にそうなのだろう。チャンピオンでなくなっても、彼の輝きが褪せることは万に一つもなく。自分の見据える未来に万進するその姿は、もう私が漠然とした不安など覚えるべくもない程に、真っすぐだ。
 幸あれ。未来を往く偉大なるトレーナーよ。

「ところでダンデ君、帰りは先生が運転してもいいでしょうか。多分ですが、帰りもダンデ君が運転すると、先生今日中に家に帰れないような気がします」
「……お願いします」
「舗装されたコンクリートの道ではなく道なき道を往くのも楽しいものですが。先生明日は用事があるので。大丈夫、車は傷付けないよう安全運転で飛ばします」
「じゃあしっかりシートベルト締めないと」
「心外ですね。安全運転だと言っているでしょう」
「でも久々にあのスピード感とスリルを味わいたいですよ」
「言いましたね?安全運転ではありますが、期待には応えたくなります」
「ははっ。大丈夫ですよ。もう窓から落ちるような体じゃないですから」

 そうやって屈託なく笑うところは子供の頃と同じなのに。今のダンデ君には、きっと私には見えないものも、たくさん見えているのだろうと思う。けれど、こうしてリラックスして笑えるダンデ君は、もうぶれない芯があるからこそだ。