短編
- ナノ -


 泣かないで初恋-3


 あ、と今更になって気が付いたのは、別に隠れている必要はなかったなんて、本当に今更なことで。ダンデ君にいつもみたいに声を掛ければよかっただけなのに、どうして咄嗟に隠れてしまったのだろう。誰かが横にいたって関係ないのに。今までも、ダンデ君の側に誰がいたって、構いやしなくて、もちろん偉そうな、立場のありそうな仕事関係の人の時だったら遠慮はしたけれど、女の人がいたって、一切関係がないのに。
 そんなことをマンションの壁にスーツケースを押し当てて、そこにお尻を乗せて寄りかかりながら、ふと思ったのだ。ダンデ君が一緒じゃないと一人じゃセキュリティの都合で入れないから、帰ってくるまで私はこうして待ち続けるしかない。ただひたすらに、私は待つしか。そこでまたふと考えついた。そもそも、今夜、ダンデ君ここに帰ってくるの?

『ふふ、嘘ですね』

 耳を擽るような、控えめなのにどこか甘い声が耳の奥で何度もリフレインした。自分が気遣われているってことを自覚する、大人の女の声だ。ダンデ君に自分からキスした、女の人の。それに呆然となって、あれからどうやってここまで歩いてきたのか、思い返してもみればなんにも覚えていなかった。しっかりと自分の足で、重たい荷物を引き摺りながら慣れた道を歩いてきた筈なのだが、道中の記憶がそれはもう忽然と。背伸びのヒールと、背伸びを支えるようにダンデ君の胸元に置かれたネイルの爪と、それが街灯に照らされて輝いていたのと、不意打ちを食らったせいかダンデ君の驚いたような顔だけが瞼に焼き付いていて、それ以降の記憶は誇張なく全くない。

「イリス……?」

 それなのに、ダンデ君の声が聞こえると途端に頭の中がいっぱいになっちゃう。夜だから雑音はほとんどないけれど、ダンデ君の声と存在しか感知できなくなる。反射のように上げた顔の先には、これまた驚き満載のダンデ君がいて、だけど、珍しく胸の中が綺麗な色には染まってくれなかった。ちゃんと帰って来たんだって、やっと名前を呼んでくれてこうして面と向かって会えたのに、いつものような浮足立つ感覚とは、ちょっと違う。

「なんでお前ここに……帰国は明日じゃなかったのか?……いや、今はそんなのいい、いつからそこにいたんだ?もうすっかりと夜も更けているんだぞ」
「……覚えてないや」
「冷たい。馬鹿かお前は、いつもいつもそうやって、どうしてこんな時ばっか連絡しないんだ」

 さらりと、私の頬を挟んで眉を寄せるダンデ君に、平然と私に触れるんだ、なんて。触られて、撫でられて、それがこの世で一番幸せな時間だってどうしてか思えない。いつもは私がくっついてばかりなのに、ダンデ君こそこんな時ばっか平気で私に触れてくる。躊躇いない大きな掌が二つ私の頬の両側にくっつくと、その温かさが異常な程に感じられて、じわっと冷たさが溶けていく気がしたら、なんでか泣けてきた。いつからなんて言うけど、じゃあ私の体がすっかり冷え切るくらいの時間、ダンデ君はどこにいたんだろう。堪えきれなくてぐずっと鼻が鳴ってしまったら、ダンデ君はみるみると目を見開いて、おいで、なんて優しいのに乱暴な声で言い放つ。流れるような仕草で私を立たせてからスーツケースを軽々と持ち上げる。帰れっていつもみたいにすぐに言わないのって、手首を引かれながらその背中にぶつけたくて、でもぶつけられなくて、ずっと下を向いた。
 見知ったダンデ君の部屋の中で、ダンデ君はソファに私を強引に座らせたら、あれこれと問いかけを連続で投げてくる。二度目の、いつ帰って来たんだ、から始まって、家には連絡してあるのかとか、どうしてこんな時間に一人でいるんだとか。一個ずつ答えようとしたが、胸が詰まると自然と喉も窄まるようで、ろくな声は出てこない。口が解けない胸の中と連動していた。そんな私に呆れたような大きな嘆息の中、ダンデ君が作ってくれたあったかいココアをテーブルの上に置いてくれても、手をつける気にはなれなかった。

「今タクシーを呼ぶから。それで帰りなさい」
「……」
「おばさんにも連絡しておくから」

 多分、何かあったんだってことだけはダンデ君も察しているんだ。原因が何とはわからなくても、自分で言うのもなんだけど見るからに普段ダンデ君の前でいる私と、今の私は差があると思う。さっきの、鼻を鳴らしちゃったときから、ダンデ君はそれがわかっていて、だとしても冗談でも泊っていけとは言わないの。慰めてもくれないし、あやしてもくれないし、優しい言葉もかけてくれない。それが、絶対的な線なんだ。
 スニーカーの私と、ヒールの人との、違い。

「……どうした?」
「……」

 スマホでアーマーガアタクシーの会社に電話しようとしていたダンデ君の背中に、勢いよく抱き着いた。正直頭の中はまとまってはいないけれど、どうしてか随分とクリアだった。余計なことは何も考えられなくて、隅から隅までダンデ君しかない。久しぶりに抱き着いたダンデ君。大人の男の人の大きさ。なのに、時々ノイズが走るテレビ画面みたいに、背伸びのせいで見えたヒールの踵がちらつく。派手じゃないネイルも、ふふって嬉しさを噛み殺して笑った声も。多分あの人は、紅を引いた唇で笑ったのだ。

「……ダンデ君」
「なんだ?」

 色付けた唇で、私が知らないダンデ君に触れたのだ。

「だいて」

 ――空気が凍ったのは恐らく気のせいじゃない。ダンデ君はぴしっと固まってしまったけれど、その空気ががらっと変わったのが手に取るようにわかった。一瞬で強張った背中の筋肉の動きがシャツの上からでもわかって、それに胸の中が掻き回されたようで、ぐずるように顔を押し付けた。
 あったかいダンデ君。あったかくて、だけど冷たい。私と同じように子供みたいな温度をしているのに、鋭利な程に冷たくなれる、ダンデ君は私よりもずっと大人だ。

「……イリス、冗談はやめろ。ふざけるのもいい加減にしろよ。さすがに怒るぞ」
「冗談じゃないよ」
「自分が何を言っているのか、きちんとわかっているのか?」
「わかってる。もう、そんな子供じゃないもん」
「子供だ。お前はどこからどうみたって子供だ。そんなこと、冗談でも、二度と口にするな」
「冗談じゃないって!」

 空気がビリビリ言う程の怒気が伝ってきて、怯まなかったと言えば嘘になるけれど、だけど、引き下がろうとは思わなかった。どうしてもダンデ君と一緒にいたくて、離れたくなくて、私だけ見ててほしくて。だから、シャツを雑に脱ぎ捨てた。衣擦れの音に気が付いたらしいダンデ君がハッとしたようにこちらを振り返ったら、ますます驚いた顔で、今度は完全に停止した。察したなら振り返らなければいいのに、どうしたかったのだろう。

「ダンデ君」

 まだ未成熟だから、きっと貧相だと思う。そこそこ大きくはなって丸みができていても、あの人みたいに服を引っ張って皺ができるほどじゃない。でも、だとしても。
 絶句する、けれど私から目を逸らせないダンデ君の前で、短いって怒られたスカートも下ろした。寒さに一度だけぶるっと体は震えて鳥肌が立ったのが、嫌だった。

「ダンデ君……っ」

 ブラジャーの肩ひもを下げようとしたとき、手が震えていることにやっと気が付いて、そうしたら、また鼻の奥がつんとして泣きそうになる。気が付いてしまったらそこから動けなくなって、とにかく下ろそうとして、なのに手がぎこちなくてそれ以上は。でも、頭をヒールとネイルの鮮やかさが通り過ぎていったら、不思議と、ぎこちなさは消えていった。
 それなのに、いよいよ紐を下ろしてしまおうとした矢先のことだ。

「うわ、」
「……」

 体が急に浮いたと思ったら視界がぐるっと回って、背中がつるりとした感触に撫でられて、それがさっきまで座っていた皮張りのソファだってわかるまで時間がかかった。だって私の視界はダンデ君で埋め尽くされていて、間近に迫ったそこにある、私を睨みつけるダンデ君の顔だけで、それ以上を把握する暇なんかなかったから。

「……だんで、くん」
「黙ってろ」

 おこってる、今まで見たことがないくらいに。今頃動揺していると、あっさりと紐が下ろされて、そのままブラジャーがずり下げられた。え、と声を上げる間もなく大きな、私が大好きな、あったかくてちょっとざらついた手が、からだに。

「!」
「お前が望んだんだ。他の誰でもないお前がだ。望みどおりにしてやる」
「や!」
「嫌がるなよ。自分がしろって言ったんだろ」

 手が、息が、舌が。全然優しくない力で。全部痛くて体を捩ったらその度に大人しくしてろって、鋭くねめつけられて。映画とかでよく流れるベッドシーンとは全く違う雰囲気に頭が追いつかない。遅れてシャワーも浴びていないから汚いって頭で点滅したけれど、そんなこと言える雰囲気でもなかった。
 だけど今、私に触っているのは、ダンデ君だ。望んだのは私。抱いてって言ったのは私だから。大好きだからそうしてほしくて、私の気持ちをちゃんとわかってほしくて、お嫁さんにしてほしくて、だったらこうなるのは可笑しなことじゃなくて、何も、変じゃなくて。

「覚えておけ。男は、好きじゃない女でも抱けるんだ。子供だろうと、穴があればそれでいいって奴はいくらでもいるし、子供の方がいい奴だって。……俺はそうじゃないけどな」

 首を仰け反らせる間に、そんなことを言われても、これは私がねだった通りのことで。

「……はは、やっぱり子供だな。寝転がったら伸びて、まだあまり凹凸もない。十六にもなってこれか」

 もう子供じゃない。体はこどもだけど、そうじゃない。私は女だ。ダンデ君のことが好きで好きでどうしようもないだけの、小さい頃の戯れの言葉に必死に縋りつく、ただのおんな。ヒールじゃなくてスニーカーでも、化粧なんかまだ全然知らなくても。スカートが短くて怒られちゃっても。
 丈の長いワンピースなんかまだ似合わない。体のラインがわかるものは不格好。唇にだって塗るのはせいぜい色のついたリップだけ。だけどずっとずっとダンデ君しか見えない。綺麗な色の空気をした、ダンデ君のおひさまみたいな空間の中で息をしていたい。側にいたい。側にいさせてほしい。
 だけど、今鼻を擽るのは、おひさまみたいな温かい匂いじゃなくて。外の、埃とどっかの飲食店の匂いと、ちょっと焦げついたような体臭とが混じった重たい男の匂いで、そこに紛れるような粉っぽくて、でも妙に甘い匂いがそこから顔を出していて、それがまだ私が到達できていない女の匂いなんだって、はたと気が付いてしまったら。

「……ふっ、く……ぅッ」
「……なに泣いてるんだよ」
「うっ、ううううっ……ッ!ううぅ〜〜〜〜……ッ!」

 化粧の匂い。香水の匂い。ダンデ君が使わないボディソープの匂い。

「泣くなよ!お前が言ったんだろう!今更被害者みたいな顔で泣くな!」
「ううううううううううッ!!」
「冗談じゃないんだろう!俺の気持ちなんか無視して、自分が望む通りにしたかったんだろう!いつもいつも無防備に近寄ってきて、今だって……!」
「わああああああんっ!」
「泣くなよ……!」

 下着も全部取られて、足を拡げられた時には、もう泣き喚ていた。その泣き方でさえ小さな子供みたいで、つくづく、私はそこから抜け出せていないんだって我ながら思い知らされる。好きな人に裸を見られる恥ずかしさより、勝るものがあったなんて。
 ダンデ君が好き。大好きで仕方なくて、だけど、馬鹿みたいな嫉妬を覚えたのは生まれて初めてだ。特に夜な夜な夢描いていたわけでもないのに、するっと、感情に任せて考えなしに言えてしまった“抱いて”が、じわじわと私を殺しにやってくるようだ。あの女の人が憎たらしくてたまらなくて、自分が、自分じゃなくなるみたいで、それにまた恐怖を覚えた。抱き着くだけの私と違って、さらりと、躊躇いなく、キスできちゃう人。どんな関係なのかは知らないし、ダンデ君に好きな人がいるかもしれないなんて考えたこともない。もしかしたら、なんて淡くて自分に優しい期待だって抱いていたくらいだ。だけど、違う、考えないようにしていた。ダンデ君が今言ったように、自分が望むものしか見ていたくなかったから。裸にされてあちこち手や舌で触れるくせにキスもくれないダンデ君が、ベッドでもなく手近なところに転がしたことが答えなんだろうに。どの道、あの人とキスした唇でキスされたら、きっと絶望したくせに。

「泣くなよ……泣くな……自分だけ勝手に泣くな……くそッ」

 呆れているのだろう。私が子供みたいに泣きじゃくるから興醒めしたらしい。自分も泣きそうな声を振り絞ってから体を起こしたダンデ君は、テーブルに置きっぱなしだったココアが入ったカップを乱暴に煽ると、ぬるくてまずい、とぼやいて頭を乱雑に掻いた。それを、滲んだ視界の中でただ眺めた。


  ◇◇


 イッシュに戻るまで、日課だったダンデ君へのメッセージは、一度も送らなかった。電話も。本当はしようとしたけれど、結局送れずじまいだったのだ。その日あったことを長々と文字にして、ダンデ君の都合なんて関係なく送っていたけれど、急に、なんて入力すればいいのかわからなくなった。好きだ、って思うけれど、大好きって、言葉にできない。淡い赤色も、ピンクも、透けるような真っ白も、今はぐにゃぐにゃして色がはっきりしない。

『もうこれで懲りただろう。いい加減、子供の戯れに夢を見るのはやめろ。もしまた同じことをしたら、わかるな?』

 タクシーに乗せられる間際、顔を上げられない私にダンデ君が抑揚もなく言ったこと。そこで言葉は濁されたが、先が想像できないわけじゃない。それくらいの頭は働く。
 へこたれない。留学させられたって、何も変わらない。ダンデ君が大好き。その気だったのに。そのつもりだったのに。他の男の人なんかみんなどうでもいい。ダンデ君だけが綺麗で、眩しくて、あったかくて。
 でも、氷みたいな視線が、言葉が、まだ体に刺さって溶けないでいる。私がまだ子供だからなのか、そもそもの根本的な話なのか。私がいくらダンデ君を好きでも、ダンデ君、は。そう考えてしまったら、途端に前が暗くなっちゃうのに。今までどうやって歩いていたのか、どうやってダンデ君と話をしていたのか、わからなくなる。凹凸のはっきりとしたからだと、背伸びしたヒールと、ぴかぴかのネイルと、化粧の匂いと。色の塗られた唇が、ダンデ君にくっついたあの瞬間。驚きに染まったその顔が、次第に緩やかになって、やがてあの華奢な背中にその腕が回ったことを、ようやく思い出せた。認めたくなくて消し去ろうとして頭の中からはじき出した筈の、現実の話だ。



 一時帰国の日程を終えて、重たい体でイッシュ行きの飛行機に乗らなくてはならない日。あろうことか滅多に送ってこない人からのメッセージが来た。その名前を見るだけで胸がドクンって痛い。恐る恐るタップして、その中身に目を通した。

『気を付けて行ってきなさい』

 スマホを握り締めて、空港で静かに泣いた。ずっと、私から送らなくても、ダンデ君からのメッセージが欲しかったのに、そうじゃない。会いたいのに。会ってどうしたらいいのかわからない。大好きなのに。大好きなのに、私の大好きは、きっとダンデ君にはこれからも通じない。だからこうしてメッセージをくれたのだ。


20221011