短編
- ナノ -


 泣かないで初恋-2


「……なんで?」
「いい話じゃないの。せっかくダンデさんが用意してくれた話なんだから」

 隣のお母さんはこれでもかと顔も目もキラキラさせて、私と書類と向かい側のダンデ君をそれぞれ忙しく見比べるけれど、私はダンデ君のことしか見ていなかった。テーブルに拡げられたいくつかの、真っ白で真っ黒い字がづらづらと躍るやつなんかどうでもいい。問題はダンデ君で、これを持ってきたのもダンデ君だが、私にとって大事なことは全部ダンデ君だけだ。どうやってスクール側と結託しているのかは知らないが、ダンデ君がこうしてやって来るのは変だ。

「編入という形になるが、むこうで卒業資格もとれる。成績も優秀だって先生のお墨付きだろう?」
「……」
「イリス」
「……そんなに、わたしに、いなくなってほしいの?」
「そういう話じゃないだろう」
「じゃあなんで先生じゃなくてダンデ君が話を持ってくるの」

 そういう話じゃないの。突然二年もイッシュに留学に行けって、残りの高校生活はむこうで過ごせっていうのは、スクールの先生でもなくダンデ君が直接話をまとめて進めようとしているのって、つまりは、そういうことなんじゃないの。

「……ガラルからの留学生も多い。あちらで渡航者たちのコミュニティも築かれているし、困ったらそこを頼れる。元々言語も似通っているから、イリスの成績ならいけるよ」

 いけるかいけないかの問題じゃない。二年もダンデ君から強制的に物理的にも距離を取らせて、どうせ私に諦めさせようとか、他にも色々と目を向けるべきものはあるとか、ご立派な趣旨と理論で誤魔化したいんだ。私の将来とかじゃなくて、結局そういう魂胆に決まってる。

「何も永久に移住しろって言っているわけじゃない。今の内に触れられるものには触れておきなさい。将来のためにも」
「わたしのこと、きらい?」
「だからそういう話じゃないって言っているだろう。公私混同で話をしているわけじゃない。それに、散々言ってきたけれど、イリスはもっとたくさんのことに目を向けるべきだ」

 ほうら。



 ――なんてことはあったが、これしきで私が簡単に諦めると思っているダンデ君は詰めが甘いというか、私のこと全然わかってない。
 留学は留学。それはそれで有意義なものにすればいいだけだし、二年経てばダンデ君のところに帰れるのだから、なぁんにも臆することはない。全力で勉強して全力で遊ぶつもりでにこにこと準備をした私を、こういう時ばかり家まで様子を見に来るダンデ君は奇怪なものでも見るような目で遠巻きに見ていたし、見送りの時も一方的にハグしてにこにこと手を振って「帰ったら一番に会いに行くね!」とルンルン気分で飛行機に乗り込んだ。その時の、ちょっと間抜けなダンデ君の顔が、今思い出しても可笑しい。
 寂しさはもちろんある。テレビやネットでダンデ君の顔はいくらでも見られるが、生身は暫くお預けだから、それだけは。でも証明してやるのだ。こんなことくらいで、私がダンデ君のこと好きじゃなくなるなんてこと、天地がひっくり返ってもありえないってことを。物理的に距離を取らされたとしてもダンデ君に会いたい気持ちがなくなることはないし、ダンデ君のことを考えない日があるわけがない。留学しようと私がダンデ君のお嫁さんになりたい気持ちが変わることなんかありえないのだ。今まで送ってきた私の生活が二年間イッシュに移るだけの話で、言語の壁とか文化の違いとか、問題はたったのそれだけ。

「イリスー?次むこうの教室だよー?」
「今行くー!」

 不安が全くなかった、とはさすがに言えないが、それでも新天地にドキドキしないわけではないからむろんびくついたりはしたが、些細なことでへこたれるのなんか私じゃない。溶け込むのに時間がかからなかったイッシュのスクールは、なかなかどうして楽しいものだ。寮にはあちこちからやって来た留学生の友達もできたし、異文化コミュニケーションは想像以上に充実していた。言葉の壁はあったけれど、言葉を超える付き合い方だっていくらでもあるのだ。挨拶がてら生涯を誓った相手がいるってこともみんなに伝えてあるから、変な子、って笑われたりもしたが、こうして色々と教えてくれる友達だってクラスに大勢いるので、ダンデ君が望むようには絶対にならないのである。
 そのダンデ君に、イッシュに来てからも毎日メッセージを送った。時差があるから電話は限度ができてしまったが、メッセージならいくらでも送れる。せっかくなのでSNSも始めた。なんやかんや楽しいイッシュでの思い出を残しておきたいから。
 ダンデ君からの返信はやっぱりほとんどない。電話だってまったく。でもそれはガラルにいた時と変わらない。だから、何も落ち込むことなんかじゃない。

「授業終わったらショッピング行かない?」
「行きたい!ついでにアイスクリーム食べようよ」

 放課後に遊びにいく時間はガラルにいた時よりも大幅に増えた。ダンデ君に会いに行っていた時間が丸ごと自分の時間になるから、その分友達と。だけど結局、服を見たって化粧品を見たって、これダンデ君気に入ってくれるかなとか、頭の中はそんなことばっかりだ。美味しいものを食べても一緒。友達に似合うよ、と言ってもらった、買ってそのまま履いた膝より上のスカートを軽やかに翻しながら、街の風景だとか、アイスクリームとか、目についたものをスマホのカメラに収めたら、友達がトイレに行っている間にSNSに投稿する。ダンデ君にも直接メッセージを送ろうとしたところで友達が戻ってきたから、また後で送ろうってスマホはバッグに閉まって、またぶらぶらとヒウンシティを練り歩く。ここは海風もビルの合間を縫って吹いてくるから、少しばかりスカートが持っていかれそうになった。

「……?」
「どうしたの?」
「電話だ…………え!うそダンデ君だ!ごめんちょっと待ってて!」

 学生なので途中からはお金のかからないウィンドウショッピングに興じていると、バッグに閉まったスマホが振動していることに気が付いて、立ち止まって確認してみると、なんとディスプレイにはダンデ君の名前が映っていたのだ。パッと胸が色付いて、途端にドキドキして、足が浮いちゃいそうになる。友達から少し離れて人の騒がしさが比較的大人しめのスペースに駆け込んでから、ふぅ、と息を吐いて整えてから応答ボタンをタップして。

「お待たせ!どうしたのダンデ君!久しぶりだね!めっっっっっちゃ嬉しいダンデ君からの電話!あのね」
『スカートが短い』
「今日ね!…………うえ?」

 久しぶりにダンデ君の声が聞けるんだ、お話できるんだって、興奮して高くなった私の声にまるっと被せて放たれた言葉はたったのそれだけで、しかもダンデ君は私の話なんか欠片も聞かずに言い切ったらすぐに切ってしまった。虚しい無音に今何が起こった?と唖然として、昔隠し撮りしたダンデ君が映る待ち受け画面を見つめた。もしかしてスルーされていたメッセージの返事か?とも思ったが、今日あったことはまだ連絡してないから、それとは違うだろう。じゃあ何だったのか今の一方的で意味不明な電話は。

「……あ!」

 はたと、思いついたのが、私の今のこの格好。上から見下ろす、スカートから伸びるちょっと日焼けしちゃった太腿の半分から下を晒した足。風にふわっと浮いてしまう裾。恐らくダンデ君が言っていたのはこれで、この格好をオープンにしたのは。
 慌てて自分の投稿を確認してみたが、目を皿にしてもダンデ君からの痕跡は何一つない。でも、今の格好の情報源はこれしかないはずで、それってつまりは。

「……へへっ」

 そういうとこだよ、ダンデ君。


  ◇◇


 ホリデー期間になったので一時帰国することにした。わくわくと浮足立ちしながらスーツケースに荷物を詰め込んで、お土産も詰めて、ダンデ君には明日帰るよ、とメッセージを少し前に送った。本当はもう飛行機に乗っていて夕方にはガラルに着くから嘘だけど、これはサプライズなのだ。留学から数ヶ月、初めての帰省で心が浮かれないわけがない。数ヶ月振りの生身のダンデ君にやっと会えるのだ。スカート短い、以来電話は出ないしメッセージにも全く返事はくれないけれど、繰り返すがそんなの留学前からあったこと。代わりにSNSの投稿を増やした。それにも何一つ反応はない、つれないダンデ君。私のこと突き放そうとするのにしきれないどうしようもなさ。大好きで大好きで頭から消えることがないダンデ君にやっと会えるのに、どうして浮かれずにいられよう。
 そんなに離れていない筈なのにもう大分久しぶりな気のする、ガラルはシュートシティ。賑やかな空気に大きな観覧車と一部はレンガでできた建物。ヒウンシティも高層ビルの立ち並ぶ近代的な大都会だったが、見慣れた大都会の方が断然安心感があった。嗅ぎ慣れた空気も、マサル君で彩られた街の様子もまた、ああ帰ってきたのかって気にさせてくれる。

 シュートシティの空港に降り立ってから、この時間ならまだバトルタワーだろうかと思って、カフェで時間を潰すことにした。ホップから事前に仕入れている情報だと今日はお休みじゃない筈だから、少なくとも定時を過ぎるまでは家にいないだろう。
 ストリートを眺められる窓際の席に陣取って、一番お気に入りのロイヤルミルクティーを傾けながら、そうそうこの味、なんて一人で笑った。これが飲みたくてこのお店を選んだわけだ。イッシュは凄くお洒落で面白かったし楽しかったけれど、慣れ親しんだ味は自然と胸をホッとさせて、同時にほんの少し懐かしくさせる。たったの数ヶ月は、思っていたよりも長かったようだ。
 このお店がお気に入りたるゆえんは他にもあって、よくダンデ君がご馳走してくれるから。よく突撃してきた私をお腹いっぱいにさせてから帰すダンデ君は、外で私に捕まえられた時はよくここに引っ張ってくる。多分、ここらのお店の中ではこのロイヤルミルクティーが一番好き、って言ったことを覚えてくれているから。ダンデ君本人が直接口にしたことはないけれど、絶対にそうだって私には確信がある。なにせ、わざと違う紅茶にしようとしたときには、いつものじゃなくていいのか?なんてダンデ君は驚いていたからだ。それに目を嬉しさと期待でキラキラとさせたら、すぐにハッとしてぶつくさ誤魔化していたけれど、私はダンデ君の言葉を聞き逃すような構造をしていないのでばっちり聞こえていて、今でもこうしてしっかりと覚えているわけで。

 本当にどこで何をしていてもダンデ君のことばっか頭には浮かんできて、イッシュだろうがガラルだろうが関係がない。まだかなぁ、早く会いたいなぁ、と頬杖ついて考えている内に辺りはいつの間にか暗くなっていて、街灯もあちこちついていた。そろそろいいかな、帰ってなければマンションの前で待ってればいいし、そうお気楽に立ち上がろうとした矢先。窓越しに人混みの中のダンデ君の顔を見つけたのだ。またパッと胸の中が色付く。頭がわっとなって、自然と顔が綻んじゃうの。しかもこんなタイミングで見つけちゃうなんてこれってば運命だよ、なんて頭の中が一瞬でお花畑。
 だんでくん、と頭の中で甘ったるく呼んで、慌ててスーツケースを引き摺って店を出た。



 ――ダンデ君って、空気が綺麗なの。ダンデ君は眩しくて、輝いてて、笑うと顔がくしゃっとして。オーラっていうか、目に見えない筈のそれが、私にはいつだって綺麗な色に見える。黄色とか金色とか、たまにピンクとか。もちろんフィルターを通した妄想に過ぎないけれど、だからこそどんなに遠くにいてもダンデ君のことはすぐに見つけられる。

「……」

 ダンデ君を見つけると、すぐに胸が高鳴って、ドキドキして、胸が明るすぎる色に染まる。多分淡い赤色とか、無難にピンクとか。真っ白な光が透かされるみたいなときもある。またピンク、って自分で可笑しくなる時もある。胸が色付くなんて、そんな比喩みたいなことを感じるくらい、ダンデ君を見つけると自分の胸が落ち着かなくなるのだ。ダンデ君がいると、世界がパッと輝いて、どうでもいいことも途端に美しいものになっていく。それが、ダンデ君と出会ってからの、小さな頃からの私の世界。

「……」

 暗くてもそれは何も変わらなくて、陽が落ちてきた今でも、ダンデ君だけが眩しい。笑うと胸がくしゅってなる。子供みたいに笑っても、大人の余裕を醸すような控えめなやつでも。
 でも、不思議なの。今のダンデ君、眩しいのは変わらないのに、笑っているところを見てると、急に、胸の中が潰れたようにぐしゃってなって、息が詰まって苦しくなってくる。頭を鷲掴みにされて、水の中に無理矢理沈められているみたい。

「送っていただいて、ありがとうございました」
「いいえ」

 咄嗟に植え込みに隠れてしまった私は多分どこからどう見ても間抜けだった。後ろを通り過ぎる通行人の視線も感じたが、でかいスーツケースを抱えた若い女なんかせいぜい家出にしか思われないだろう。よっぽど親切な地元の人間でもなければ、きっと声なんか掛けてこない。

「ダンデさんもこの辺なんですか?」
「ええ、まぁ」
「……ふふ、嘘ですね。わざわざ遠回りしてくださってありがとうございました」

 二人の声は聞こえたり聞こえなかったり。隠れているから聞き耳は立てていても、周囲の雑音にかき消される瞬間も多い。だから、かろうじてはっきりと聞こえたのはそれくらいだった。
 二人は立ち止まって、向かい合って、控えめに笑い合ってる。私に向けるのとは違う、大人の笑い方だ、ダンデ君は。でも別に、それは見たことがないものなんかじゃない。ダンデ君のああいう笑い方は数えきれない程に目の当たりにしてきたし、テレビや雑誌ではああいうのもよく見てきた。だから、なんの、変哲もなくて、可笑しくはなくて、特別なものじゃなくて。
 じゃないのに、なんで、こんなにざわざわとするのか、わからなかった。耳鳴りがするように、耳の奥がキーンとする。ダンデ君は静かに笑っているだけなのに、私以外にはああやって笑うのも知っているのに、なんで。

 ダンデ君と並ぶとその華奢さが目に明らかで、背中を私に向けているから顔とかはよくわからないけれど、その後ろ姿だけでも凹凸がしっかりとした大人の女の人だなって思わせる。さっきはダンデ君しか見えていなかったから気付かなかったけれど、こうして並ぶとひしひしと大人のたおやかさが伝わってくる。誰なのか全く知らない、私のようなまだ子供の未発達さが残る体つきとはきっと違う、胸とかお尻で服が引っ張られているその人が、一歩、そっとダンデ君に近づいて。

「あ」

 それで、そのままヒールの足で背伸びして、ダンデ君にキスした。


20221009