短編
- ナノ -


 誰のせいだ


 街中で偶然ダンデを見つけると、途端に胸が熱くなるのが常だった。あまり頻繁に会うことが難しいダンデとは、予定していないひょんな場面で出くわすと、いつだって気持ちが跳ねる。でもそれは、少女染みた純情な気持ちからくるものではなかった。もっとねばついた、どろりとした、滑らかにはいかないもの。
 それはたとえ周囲をダンデのファンに囲まれ、私の側にぴったりといられないときでさえ。昼休憩を外で済ませてから社に戻る途中で、正にそんな状態のダンデを発見した。老若男女問わず人気のあって、それを決して厭わないダンデは、こうしてファンによく目を向けられやすい。ユニフォームのままあちこち移動して、しかも簡単に目的地に辿り着けないから、そのルートのあちこちで目を引いてああなる。子供なんかは躊躇わずにダンデに駆け寄るものだから、それにつられてファンが、或いはファンデなくとも自身に引き寄せてしまう。ガラルで一・二を争う程顔の知られる人間だからしょうがないことである。面と向かって野次を飛ばす輩は最近見かけないから、誰もがダンデに笑みと好奇心を向けていた。
 そのファン達に囲まれたど真ん中にいるダンデと、不意に目が合った。だけど私は微かに笑うだけに留める。うっかりとここで手を振ろうものなら、どこかしらにいる目敏い人間に見られてしまうだろうから。前もそれで危うい瞬間があったので、笑みを咲かせて駆け寄って抱き着きたくても我慢しなくてはならない。街の中にいるダンデは、みんなのダンデだから。あそこで今、子供を抱っこしてにっかりと笑いかける男は、この瞬間私の男ではない。

 子供が終わればその母親、次は年配の夫婦。そうしたらスクールガールが集団で。引っ張りだこのチャンピオンは、その全てに全力で、眩しい笑みをもってして応えている。スタジアムでは負けを願う人間の気持ちが聞こえても、少なくとも今この場にはファンと野次馬程度しか集まらないから、あそこだけ随分と賑やかなファンサービス会場と化していた。
 暫くはあのままだろうなと、でもダンデを目に焼き付けたくてその場で暫く眺めてから、ようやく顔を逸らした。ダンデも、どうせここでロスした時間の分先を急がないといけないだろうし、ファンに引き留められたのなら委員長だってそこまで怒りはしないだろう。彼の秘書からはお叱りを受けるかもしれないけれど。
 そう思い社へ戻ろうと足を動かそうとしたら、ダンデを中心にした輪が少しずつこちらに向かってきたのだ。驚いたのも束の間、ただ私と輪の間にいた子供に目線を合わせるために移動しただけだった。それにほんの少し、浮かれた心臓が萎縮する。あれは私の男ではないのだから、私のところにくるわけがないのに。

「応援ありがとうだ!」

 自慢のリザードンポーズをすればけたたましいシャッターの音が止まなくなった。建前上は彼等を大事にして感謝の念に尽きないチャンピオンの盛大なサービスである。きゃぁきゃぁ、わあわあと、たくさんの喜びの声が大きく上がった。だけどそうすればますます通りがかった人間や、遠巻きにしていた人間が一目だけでも、と少しずつ、少しずつまた輪の外から加わっていく。私と二人でいるときには絶対に見せない、ガラルのチャンピオンの笑みが、その全てを迎え入れていた。

「すまない、もう行かないと」

 しかしとうとうダンデが困ったように笑うと、えー、と落胆した声が一斉に広がる。だがある程度弁えている彼等は、ダンデが道を進みやすいようにと一歩下がってくれる。中には道案内まで申し出る女までいるから、こっちとしては関係ない顔をして平静を保つしかないわけで。そこまで静観したところでまたハッとした。結局、社に戻ろうとしていたくせに、ずっとダンデとその輪を眺めてしまっていた。指を咥えて物欲しそうな目を、なんとなく、向けていたような気もして、急に自分が恥ずかしくてたまらなくなった。
 いい加減行こうと、今度こそ背を向けたら、なんと再びダンデがこちらに歩いてきたのがわかった。何故分かったかと言えば、周囲の輪に飲み込まれてしまったからだ。ダンデは単に私の横を通り過ぎようとしただけだったが、くっついて移動した人間の群れにあっさり飲み込まれてしまったわけである。一応私を避けてはくれているが、どれだけお行儀よくしてくれたとしても集団となれば、一人が避けられても他の人間も同じように動けるわけではない。つまりどうしたかといえば、その集団の一人に背をとんと押されて、その拍子に態勢を崩したのだ。ヒールも災いして簡単に崩れた体はすぐに足元のコンクリートに衝突して、かろうじてすりむいたりはしなかったが、端から見ればかなり間抜けかもしれない。

「君!ケガはないか!?」

 目敏く見つけてくれたダンデが、誰よりも先に駆け寄ってきて体を起こしてくれた。同時に、私の背を押してしまったであろう人間からも謝罪を貰えた。一応は故意ではないから、私も事を荒げようという気はない。

「よかった、膝も掌も無事だな」
「はい。あの、ありがとうございます」
「いいや、気が回らなくて済まなかった。ああ、ここ、汚れているぞ」

 一通り私の体の無事を確かめたダンデは、私の耳の辺りをじっと見つめた。倒れた拍子に何かついたのかと思うが、自分で払うよりも早くダンデがさっと払ってくれる。その際に耳の横を触れた指先の、僅かな時間が、酷く胸を焦らした。じん、と足の指の先が痺れて落ち着かない。声も交わせないと思っていたから、たったのこれだけでも触れられたらもっと恋しくなるだけ。
 一瞬で終わらせたそれの後、ダンデはようやっと自ら輪を抜けようとした。どうやら進まねばならないのは反対方向だったらしい。見送りは結構!とリザードンをボールから出したら、ファンも名残惜しそうではあるが食いついてはこなくなった。私も、未練がましく背中を見つめないで行かないと、とダンデと逆方向を往こうとした、そのとき。

「……今夜行く。大人しく待ってろ」

 ――どくんっと、大きく脈動した心臓が嫌でもわかった。咄嗟に顔を上げても、ダンデは私を見てすらいない。去り際に私にだけ聞こえるよう小さく耳打った言葉だけを置いて、ダンデはリザードンに乗ってあっという間に行ってしまった。

 別の生き物みたいにばくばくと体全部がして、吐息が掠めた耳まで震えていた。あの、少し低くなる声音を体いっぱいに浴びる時間が、瞬く間に体全体に呼び起される。
 吐いた息が自分でも笑ってしまうくらい熱い。ずくんと、腹の奥が重たくなった。


  ◇◇


 家に帰ったらシャワーを丹念に浴びた。ムダ毛も確認して、ダンデが気に入ってくれたボディクリームを足の裏まで塗り込んで。食事はどうするのだろうかと、念のため準備だけしておいた。温めるだけにしておいて、あとはお利口に待っているだけ。
 だから、一人ベッドの上で丸くなっていた。まだかまだかと手足を丸めたり伸ばしながら待ちわびている間に、頭がうだってぼうっとしてくる。一々スマホで連絡してこないから、はたしていつ顔を出すのかわからないので、そんな見えない時間にすら心身共にじりじりとさせて。
 やがて家のドアが開く音がしたら、一気に体が弛緩した。緊張など欠片もなく、早く早くと、一気に咥内に溜まった唾液を呑み込む。溜まり過ぎたせいで、飲み込む際に喉が少し痛かった。

「まるでパブロフの犬だな」

 真っすぐ寝室まで進んできたダンデは、私を見下ろして開口一番にそうのたまった。ユニフォームを脱いでラフな私服に身を包んだダンデは、昼間とは違って、正真正銘、私の男だ。もうファンサービスに精を出す必要もなく、その全てに全力で応えることもない。彼等に感謝を伝えていた眼差しは、今は私だけに向けられている。愉悦に丸められたそれが、どろりと鈍く輝きながら。

「俺はただ、待っていろとしか言っていないのに」
「……ダンデ」
「誰も、ここで待っていろなんて言っていないのにな」

 丸くなって寝転ぶ私の横にダンデが背を向けて腰を下ろすと、軽くベッドが軋んで重みで少しだけ傾く。その腰に引き寄られるように腕を巻き付かせて、頬ずりした。

「寂しかったか?」
「さみしかった」
「イリス、昼間はごめんな。これからは彼等にもっと周りを気にするよう注意してもらうから」
「ねえ」

 太腿をジーンズの上からかりかりと引っ掻いたら、ダンデが喉で笑った。昼間、ダンデに抱っこされた子供が見たら呆然とするかもしれない。

「いじわるしないで……」
「はて、なんのことだろうな」

 その気にさせたのは、その気になるよう躾けたのはどこの誰だと、背中のシャツを捲ってやわく噛みついたら、そっと頭を撫でられた。まるで褒められるような手つきにうっとりとして、昼に囁かれてからずっと熱い足をすり合わせる。ついでのように髪を耳に掛けられて、露わになった耳の淵をすりすりとされると、もうそれだけで力は抜けてしまうのに、心臓が速まった。

「……冗談だよ」

 今度は優しく言われたので、噛みついた箇所を舌で慰めた。ぺろぺろとしても汗の味はしないから、来る前にシャワーも済ませてあるようだった。それが今の言葉が本当であることの裏付けである。ダンデがベッドに乗り上げ、やっと体の向きが合った。おいで、と囁かれたので、喜んで首に巻きつく。昼間触れたなけなしの熱の断片が、即座に目の前の大きな熱と溶け合っていく。そうしたら、もう体がこんなに熱いのか、と笑われる始末で。
 私の男。わたしだけの。だけど、それ以上にどうしようもなく、私はダンデのモノだ。


20220915