短編
- ナノ -


 ありきたりにはなりたくない


 知らない男の匂いがする度に、胃がぎゅっと締まるような心地悪さがあった。でもイリスが楽しそうに笑うから、合わせ鏡のように笑っておく。そんなことしてもまた鼻を男物の香水の匂いが掠めれば、反射で眉間が寄る。それに気がついた彼女は、名前が長くて一瞬で忘れたカクテル片手に、うっそりと口角を上げるのだ。
 イリスには男の気配がいつでもまとわりついている。前々から絶対に俺とは二人きりで会わない、と豪語する彼女は、まるで見せつけのように、いつも体のどこかしらに男の余韻を残して俺の前に現れる。時には首にわかりやすい他人のものであるマークをつけたままで現れるから、煮えくり返りそうな腹をその都度抱えたまま、茶化して笑えるような精神は生憎持ち合わせていなかった。

「香水におう?シャワー浴びたのに」
「……少しだけ、な」
「服にしみついちゃったかなぁ。でもこの匂い私は好きなんだ。だから別に文句は言わないの。ダンデはこの香水どう?」
「そこまで匂いが残ってるわけじゃないから、よくわからないよ」

 平然と嘘を吐いた。本当は鼻が曲がりそうなくらいはっきりとわかるし、実際かなり鼻につく。それは嗅覚が鋭いとか簡単な話ではない。俺じゃない男の匂いで、しかも俺なら決して選ばないような。いかにも高級ブランドのやつで、俺はあまり好かない類いの香り。それがイリスにまとわりつく事実が、面と向かってはっきりと言えないが酷く腹立たしい。
 それからペラペラと、イリスは今付き合う男の話をまた始めてしまった。さっきまでソニアとルリナに根掘り葉掘り訊かれて答えていたのにこうしてまだ口が動くとは、よっぽど喋り足りないようだ。四人で待ち合わせる直前まで会っていたようだし、なんなら今回の男はわざわざここまでイリスを送り届けてきた。まだ付き合いたての男女の雰囲気は見るからに甘ったるく、しかも二人が会っていた間に何をしていたのかまで見つめ合う視線だけで察せられるから甚だ困る。さすがに、今は化粧室にいるソニアとルリナの気遣うような視線が痛かった。

 拷問の時間をエールで誤魔化しながらやり過ごしている内に、イリスは酔いが回ってきたのか空にしたグラスをとん、とテーブルに置いてから、そこへぺたりと胸から上を張りつけるように寝た。でも顔はにこにことなんだか楽しそうに笑っているし、随分上機嫌そうで。とろんとした瞼は眠たそうではあるが、バーの照明のせいだけではない煌めきが微かに瞬いている。誰がどう見たって明らかに酔っていた。
 だから、俺はテーブルに投げ出されている手に、そっと指先で触れた。触れるというよりも這わせたという方が正しい。指と指の間をすりすりとやわい力加減でこすって、手の甲の白くて薄い皮を爪先で軽く引っ掻くように。すぐ側にある、俺じゃない男の気配が染み込んだイリス。

「なぁ」
「だめだよ」

 人畜無害そうに笑っていたくせに、そういうときばかりは反応が俊敏で、くすぐったそうに手を丸めたイリスは、俺が二の句を継ぐ前にさっさと手を引っ込めた。逃げるな、と片眉を上げる俺の前で、平然と背伸びを軽くやる。その流れがまるで実家のチョロネコみたいで、ふと、そうやって遊ばれた昔の日を思い出した。

「私は、友達とは寝ないもん」

 俺は何も口にはしていないのにもう答えを投げられた。淀みもなくあっさり。とろんと少女みたいにあどけない顔で笑っているのに、体から、顔から、纏う空気から、蠱惑な女をほんのり滲ませて。そうして、一際目を引く赤い唇が嘯いた。
 それだけじゃないし人の気も知らないで、と悪態をつきたくなったが、恐らくそんなことすら的外れなのだと思う。俺もまた直接口にはしたことはない。というよりも、言葉を察した途端イリスは一歩ステップでも踏むように軽やかに後ろに下がって、そうして俺の口を自分の仕草だけできけなくしてしまうから。俺のアピールの意味をわかっていながら、イリスは躊躇うことなくルールを俺に向けて毎度投げつけてくる。それは今のようにイリスに恋人がいなかったとしても変わらない。どの道すぐにどこからか新しい男を見つけてくるのだから、時間との勝負というわけでもなかった、それは。
 イリスは絶対に俺に靡いてくれない。きっと口にはさせなくても俺の気持ちを随分と前から理解しているだろうに、イリスは頑なに、自分のルールで俺を突き放す。俺は、何をどうしたって、友達らしい。


 会いたいと言えば、イリスは割とイエスをくれた。だけど、どうしても俺の気持ちを聞こうとはしない。それは不思議なくらいに頑なで、俺の前で隙を見せているくせに、こちらが踏み込もうと一歩出そうとすれば敏感に察知して、身を翻して拒否されてしまう。
 だけど、恋人がいる時期には絶対に俺と二人きりにはならない。他に誰かがいればその輪に混ざりはするが、俺と二人だとなれば、イリスは頷いてはくれなかった。一度メッセージで一方的に気持ちを送り付けようとはやまったこともあったけれど、こういうことは面と向かってはっきり言いたい性質なので思い直した。

「ダンデ手が止まってるよ?」
「……なぁ、このあと」
「あ、友達から連絡きてる」

 わざとらしくスマホをいじるイリスは、俺からさっさと目を外した。
 夜にご飯を一緒に食べようと、俺から連絡すればこうしてイリスは付き合ってくれる。ソニアから聞いた話だとこの前イリスを送り迎えした恋人とはもう別れたらしいから、一応はまたチャンスが巡ってきているわけだ。誰のものでもないこの僅かな時間に今度こそ、とこうして夜の時間に誘って、まずは隣り合ってご飯を食べる最中に。他愛ない話が切れたタイミングで今日こそ、今夜こそ、と言葉を紡ごうとすれば、決まって何かしらの手段で話を逸らそうとする。今もそうやって、本当に連絡がきているのか知らない友達からの、それも男か女かすら俺にはわからないメッセージを読むイリスは、やっぱりわかった上でこんな態度を取っているとしか思えなかった。

「……なんでだ?どうしてイリスはそうやって」
「あ、ごめん。電話したいって。ちょっと待ってて」

 焦るでもなく、動じた様子もなく。苦笑いして本当に申し訳なさそうにしながらイリスは席を立ってしまった。だから一人取り残されたテーブルで、力なく溜息を吐いた。
 どうしてなんだろうと幾度と考えた。イリスは結構恋愛において軽いというか、来るもの拒まずというか。あんなに魅力的なイリスのことだから引く手あまただろうが、恋人が切れる時期がほとんどない彼女は、何故俺のことをちっとも見向きしないのかと。自分で言うのもなんだが、ここ最近はあからさまな言動をとっているのに。牽制してくる理由だって友達だから、としか口にしないのだ。友達だから俺とは恋人にならないし、寝ない。なのにこうして二人で会うことはする。友達だから、ご飯や酒は許してくれる。

「ダンデ、ごめん。もう行くね」
「え」
「また今度ね。あ、これお金」

 ――男だ、そう直感が告げていた。さっきの本当かわからない連絡は多分本当で、男からだったのだろう。
 鞄と上着を腕にかけて足早に去ろうとするイリスの腕を、咄嗟に掴んだ。面食らったように俺を見る彼女は、ぱちりと睫毛を瞬かせてから、困ったように眉を下げて次の瞬間には笑っていた。

「どこの男だ」
「……ダンデには関係ないよ」
「男だってことを否定しないんだな」
「……」

 苛ついた声調に、けれどイリスは怯まなかった。やんわりと自分の腕を掴む俺の手を撫でて、引きはがそうと俺の手首を握る。だから、俺は掴む手の力を強くした。あまりに細い腕は簡単に折ってしまいそうだから、そうならないよう一応は気を遣って。

「そいつは、今はまだ友達なんじゃないのか。さっき自分でそう言っただろう」
「それは、」
「どうして俺はダメなんだ。どうして俺だけ、何があっても友達にする」
「……ごめん、離してよ」
「謝るなよ。謝ってほしいんじゃない」
「次埋め合わせするから。ご飯でもお酒でも買い物でも付き合うから。だから今は」
「話を変えるな」

 笑って誤魔化そうとしてもそうはいかないと、眉を顰めてきつく言っても、イリスは眉を下げるばかりで判然としない。けれど段々と焦れてきたのか、その顔が少しずつ険しくなっていく。それにすら俺は喜んでいた。貼り付けたように、わざとらしく。俺の前では隙の含まれる笑みばかり浮かべていたから、こんな顔はもう久しく見ていなかったから。俺のことでこんな顔をするくらい心を乱せていることがただ喜ばしかった。
 だけど、喜べた時間はほんの数分にも満たなかったのだ。

「……ダンデが言ったくせに」

 ぽつりと、どこか責めるようで、でも悲観的な弱々しい物言いが、この時どうしてか俺を怯ませた。言われた意味がさっぱりわからなかったのに、妙なことにイリスの顔が今にも泣きそうだから、面食らったのは今度は俺だったのだ。そうしたら、あっさりとイリスの腕を掴んでいた力が抜けてしまった。解放されて、俺に掴まれていた部分を傷付いたような顔で撫でるイリスは、すぐに俯いて髪で自分の顔を隠してしまった。
 どういうことだ、と訊ねるよりも早く背を向けて、名残惜しく腕を伸ばした俺のことなんか目もくれないでイリスは行ってしまった。俺のことを置いて、俺じゃない男のところに。追いかければ良かったのに、言われた意味を模索する頭が体までも重たくしていて、何よりあんな顔は初めてみたものだから。バトルだったらこんな失態しないのに、イリスのことになるとこの体たらくとは。
 それから暫くの間、イリスのあの最後の顔が、ずっと瞼にこびりついていた。


  ◇◇


 これまたソニアから仕入れた情報だが、結局友達だった男とは恋人同士にならなかったらしい。しかも、珍しくイリスの方からフったというのだ。いつもだったならば、なし崩しのように付き合って寝ていたのに。付き合う期間の長短はその都度様々だったが、彼女の方から断るなんて、記憶違いでなければ初めてだ。俺がチャンピオンとしてバトルに勤しんでいる間に、いつの間にやら常に隣に男を置いて無邪気に笑っていたイリスは、もう長年ずっと誰かしらのものだったし、俺以外の来るものは基本的に受け入れていたから。
 少しばかり臆したのはらしくもなく本当だったが、またこれで誰かのものでなくなったのなら、と、意を決して連絡をとった。するとどうだ、拍子抜けするほどあっさりとイエスを貰ってしまった。ちょっとばかし唖然として、これには、気にしているのは俺だけなのか?とやきもきしてしまったわけだ。

「この前はごめんね。途中で帰っちゃって」
「……いや」
「お詫びにここは私が奢るから」
「別に、いらないよ」
「遠慮しないでよぉ」

 顔を合わせてもイリスの顔は、以前と何一つ変わってはいなかった。ゆるい笑い方に、隙のある仕草。でもどこかコケットリー。違うのは知らない男の気配を纏っていないことだけ。いつも通りの彼女が、そこにはいた。
 会話も終始イリスのペースだった。この前の一件を引き摺る俺に対して、一見すれば彼女はぺらぺらと他愛ない話で笑いながら酒を飲む。どうにも複雑な心境だったが、変にから笑いかと指摘するのも憚られたし、何より、こんな風に笑うイリスを見ていたら、なんであの男を断ったんだって、聞きたくても聞けなくなってしまった。敢えてこの前の一件を無視しているようにも見えるから、実際のところ気にはしているのかもしれない。だけど、確実に自分の口から蒸し返すような言葉は出さないのだろう。
 しかし、そうやって手をこまねていたのも多分いけなかったのかもしれない。一人で盛り上がっていたイリスは、気付けば酒のペースも早くなっていて、いつの間にやらぐったりと仕上がっていたのだ。

「おい、歩けるか?」
「ん〜〜〜??やだなぁあるけるよ〜〜」
「ほらちゃんと前を見なさい」
「ダンデお兄ちゃんみたい〜」
「まぁアニキではあるけどな」
「あはは、お兄ちゃんだっこしてぇ」

 お決まりの展開と絵に描いたような酔っぱらいに、俺はといえば些末ばかり戸惑ってしまったわけで。イリスはこんなに酩酊する姿を、少なくとも俺に晒したことはなかった。なのに、今夜に限ってこんな無防備な酔い方をするだなんてと。でも呆れるなんて気持ちはちっとも沸かない。だって、酔ってしまえばいいな、なんて、誘った時に思わなかったわけではないから。

「抱っこしてやるから、おいで」
「えいっ」
「いいのか。このままだと家に連れて帰るぞ」
「おうちかえろう〜お兄ちゃん」
「お兄ちゃんじゃない。名前で呼んでくれ」
「ダンデ?へへ、ダンデあったかいねぇ」

 酔っているから子供みたいな笑い方をするイリスに、ぎゅっと胸が締め付けられた。無防備で無邪気で、いつものようなコケティッシュを失くした彼女が、可愛くてたまらなくて。酔っているから平気で俺に抱き着けるだけなのに、その薄いのに柔らかい肌に、もうずっとずっと、触れたくて仕方なかったから。
 アーマーガアタクシーを呼んで、そこに二人で乗ったら、一瞬迷いはしたが俺の家を指定した。心なしか声が震えていたかもしれない。こんな状況とはいえ欲しかった女が腕の中にいるのだ。体が熱くなったり冷たくなったりと忙しない。
 風に揺れる筐体の中で、抱き着いてくるイリスの頭に、額に、頬に、何度もキスをした。気持ちが先走って止められそうにもない。開けられた窓から入る夜風はちっとも俺の頭を冷やしてはくれなかった。だってキスの一つ一つに擽ったそうに身を捩って、だけどへらへらと笑うイリス。そうしてとうとう唇にキスをしようとしたら。

「やだぁ」

 今の今までされるがままだったイリスが、なんと、そこで拒否を示したのである。俺の口元を自分の掌で覆って、それ以上顔に近づかないようか弱い力で阻止する。それは酒のせいでなけなしの力でしかなかったのに、なんだか絶対的な防御のようでもあった。酔いが醒めたのか?と瞳を覗き込んだが、相変わらずとろんとしていて、まだ酒が抜けてはいなさそうなのに。

「なんで?」
「やだ」
「キスしたい。イリス、キスしよう」
「だめぇ」

 俺の口元を掌で覆うせいで、吐息で湿るそこをねっとりと舐め上げたら、しょっぱい汗の味がした。掌の皺にそっと舌を這わせたり、指を数本纏めて口に含んで、ぐるりと指全体に舌を巡らせたら指と指の間を舌先でつついたり。舌が動く度にイリスはとろりとした顔でぴくんと体を震わせる。だけど、その口からは譫言のように、やだと、だめしか出てこない。理性があるようにはおよそ見えないのに、こういうところだけ、どうして。
 そうこうしている間に俺の家についてしまったから、一先ずしゃぶっていた指を解放してやる。べたべたぁ、と笑う、一人ではろくに歩けないイリスをすんなり抱き上げて、のしのしと自分の部屋の前まで進んだ。
 家の中に入ると、そのまま真っすぐ寝室へと向かう。ぐずるように俺の肩に顔を埋めているイリスを、そっとベッドに寝かせたらその上に被さる。見下ろす彼女の顔はまだまだアルコールが抜けていないせいですっかり赤らんでいて、それすら煽情的にしか見えない。

「イリス」
「やだっ」
「やだじゃない」
「だめ……」
「だめじゃない」

 この期に及んでまだそんなことを。とその頬を優しく撫でた。そこはあっという間に俺の掌の熱と融合するように、同じ温度になる。かぶりつきたくてたまらなかった。
 タクシーの中でしたように、また顔中にキスをして、今度は遮られないように手首をシーツに押しつけてから、やっと、その唇に噛みつこうとして。

「ダンデが言ったのに」

 そうしたら直前で、イリスの赤い唇がたどたどしくも動いた。反射で動きが止まると、ぽろぽろと、ひしゃげた瞳から涙が零れ落ち始める。一つ、また一つと零れて、やがて雨のように止まらなくなる。驚いて目を瞠った。てっきり酔いが醒めたのかと思いきやそうでもなさそうで、寧ろ酔ったままだからこそこうして口を開くのかもしれない。

「ダンデが、友達だって、言ったのに」
「……?」
「俺達はずっと友達だって、ダンデが言ったのにぃ……」
「いつ?」
「ずっと前……十六歳のとき」
「十六……」
「好きって言ったら、ダンデが、そう言ったのにっ」

 目をぎゅっと瞑って涙を流すイリスに、思考が固まったけれど、言われたことを咀嚼して記憶を辿ってみたがなかなか思い出せない。でも、少しばかり時間を掛けたら、朧気だが思い出すシーンをようやく見つけた。

 多分十六歳の頃。どういう状況だったか細かなことはあまり覚えてはいないが、そういえば、そんなことを言ったような気がする。あの頃はまだ恋愛に毛ほども興味がなくて、目の前のことにとにかくいっぱいいっぱいだった。丁度子供が大人に向かう矢先の時期で、理想とのギャップに適応して飲み込んだつもりながらも、どうしても鬱屈としたものが胸の中に溜まっていた。
 ルリナは俺にあからさまに闘志を燃やしていたからジムチャレンジの時のようには笑い合えず、ソニアは他地方に留学に行ってしまって、一人でいると力の抜き方がいまいちわからなかった時。イリスだけが俺の側にいてくれた。毎日のように一緒にいたわけではなかったが、遊びに誘ってくれて、恐らく力の抜き方を教えようとしてくれたのだと思う。俺はうまくそれができなかったけれど、明るいイリスの笑顔に何度救われたことか。まだイリスのことを、単なる同期で、女として意識していなかった時期のことだ。
 だからある日、ダンデのこと好きだよ、と言われて。俺も好きだよって大口を開けて残酷にも笑った。だってイリスのことを大事な友達だと思っていたから。そういう好きだと思っていたし、当時の俺は、例えばホップや家族に対してだとか、ポケモンに向ける「好き」しか持っていなかったから。だから平然と言ったのだ。俺も好きだから、ずっと友達でいような、と。そうしたら、確かイリスは髪で顔を隠した後、にっこりと嬉しそうに笑ったのだ。もしかすれば、その時から髪で顔を隠すのが癖になってしまったのかもしれない。

「ダンデが友達でいようって言うから、友達にしてきたのに……」
「……でも、俺の気持ちが変わったの、イリスだって気付いてただろう?」
「そんなの本当はどうかわからないもん……ダンデの好きは私と一緒じゃなかったから……今までもはっきりと言われなかったし……」

 言われてもみれば、と思いはしたが、そもそもお前がいつも俺の言葉を阻止していただろ、とちょっとばかしむっとした。でも、とめどなく涙を零すイリスに、そこまでは言えない。

「私のことどう思ってるのかわかんないから……一緒かどうかわかんないから……また間違えたらやだから……。だからやだ……抱かれたくない……一回寝ただけの女になりたくない」
「……イリス、俺の言葉、ちゃんと聞いてくれるか?」
「や……」
「今度こそちゃんと言葉にするから」

 止まない涙を啜って舐めながら、何度もその頬にキスをした。むずがる子供をあやすようで、つい薄っすら笑ってしまった。
 結局怖がっていただけだったのかって、ようやく腑に落ちたから。牽制して、阻止して。また傷付かないように防衛線を張っていただけだったイリスの根底は、とどのつまりは、俺に対する友達に収まらない感情がゆえんだったわけだから。それも、十六歳の頃から、今の今まで。
 まだ涙が止められないようだから、そっと、額と額をくっつけた。ぎりぎり鼻がぶつからない程度の距離を保って、なるべくゆっくりと、イリスを諭すように語り掛ける。
 可哀想で可愛い。俺の気持ちに確証が得られなくて、自分で引いてきた一線を保って、俺からの言葉を聞くより早く全部叩き落としてきた。そうやって一人不安になって、今もまだ俺のことを信じられない。ただ抱きたいと思っているわけじゃなかったのに。

「もう不安にならなくていいんだ。ごめんなあの時は。忘れてたことも。せっかくイリスが気持ちを伝えてくれたのに。一回寝ただけの女になんて、絶対にしない。とっくにイリスは俺の中で女だったよ。もしも酔いのせいで覚えていなかったら、明日から毎日伝えるから」


  ◇◇


 ブレックファストの匂いにつられて起きてきたのか、イリスは可哀想なくらい縮こまりながら、小さな歩みでダイニングに現れた。可愛いなと笑いながら席をすすめて、紅茶をカップに注いでやっても、体をコンパクトに畳みそうな勢いで小さくなっている。

「よく眠れたか?体は?」
「……ちょっと、頭痛い」
「あ、先にシャワーの方が良かったか?それか顔とか歯磨きとか。歯ブラシならストックあったかな……」
「顔洗いたいけど、クレンジングない、よね」
「今から買ってこようか」
「……やっぱいいや」
「どうして?」
「……すっぴんはずかしい」

 そんなこと、十歳からの付き合いなのに、と笑ったら上目遣いでむっとされたが、そんなのも丸っと愛らしくとしか見えない。
 それから色々と諦めたのか、歯ブラシだけ借りようかな、とぼやくものだから、借りるじゃなくて今からイリスの歯ブラシになるよ、と言ったら、むず痒そうに唇を引き結んでいた。俺よりきっと経験豊富のくせに今更初心な少女みたいな、蠱惑さをしまってティーンの頃に戻ってしまったようなあどけないイリスの肩にそっと手を置くと、わかりやすく緊張した反応をする。

「なぁイリス。昨夜俺が言ったこと、ちゃんと覚えてるか?」
「……」

 最後だけ耳元で囁くようにしたら、膝の上で所在無さげに置いていた拳をぎゅっと握った。また俯いて髪で顔を隠そうとするから、そっと掬って耳に掛けてやる。

「はは、真っ赤だ」
「……嘘じゃない?」
「もちろん」
「ほんとに?私と同じ、すき?」
「そう言っただろう」

 昨夜と同じ服をきっちりと着たままのイリスは、痛くも痒くもないだろう腕をぎゅっと抓って、ずっと目をあちこちにやって落ち着かない様子である。本当に初心みたいと笑ってしまった。まだ知らない柔肌を思い偲ぶと、早く隅々まで暴いてやりたい気持ちに駆られたが、肉欲だけの感情じゃないから今は我慢できる。

「もう他の男は要らないよな?これからイリスの全部、俺のものになるんだから。ここも、ここも」
「……嬉しそうだね」
「当たり前だろう。好きなんだから」

 心臓と下腹の辺りを指差してやったら、目を泳がせたままイリスがぼやいた。頬を撫でて米神にキスをしても、目は泳がせたままでも嫌がらないから自然と口角が上がってしまう。
 これから丁寧に解いていくつもりなのだ。頑なさと防衛線を捨てたイリスの服を一枚ずつ剥ぎ取るように、体の奥深くまで、心の底から信じられるようになるまできちんと伝えてやらないと。


20220913