短編
- ナノ -


 本当に大事なこと


 最初の頃は言葉にできないくらい楽しかった。楽しかったな、と締めくくれるくらいには、記憶の中は明るかった。
 じゃあ今は、と問われると、正直なところ胸を張って頷けないのだ。ダンデのことを好きでなくなったわけではないのに。ダンデも変わらず私へ好意を向けてくれているのに。
 きっかけはなんだったかと思い返してみて、ふと手元を見て気が付いた。今正にレンジで温めている総菜だ。ダンデの帰宅に合わせていつも夕飯を用意しているのだが、ここのところはほとんど総菜や冷凍食品ばかりで、自分で料理をしていない。ここのところなんて殊勝な言い方はしてみたものの、多分、もう年単位でそうだったかもしれない。忘れてしまうくらい、料理に頓着していなかった。

 一緒に暮らそうと言われた時は天にも昇りそうな程に喜んだし、同じ家で過ごす楽しさを毎日感じていた。時々ダンデの生活スタイルに戸惑うこともあったし、逆に驚かれることなんてのもあったが、一緒に暮らすことの醍醐味と言えば良くも悪くもそういうことだ。思ったよりも二人の時間が重ならなくて寂しいと思うこともあったが、だからと言ってそれに何かを思って、嫌いになったりなんてこともなくて。食事にだってもちろん気を遣った。一人で暮らしていた頃は適当に済ませていたと知っていたから、レシピと睨めっこしながらたくさん料理を覚えて、それをドキドキしながらダンデに振る舞っていた。私の料理に対して「おいしい」「うまい」と笑ってくれることが心の底から嬉しくて、ますますやる気を出していたわけだ。
 でも、ある日気が付いてしまったのだ。どれだけ手の込んだものを作ろうと、ダンデの感想が何も変わらないことに。時間をかけて煮込んだり、或いは前日から仕込んだり。とにかくダンデに喜んでもらいたい一心で特に料理に精を出していたのだが、当人からの感想は毎回同じだったわけだ。おいしい、の一言ももらえないのであればそれで落胆していたのかもしれないが、ダンデはよくそう言ってくれる。でも、それだけなのだ、本当に。

「おかえり。お疲れ様」
「ただいま」

 帰宅したダンデを出迎えると、流れるように頬にキスをくれて、軽く口を啄んでから中へと入っていく。先に着替えるダンデの背を見送ってから、温めた二人分の総菜をテーブルに並べる。湯気立つそれは一見して美味しそうだ。今は出来合いのものでも見栄えとか栄養とか素材だとか、そういうことに力を入れて作られているから、手作りより手の込んだものだって中にはある。
 程なくして戻ってきたダンデと、話をしながら食べ進めた。うまい、と笑うダンデに、私も曖昧に笑い返す。いつもそうだった。何に対しても、それしか言わない。そうして、あっという間に平らげてしまう。味わうことをしないダンデは、結局料理には興味がないのだ。食べることはおざなりにして、私に今日のバトルについてや、今度の休みはどこかに行こうだとか、楽しそうに話をしてくれるダンデに、けれど不満はさほど多くはない。日頃適当に接されているわけではないし、誕生日を忘れられたことはないし、記念日だってそうだ。二人で出かけるには考慮すべき点が山ほどあるのでそれ程頻繁ではないけれど、全く出かけないわけでもない。ワイルドエリアでキャンプだってしている。二人でカレーを作る時も、とても楽しい。
 でも、全部まばたきの間に飲み込んで、おいしいとしか、ダンデは言わないのだ。


 料理は義務ではない。一緒に暮らしているからと言って、私がダンデの食事まで用意する必要なんかない。ただ、生活スタイル上ダンデよりも早く帰って時間に余裕があるから自然とそうしているだけで。もちろん、ダンデの健康を慮って始めたことではあった。私が全部始めたことなのに。
 まずいと言われたことなんかただの一度もない。要らないと言われたことだって。なのに、何を落胆するのかと、我ながら傲慢なのかとすら思った。だけど、料理を食べるだけのダンデを見ていると、段々と、最初の頃の情熱が失われつつあることに気が付いた。愛情がなくなったわけではないのに、何を出しても同じことしか言わないダンデに、ならばと、少しずつ作るのをやめてみた。手作りと総菜を同時に出してみたり、思い切って冷凍食品だけ出してみたり。既製品と手作りの見分けもつかないらしいダンデは、口をつけて最初に「うまいな」と笑うだけで、そのまま吸い込むようにしてすぐ食べ終えてしまう。その時になって、ああ、と理解してしまったのだ。味なんかどうでもいいんだって。確かに、以前手早く食べられるものが好ましいとは言っていたが、本当にそうだった。

 何も言われないわけじゃないのに。でも、私が作ろうと、スーパーの人間が作ろうと、ダンデには大差ないんだって。クオリティが高いとか低いとかどうでもよくて、さっさと腹を満たせればそれでよくて、胃に入ればみんな一緒で、ダンデにとって料理ってそういうものなんだって、改めて思い知らされた。私も特に食事を大切に、なんて思っていたわけでもないのに、目の前でそうされると、不思議と、面食らったような気持ちになった。
 ダンデが帰る前に食事を用意してしまうから、手作りかそうではないのか判別つかないのかもしれない。でも、それにしたって冷凍食品と手作りの違いくらいはなんとなくも私だってわかる。だからやはり、食べるものへの興味が薄いのだろうというのが帰結だった。

「いつもありがとうな。洗濯も、掃除も任せっぱなしで申し訳ない」
「私の方が時間あるし、別に。疲れてるでしょう?シャワー浴びてきたら」
「ああ、そうするよ」

 感謝はこうして言葉で示してくれる。たまには洗濯や掃除なんかもやってくれるし、私をお手伝いみたいに思っている訳でもない。ただ、ダンデは圧倒的に時間が惜しいだけで。ポケモンとバトルが世界で一番のダンデにとって、それ以外は時に煩わしいものになる。食事もその一つ。シャワーだって、一瞬で終わらせてさっさとポケモン達の世話をしたり、バトルの構成についての研究に没頭してベッドに入るのをどんどん遅らせるのだろう。それで、よく寝坊しそうになる。
 ダンデの後にシャワーを浴びてからリビングに戻ると、案の定リザードンと戯れながら、次のバトルに向けてか、何やら熱く話をしていた。リザードンの言葉は私には何一つわからないが、ダンデとは通じ合えているのか、全く違う言語なのに意思疎通が罷り通っているように、一人と一匹は笑い合っている。子供みたいに無邪気な顔に、子供がおっかないと思えるような闘志を燃やして、ダンデは自分にとって最も大切なことに思いを馳せる。
 その顔が好きだった。それだけの、筈だったのだ。そういうダンデが好きだった。そういうダンデだから愛した。私を一番にして、なんて思っていない。ポケモンもバトルも捨てたダンデはダンデじゃない。才能とプライドと努力をもってして長年チャンピオンで在り続けるダンデの、ある種ストイックなまでの情熱に頭の天辺から足の先まで余すことなく惹かれた。ダンデの世界にお邪魔させてくれただけで御の字で、しかも愛情を伝えてもくれる。触れて、触れられて、それを噛み締める夜だって、数えきれないくらいにある。

「お、あがったか?」
「うん」

 私にも懐いてくれているらしいリザードンは、私がその顔を撫でると心地良さげに目を閉じて、大人しくされるがままだ。シャワーを浴びたての火照った体でもわかる程温かいその皮膚が、少しばかり私の心を解してくれる。ダンデの愛するものに愛してもらえると、私がきちんとダンデの世界で生きていることが強く実感できた。

「また明日なリザードン」

 そう言って軽く頬をすり寄せ合ってから、リザードンをボールに戻したダンデは、今度は私を抱き締めて頬ずりしてきた。今日は甘えたい日らしい。熱いな、と零すように笑うダンデに、私も小さく笑った。心身が休まるような、ゆったりで穏やかな時間。擦り寄ってくる頭をそっと撫でて、肩から落ちて垂れる髪を耳に掛けてやってから、耳の淵を一緒に撫でた。擽ったそうに身を捩るダンデはくすくすと笑って、その顔を寄せてくる。自然と瞼を閉じて受け入れた。食んで啄むだけの、言葉もないやりとり。ここから先はベッドに潜らないとまだわからない。私を抱き締めてあどけない顔で眠るだけの日は結構多い。
 大事にしてくれている。ダンデは私を愛してくれている。それを言葉でも体でも表してくれる。でも、胸の中の片隅で、しこりみたいな何かが、いつからかずっと。蔓延ってはいないが、確かにそこで小さくも主張してくる。ダンデは私を愛してくれているのに。


  ◇◇


 ダンデが家にいる日が随分と増えた。外へ相棒たちと共に勇み足で向かわなくてもよくなったダンデは、手持無沙汰なのか落ち着かないのか、掃除も洗濯も進んでやるようになった。洗濯物を並んで干しながら、どうでもいい話をするのが、なんだかこそばゆい。肩書のなくなった男と昼間からなんでもないやり取りをするのが、こんなにもどかしいものだとは知らなかった。悪い意味ではなく、ただただ変な気分なのだ。隣にずっといて欲しいと思ったことは何度かあったけれど、いざこうしてそれが現実になってもみると、妙にも落ち着かない。ダンデもそれは同じだから、こうして私と同じことをしているのだと思う。

「……あったかいな」
「ね」

 でも何をしても誰にも文句を言われないから、ベッドで昼寝したっていいのだ。二人で抱き締め合って、一つのブランケットにくるまって。ダンデを独り占めしても偉い人にも外の人達にも怒られない。時間なんかどうでもよくて、したいことをしたい時にすればいい。お昼ご飯も食べていないけれど、二人して離れ難いのかどちらもそのことには触れなかった。
 私の方から甘えるように胸元に擦り寄ると、ダンデは眉を下げて奇妙に、だけど器用に笑った。悪戯に足を絡めると、自分も同じように真似する。すりすりと足を交差させながら、ただ馬鹿みたいに笑っている内に揃っていつの間にか眠っていた。

 起きてみると数時間は経っていたのか、もうすっかりと部屋の中は暗くなっていた。窓の向こうも暗くて、夜なのは明らかだった。さすがにお腹が空いたなと感じたから、ベッドから下りて夕飯の支度をしようとキッチンへと向かった。でも、もう当たり前のように料理のために食材なんかほとんど買っていないから、冷凍食品くらいしかない。今から何か買いに行くのも面倒だから、いつも通りそれでいいかと、パッケージ裏の説明を読んでからレンジへ突っ込んだ。パスタしかなかったから嫌でもそれが今夜の夕飯である。
 温めが終わるまでの間にダンデを起こしにかかる。ううん、と子供がぐずるみたいに唸るダンデが可笑しくて、その頬をぺちぺちと叩いた。開いた瞼の下はぼんやりしていて、でももうパスタが温め終わってしまうから、ご飯だよ、と声をかけて起き上がるのをその乾いた頬をただ撫でながら待った。

「……腹減った」
「もうできるから」

 上半身を起こしたダンデが瞼を擦りながらぼやくので、何とも言えない気持ちになった。食事をおざなりにしてきたダンデの口から、お腹が空いたなんてあまり聞いたことがない。自分の時間が膨大になるってそういうことなんだなと思った。
 先にキッチンに戻って温め終えたパスタを皿に盛ってテーブルへ並べ終える頃合いに、ダンデはのそのそとやって来た。ぼんやりとした顔のまま椅子に座ったダンデの向かいに座って、さっさと食べ始める。ダンデもくるくると、私の一巻きよりも倍は麺をフォークに巻き付けてから、ばくりとまずは一口。私はその様子を、咀嚼しながら不思議な気持ちのまま眺めた。いつもならフォークに手をつける前からべらべらと話をするのに。今日は珍しく黙ったまま口の中身を噛んでいるなと。そんなにまだ眠たいのだろうか。

「……なぁ」
「ん?」
「その……、……」
「なに?」

 歯切れの悪いダンデがこれまた珍しいと首を傾げると、やっぱりこれまた言いにくそうにダンデは、目を逸らしながらも、最終的に自分の前にあるパスタに視線を落ち着けて、そうして、ぽつりと、零したのだ。

「また、イリスの料理が食べたいんだ」

 麺を巻き付けていた手が止まった。え、と口を開ける私に、やはり申し訳なさそうに眉を下げて、でもダンデは今度は私を見つめる。

「用意してもらっている身で申し訳ないけれど……。でも、やっぱり、イリスの作るものの方が、美味しくて、好きで」
「……もしかして途中から総菜とか冷食になってたの、気が付いてたの?」
「そりゃあ気付くよ。これも冷凍だって、食べればわかる。イリスの料理は、なんというか……特別だから」
「……」
「栄養とか、そういうのを気遣ってくれてたんだよな。俺はいつも食事を適当にしがちだから、気にしてくれてた。総菜だろうと冷凍だろうと、いつも用意してくれて感謝はしているんだ。でも、また、イリスの料理が食べたくて」

 どうしてなのかすぐには何の言葉も出てこなくなって、震えそうな指にふと気が付いた。
 わからなかったわけじゃなかったんだ、って。そう思ったら、口の中も震えた。

「……もっと早く、言えば良かったのに。ダンデ、何を出しても同じことしか言わないから」
「一緒に居られる時間は、この前までうんと少なかっただろう。だから、ほんの少しでも多くイリスと話をしたくて」

 味の違いなんかわからなくて、どうでもいいんだって思っていたけれど、そうじゃなかった。寧ろ、気遣われていたのは私なのかもしれない。ダンデはダンデなりに私との時間を大切にしようとしてくれていたのか。

「……ごめん。言葉足らずだったな。でもイリスの料理が、やっぱり一番美味しく感じるんだ。俺のために色々と研究して作ってくれたのも知ってた。でも、美味しい以外になんて言ったらいいかもわからなくて、そもそも任せっぱなしだったから、余計なことは言うべきじゃないと思って……食事を用意するのだって大変だろう?だから、ますますと」

 指の震えが止まらなくなってテーブルの下に隠して俯いたら、何故かダンデが息を呑む気配がした。でも、ダンデの反応にまで気が回らない。痛いのかわからない胸を宥めるのに躍起だった。しかしダンデは慌てて立ち上がって、私の隣まできたら驚き顔で、私の頬を服の袖でぐしぐしと拭う仕草をするのだ。

「なんでそんなに泣いてるんだ!」

 言われてようやく、ダンデの服の袖が湿って色を変えていたから、濡れているのだと見えた。それが、今しがたの行動からして私の頬から拭い取ったものだとも。だけど、それが理解できてしまったからこそ、もうどうしても自分では止められなくなった。目頭が熱を持ったように熱くて、鼻の奥がつんとして、息が苦しい。
 馬鹿みたい。泣いてる私が、あまりに馬鹿みたい。こんなことで泣くのかって我ながら自分が間抜けに思える。

 でも、こんなことで良かったんだって。こんなことを、ダンデに言ってほしかっただけだったんだ。認められたかったわけじゃないのに。なのに、ダンデは言わなかっただけでちゃんとわかってくれていたんだって今になって知ったら、安心とかそういうのなのか、それともまたちょっと違うものなのか。どうなのかは自分の気持ちのくせにわからないけれど、胸の片隅のしこりが、どんどんと小さくなっていく気がする。
 どうして急にあんなことを言いだしたのかと思ったが、多分、今ようやくこうして二人だけの時間を気儘に過ごせるようになったからなんだろうって、なんとなく思った。変化したダンデの世界の中で、ダンデ自身が、少しずつ変化しているのかもしれない。変化とは言ったものの、それを変化というべきなのかはわからないけれど。

「……私の、作った料理。おいしかった?」
「ああ。おいしいとか、うまいとか。それくらいしか言えなかったけれど、本当に、おいしかった。心が温かくなるような、幸せを感じられるような、そういうものだった」
「総菜とか冷食よりも?」
「もちろん」
「じゃあ、また作ろうかな」
「俺も作ろうかな。時間はたっぷりあるから」
「なら、明日は一緒に作ろう」
「そうだな」

 どうしてだかダンデは私を抱き締めてくれた。パスタ伸びちゃうよ、なんて言えなくて。だからまたダンデの胸に顔を擦り付けて、そこも涙の跡でいっぱいにしてやった。明日は朝一で買い物に行くことから始めなくちゃいけない。当然、ダンデと二人でだ。


20220628