短編
- ナノ -


 もっと安心していい


 セキは、とヨネに問うたら、コトブキムラだと言う。またか、と息が零れた。軽くはなかったらしいそれに、ヨネは肩を竦めて同情の顔を見せた。私がセキの行先を知らないことに対してだ。
 ここのところコトブキムラへ出ずっぱりな男の顔を思い浮かべて、また一つ重たい息が零れた。別に、どこで何をしていようが私には関係のないことなのだが、こうも毎日毎日、あくせくと。もうあそこの団長と何か話し合いを持ったりする必要もない筈なのだが、あちらでしかできないことはとても多いらしく、この前もどこでどう覚えてきたのか、料理なんか作って私にも集落の皆にも振る舞っていた。繊細さの欠片もないような男が、と驚いたのをよく覚えている。あとはどうやらシノビの技とやらを教わっているとか。一体何を考えているのかと、一人で考えても詮無いとわかりつつも、いない男のことばかり考えてしまった。

 セキはセキなりに、新たな道を模索しているのかもしれない。シンオウ様の正体がとうとう露わとなり、コンゴウもシンジュも争う理由がなくなった今、もちろんギンガ団とだって争っていく必要も垣根を作る理由もない。私達のシンオウ様ことディアルガ様は裂け目から落ちてきたという子供の元へおられるし、特にお顔を拝見するのに厳しい隔たりを設けられているわけでもなく。あの子供は、会わせてくれと頼めば簡単にお会いすることを許してくれるのだ。ディアルガ様のトレーナーという存在となった子供にとって、我らが気の遠くなるような時間をかけて信仰してきたディアルガ様は、他のポケモンと、特に大きな変わりはない存在なのである。
 コンゴウ団がコンゴウ団として、今まで通りの、先祖の代から続けている暮らしをこれからも続けていく理由は、もうどこにもないのだろう。ヒナツも髪結いの技術を学んで、今ではほとんどコトブキムラにいる。ドレディアの世話も、もしかすれば今後は要らないものになるのかもしれなかった。距離を縮めたポケモンと写真を撮りにコトブキムラへ行く人間も徐々に増えていて、ポケモンと暮らしを隔絶する理由も恐れも、完成した図鑑とやらの賜物で、最早失われつつあった。時代の潮流というのは、何がきっかけに変容していくのかわかったものではない。セキもそうして新たな未来を見つめているのやも。

 などと色々と御託は並べてみたものの、己の気など全く晴れないのが実情である。いない男のことから話を変えても、結局最後に考えが行きつくのはセキのことで、リッシ湖を眺めながら溜息は尽きない。今頃どうしているのかと、そんなことばかり。
 憂いが、単純なものばかりであればよかった。セキが今もコトブキムラに通う理由は、何も料理やシノビの技のためだけではない。裂け目から来た子供の話は前々からセキの口からよく聞かされてはいたが、最近はもっぱら、その子供の話が中心だった。私達よりも幼い少女の見目ではあるが、ポケモン同士を戦わせることは達人級の腕前で、けれど歳が十五もあればもう立派な働き手であり、あと数年すれば嫁ぐことだって。まさかとは思うけれど、心移りなんてしやしないかと、そこまで考えるとただ虚しくなるだけで。
 でも、私はつまらない女だって、自覚もあるのだ。男が喜んで隣に置きたいような、華があるわけでも、慎ましさがあるわけでもない。男の気を引いて媚びるなんて芸当もできない。愛想笑いすら難しい不器用者と、昔は幾度かからかわれた。そんな私が、たった一人の男を、それも正反対のような男の気を永遠に引こうだなんて、元から無理な話だったのかもしれない。飽きられてもしょうがなくて、古きものより新しきものに興味が引かれるセキの前に、私よりも若くて愛らしい女が現れれば、きっと。

 風も強くはない、穏やかな湖面を眺めたところで心が静まることはなかった。馬鹿みたいだなと溜息をまた一つ零した矢先。背後から名前を呼ばれて微かに緊張が走る。もう十年以上耳にした男の声なのにだ。

「ここにいたのか」
「……おかえりなさい」
「ああ、戻ったぜ」

 にかっ、と笑うセキの顔は、朝に見たそれと同じだった。存外今日は帰りが早いのだなと思うも、帰ってきたのであればそれでいい。のしのしと隣まで歩いてきたセキから女の化粧の匂いも、若い女の名残も感じられない。それに、どこかホッとしている自分が嫌だった。

「こんなとこにいちゃあ体が冷えるだろ。家に帰ろうや」
「……私はまだここにいたいから」
「どうした?なんか気掛かりなこともでもあるのか?」
「別に」

 変わらないと言えば変わらない。昔から見ていたセキと、変わってはいない。変わっていかなくてはならずとも、セキが大きく変わった様子は、今はまだ、そんなに。料理の腕が上がったのは良いことだし、シノビの技は今後役立つ日が来るのかは怪しいが、新しいことに挑むのは悪くはない。特に、こんな旧態依然とした頭の人間が未だのさばる集団の中では。
 だからこそ、子はまだかと、せっつかれる身にもなってほしいのに。

「なんだか、おめえ機嫌悪くないか?」
「気のせいじゃない」
「いんや、ここんとこよくそんな顔してるだろう。なんかあるならぶちまけちまいなよ。そうすりゃ少しは気も晴れるってもんだろ」

 あっけらかんとそんなことを指摘するのか。顔をしつこく覗き込もうとするから、その度に顔を逸らして、その場で一周してしまった。しつこい男、と口をぎゅっと結んでも、セキは人が良さそうな笑みで私を見るだけだ。
 鈍感。誰のせいだ。そうありったけをぶちまけてやった方がこの男にはいいのかもしれない。地頭がそんなに良くはないセキには、はっきりと言ってやった方が薬なのだろう。でも、こんな女心の欠片もわからない男を相手にするのも時間の無駄だと思ってしまう。セキを相手に、そんなことを言ってしまったらお終いだけれど。

「ま、言いたくないなら別にいいけどよ。それより、ちょっと顔上げてくれ」
「……?」
「そのままじっとしてろよ」

 人の気も知らず、ずけずけと物は言うが案外引き際も心得ているから、追及から逃れられそうだと安堵したのも束の間。素直に顔を上げてみると、何やら目を細めて、なんとも言えない、優しそうな瞳とかち合った。それに、少なからず胸が跳ねる。惚れた弱みと言えるのかもしれない。
 妙に落ち着かない鼓動を自分の中で感じる間に、セキの指が私の髪を少しだけ撫でた。続いて何かが髪の中へと入っていく。感触から察するに、何かを差された気がする。鏡でみてみろ、と言われたので懐から手鏡を取り出してセキが触れた所を確認して、そうして、目を丸めた。
 花の髪飾りだった。淡い桃色の、小ぶりな。頭を動かすとさらりと髪飾りも揺れる。一体どうしたのかとセキを見やれば、まるで悪戯が成功した子供のように破顔してみせる。

「迷ったけど、やっぱそれが一番似合うな」
「……これ、もしかしてコトブキムラで?」
「ああ。選ぶのに苦労してさ、通い詰めになっちまったぜ」
「今朝も、このため、に?」
「ああ、まぁな。あ、そういやまた何も言わないで出ていったな。悪かったよ。気が逸っちまって」

 ああ、って。唇が微かに震えた。セキがコトブキムラに通う理由が、私が思い描いていたものの他にあって、それがしかも、私の髪飾りの為に、だなんて。そうわかってしまったら。

「……心移りしたんじゃ、なかったんだ」
「は?心移り?……何ふざけたこと言ってんだ」
「だって、あの子、私より若いし、可愛いし、英雄だし……」
「……」

 ぽろりと零した本音がもう隠せなくて、でもセキの顔が強張ったのがわかって、咄嗟に俯いた。動くのに合わせて、髪と髪飾りがほのかに揺れる。その重みが本当は今にも泣いてしまいそうなくらい嬉しいのに、どうしてそれを正直に口にできないのかと、己が恨めしかった。

「何をそんなに心配してたんだかって思うけどよ。そりゃあれか?いわゆる、嫉妬ってやつか?」
「……」
「……」

 いざ言葉で指摘されると決まりが悪くて、ますます顔は上げられなくなった。勘違いらしかったことも恥ずかしいし、あの子供にそんな感情を抱いていたこともまた。嫉妬なんてできる人間だったのかって、我ながら今更な驚きもあった。
 最早言葉も失くして俯くだけの私に、セキが腹から大きな溜息を零したため、殊更萎縮した。さすがに、贈り物をされてこんな反応しかできないのなら呆れられたり、愛想尽かされても可笑しくはなかろう。せっかく憂いていたことが杞憂だったらしいわかったのに、結局私がこういう人間だから、全てが破綻してしまうのか。
 だけど、萎縮して微かに震える私の頬を、セキの手が淡く撫でた。指先で労わるような仕草に、はて、と内心首を傾げる。今しがたの溜息の余韻を全く感じさせない触れ方だった。

「イリス、おまえ、そんな可愛いとこあったんだな」
「かわっ!?」
「なんだ、思ったより好かれてたのか、俺は。気を引こうだなんて、そんなこと考える必要もなかったのかもな」

 目を見開いていると、ゆっくりと頬を持ち上げられて、また優しさに満ちた瞳とかち合った。豪快な性格のくせ、慈愛を見せる、こちらがこそばゆくなるような眼差し。先程可愛いと言われたことも相俟って、カッと顔が熱くなった。
 セキもまた、私が気付けなかった気掛かりがあったのだろうと、その口ぶりから察することができた。私の気を引くために髪飾りを探していたというのも。二人して、同じ方向を見ている筈なのにすれ違っていたわけか。
 なんて可笑しな話だろう。私達は昔から共にいて、大人が決めたこととはいえ夫婦となることを定められて、そのつもりで一緒にいて、今は夫婦になったのに。互いの気持ちに不安を覚えてそれを言えないまま。最初から決められていた関係だったからこそ、相手を慈しむ時間を、あまり設けられていなかった。セキへ気持ちがちゃんとあるのに、それを見せるための力もなくて。そういうところばかりずけずけと、セキも言ってくれない。

「……なあ、俺は多分、イリスが思っているよりもイリスのこと好いてるぜ」
「わたっ、わたし、わたしっ、あの」
「無理に口にしなくてもいいからさ。イリスが口下手なのはガキの頃からようく知ってるからよ。言える時には言ってほしいけどな」
「……」
「若いとか英雄とか関係ねえよ。俺が夫婦になったのはイリスだ。子を産んでほしいと思うのもな」
「っ」

 生温い視線がいたたまれなくて身を捩ろうとしたが、頬を固定されて体は引けなくなった。いいや、逃げようと思えば逃げられるのだろうが、私の体はそれ以上動こうとはしない。私だって、言葉にするのは途轍もなく恥ずかしくて中々言えないけれど、好いているのはセキだけだ。つまらない女でも、心移りされたくないと、思ってしまう程に。

「……セキ」
「ん?」

 夫婦だからとか関係なく。好いている男の子を産みたいと思うのは指差されることではないだろう。今まであまり色好い返事はしてこなかったけれど、セキもまた、私の気持ちを自分に向けていてほしいと願うのならば。私も少しずつでも、自分の気持ちを伝えていかなければ。

「あり、がとう。これ、嬉しい」

 髪飾りに触れながらどうにかそれだけは伝えると、目をぱちりとやった後、がばりと抱き着かれて引き攣った叫びを小さくも上げてしまった。あまりの勢いにたたらを踏みそうになったが、私よりも大分体格がどっしりとしているセキにかかれば、私が態勢を崩すこともないのだ。

「なんだそうやって笑えるんじゃないかよおめえは!ったくよう!ねえ頭振り搾った俺が馬鹿みたいだろうが!」
「セキ、あのっ、くるし……」
「ムベさんから教わった房中術も無駄にならなさそうで良かったぜ!」
「!?」

 ムベさんってあのシノビの……と思い出した瞬間、声にならない声をあげかけた。確かに子は産みたいが、一体何を教わったのかと問い質さないといけないのかもしれない。私達にはもっと話をする時間も必要だ。


20220621