短編
- ナノ -


 ごめん、愛してる


「彼、あなたになんだか似ているわ」

 ルリナが零すから改めてその顔を見つめてみたが、そんなに自分に似ているだろうかと首を傾げた。けれどルリナは呆れたような息を一つ零した後、横目に俺を流し見してから、頬杖をついてイリス達をまた見つめる。顔じゃないわよ、と付け加えてから。

「知ってた?イリスね、昔、あなたのこと好きだったの」
「……それを俺に今言って、どうしたいんだ?」
「別に。ただ、案外臆病だったんだなって思っただけ。いい気味」
「もしかして、この前のトーナメント戦のこと根に持ってるのか?」
「さあ?私心は狭くない方だから、あっという間に六タテされたことなんて気にしちゃいないけど」

 結局それが私の実力だものね、と、最後には小さな声と、また小さな溜息。今度は俺への呆れよりも自戒の類のように聞こえた。
 何とも言えない空気が俺とルリナの間に満ちた頃、遅れて合流したソニアが元気な声を出してくれたお陰で、ルリナの気もそちらに向かったから妙な空気は瞬く間に消えていった。

 婚約パーティーは終始誰もが明るい笑みで、大成功だと思う。パーティーとは言っても二人の暮らす賃貸が会場になっていて、そこへ集まった誰もに祝われるイリスは、誇張なくもう既に世界で一番綺麗で幸せに見えた。参加者はジムチャレンジ時代の同期がほとんどだが、俺とは交流の途絶えた人たちが未だにイリスと仲を持っていたことを、今更知った。人懐っこい笑みで懐に入るのが得意なイリスを慕う人間は多くいて、誰もが心からの祝福を顔からも雰囲気でも出していた。だから、部屋の隅っこでルリナが隣にいなくなったことでぽつんと一人になり、シャンパン片手に黙って座り込んでいる俺だけが、我ながら浮いている気がした。
 そもそも、今でもリーグやバトルに関わっている同期なんかほとんどいないから、俺とは久しぶりの再会になる人間も少なくはない。フランクに話しかけてくる人もいれば、遠巻きに見て腫物でも扱うかのような人もいる。それくらい、彼等にとって負けた元チャンプというのは意識せざるを得ないのかもしれない。

「ダンデ君、こっち来てよ!」

 酔わない程度に、とは自分を諫めつつも、一人きり手持無沙汰なせいで知らず知らずグラスを空けるペースが速くなっていた頃合いに。祝福に囲まれるイリスが、笑顔で俺を手招きした。その隣には、俺に似ている、とルリナが評した、にっかりと歯を見せて笑う彼。
 グラスを置いて、なんだか重たい腰を上げた。立ち上がると微かに目眩がしたけれど、多分アルコールのせいではない。じわじわと、ルリナの言葉が回っているようだった。俺のこと好きだったのって、いつくらいのことだったのだろう。過去形になるほど、昔のことなのか。
 ベタな映画や小説でもあるまいに。他の誰かのものになってから、自分の気持ちに気が付くだなんて。


 イリスが婚約した彼は、月並な言い方だがとても良い人だった。イリスと同じようににっかりと見ていて気持ちのいい笑顔を見せてくれる人で、優しくて、気も利いて、自信も能力もあるがそれをひけらかさず、いつもイリスをリードしてくれる。一緒にいて楽しいって、イリスはこそばゆそうに語っていた。その頬が赤いのは、きっとシャンパンのせいでも暖まった空調のせいでもないのだろうな。

「もう一緒に暮らしているんだって?」
「うん。でもね、聞いてよ!アイツってば結構だらしないんだよ!怒ってもへらへらして、悪い悪いって軽く言って、本当に反省しているのやらッて感じ!」
「そうなのか」
「そう!まぁでも、喧嘩染みたことした後はね、必ずケーキとかチョコレート買って来てくれるんだ。ご機嫌取りなんだろうけど、もうちょっと他にないの?って思ったりもするよ。甘いものばっかだと太るし」
「成程、惚気だな」
「違うよ!……ちがわないのかな?」
「ははっ。いいじゃないか惚気の一つや二つくらい。今日はイリス達をお祝いするために集まっているんだから」

 彼が自身の友人と話をするために輪を抜けた後、丁度二人だけになったからといって、何の気にせず話しかけたことを、少しばかり後悔した。当たり前だが、知ってどうするのかというようなエピソードばかりイリスの口からは出てくる。知りたくもないけれど、未練がましくもイリスと話をしていたいから、とにかく二人を祝福している言動を心掛けた。時折目を細めて幸せを噛み締めるようなイリスが、こんな時ばかり一際可愛く見えて、けれどその目が別の輪にいる彼をむいているのを良いことに、その幸福に満ちた横顔を見つめ続けた。他の男と幸せになるイリスは、俺からの視線なんか全く気が付かない。それがありがたくて、悔しくて。
 遠目に見ても、彼の笑みはとても素敵なものだ。底抜けに明るくて、彼が中心になって話も盛り上がっている。話を伺う限りでも彼を慕う人間は多いのだ。イリスと彼は、端から見てもお似合いだった。

 今更気持ちに気が付いたところで、俺が今からできることなど何一つない。ルリナに嫌味を言われるくらいしか、俺にはできない。今隣にいるのに、イリスの心はよそにある。俺がバトルに夢中になって、チャンピオンの椅子を守っている間に、イリスは彼と愛を育んだのだから。
 ルリナは臆病だと嘲ったけれど、それは少し違うのだと思う。本当に、パーティーに呼ばれるまで、自分の気持ちを知らなかった。ポケモンや家族以外への愛なんて、欠片も知らなかった。ティーンの頃に委員長が用意してくれた女の人と体の関係だけ結んだこともあったけれど、文字通りそれだけだった。誰かを愛するということが、今までよくわからなかった。
 それが今頃。イリスを見ていて、ようやくそれが理解できたような気もした。誰かを心から愛する顔を間近で見て、痛んだ心身が、やっと。

「イリス」
「ん?」
「おめでとう」

 思ったよりもすんなりと出てきてくれた言葉に、俺がいつの間にか愛していた笑みで、イリスは応えてくれた。
 臆病だとか、もうそういう次元の話ではないのだ。幸せそうなイリスを見ていたら、どうこうしたいなんて露ほどにも思えるわけがない。今イリスがこうして幸せに浸りながら笑えているのは俺の力ではないのだから。
 おめでとうは、きっと心から素直な気持ちだった。


  ◇◇


 神様は時として残酷で、よりによって幸せな人から全てを奪っていくものらしい。急転直下とは正しくこういうことなのだろう。
 彼が、車に衝突されて亡くなってしまったのだ。

『二人で歩いているところに車がスリップして突っ込んできたらしくて』
「そんな……じゃあイリスは……っ」
『あの子はかすり傷程度よ。ただ、』
「ただ?」
『目の前で彼が跳ねられる瞬間を見ちゃって……』

 ルリナからの言葉はそれ以上なかったが、それだけでイリスの現状は想像に難くはない。スピーカー越しでもわかるくらいルリナの声は憔悴していて、やっとの思いで俺に知らせてくれたのかもしれなかった。
 現在は入院しているとのことで、すぐに休みを取ってイリスの元へ向かった。彼の方はもう三日前には息を引き取っていて、打ち所が悪かったようでほぼ即死だったらしい。同じ病院に搬送されているから、イリスもまた彼のことはとっくに聞かされているとのことで、そこからイリスの様子が段々と変わってきているらしいと、病院で合流したルリナもソニアも泣きそうな顔で教えてくれた。
 会いに行ってもいいのかなと躊躇は一応したのだ。でも、ルリナもソニアも慰めてやってくれと言ってくれた。あなたのこと好きだったの、という数か月前のルリナの話は、きっとソニアも知っているのだと思う。本当なら事故があったその日に連絡をくれようとしていたようだが、イリスの様子が明らかに可笑しいとわかったのがつい昨日のことらしくて、俺への連絡が一番最後になったらしい。
 通された病室で、一人きりでイリスはベッドに座っていた。ぼんやりとした顔が、人が入ってきた音で上げられる。怪我は大したことはない筈なのにもう三日も入院しているイリスは、俺の顔を見た瞬間に、はらはらと涙を零し始めた。顔を上げた瞬間にほんの一瞬見えた光が瞬く間に失われて、そうして、どこをどう見ているのか、わからなくなった。もう随分と泣いたのだろう、目元が赤くて腫れぼったい。

「イリス」
「……どこいっちゃったの?」

 たったのそれだけで、今イリスの状態がどんなものなのか、嫌でも理解してしまった。病室に入る前にルリナやソニアも悲しそうに顔を伏せていたが、人が来ると彼ではないかと、少なからず期待してしまうようで。遺体とは既に対面もしたから、もう彼が目を開けないのだと、死んでしまっていることをわかっているのに、まだ心が追いつけていない。イリスは現実を正面から見られなくなっていた。

「ダンデ君、あいつ、どこいっちゃったの?」
「……」
「あの、ね。かばってくれたの。おされて、転んで、そうしたら……そ、う。そう、そう、くるま、くるまっ、が、」
「イリスッ」

 言葉を失くしている間に混乱してきたのか、泣きながら頭を抱えるイリスを見ていられなくて、たまらず抱き締めた。イリスをこうして抱き締めるのは生まれて初めてで、よりによってこんな時にそうしてしまったことを、いくらなんでも喜べるわけがない。

「つめっ、たかったの、顔、まっしろでっ、」
「もういいから……っ、無理に話さなくてもいいから」

 縋りつかれているのも反射のようなものだ。イリスは、ただ自分の激情を一人では抑えられないから俺の服を握り締めて、顔を埋めているだけで。彼には物凄く申し訳なかったけれど、事故のことをきいた際に頭の中にあったのはイリスだけだった。彼とはパーティーで一度会ったきりで、イリスの口からしか人物像も知らないような人だ。だから、心配だったのは残されたイリスだけだった。
 それを、悪いことだったと感じてしまうくらい、イリスの悲しみは目に見えて深かった。体は無事だったのに、心まで無事ではいられない。目の前で愛する人を突然失った喪失感と庇われたことによる自責に押し潰されそうになるイリスが、とにかく哀れで、まともには見ていられなくて。


 精神的なショックによる症状を治療するためにカウンセリングを受けさせたり、薬を始めたり、周囲がイリスのサポートをしている間に、彼の葬儀もまた速やかに行われた。心を乱さないよう全てイリスには伏せられ、葬儀に出してやれなかったのは心苦しかったが、こんな、今にも自ら命を絶ってしまいそうな程虚ろな顔をするイリスを送り出してやることは、誰もができることではなかった。
 その上、入院してから数週間経ったが、イリスの状態は何も変わることはなかった。寧ろ日に日に憔悴していくばかりで、食事もろくに取れない。次第に歩く気力もなくなってしまったようで、ベッドに横になりながらただ天井を眺めるばかり。時々フラッシュバックに襲われると涙が止まらなくなったり、彼の名前を延々と呼んで必死に求める。最近は、ごめんなさい、と啜り泣きながら壁に謝ることも増えた。
 みんなで根気強く、と構えてはいたが、あんなに人懐っこくて明るかったイリスの痛ましい変貌には、口を閉じてしまうことも多かった。とてもじゃないがまともに見ていられるような姿ではない。それでも、目を離すとイリスはどうなるかわからないのが恐ろしくて。


 その日は天気も良く、風も穏やかで心地良い日だった。
 手土産を片手に病室へと向かう途中、胃の辺りが重たい感覚があって、無意識に溜息も何度か零していた。悪化を辿る一方のイリスに、サポートをする周囲も疲れを見せ始めていた時期だ。生気を失くしている無気力なイリスに辟易するなと言う方も酷と感じられるほど、周囲の気遣いも心配も虚しく、イリスは塞ぎこんで徐々に現実に蓋をしていた。ここ数日はそれが特に顕著で、もう見ているのが辛いと言って、友人も職場の人間も、見舞いに来る人間は減っていた。
 イリスの病室はいつの間にか綺麗に飾り付けられていた。みんな花やイリスの好きなお菓子を持ってきたり、入院中気がまぎれるようにと本や雑誌を持ってきたり、無機質な室内では気分も滅入るだろうと飾れるものは飾らせてもらったり。イリスがどれだけ多くの人間に愛されていたのかは目に明らかで、けれど、綺麗に飾り付けられた部屋の中でただ一人、イリスだけがもうずっと灰色だった。

「イリス、今日は体調はどうだ?」
「……」

 最近は寝たきりだったが、今日は珍しく体を起こしていたから、きっと気分が少しは違うのだろうと、俺もなるべく軽い口調で訊ねた。遅々として快方に向かわないイリスだったが、今日はここしばらくと比べても様子が落ち着いて見えた。

「ほら、チョコレート買ってきたからな。イリスの口に合うかはわからないけど、一個貰ったらとても美味しかったから」

 もうドアが開けられても誰かを確認すらしなくなったイリスの顔が、気紛れになのか、こちらに向いた。反応があるだけまだいいと、そっと笑いかけてイリスの目の前に箱を差し出すと、どうしたことか、目を大きく見開いた後に、静かに涙を零し始めてしまった。呼吸が少しずつ荒くなってきて、肩も小刻みに震える。

「……それ、わるかったなって、くれたの……」

 そのまま、顔を覆ってしまった。やってしまったと体が凍った。多分、彼を怒った後にお詫びと称してケーキやチョコレートを買ってくると言っていたから、このチョコレートが正しく、彼が生前イリスのために買ってきたものだったようだ。

「イリスっ、ごめん、そんなつもりはなくて」
「……」

 言葉もなく泣くだけのイリスは、けれどすぐに泣き止んだ。震える肩を擦ってやると少しして落ち着いたが、覆っていた手を外した、隠されていたその顔が、あまりにも。

「……わたし、なんでないてたんだろ?」

 ――もうここが限界なんだと、咄嗟に思った。

「……イリス?」
「なんで、ここにいるんだっけ」

 そう、また壁や宙を眺めて、淡々と零すイリスが、こてんと首を傾げた。その、泣きはらした名残をまだありありと見せる顔と、見えているのに何も見えていないようなその瞳が。魂に形があるとするならば、これが、イリスの肉体から抜け落ちていくという時なのかもしれないなんて、そんな現実味のないことまで頭の中で浮かんでいた。それ程、目の前のイリスの有様は以前とは打って変わっていたのだ。もう正気だとはお世辞にも言えないことが、あまりに不憫で。
 震える足をどうにか動かして、イリスへ目線を合わせるように腰を折っても、イリスの瞳は俺へと向けられない。自分の顔を覆っていた掌を眺めて、不思議そうにぼんやりとしている。それを見ていたらいたたまれなくて、気持ちがどうしようもなくなって。覆しようのない残酷な現実のせいで潰れかける、心にまで蓋をかけ始めたイリスを、ただ抱き締めた。このままだと蓋どころか、自ら自分の心を殺してしまいそうで、それだけは阻止したかった。
 すっかりとほぼ骨と皮ばかりになったイリスの体はもう本当に、今にもガラガラと崩れてしまいそうで、だけど力いっぱい抱き締めてやらないとかろうじて残った体まで脆く消えてしまいそうに思えたから、とにかく力強く抱き締めた。それでも、イリスからの反応は乏しい。掌はベッドの上に投げられたまま、俺の力加減に顔を歪める素振りもなく。もう痛みすらわからないのかもしれなかった。

「ダンデ君?ないてるの?どうしたの?」

 指摘されてようやく自分が泣いているのだと気が付いた。痛みには鈍くなっても俺が泣いていることはわかったようで、こちらを見てくれたことが嬉しくて、そう思うと余計に涙は止まらなくなった。
 あんなに素敵な人だったのに。人懐っこくて、懐に入るのがうまくて、明るい笑みで、俺達を笑わせて温かい気持ちにさせてくれたのに。愛する人ができて、結婚するって、みんなに祝福されたのに。その愛する人が、最後まで隣にいてくれたのに。
 もう、彼は隣にはいてくれないのだと、理解して、だけど拒んで、受け入れられなくて、受け入れたくなくて。自分のせいで死んだのだと自責の念に駆られて、そうして自らを弱めていく。もうイリスの心がバラバラになる寸前だった、これは。

「どっかいたいの?くるしいの?…………あ……、あッ、いたいのは、やだねっ、くるしかったね、わたし、わたしっ、が」
「イリスのせいじゃない、全部イリスのせいじゃないんだよ」
「くるっ、くるま、がね、」
「もういい……もういいんだ」
「……?だんでくん、ないてるの?どうしたの?」

 いっそのこと意識を乖離させてしまった方が、イリスも楽になるのではないかとすら思った。わからなくなったのならば、もうそれでいいのだと。現実が見られなくなったのなら、そのまま見なくてもいい。それでイリスの心が砕けて飛び散ってしまわないのならば、蓋で完璧に封じないで済むのならば。かろうじてでも繋ぎ止めていられるのなら、いっそのこと、そうした方が。

「……忘れよう、イリス、こうなったら全部忘れてしまおう。そうでないと、君までいなくなってしまう」
「わすれる……?」
「ああ。彼のことも、事故のことも。もう、考えなくていいから。見なくてもいいから。楽しかったことも、嬉しかったことも。辛かったことも、悲しかったことも。なかったことにしよう。冷たくなった彼の温度も、忘れよう」
「……」
「もう、忘れていいんだよ」

 瞬間、イリスの瞳が、完全に力を失くしたように見えた。体からも力が抜けて、俺が抱き締めているからなんとか体を起こせていられる。だから、今はまだいなくならないで済んだ。
 そのままイリスは意識を失ってしまったから、一先ずベッドに寝かせて、その一見穏やかな寝顔を見つめながら、しかし落ち着いたことに安堵なんかできるわけもなく、ひたすら罪悪感に襲われていた。だけど、俺の中の優先は、どうあってもイリスだったのだ。彼とは結局たったの一度しか顔を合わせたこともない、俺にしてみれば完全なる他人だ。イリスの大事な人だったからもちろん尊重はしたかったけれど、どちらかを選べと言われれば、絶対にイリス以外にあり得ない。または、俺の中の隠して仕舞いこんだ気持ちがそうさせるのかもしれなかった。
 何より、彼はもう、この世にはいないのだから。とっくに家族の手で葬儀は終えられている。でも、イリスはまだ、壊れかけでも生きているから。ちゃんとここで、息を吸って、吐いて。イリスは生きている。
 それから三十分ほどで、イリスは一度目を覚ました。正直このまま眠ったままになったらどうしようかと一抹の危惧はあったけれど、思っていたよりもすんなりと瞼を開けたから、思わず身を乗り出してその顔を覗き込んだ。

「イリス、目が覚めたか?その、体は、へいきか?」
「……だんでくん、」

 瞼の下の瞳はまだぼんやりとしている様子だったけれど、存外焦点もあっているし、きちんと俺の顔を見ている。それには少なからず安堵していたわけだが、次の瞬間、イリスはやんわりと笑った。その、俺が好きな、きっと彼も好きだっただろう笑みで、また恐るべきことを言ってのけたのだ。

「どこいってたの?さみしかったじゃん」
「え?」

 布団の中に入れていた腕をそこから出して、ゆっくりと持ち上げながら、その指先の向かう先は、俺の頬だった。するりとなぞって、優しく撫でてくれる。

「会いたかったんだよ。婚約者をずっと放っておくなんて、ひどいや」

 ――鈍器で殴られた感覚って、きっとこういうことなのだろうな。

 絶句して目を見開いたまま何も言えない俺に、けれどイリスはまた優しく笑って、でも愛おし気な眼差しで俺を見上げる。のそりと体を起こしたと思ったら、あまりの衝撃に固まる俺の体に、まるで絡みつくように、その腕を巻き付ける。

「だんでくん」

 とても甘い声音だった。彼のことを口にしていた日と、同じ顔と、声。震えて、息が難しくなっている俺など無視して、いいや見えていないのか、本当に心から愛しているとでも言いたげなその素振りが、また俺に残酷を突きつけた。
 だけど、イリスがそれで生きていけるのなら、もうそれでいいのだと、無理くり自分に言い聞かせた。息の仕方が思い出せるのなら。違う、そうするしかないと思い込んでいた。唇を噛む俺に、イリスは不思議そうに「唇きれちゃうよ?」だなんて心配してくれる。そのまま、じっとしていられなくなって、その細くて薄い、折れてしまいそうな体を再びかき抱いた。

「すまない……すまないイリス……ッ」
「えー?何謝ってるの?確かに寂しかったって言ったけど、会いにきてくれたからもういいよ」
「ごめんな……ッ」

 新しい現実を――現実だと思い込んでいることのために、イリスが顔を上げられるのならば。それでイリスの心が守れるのならば。彼には本当に申し訳ないと思う。これは冒涜にもなり得るのかもしれない。でも、ここまできてしまったら、もう。

「……イリス、そうだな、もう寂しい思いはさせないから、だから……俺と一緒に生きよう。これからは、俺のために生きてほしい。たくさん俺のことを考えてほしい。もう辛いことも難しいことも考えなくていいから、どうか」
「へへ、もうどうしちゃったの?結婚するんだから、ダンデ君とずっと一緒にいるつもりだよ。もう、泣き虫だねダンデ君は」

 へらりと笑うその顔は、ここ暫く見たことのなかった、何の陰りもない面影で、そんなイリスに対して、情けなくも泣きながら、所々途切れながらも、我ながら酷いことを言っている自覚はあった。でも、それでイリスの心が保てて、歩いてくれるのならば。俺が、彼になることで、イリスが耐えられるのなら、もう、それでも。


  ◇◇


 自分の中の現実を置き換えたイリスは、自分がどうして入院しているのかもあまり覚えていなかった。だけど特に気にすることもなく、退屈だなぁ、なんて無邪気に笑っていた。けれど食欲も戻ったし、ベッドに一日中いることも減って積極的に歩くようにもなれた。医者の診察を受けてから退院することも決まって、もちろんそれにも付き添って、二人で病院を後にする。事前にイリスと彼が暮らしていたアパートの鍵は本人から預かって、できるだけ彼女の荷物は俺の家に運び込んでいるから、前々から一緒に暮らしていた、という設定はこれでどうにか通じると思う。彼のものはもう家族に引き取ってもらったし、アパートの引き払いの手続きも済ませてある。
 イリスが自ら変化させてしまった記憶の整合性を取るために、俺も注意深くその様子を観察する必要があった。だけど、辻褄が可笑しいようなことは大体都合よく解釈したりしてくれるから、あまり神経質にならなくてもよかったかもしれない。それでも彼との今までの暮らしぶりについてだとか、彼の言動だとか、なるべくイリスが違和感を覚えないために。そうでなければ、不意に記憶がぶれてしまうと何が起こるかわかったものではない。また、あんな生気のない虚ろな瞳も、壁に謝る姿も見たくはなかった。
 でも、イリスの中で俺が結婚を約束して同棲する婚約者になったとしても、俺は今までイリスと一緒に出掛けたことすらないのだ。ジムチャレンジ中に何度か顔を合わせたりバトルもしたが、それ以降二人きりになったことはない。だからイリスの好きなものはほとんど知らなかった。
 些細な事柄でイリスが今見ている現実に綻びを生んでしまうわけにはいかないから、文字通り具にイリスのことを観察し続ける。でも、そうすればそうするだけ、愛しさが募る一方でもあった。元々押し殺してきた気持ちがぐいぐいと顔を出し始めていて、それはいけないことなのだと自分を罵ったり言い聞かせるのと同時に、どうしてそう必死に否定する必要があるのかと開き直る部分も出てくる。だって、俺は紛い物でも、イリスの中では愛される婚約者なのに。

「……あ」
「どうしたの?そんな驚いた顔して」

 家にいさせているイリスが、俺が帰ってきて一番に、キスをした。流れるように、とても自然に。気付いたらキスをされた後で、面食らって呆然とする俺に、イリスは可笑しそうに笑うだけ。何も糾弾されるようなことではないのだ、これは。恋人で、婚約者なのだから、キスくらい。でも、そこでようやく気が付いたと言っても良かった。彼になるというのは、つまりは、こういうことなのだ。イリスがキスをして、はてはセックスまで求めるかもしれないこと。それは、何一ついけないことではないのだ。
 気が付いてからというものわかりやすく動転する俺に、イリスは尚も笑いかけてくる。気軽に手を重ねてきたり、腕を絡ませてきたり。背中から抱き着かれるといつもどきりとした。あの日不意打ちに食らったキスを、堂々とねだってきたり。そうして、ベッドでも。
 いいのかと散々悩みはした。でも、拒否をすればイリスはどう思うのだろう。彼とどういう毎日を送っていたのかもあまり知らない俺は、二人の事情を詳しく知らない。だけど、イリスの中では置き換わった現実でも、それは彼女の中では以前から延々と続いているものだ。住む家が変わっても頭が勝手に辻褄を合わせてくれたお陰で、何の訝しみもなくこの家で暮らしても、あまり違和感を与えすぎると上書きした現実が呼び起されてしまうかもしれない。それがどうしても怖くて、嫌で、だから。

 ねだられると頭の中身が沸騰して溶けてしまいそうになった。触れる前に逡巡はしても罪悪感に襲われながらイリスと唇を重ねて、体を重ねる間、ずっと、たった一度しか見たことのない彼の顔がしつこくちらつく。
 しょうがないのだ、と何度も何度も繰り返して、求められるがまま、本当は昔から好きだったイリスと関係を結んでしまった。俺の手で乱れるその顔が、体が、かわいくてたまらなくて。人生で触れることは決してないと思ってきたイリスに、こうして触れられることが喜びで。それがどうにも背中から重たく伸し掛かるような不幸で、どうにも満ち足りた幸せだった。そうしていると、いつの間にか彼の顔を忘れてしまう。しかしハッと我に返った瞬間に、イリスの後ろに彼の影が見えた気がすることが、よくあった。

「あいしてる、ダンデ君」

 でも俺が生涯向けられるはずのなかった言葉が耳を擽るのが、嬉しくて、悲しくて、泣いてしまう程に。
 一度してしまえば次からの抵抗感は薄くなった。本気で後ろめたいと思うのならそもそも触れるべきではなかったのに、イリスに違和感を覚えさせないためだとか、色々と都合よく言い訳をして、なるべく控えるようにはしたものの、結局イリスに触れると火がついて自分を止められなくなる。毎日したいって言ってたのに、なんて言われた時にはそんなの知らないと言いたかったし、いつだってイリスに触れることを許されてきた彼に嫉妬してしまったけれど、俺を愛しているのだと錯覚しているイリスに求められれば、やはりどうしても拒めない。
 一度味わってしまった、触れて触れられる心地良さと幸福感に中毒になったように自制がきかなくなってしまう。馬鹿になる程、イリスが日に日に愛しくなっていく。極悪な犯罪ではないかもしれないが許されないことをしているのに、俺のせいでしなくてもいいことばかりさせて、整合性を取って混乱させないため、第三者から本当の現実をほんの少しでも思い出させないためにも仕事を辞めさせて家に縛りつけているのに。好きだって、愛してるって言われると、もっと頭が馬鹿になる。そして、俺が知らないイリスと彼のことを知る度に、してはいけない嫉妬心で燃えてしまいそうになる。
 この世からいなくなったことで、却ってイリスは彼から離れることはできなくなっている。


  ◇◇


 ベッドの中、隣で寝息を立てるイリスの額を、そっと撫でた。俺からはなるべくしないようにしても、すぐに不安になって求めてくるイリスがいじらしくて、可愛くて、なんだか哀れだった。求めているのは俺ではないのに、自分を守るために都合よく辻褄を合わせた、嘘の現実を生きるイリス。このまま何も知らないままでいて欲しいけれど、そうしたら、本当に俺と結婚しなくてはいけなくなる。別れる手もあるが、今のイリスを放り出すことなどできる自信もない。しかるべき場所でしかるべき処置を受け続けていれば、全く違ったかもしれないのに。

「……ごめんな」

 イリスが聞いていないところで、聞こえないような状況で、そうやって謝る癖もついていた。こんなの何の実も結ばない、独り善がりな謝罪に過ぎない。きちんとそれをわかっているのに、口にせずにはいられない。或いは、そうやって俺自身も自分を丸め込んでいるのかもしれない。仕方ないこと、そういう方便で、俺はイリスを守っている気でいる。繰り返すが、もう彼を失った後のイリスに戻って欲しくないのだ。あんな姿、誰もがもう二度と見たいとは思えない。

「うっ……」
「大丈夫だ。大丈夫だからなイリス。何も怖くない」

 突然眉を顰めて微かに呻きを上げたイリスの額をもう一度撫でて、少し汗で張り付く髪を流してやる。こうやって時折魘されることがあるイリスは、夢の中でだけ現実を見ているのかもしれない。忘れてしまった、だけどきっと忘れられない、起きたらさっぱり忘れている、彼のことを。
 そっと抱き寄せて、頭を抱えて、背中をあやすように軽く叩く。シャワーを浴びていないからお互い体がぺたぺたとするけれど、構わずその華奢な、だけど入院していた頃と比べれば格段に肉が戻った体を抱き締めずにはいられない。俺の腕の中で、現実という悪夢を見るイリスが、少しでも楽になれるように。
 放してやった方が、もしかすれば事態は好転するのかもしれない。俺が彼になったとしても、実際の現実は何も変わっていない。イリスの中で見えるものが変わっただけで、何の解決にもなっていない。でも、だとしても、それでイリスは今生きているのだ。そうでなければ、とっくにイリスは彼の後をどこかで追っていたに違いない。未だに車には漠然とした恐れを見せるのだから、外で一人で生きていくのはまだ難しいだろう。
 言い訳ばかりをして延ばしている結婚の話も、もう本格的に進めてしまおうかなんて、つい思った。このまま俺の腕の中で安らいでくれるのならば、それでイリスが笑ってくれるのなら。愛しているわけじゃない俺と、虚構でも望んでくれるのなら。

 罪悪感からは、確実に死ぬまで逃れられない。彼への申し訳なさも消えない。だけど、イリスが今呼吸できているのは彼でなく俺の腕の中なのだ。
 イリスが理解できない、俺からの「ごめん」でも。イリスを心の底から愛してしまったから、放せなくなってしまった。滑稽にも、離れられなくなったのは、他の誰でもなく俺だった。


20220614