短編
- ナノ -


 キライ≠


 イリスを見ていると、とにかくもやもやする。一挙手一投足が気になってたまらなくて、何か口を開く度にそこに注目せざるを得ない。あまり人の選り好みはないと思っていて、もちろん中には好感が持てない人たちもいるにはいたが、その負の感情を顔に出すことは今まで一切なかった。
 だけど、イリスを前にすると、どうしてもダメだった。もやついて、苛つきにも似た衝動が止まらなくなって、視界に入ると心身共にざわざわとなり全く落ち着かなくなる。その瞳の先がこちらに向くと、もうとんでもなかった。一瞬でカッとなり、一歩間違えれば怒鳴ってしまいそうになる。だから、絶対に目は合わせられなかった。

 イリスが何かする度に訳もなくもやつきが治まらなくなるから、却ってイリスからは目を離せなくなる。決して合わすことのない視線の先を観察して、自分に向くタイミングを見計らって逸らすのが常。最初こそ周囲や本人も驚いた顔をして、俺に注意をする人もいたが、口先だけで交わすしかない。だって、きっと無理だから。イリスを他の人間と同じように扱えだとか、きちんと顔を合わせながら喋れだとか。苛つきにも似たこの感情を理解してくれと、つい思ってしまう。
 うっかり鉢合わせてしまうと自分の頭の中が、まるでハリケーンのようになってしまうので、なるべくイリスのスケジュールを把握するようになった。ローズタワーでリーグ関係の事務の仕事をする彼女は基本的にデスクワークだし、ローズ委員長に呼び出されてそこへ顔を出さない限りは顔を合わせる確率は低くはなるが、万が一を考えるとリスク回避の為にも把握しておいた方が賢明だった。

 しかし、どうしても偶然というものは訪れてしまうのだ。ローズタワーのエレベーターで最上階へ向かっている最中に、なんと、イリスが乗り合わせてしまったのだ。書類を挟んだクリアファイルを胸に抱えたイリスが、中に立っていた俺に気が付いて顔を上げて、そこで油断していたこともあり、本当にうっかり、目と目がばっちりと合ってしまった。するとどうだ、案の定、頭の中身があっという間にハリケーンのようになっていく。訳の分からないもやもやが胸の中で瞬く間に広がり、段々と苛つきのようなものが始まる。ずきずきと心臓が痛い。
 他の誰にもこんな得体の知れない感情抱いたことはないのに、イリスを目にすると勝手にそうなる。しかも目と目が合ってしまった現状、厄介なことに、最早それを一人では鎮められそうにはない。

「お疲れ様です」
「……ああ」

 既に俺の態度は承知済だからか、イリスは俺がいたことにハッとはしたけれど、次の瞬間にはやわく微笑んで、すぐに背を向けた。目当ての階のボタンを押して、そのまま。間もなくエレベーターが浮上を始めたが、互いに口を開きやしない。俺の、あまり褒められた態度ではないそれに、顔も眉も顰めることなく、イリスは俺の態度に文句一つつけないし、しおらしく悲しい顔をしたりもしない。傷付いた素振りのないそれは、まるで、俺に関心などないかのように。
 それは大人であるとも言えるのかもしれない。良くも悪くも、受け止めてしまえることがそういう前兆なのだと、俺をかつて囲んでいた内の一人はぼやいていた。嬉しいことはそう言いたいし、嫌なことは嫌と言いたい。昔は感情に素直のままそうしていたけれど、確かに嫌なことでも笑い飛ばしてしまう方が後々尾を引かないと、子供の頃に学習してしまった。そうやって、余計なことは見なかった振りをして。やりたいことだけに目を向けて、後は浮かべなくてはならない笑みだけで過ごしてきた。それを大人と呼んでもいいものなのかも、自分では自覚がない。
 彼女もそうなのだろうか。目の前のことをやり過ごせる大人であるのだろうか。

「……しごと、は」
「えっ?」
「あ……いや……、その……」

 心底びっくりした、と振り返ったその顔にははっきりと書かれていて、なんとなく罰が悪くてまた目を逸らした。今まで俺からイリスに話しかけたことなんか、正真正銘一度とてないのだ。そういう態度をあからさまにしてはいけないと注意してくれた人には悪いが、やっぱりどうしてもイリスとは面と向かえない。こんなにもやもやさせる人に、やり過ごすことができないくらい濃厚なそれをもたらす人間と、どうあっても。

「チャンピオンは、バトル楽しいですか?」
「っ、たのしい」
「そうですか。私も、仕事は楽しいですよ」

 ふわりと、イリスは笑った。口を開いたはいいものの、結局何を言いたかったのかよくわからなくなった俺の言葉の先を読んで、そうして、笑った。そんなこと訊いてどうするのだとか、本当にそういうことが聞きたかったのか。そんなのは自分でもわからない。同じ空間にいることはやはり苛つくし、もやもやするし、足が緊張するように落ち着かない。そんな状況を敢えて打破する必要だってなかったのに。イリスも、自分が嫌な態度を取られているとわかっていて、だからさっさと背を向けて口を閉じてくれていたのだろうに。
 それきりまた互いに口を閉じて、最上階に辿り着く前にエレベーターが止まる。イリスが指定した階に到着してしまったのだ。
 無機質な扉が左右に開いて、そこに通路が伸びている。イリスは軽く顔だけで俺を見やったと思えば、ほんの少し首を傾げて、微笑む。

「それでは」

 俺の褒められたものではない態度に難癖もつけず、傷付く素振りも見せない。凛とした背中が去っていくのを見つめながら、あれは嫌な女なんだと直感でそう感想をつけた。もっと態度に表せばいいのに。敵のように思えばいいのに。なのに、イリスはそういう言動を微かにも見せない。俺だって、攻撃的だったり否定的な言動をされれば、顔には出さなくとも、心の中では腹が立つ。しかし、あの顔は、とても凪いでいた。
 もっと感情のままにぶつかって、抗議すればいいものを。自分のことなど棚に上げて、そんなことを考えていた。


  ◇◇


 風の噂で、イリスが見合いをするらしいと聞き及んでから、ますますもやもやに拍車がかる一方で、ほとほと困った。真偽も定かではないし、もちろん本人に突撃して直接真相を確かめるなんてのも、もっての外である。まず、何故真相を確かめようだなんて、一抹でもそんなことで悩んでしまったのか。その上、今何をしているのか、見合いの準備でもしているのかと、考えるだけで頭が可笑しくなりそうだった。
 多分もやもやも苛つきも、この際はっきりと言い表せば、嫌い、に属するものなのだと思う。今までこんなにはっきりと“キライ”を抱いたことはなかったけれど、イリスを見ていると、考えてしまうと、そうだとしか思えない。そんなところまで考えてしまうことは、生まれて初めてのことだった。
 嫌いな人間なのだから、どこでどうなろうと、構わないのに。自分でイリスのことをそうカテゴリした筈なのに。ふらふらとシュートシティの街の中を歩いてしまっている今、全くもって我が事ながら意味がわからない。わざわざ休日に目立たないよう意識した格好で、あちこちの飲食店を覗いたり、ホテルの前まで行ってしまって。休日は手持ちの調整に精を出したり、キャンプをして開放感を味わうのが好きなのに、一体どうして俺は。
 どうして、あのやわい笑みと、凛とした背中を、頭の中に貼り付けたまま街の中を歩いているのだろう。

「あれ?」
「っ!」

 得体の知れないと思っていたもやつきとイライラに、晴れて自分で名前をつけてカテゴリすることができたのに。説明のつけられない自分の行動に一々困惑してみたり、何をしているのかと呆れみたいな息を吐いていると、突然横から、そんな声が聞こえた。つい、またうっかりそちらを向いてしまったから、丸くて綺麗な瞳と、真っ向からかちあってしまった。あまりにその瞳が無垢な輝きを持っていたせいで、今回ばかりは、吸い込まれるように見つめてしまった。彼女はそんな俺に目を見開き、見るからに驚いた色を見せる。不思議そうな顔で、俺を真っすぐ、曇りない瞳で見返して。だがそれも、彼女が瞬きをしたことで終わる。
 我に返った俺は慌てて勢いよく目を逸らした。イリスがほんの少し、笑う気配がする。可笑しそうで、でも呆れている風ではない。何を笑っているんだと、少しむかついた。でもはたと気が付いた。イリスは、どうやら一人のようだった。それに、胸の中の片隅が、少しだけ静かになる。

「偶然ですね、こんな街中で」
「……そ、だな」

 顔でむかついていると、恐らくはっきりと出てしまっているだろうに、気にする素振りのないイリスは、この前エレベーターで鉢合わせた時のようにやわく笑う。心臓が痺れた気がして、とても不快だった。

「お買い物の途中ですか?邪魔してすいません。それじゃあ」
「まってくれ!」

 思ったよりも大きな声が出て、自分で自分に驚いて固まった。イリスはそんな俺を見て、今度は目を丸めることもなく、踵を返しかけた格好で止まった後、そっと俺に向き直してくれる。俺ばかり動じているようで、少し判然としない。

「え、と……そのっ、だな……」
「はい」
「イリスは、結婚する、……のか?」
「ええ?……あ、もしかして、今日お見合いだって誰かにききました?」

 あっさり返された言葉にずがん、と頭が殴られた。相変わらず目も合わせられないのに、またハリケーンがやって来る。嫌いな人間がどこでどうなろうと構わない筈なのに、どうして結婚するのかなんて訊いてしまったのか、自分の口が自分のものではないような錯覚もするくらい信じられなかったのに、更に混乱してきて、思考がこんがらがる始末だ。思考停止はバトル中であれば命取りになると言うに、よりによって、イリスという苛つく人間の前で、こんな失態をするなんて。
 しかも、何でもないように、見合いの話も、肯定が返ってきてしまったなんて。

「しませんよ」

 その瞬間、俺の周りの空気が、一度止まった気がした。呆ける俺に、イリスは悪戯そうに笑って見せる。俺が見たことのない、子供みたいに無邪気そうな顔だった。

「親の顔を立てるために会っただけです。後でお断りを入れるつもりです。それに、私、気になる人がいるので」

 止まった空気が、今度は淀んだ気がした。心臓がざくざくと刺されるように痛い。ハリケーンが酷くなる。指一本すら、ろくに動かせない。
 やっぱり、イリスは嫌いだ。バトルにおいてこんなお粗末な格好をしたことない俺を、こんな気持ちにさせるのだから。



 あれからずっとイリスの顔が頭にこびりついて消えなかった。バトルの時にはうまく切り替えられても、それ以外の時間は、ほとんどイリスのことばかり考えていると言っても過言ではないくらいに。どうして俺を苛立たせる人間のことを四六時中考えなくてはいけないのかと、日に日に苛立ちが止まらなくなる。見合いはなかったことになっても、気になる人がいる。そう言って俺を見たイリスの笑みが、どうしても忘れられなくて夢にも見てしまった。しかも、あろうことか、いかがわしい夢だ。
 それがどうしようもなく多幸感に満ちていたから、心の底から信じられない気持ちでいっぱいだった。俺にキスを何度もねだるイリス。俺に縋ってよがるイリス。俺の頬を愛おし気に撫でるイリス。湿った肌の熱さ。想像でしかない裸体がどこまで本人に近しいのかは知らないけれど、起き抜け直後に愕然となった。いくらなんでも、嫌いな女を夢の中とはいえ抱くのかと。いくら夢とはいえその中で、イリスに愛しさを覚えて、触れて触れられることに喜びを覚えるとは。心臓が痛みではなく、とにかくバクバクとして、噴き出した汗でべたつく体と、汚れた下着が気味悪かった。気味が悪くて、あの微笑みが忘れられなくて、触れたことのない本当の熱が、どれくらいの程度なのか、知ってみたくて。そう思う自分にまた飽きもせず、もやもやとして。


  ◇◇


 ――ただただ、苛ついていたのだ。ハリケーンで頭がめちゃくちゃだった。夢のこともあってこれまでで一番。だから、あろうことかイリスの腕を咄嗟に掴んでしまったのだ。
 帰ろうとしていたのだろう、見慣れたオフィスカジュアル姿のイリスは、突然横から腕を掴んで人のいない場所まで引っ張った俺に対して、何も文句を言わなかった。そういうところが気に食わないのだと、どうしてわからないのだろう。そう苛つきが加速するのに、思い切り掴んだ腕の熱だけで、否応なく鼓動が速まる。夢の中よりも、大分温かかった。

「なんだ、なんなんだ、君は」

 周囲の人気がない場所で向き合って、衝動的にイリスの肩を強く掴んだ。想像通り華奢な肩だった。両肩は掴めても、その顔を目の当たりにするのは難しくて、俯いたまま、地面に向けて吐き捨てた。心なしか肩を掴んだ自分の手が震えている気がして、バトル中にだって武者震いくらいしかしたことないのに、と奥歯を噛んだ。

「どうしてこんなに俺を苛つかせるんだ……いつも、いつもいつも……ッ」
「……」
「イリスを見ているともやもやとして、腹立たしくなって、顔も見たくないのに、」
「……いらいらするから?」
「そうだっ、だけど何をしているのか気になって、この前もわざわざ探しに行ったりして……夢の中にまで」
「夢?」
「最低な夢だった……イリスの裸なんて見たことないのに、想像で補って」

 淫夢の話まで零してしまったから失礼なことを言っているのかもしれないが、そもそも初対面の時から失礼な態度をしていたのだから今更だ。嫌な態度をしていると自覚はあっても、そんな自分をいつも窘めることができなかった。
 そこから喉が詰まってしまって、何を言うべきなのか急にわからなくなった。こうして衝動的に腕を引っ張ってきて恨み言を吐くくせに、どうしてそうしているのかがわからない。イリスがいると、自分が自分でなくなるような恐れが、確かに今、あった。それなのに、掴んだ肩から、体から、手が離せない。

「……ダンデさん。あのね」
「声を聴くのもだめだ、耳にはりついて、しばらく息が苦しくなって、」
「あのね、好きです」
「声が耳の中で止まなくなって…………は?」
「好きです、あなたのこと」

 今なんて言った?と、都合よく頭も体も、セメントを流し込まれたように固まった。口も開いたまま閉じられない。瞬きも忘れた。でもイリスは、俺に追い打ちをかけようと、そっと微笑むのだ。

「好きよ。ダンデさんも、私のこと、きっと」

 動かなくなった俺の手を軽く撫でてから、その小さな手は俺の顔へまで伸びてきた。下を向く頬をするりと撫でて、かおをあげて、と施しを与えるかのような優しい声が降ってくる。

「……すき?」
「うん」
「俺が、イリス、を?」
「私はそうだと思ってたけど。違った?」

 違った、と問われても。俺は、答えをすんなりと出せない。そんな、言われるがまま上げてしまった顔に、イリスの穏やかな微笑みがぶつかった。

「この前も、私がお見合いするからって、気になって探してくれたんでしょう?」
「……どこで何をしているのかって、誰かといるのかって、気になって」
「私が結婚を決めてしまっていたら、どう思います?」
「……嫌、だ」
「どうして?」
「知らない誰かと、一緒に、は」
「自分だったらいいの?」

 イリスと隣り合って笑ったり、それこそ結婚だったり。想像しかけて、けれどまだ色々と認めきれないせいで、つい癖で目を逸らそうとしたら、「逸らしちゃダメ」とイリスに優しく叱られてしまった。だから、なんとか、視線を留めるよう努める。俺を見つめるイリスの瞳は、微笑みと同じく穏やかだった。そのせいか、ほんの少し、肩の力が抜けていく。あんなに、目と目を合わせることが嫌でたまらなかったのに。添えたままだった頬を撫でるイリスの掌が、酷く気持ちが良くて、知らぬ間に安心できていた。

「ねぇ、わたしのこと、好き?」
「……わから、ない。わからないんだ。家族や身近な人以外に、誰かを好きになったことが、なくて」
「じゃあ、私と一緒に、覚えていきましょう」

 俺はイリスが好きなのか。こんな感情が好きってことなのか。自分ではまだ決めきれなくて、認めきれなくて。だけど、イリスの声を聴いていると、あんなに荒々しかったハリケーンが消えていく気がした。少なくとも、イリスが俺のことを好きだと言ってくれる度に、もやついたものが徐々に晴れていく気がする。あんなに感じていたイライラが、今や嘘のようになくなっていた。
 どうして俺がイリスのことを好きなのだと思うのか、改めて問うてみると。イリスは首をほんのり傾けて、あの、悪戯そうな笑みを浮かべた。どくりと、体に血が巡ったのが、嫌でもわかった。

「こんなにわかりやすい人、他にいませんよ」


20220520