短編
- ナノ -


 モルヒネ


 ドアが開いた音がしたのでダンデが帰ってきたのはすぐに気が付いたが、わざわざ火を止めて出迎えには行かなかった。出迎えると、とろとろに甘い顔で擦りついてくるのは経験としてわかっていても、そういうことから距離を取ろうとしていたのかもしれない。火だって一度止めても構わなかったのに。

「ただいまイリス」

 顔だけで振り向いて、おかえり、と返すと、ダンデは案の定微笑みつつものそのそとこちらに寄ってくる。きっと不満はあるのだろうが、それを表には出さない器用さというか、狡猾さというか、そういうものをこの長い時の中で思い知っている。

「前みたいに出迎えに来てほしいぜ」
「ごめんね、でも鍋見てないといけなかったから」

 嘯いてもダンデには筒抜けている。私もそれを十二分に理解している。私はダンデに嘘を吐けない。吐いたところで全て呆気なく看破されてしまう。そのくせ、それをまた顔にも態度にも示さないのだ。それにいつも得も言われぬ気持ちになる。厄介なことこの上なくて、でもつい虚勢を張って防御の姿勢を取ろうとする自分の意地汚さにも反吐が出そうだ。
 私はダンデに勝てない。この男がまだ年端も行かぬ少年であった頃、それを嫌でも世界に知らしめられている。私の敗北は、かつて全世界に生中継された。それまでガラルリーグは内々で盛り上がりを見せるだけのものだったが、丁度その頃委員長に就任したローズ氏の変革により、リーグもバトルもその在り方を大きく変え、ふるきものは一新された。そして、淘汰された。私もその一つだった。
 革命児に選ばれたのが、他の誰でもない、今私に背後から抱き着いて首に腕を回している、かつて少年だったダンデだ。

「今日のメニューは?」
「コテージパイ」
「腹が減った」
「もう少しで……ふっ、んく」

 野菜スープの鍋を無心で掻き回しているとそれが気に食わなかったのか、はたまたただ自分がそうしたかっただけか。強引に顔を固定されて後ろから唇に噛みつかれた。一瞬首が嫌な音を鳴らした気がしたのだが、性急な口の動きにあっという間に思考も落ちていく。反射で手を離したソリッドスプーンが、ぐるぐる無意味に掻き回していた力の流れに負けて、鍋に淵に当たってかたんと音を立てていた。
 腹が減ったってそっちか、と抜けていく酸素を惜しみながら、どうにか抵抗しようと形ばかり、後ろ手に押し返そうとはしたが、フリーになった手をこれ幸いと言わんばかりに掴まれたら、あっさり身動きは封じられてしまう。とうとう酸素不足に陥った頃、見計らうようにダンデは口を外してくれた。最後、ダンデの中にあったどちらのかもわからない唾液が置き土産として残されて、でも飲み下す余力もなくてだらだらと口に端から零れていく。わざとらしくダンデがそれを啜りながら顎、首へとその肉厚な唇を這わせる。元から形ばかりの抵抗だったのだ、もう私が敵う余地はない。私はダンデに何一つ勝てない。

「ダンデっ、」
「味見だけ」

 欲張りだな、と思う。腹を満たすために自分が望むまま行動しているのだ。私の意志を確認してくれることは多々あっても、決定権はいつでもダンデの手の中にあった。
 唾液でぬるついている唇が首筋をやんわり噛んで、震える私などお構いなしに好きなだけ痕をつけていく。痛みに小さく呻いて背筋が震えると、同時に頸が上がった。

「ね、ぼたんっ、を」
「ボタン?……ああ」

 スープが煮える音が聞こえたので咄嗟にそう告げると、ダンデはすぐにIHクッキングヒーターをストップしてくれたが、それが済むとまた私の体に手を這わすのを再開した。男は腹が空くと性欲が強くなるらしいが、それにしたって自分の衝動に素直過ぎる。そして、それに翻弄される私を近場に置いて、見て、楽しんでいる。味見は言葉通りだ。私に不完全燃焼を味わわせるだけ味わわせて、最後はお預けにされる。私が浅ましく懇願するまで、ダンデは。
 十個以上も年下の男に、長年そうやって、好きにされてきた。



 ――初めは逆らえないということではなくて、単純に面倒だったから。どうして自分を負かした子供を支えなくてはならないのかと苛立ちはしたが、少なからず、まだ自分が必要とされることに喜びがあったのは嘘ではなかった。

 表舞台から退場を余儀なくされたあの日から、私はこの世界に足をつけている筈なのにどこかふわふわとした心地で、バトルへの熱もすっかり失っていた。もう俗人というよりも、凡人であると言うのがふさわしいと我ながら思っていた。私の先代が突如としてチャンピオン引退宣言をして、光の如くリーグから姿を消してしまったので、急遽開催されたトーナメントで運良く勝って祭り上げられた虚構の立場だったが、私は圧倒的な強さと類まれなるバトルセンスによって、そりゃあもう打ち負かされてしまったから、早々に自由のない表から消えること叶ったのに。私を表から引きずり下ろした子供が会いたいと言ったからと言って、会いに行く道理もなかった。だけど、目標もなく熱もなく、ただ惰性で生きるだけの日々だったから、まぁ顔を出すだけならばと、今考えても甘すぎる考えだったのだと痛感する。
 十歳からほんの数年歳を重ねたダンデは、何やら私のことを大層お気に召しているらしいと。ローズ委員長から聞かされた時は天変地異の前触れなのではないかとすら慄いてしまった。自分が負かした相手を気に入るとは、これ如何に。当時ダンデのジムチャレンジ中に相手をしたポプラさんも、何を考えているのやら、と評していたが、本当にその通りだった。いくらまだ子供にしたって、その神経が理解できなかった。
 チャンピオンとして短い時間を過ごした頃には精神的にそこそこ子供だった私も、ダンデと再会した時にはそれなりな大人をしていて、しかし自分で言うのも恥ずかしいが自堕落な生活を送っていた。バトルは負けて以来していないし、気紛れに日銭を稼ぐだけのしがない日々。口も体もだらしのない暮らしぶりだった。ガラル中ダンデに沸いていたから、私の顔も名前もすぐに忘れられて、どこに行ってもダンデの色に染められていたから割と移動はしやすかった。ダンデの元へと通達があったのは、ガラルから出るのもいいなと、なんとなく夢想していた矢先のことだった。

 ダンデといつものように体を重ねた後、気だるい体と頭の裏で、そんなことを思い出していた。当のダンデは満足そうに口の端を上げて、自分にしな垂れかかる私をまるで恋人のように優しく受け止めながら、画面の中のバトルに夢中になっている。せっかく作った私の料理は、先程ダンデに抱かれた後行儀も悪くキッチンで強引に食べさせられたので、それもあって体は妙に重たい。私が事後のだらけきった顔で咀嚼する様を眺めながら自分もパイを頬ばったダンデは、もしや私の情けない顔が面白いのかと、時折勘繰りたくはなる。

「なぁ見たか今の?」
「……堅実な判断だね。でも、10万ボルトで確定を狙うのもいいけど、かみなりで一気に決めても良かったかもしれない。相手が日本晴れを使っていたから、命中率のリスクはあるけれど、決まれば観客も興奮するし」
「俺もそう思った!固い戦略はいいものだけど、観客につまらないと思わせてはいけない」

 この前やったマイナーリーグのジムリーダー同士のバトルにあれこれと言うダンデは、まるで子供のようだった。中には向上心の低いジムリーダーもいるマイナーリーグには、ダンデも眉を顰めることも多いバトルもあるが、どれも真剣に見て、自分ならどうするかだとか、どう迎え撃つのかだとか、こうしてはしゃぐようにする。私も意見を求められるが、されど面白味はないと自負があった。これくらいのことは誰だって思いつくことだ。それこそ、ダンデが長年競うキバナであれば、もっと、私では思いつかないような戦法をダンデと語り合えるだろうに。
 ダンデは私にバトルをしようとは言わない。その本音は知らないけれど、強制されたことはただの一度もない。ただ、家の中に置いて、一緒に寝て、ご飯を食べて、セックスして。それを恋人などとは、到底呼べなかった。

 ダンデが会いたいと言ったことで再会した私と彼は、最初こそ当たり障りない話をしたと思う。ダンデはしおらしく、チャンピオンってこういう時どうするの?と、まぁ可笑しくはない質問をくれた。私など短期間だけのただのお飾りだったのに、とは自嘲したが、相手はなにせ子供だ。一応は先達として教科書通りの答えをあげた。とは言っても、ローズ委員長がリーグもガラルの事業も牛耳るようになってから、リーグの運営方法も変わってきている。バトルの在り方も、マスコミ対応も、ファンへの対応だってそうだ。だから、私のように淘汰されたふるきものの答えなど何の価値もないのに。それはあらゆるものを刷新した委員長が一番わかっている筈なのに、彼は私をダンデと引き合わせた。
 今ならその理由がわかる。委員長は、ダンデに私を宛がいたかったのだ。トレーナーとして。前チャンピオンとして。大人として。そして、女として。それに気が付いたのは、もう既に何度もダンデと会わせられた後だった。子供のくせに、自己顕示欲と言うか、欲しいものを欲しがる傲慢な色が、私を見上げる幼いダンデの瞳にはちらついていた。それを目に認めてしまった途端、不思議なことに、私は身動きが取れなくなった。子供を相手にしていると思い込んでいた私には、手遅れながら、相当な驚きがあったのに。

 忘れていた訳じゃなかったのに。私は、今よりももう少し幼いダンデに、負けたことを。
 多分、あの頃からずっと、私はダンデの掌の中にいたのだと思う。


  ◇◇


 シャワーの後当然のようにベッドに沈められて、何度か体を重ねた後、ダンデが眠ったのを確認してからベッドから抜けた。剥ぎ取られた下着だけ履いて、のそのそと歩けばリビングの椅子に脱いだままだったカーディガンを発見したから適当に羽織る。もう一度シャワーを浴びた方がいいくらい体はべたべただったけれど、それよりも先に煙草が吸いたかった。
 キッチンの換気扇をつけてから、ゆっくりと、煙を吸い込んでは吐いた。身に染みるような感じがする。私はきっと、はっきりと形ある麻薬でも差し出されれば指を伸ばしてしまうのかもしれない。そんなくだらないことを思いながら肺を真っ黒にしていれば、ただでさえ空っぽな頭が、ますます空っぽになる。立ちながら吸うのもだるかったが、椅子を移動させることの方がよっぽどだるかったから、キッチンの淵にもたれかかると冷たさがダイレクトにきて体が一瞬震えた。
 夜は特にとりとめのないことばかり考える。煙をふかしながら、また昔のことを思い返した。まだ子供だったダンデと共に暮らすようになった頃のことだ。

 最初は保護者のような扱いだったはずなのだ。委員長もそういう建前だった。でも、既に私はわかっていた。私はダンデへ捧げられた人間なのだと。なにせ、ダンデが欲しがっていたから。ご褒美と言うか、なんというか。
 ダンデは今でも私に「可愛い」などと抜かすが、十個以上も歳上の女に何を生意気なと憤る気持ちすら最早湧かない。顔も体も年数が徐々に積もってきているのだ、外に出ればもう、本当に、誰も私のことなどわからない。メディアに出ていた時期はまだ二十代初めだったから、十代を引き摺った幼さを失った私の顔など誰も気付かない。私の名も、もうほとんど忘れられているに違いなかった。私の幼かった顔も名前も残るのは今やデータ上と記念館くらいだ。ダンデだけだ、毎日イリスと、私の名前を甘い声で呼ぶ人間は。
 そのせいなのか、この家の中は、存外心地良いのだ。別に軟禁されているわけでもないし、束縛されているわけでもない。衣食住は完璧に整えられていて、まぁそれを整えているのは日中ほとんど家にいる私なのだが、それでも、そこにダンデは必ず帰ってくる。私と話をして、触れて、抱き締めて、キスをして、セックスをして、ダンデは私を求めてくる。時に言葉で、時に体で。それに最初から抵抗感は薄かった。私がダンデに捧げられていることを自覚していたのが大きい。捧げられるなんて大袈裟な言い回しをしたが、本当はもっと簡単なことなのだと思う。ダンデが望んだからその通りになった。それだけの、話なのだ。
 でも、ダンデといるとどうしてもバトルの話題になるから、それが少しだけ私の心を切り刻むようだった。端から、ほんのちょっとずつ、削られていくような感覚。痛くはないのに、不快ではないのに、無視してはいられない。自覚しているだけまだましなのかもしれない。バトルをしようとは言わないくせに私に意見を求めるだけのダンデは、本当はどうしたいのかわからない。私とバトルしたいのか、形だけでも縁を切らせたくないのか。結局そんなことも、私の妄想でしかないのだけれど。

「イリス……」
「起きちゃったの?」
「知っているだろう、イリスがいないと、俺は眠れないよ」

 全裸のダンデが寝ぼけ眼で、のたのたとリビングに入ってきたので、過去のことは一旦忘れた。私の前まで歩いてきたダンデは、私の指に煙草が挟まっているのを見つけると、ほんのり顔を顰める。何もかも許してくれて、決して否定したり咎めはしないダンデでも、煙草だけは少し嫌なようだった。確かに嫌な臭いではあるのだろう。私も昔嗅いだ経験がある。権力に飢えた人間からする饐えた匂いに混じっていた。私は、もうそれに抗おうとはしないけれど、ダンデはそれだけは順応できないらしい。

「また吸ってる」
「口寂しくて」
「じゃあ俺にキスすればいいだろ」
「不味いって言ったのはダンデでしょう」

 ダンデが寄ってきているとわかっていたのに、煙草を灰皿に押し付けなかったのは、せめてもの反抗なのかもしれない。ここでダンデと暮らす内に自分の気持ちがとんとわからなくなってしまっているから、そういう些細な行動も、どうして自分がそうしているのかがてんでわからない。でも、ダンデは私の目の前まで来ると煙草を奪って、ぐりぐりと灰皿に押し潰した。そのまま、私の指を食む。一々ダンデの言動の意味を考えても無意味だから、私はされるがままだ。
 口の中で舌を好きなだけ這わせたら、もう少し咥えこんで、じゅぷじゅぷと音を鳴らしながら、指と指の間も舌先で擽る。思わず腰から背中が震えて溜息でない息が漏れると、嬉しそうにダンデの口の端が上がった。

「一緒に寝よう……イリス」

 寝ようなどと口にしながら、私の首にキスをしてから、唇に移動させてくる。子供の催促のような言い方なのに、その実子供らしくはない、孕む意志が明け透けだ。煙草の味がするから案の定眉を顰めるのに、するするとダンデの手がカーディガン越しに肩を撫でて、ぐいっと自分に抱き寄せる。ダンデが撫でるそこには、ダンデにつけられた痕や噛み跡がある。今はあっさり口と口が離れたが、見つめ合う瞳の中には熱が散りばめられていた。

「……うん」

 何も問えず、何も言えず、私は頷いた。私の方が歳で言えば大人であるのに。長年の中で、私は嫌な程理解しているのだ。

 私はダンデに負けた。でもダンデは、その私を求めた。十個以上も歳の離れた私達は、そうして、奇妙な十年以上を共に過ごしている。
 飼われているとでも言えばいいのかもしれない。鍵のついていない籠の中で、私は従順にも逃げずに、ダンデの側に居続けている。逃げ場所などないし、そもそも出て行こうなんて気も起こらない。私とダンデは生産性のない毎日を送っているのに。好きも愛してるも言われたことがなくて、ダンデは私をどういう存在として認知しているのかも知らないけれど、ダンデは私が側にいることにとても満足している。その成果が外にも表れるらしいから、委員長には感謝されるくらいだ。
 焦りもなくて、悲しみもなくて。平淡な自分の感情は、煙草の煙で換気扇にあげてしまう。こんな暮らしを続けていたら、頭を使うことにも疲れていた。時折言葉では形容し難い衝動に襲われることはあれど、どうしてそうなってしまうのかもわからない。
 バトルをするわけでもない。恋人としているわけでもない。子供を望まれているわけでもない。私を望んだと言っても、具体的に何を欲されているのか。私はただダンデと話を口でも体でもするだけだ。リーグのこともバトルのことも、何もかも全部を教えてくれるわけではないにしても、捌け口のようになっているのだとしても、今の私ではそれくらいしかできないのだから。乱暴には絶対にしないけれど、体でもぶつけてくるのであれば、私は受け止めてやることしか。

 でも、それでも、私はダンデの元から消えようだなんて、そんなつまらない考えももたないのだ。私がダンデにとってどんな存在なのか、負けた私が気にすることもない。ダンデが望むままに、私はここにいる。私の名前を憶えているのは、もう、ダンデだけだ。


20220516