短編
- ナノ -


 彼岸花の咲く頃


 かつて恋をした。それを、最後の恋と定めた。周囲に何を言われようと、どうそそのかされようと、私はそれを決して曲げなかった。女が一人でいることに厳しい目があったのは確かで、時には世話焼きな人に世話を焼かれかけもしたが、私は絶対に首を縦にしなかった。
 揺らがなかったと言えば多分嘘になるのだろう。一人布団に横たわりながら、静かな夜の中で息をしていると、どうしようもない寂しさや、やるせなさに襲われることはあった。私は一体何をしているのかと自問し、しかしこれは自らが決めたことだと、何度も言い包める。返事のない恋は独り善がりだ。でも、それでも、私はそれを最後にしたかった。
 その頃流行った小説で、来世を取り扱ったものが脚光を浴びたりもして、それに感化されそうな瞬間もあった。まだ人と人が天下を求めて争い続けていた時代の創作小説だが、ままならない現実にどうにかして希望を見出そうと、来るかも知らない来世に想いを託す内容は、私も、と叶わぬ恋をしていた人間たちに思わせなくもない。漏れなく私もそう思いかけたが、すぐに私はこれはないなと、苦笑した。百年後に結ばれるよりも、今すぐ顔が見たかった。

 そうして一人で生きる私を可哀想な女だと、欠陥なのではと、揶揄する声は多々あった。攻撃的な人間にはわざと近場で囁かれたりもして、でもそれを一々気にしてはいられない。コトブキムラから発展してあちこちにムラも栄え、よその地方からの移住者も積極的に受け入れても、人間の根本的な価値観はどこも大抵同じなのだ。縁を切ったと思っていた故郷の両親からも、どこで聞き付けたのか一人身を叱る文が届いたこともあるが、火にくべてしまった。全く要らない言葉ばかりだった。
 何度かムラを移ったのは、攻撃的な人間に負けたからではない。私はただ、会いたかったのだ。私のことを心ではどう思っているのか、今となっては露もわからぬ男を、せめて一目でも。私は消えた男をずっと好いていた。別に行方を追っていたわけではないが、移った先で見つかりやしないかと、淡い期待は拭いきれなかった。

 その男は、英雄となった子供曰く、この世界を造り変えたかったらしい。今ある世界そのものを零から変えるのだから、当然人もポケモンも大地も何もかもが一度無に帰す。もちろん、私も。それを知った際に動じたのは嘘じゃなかった。人懐っこい笑みで、上背がある分体を折って、顔の位置をなるべく合わせてくれた男は、本当は私も要らなかったらしい。いつの間にやら手を繋ぎ、抱き締め合い、気付けば口を重ね合わせて、同じ褥に入った男だが、本当の本当に気紛れだったか、何か目的でもあったのか。私から抜きたい情報があったのだろうか。自分で思っている価値と、他人から見る価値は違う。甘い囁きは私を油断させる虚言だったのかもしれない。
 でも、私の懐でまるで子供が母親に縋るように丸くなっていた姿が、どうしても頭から離れなかった。皆に隠れて褥を共にする度にそうだったのだ。だからなのか、男を愛するのにそう時間はかからなかった。それはきっと絆されたとでも言うべきなのか。大きな体を私の胸の中では小さく見せるような男を、本当は褥の中以外でも、いつでも抱き締めてやりたかった。

 なればこそ、私はその男を最後に決めた。私の前から姿を消したとしても、頭に、体に、胸元に、口の中に、耳に、指先に。男の気配がいつまでもこびりついている。消えてから何年経っても、あの輝くような金色の髪に、あの透けるようで透けない薄い錫紵色の瞳が、私の中でその気配を殺してはくれない。浮かべた笑みが本当だったのかはわからない。でも、それでも私は、私の前で見せた顔しか知らない。男の本意も気付けなかったくせに、私はそうしてずっと一人の男だけを、一人きりで想い続けた。
 やがてギンガ団が幕を下ろすと通達が全てのムラに渡った。それはすぐさま垣根をほとんど無くしたコンゴウやシンジュの人間にも伝わり、間もなくしてデンボク団長の訃報も届いた。前々から解体の話は出ていたようだが、ギンガ団解体の後押しとなるくらいの、大きな節目だったのだろう。天寿を全うされたとのことで、彼の葬儀には各地から大勢が駆け付け、皆で涙ながらに見送った。そこにも男は現れやしなかった。

 男が消えて、十年以上は過ぎていた。


  ◇◇


 医者が首を振ると、その場に居合わせた人間は一様に悲し気な顔をしてくれて、こんなことを言ってはなんだが、少なからず嬉しさはあった。女一人でいることに指を指されることが数えきれない程にあったものの、私を慕ってくれる人間もちゃんといてくれたのだ。
 隣家のまだ幼い一人息子は、幼さ故にまだよく状況を理解できないようだったが、大人たちの顔から何やら察してしまった結果、謂われない不安に苛まれたのか、転んだ時のようにべそかく顔になってしまった。あの子は私が取り上げた子の一人だ。私の最後の仕事だった。時代が移るにつれて医療機関も発展し、大きな病院もできた。私のような古い人間はもう、あまり必要ではないのだ。
 一日かけて母親から取り上げたその子は、それから母親に連れられてよく顔を見せてくれた。他にも、私が取り上げた子供や、かつて子供だった人間がよく家まで遊びに来てくれた。自分のポケモンを連れて笑いながら、彼等のために用意した菓子を美味しそうに頬張ってくれることが、とても嬉しかった。子供を取り上げる職は、時が進むにつれてこのシンオウでも教育が推し進められ、生きるために手をつけた仕事だったが、ひたすらその仕事に打ち込んできたから、もう何十年も、私の思い出は彼等ばかりだ。

「イリスさん、会いたいって人が玄関まで来ているんだけど、その人も家に上げてもいい?古くからの知り合いだって本人は言うの。ただ、名前を訊ねても教えてはくれないのだけど……誰かのお孫さんかしら?」

 思い出に浸りながら眠気と戦っていると、隣家の奥方が私の耳元でそう告げた。うつらとしていた意識を定めて彼女に顔を向けると、どうしてか不思議そうな顔をしていたので、私もどうしたのかと思った。若い男の人なの、と彼女はぼやく。ここ数日家を訪ねてくれるのは仕事で関わった人ばかりだったから、素性も知らない男をどうするべきか自分では判断しかねているのだ。
 私は奥方に頷いた。特にその訪問者の身なりなども訊ねなかった。奥方が教えてくれたことだけで、私には、予感があったのだ。もしかすれば全くの見当違いかもしれないし、この期に及んでまだそんな淡い期待を、と自分を戒めるも、一度覚えてしまった期待はどうあっても消えやしない。こんな格好で会うのは忍びないし、できればもっと綺麗にめかしこんで会いたかったが、もう重たい体なのでどうか容赦してほしい。

 それから数分と経たず、襖を開けて現れたのはやはり予想通りの人物である。奥方に通されて、一歩ずつゆっくりと中へ進んでくる。靴下が畳に擦れる音がやけに鮮明に聞こえた。奇妙なくらい、私の胸は波一つも立たせずに凪いでいる。
 奥方に、少しの間二人にしてくれと頼むと、名残惜しそうというか、不安そうな顔はされたものの、彼女は静かに頷いて襖を閉めてくれた。
 私が寝転ぶすぐ横に腰を下ろしたその人は、無機質そのもののような顔をしていたから、少し笑ってしまった。努めてそういう顔を作っているのだとわかってしまうのは年の功だ。まるであの頃とは全く違う顔を、とからかいたかった。けれどこの顔は、私の前では見せなかった表情でもある。

「……そんなに笑いますか?」
「いえね、ごめんなさいね……っ、貴方そんな顔できる人だったのねと思って」
「顔を合わせて一番に、そんなに笑われるとはジブンも予想外でしたよ」
「そうね、もしも会えたら言いたいこととかたくさんあったのだけれど、もうなんだか、全部吹き飛んでしまった」

 ウォロさんは怪訝そうな顔をして溜息を吐いた。それすらも可笑しくて、ますます笑いが込み上げてくる。さっきまであんなに眠たかったのに、可笑しなことだ。

「……お久しぶりね、ウォロさん。やっと、会えました」
「何も驚かないのですか」
「私が懸想したお姿そのままなんですから、年甲斐もなくね、色めき立ってはいますよ。それよりも、貴方の方が私に格好に驚いたんじゃなくて?ああ、貴方は人を驚かせるのが好きだったわね。まぁ、好きでやっていたのかまでは正直私にはわからないけれど、よく、私も後ろを取られて驚かされた」
「そうですね、貴女はあまりに無防備な人でしたから、簡単に背後を取れてしまった」
「楽しかったわ、あの頃。本当に、とっても、楽しかった。裕福な生活でもないし、裂け目だとかポケモンへの恐れとか、たくさん気掛かりはあったけれど、貴方といた時間は、どうしようもなく、楽しかったの」

 口を開けば昔日ばかりがそこから溢れて出てくる。いつも頭の中だけで思い出すことを、今ばかりは口にしてもいいのだから饒舌にもなるものだ。
 ウォロさんは相変わらず無機質な顔をして私を見ていた。私が笑っても、昔と同じように笑うことはしない。別に、それでも構わなかった。人懐っこい笑みをよく見せてはくれていたが、あれは結局仮面だ。

「ウォロさんは、お元気だった?ご飯はきちんと食べられていた?屋根のある場所で眠れていた?遺跡の調査なんかはまだやっているの?怪我は?」
「先程から、わざとですか?」
「何がかしら?」
「恨み言は山ほどある筈です。本当は吹き飛んでなどいないのでしょう。もっと、聞きだしたい事が、あるでしょうに」

 だからご飯や怪我のことを訊いていたのに。年数を経てウォロさんは更に偏屈になっているようだ。また笑ってしまった。

「だって、こうして会いに来てくれたもの」

 そう言って、布団から手を伸ばして、ウォロさんの膝の上の手を取ると、彼はぶるりと震えた。唇を噛んで、俯いて、声を殺すように。

「貴方の手は、私とは違って滑らかね。ほら、私の手はもう、こんなにしわくちゃだから」
「……」
「ウォロさん。私ね、たくさん赤ん坊を取り上げたの。色々あった。うまくいかなくて赤ん坊や母親が命を落としたこともあった。でもね、みんな、取り上げた人たちは私に感謝してくれたの。今ウォロさんを案内した人の赤ん坊も私が取り上げたのよ。この数日、そうやって関わった人たちがたくさん会いに来てくれた。お陰様でね、寂しくはないのよ」
「伴侶も得ず、子を成すこともなく、一人身でありながら他人の赤ん坊を取り上げるだなんて、頭おかしいんじゃないですか」
「最初は嫉妬心があった頃もありましたよ。羨望も。だけど、段々とどうでもよくなった。それに、心からお慕いする方がいるのだから、他の方と一緒になるだなんてできませんでした」

 震える拳が夏なのに冷たくて、包んでやった。かさついた私の手なんかよりも瑞々しいその手は、大きくて、私の手一つでは包んでやることは簡単ではなかったが、余った部分はせめて撫でてやる。滑らかではあっても傷のある手だった。彼もこの数十年、私の知らない苦労をしてきたのだ。

「嬉しいわ。ありがとう、こうして、会いに来てくれて。もうそれだけで十分なのよ」
「罵詈雑言を浴びせればいいものを、イリスさんはどうしてこんなにもお人好しなんでしょうね。昔からそうでした。簡単に人を信用してしまう。他人の為に自分の人生を使うなんて馬鹿げたことまで」
「そうですね。でも、愛していたから、信じたんですよ。もちろん、貴方のことですよ」

 信じていたと言うよりも勝手に想い続けたが正解だったが、彼は私の元へやって来たのだ。
 お顔を見せて、と囁くと、微かだが、俯かせていた顔を上げてくれた。包んでいた拳を一撫でしてから、ゆっくり腕を持ち上げてその顔まで伸ばす。ウォロさんはそこから微動だにしなかったが、かといって拒否もされない。
 やっと触れれば、拳と同様に随分と冷たい顔だった。刺すような冷たさではないが、外気に当たっていたせいなのか、はたまた。しかし触れ心地は、あの頃そのままだ。それにやんわりと心が解けていく。私は小さく笑った。

「綺麗なお方。本当に」
「……貴女も、ですよ」
「あら、久しぶりのおべっか」
「そんなんじゃありませんよ。昔も、今も」
「本当のことなら嬉しいけれど、今もって言うのは無理があるでしょうに」

 けた、と笑うと、ウォロさんは呆れたのか、力を少しばかり抜いてくれた。どうやら、私がウォロさんに恨みをぶつけやしないのだと、ようやっとわかってくれたようだ。
 だって恨みなどありやしないのだ。ウォロさんのことは何から何まで熟知しているわけではないが、置いて行かれたと思っていたわけではなかった。愛してくれていたのかは自信もなかったが、だとしても想い続けるのを決めたのは他の誰でもない己なのだ。いつか一目だけでも、とは期待していたが、こうして最後に顔を見せてくれたのだから、もうそれでいい。

「……ウォロさん」
「はい」
「ありがとう、ウォロさん。会えて、良かった。ずっと、お会いしたかった。何かしてほしかったわけではないの。ただ、会えればそれでよかった」
「……そういうところだけ、どうして無欲なのか」
「なにせ他人に人生を使える人間だもの。……本当に、ありがとう。思い出をありがとう」

 冷たい頬を労わるようになるたけ優しく撫でた。もうこの手では温めてはやれないが、せめてこれくらいはさせてほしい。途中で腕を持ち上げているのが辛くなって畳の上に落としたが、もうそんなのは大したことではない。自分の潮時は、医者が首を振ったからではなく自分が一番わかっている。

「ずっと、お慕いしておりました。貴方がどんな人であろうと、それが、私の全部でした」

 コトブキムラで出会って、気さくな人柄に惹かれて、その内手を取って、唇に触れて、体に触れた。胸元に大きいのに小さな体を収めて夜を幾度と共に過ごした。最後の恋。生涯、一人の男にだけ。
 男がいなくなった後も、振り返れば満たされた人生だった。産んだ経験のない赤ん坊を取り上げ続けた。失くした命も多くあったが、感謝してもらえることもたくさんあった。私は一人だったが、独りではなかった。
 そうして、恋焦がれていた男と、またこうして会うことができたのだ。どうしたら、思い残すものがあるのだろう。彼のこれからの行く先は僅かなりと気掛かりではあるが、ここまで五体で生きた彼のことだ。いずれは、決着をつけられる日がこよう。そこに、私がいなくても。時代の変遷は共にできなかったが、大切な思い出を胸の奥に抱えている。
 お陰様で、彼岸ではゆっくりとできそうだ。


20220510