短編
- ナノ -


 蛇の道は蛇


「ウォロ様、今日もとっても素敵ですね」

 微笑む女の顔は頭上の太陽の下で輝いていた。対してげっそりとしかならないジブンに、隣のツイリが腕で小突いてくるが、改める気などさらさらないのである。どうせもっと愛想よくしろとか、そういう小言だろうし聞き飽きたが、気が乗らないものは乗らないのだから仕方ないだろう。
 イリスとは顔を合わせる度にこの調子なので、正直気が滅入る一方だ。最近になってよその地方から渡ってきたイリスは、その頭上にこの地方では珍しい洋傘を昼間から咲かせる、陽に透けそうに白い肌を持った女だ。金がある家の一人娘らしく、しかし家に閉じこもって深窓の令嬢に徹することもなく、こうして従者も連れず遠くから遥々と海を渡ってくる豪胆さもあった。どうやら道楽のためにやって来たわけではなさそうだが、ヒスイにやって来た理由など全くどうでもいいので、この地に留まる理由など知るつもりもない。
 そんな女は、奇怪なことにも。毎度毎度、飽きもせずジブンに、一見好意めいたものをひけらかしてくるのだ。羞恥も躊躇いも一切見せず、それはもう堂々と。

「ああ……憂い顔も素敵で。どうされました?もしや最近行っている実地調査に行き詰っておいでて?旅費など工面いたしましょうか?」
「ほんと?なら、」
「真に受けて相手にしないでくださいよ!」

 金の話になった途端つまらなさそうにしていたギンナンの顔が急に持ち上がって、話を引き継ごうとするものだから咄嗟に大声が出てしまった。そもそもイリスはジブン個人に対しての金の工面をすると言っているのに、ちゃっかり商会の資金として着服しようという魂胆を隠しもしないから、それも腹が立つ。

「……そんなに金が有り余っているのなら、ギンガ団に寄付したらいかがですか?」
「そちらとはもう話が済んでいますの。あちらはあちらで見栄もありますから、いざという時にだけ助力する約束は交わしてあります。ですがウォロ様は別です!いつでもわたくしに頼ってくださいね!」
「……」

 嫌味は全く通じなくてますます辟易とする。いっそのことその有り余っているらしき金だけ巻き上げてとんずらかこうとも考えたことはあるが、この女は地の果てまで追ってきそうな予感をさせるから、らしくもなく身震いする。興味のない女に追いかけられること程煩わしいものはないというに、どれだけそれを態度で示そうと肝が座っているのかなんなのか、イリスはそれに怯みもせず毎日と。困ったのは、これで本当に金を巻き上げたところで満面の笑みで応えられそうで、何も苦痛を与えられそうにないということだ。

「天ばかり仰いでいると陽に焼けますよ。せっかく綺麗な肌なのに」

 悶々とこの女の処理に仕方について考え込んでいると、いつの間にやら隣にやってきたイリスが、そっと、ジブンへと洋傘を傾けた。反射でその顔を見やれば、優艶と微笑む。影の下にあるのに、その顔は宝石のように輝きを放ち、陶器のような肌を惜しみなく晒す。コギトさんのように白い肌は、しかし彼女とは違って一切の苦労を知らないように思えた。何の弊害もなく、のうのうと楽に暮らしてきたことは、レースの手袋に包んだ手を見るだけでも伝わってくる。
 何の憂いなく息を吸うことを許されてきた、愛と金、権力という堅牢に守られる女。お前は雨風に晒されながらもそこで眠るしかない人生を知らないのだろう。

「陽に焼けても死にやしませんよ」
「ふふ、綺麗なものを綺麗なままにしておきたいと思うのも、人の心理ですよ」

 ジブンは金持ちに遊ばれるような鑑賞物ではない。



 どれだけ胡乱な態度を見せようと、イリスは微塵も懲りる気配がない。好意とは言い表したが、実のところその真相は未だにわからなかった。直接的な言葉は一度も吐かれたことはないのである。だから、本当に鑑賞作品のように思われている可能性も有り得なくはなかった。

「今日も素敵ですね」

 男の顔を綺麗と称して愛でるのは、なんとも大層な趣味だ。けれどその細い指でこの体に触れることは、今まで一度たりとてない。自分が干渉することによって完成された作品の価値が下がる、という考えの好事家もいるのだろうが、果たしてイリスもそうなのであろうか。いつもいつも同じようなことばかり繰り返し言うものだし、微笑みばかりでその裏は読みにくいから、その心根の本当はジブンではわからない。

「貴女、ジブンがムラに来るたびに門で待ち構えていますけど、正直頭の可笑しい人としか思えませんね」
「わたくしくらいになると、好いた方の行動など手に取るようにわかるのですよ」

 さらりと言ってのけられた言葉に、わかりやすく口が引き攣った。ぎりぎり仄めかすくらいだったことに対して、とうとうしっかりと言葉にされてしまったのだから。しかし結局根底はそうなのかと、同時に嫌悪感も沸いてくる。実際は頭のキレる女かと密かに思っていたのに、蓋を開けてみればこうか。イリスという女が一気につまらない存在になった。執着は人を育む感情の一つだと思っていたが、この女の執着は、どうやらそよ風吹く花畑のなかにあるらしい。ジブンのように見果てぬ地平線の彼方だとか、大空の向こうだとか、或いは世界の裏側だとか。そういう、この目では追いかけきれぬようなものを追い求めては夢抱いていたわけではないようだ。
 道楽か、ただの。金を持て余した、娯楽に飢える頭の悪い女。言動を色恋で左右されるありきたりな人間。本当に苦労など知らずに生きてきたのだろうな。

「……気味の悪い女だ」
「何か仰いまして?」
「いいえ。今日もいい天気だなぁと」

 やはり、搾るだけ搾り取って終わらせるのが簡単なのかもしれない。


  ◇◇


「言ったでしょう。わたくしくらいになると、好いた方の行動など手に取るようにわかるのですよ」

 何故お前がこんなところに、とは口に出したわけではないのに。イリスはそう言って微笑んだ。けれど、その微笑みはムラの中で見せていたものとは、なんだか少し違って見える。一見慈愛に満ちた聖女のように穏やかなのに、世闇に子供を食うような物の怪のようにも思える。いつも悠然と構えている呑気な女だったが、今目の前にいるイリスは隙を一切見せていない。

「まぁ!そんなにお顔を汚して……こんなに綺麗なお顔なのに。ここへ辿り着くまでにさぞ苦労したのでしょうね」

 洋傘を差したまま腰を折って、上質そうで皺もない手拭いでジブンの顔を何の躊躇いもなく拭きながら、この森の奥の一本の木に体を預けるまでの道中を勝手に想像しては嘆く。思えば、イリスがジブンに触れたのは、これが初めてだったかもしれない。今は布越しではあったが、散々口では好意をひけらかしながら、今までその指が直接肌にまで届いたことはなかった。それが、今。

「……あなた、何故」
「だから今申したでしょうに」
「そうではなくて、何故、」
「貴方様ともあろう方がそんな愚問を。簡単ではありませんか。貴方様をお慕いしているからです。常日頃それをお伝えしていましたのに」

 まさかジブンの所業がムラに知れ渡ってはいないのか、と一瞬過ぎったが、どうにも、イリスはそんな雰囲気ではなかった。この女は、何もかも知った上で、こんな所まで追ってきた。何も語られてはいないが、そんな確信めいたものがあった。

「……ははっ、やはり気味の悪い女だった」
「それで結構!わたくしはただ、貴方様のお力になりたいだけなのですから!」
「力?」
「ええ!ええ!」

 汚れた布を大事そうに握り締めながら、イリスはジブンにぐいぐいと顔を寄せてきて締まりのない顔をする。愉悦の滲んだその顔にはどこか既視感があって、まさか、とようやく思い至った。

「わたくしは貴方様をお慕いしております。ですから!その願いをなんでも叶えてさしあげたいのです!」

 ――同類なのだ、この女も。こんな言い方はしたくはないが、平たく言い表すには、そうとしか言えない。

「あなた、コトブキムラの連中はどうしたのですか。ギンガ団は、」
「お別れを告げようかと思いましたが、寸での所で踏み止まりましたの。あちらの動向をウォロ様へお伝えしていくためにも、伝手は切らない方が良いかと思いまして!」
「へぇ、スパイか」
「ウォロ様スパイをご存知なのですね!さすがは博識で聡明な御方です!」

 口を開かせれば賛美しか出てこなくて、溜息が零れてしまった。そんなジブンをうっとりと見つめるイリスは「憂い顔もなんて素敵なのでしょう……」と頬を赤らめる始末。単なる鑑賞物ではなかったことに安堵などしないが、この女はジブンの顔が相当好きらしい。

「あら、わたくしウォロ様の御顔だけを愛でているわけではないのですよ?」
「貴女なんなのですか、人の心でも読める物の怪なのですか?」
「そんな大層なものではありませんよ。ただ、金があるだけの、しがない人間です。ただ、金があるということは、できないことの方が少ないのです。そして時に情報は金よりも値打ちのあるものになります。わたくしは、それを操ることに少々長けているだけで」
「成程、目撃情報を片っ端から買い集めただけですか」
「ああ!違います!違いませんけれど、それだけじゃないのですよ!貴方様への愛がわたくしに教えてくれるのです!天からのお告げのように、愛が、」
「うるさいです」

 じとりと睨むと口を閉じたが、溶けそうな眼差しはそのままだ。相も変わらず、うっとりとジブンを見つめるその瞳は星屑でも散りばめたかのように輝き、少女の初恋のように頬を染める。でもこの女の中身が、そんな純粋なものではないのはどう考えても明らかだ。
 もっとどろりと煮詰まっている。きっと、常人では理解し得ない類。逸脱していると言ってもきっと差し支えない。イリスは人畜無害の善人の皮を被った、西洋の魔女のような狡猾さを持っている。

「さぁウォロ様、そろそろ移動しましょう!こんな所で縮こまっている場合じゃございませんでしょう!」
「どこに行くっていうんですか、大体貴女、」
「アルセウスを手中に収めるのでしょう!」

 ぴしりと体が固まった。しかし、そんなジブンをよそに随分とまぁ楽しそうな顔でこちらを覗き込むイリスは、勢いよく立ち上がって大仰に腕を拡げたのだ。

「ずっと探していたのでしょう!ずっと求めていたのでしょう!ずっと焦がれてきたのでしょう!何を犠牲にしても会いたいと!」
「……貴様、何を考えているのだ」
「先程から何度もお伝えしていますでしょう!いいえ、いいえ!もうずっと前から!貴方様を一目見た時から!わたくしはずっと貴方様のことだけを考えてきました!だから金の工面も申し出ていたのに!」

 アルセウスの件は余所者から聞いたのだと推察できるが、だとしても、いやだからこそ、この発言は、一体どういう気で口にしたものなのだろう。
 顔にも手足の一本一本に至るまでも、敵意をむき出しにしたのに如実に表れるそれを物ともしないと言うか。意に介していないと言うか。イリスは全く臆する気配も見せず、まるで為政者が民に演説するように腕を拡げては笑う。いや、これは単なる笑みではない。恍惚だ。

「貴方様の物語は終わってなどいないのです!勝手にそう思い込んでいるだけで、何も潰えてなどいない!だって貴方様はまだこうして生きておられる!その野心を未だ枯らしてなどいない!」
「ははっ、生きてさえいれば、ってやつですか。面白味も何もないことを」
「そうとも言えるのでしょう。いえ、それとて真理です!アルセウスと会い、この世を創造し直すと言うのであれば、叶えるまで生き続けて願いを果たせばいい!」
「確かに願いは消えていません。ですが、あの余所者はとっくにアルセウスとの邂逅を果たしたのでしょう」
「だからなんだと言うのです?そんなことは些末なことです。貴方様が会いたいと言うのならば、わたくしはただそれに助力するだけのこと!地の果てまで手がかりを探しに行けと言われれば地の果てまで走りましょう。宇宙へ出る方法を見つけろと言われればそれも見つけましょう。先の世まで生き永らえるというのであれば、不死の秘薬でもまじないでも探しましょう。アルセウスと会い従えるまで、何百年かかろうと追い続けるのでしょう?であれば、わたくしが何百年先まで生きる手立てをご用意しましょう!」

 ――唖然としてしまった。こんな反応阿呆以外でもないし、らしくもないと思うのに。同類とは思いたくなくなってきた。
 イリスはひとしきり語り終えると、まるでこの手を掴めと言わんばかりに自らの掌を差し出してきた。饒舌だった語り口とは裏腹に、鷹揚な仕草だった。肩には洋傘の柄をかけ、空いている方の掌を静かに差し出して見せ、今度は聖女のように慈愛をまとって微笑む。
 ここまで頭の可笑しい女だったとは、さすがに思わなんだ。まっとうな感覚の持ち主ならば、そもそもジブンのことを異端だと蔑んだり、痴れ者と糾弾するに違いない。自分たちの命が危険に晒されたのだから、怒り狂ってしかるべき。
 なのに、この女と言えば。散々頭の飛んだことをほざいていたが、終いには、ジブンの助力を申し出てくるとは。それはつまり、この世を滅ぼすことと同義であると言うことは端から理解しているはずなのに、剰え、先の世までと。

「貴女、わかっているのですか?ワタクシは、世界を創造し直したいのですよ。今ここにあるものは全て、自然も人もポケモンも、一切合切は消えてなくなるのです。それはつまり、その時は貴女も死ぬということ」
「もちろん承知しております!でも構いませんもの!わたくしの望みは、貴方様だけなのですから」
「甚だ理解し得るものではありませんね。何故、そこまでワタクシにこだわる」
「お慕いしておりますもの」

 は、と口が開いた。言葉を出し損ねた。イリスは、ただ優艶と微笑んでいる。その顔に、微かな揺れもない。

「貴方様を、ウォロ様を、心より想っています。全ては愛ゆえなのです。だから、貴方様のお力になりたいだけなのです。それだけなのです。わたくしを、どうぞ利用なさい」
「頭の飛んだ、狂った女め」
「誉め言葉です!」

 盲目どころの騒ぎではない、これでは。何を言おうとこの女は喜んで受け入れてしまうのだろう。地の果てまで行けと言えば本当に行ってしまうし、金を寄越せと言えば寄越すだろうし、使い倒して用済みとなったら――死ねと言えば、この女は死ぬのだ。そよ風吹く花畑などとんでもない。

 暫し考えを巡らせた後、その掌を、黙して見つめた。レースの下の掌には、恐らく傷一つもない。針仕事をしないのかは知らないが、苦労とは何の縁もないと思ってきた手だ。何の憂いなく息を吸うことを許されてきた、愛と金、権力という堅牢に守られる女。ずっと、そう思ってきた。
 しかし、見方を変えてもみれば、その堅牢さは、いたく重要に思えた。スパイも買って出るのであれば都合もよいだろう。情報は大小に関わらず手元にあるに越したことはないのだ。この女の財力も大きな武器となる。この女の気持ち丸ごとが、ジブンへの。

「……利用するだけですよ、あくまで。貴女のようなイかれた人間からの好意など気味悪くて、受け取りたくありませんので」
「ですから、構わないと、そう申し上げましたよ」
「アルセウスと出会える日まで。お前の全てを使い倒してやる。ワタクシのために。それを努々忘れることなきように」
「光栄です!わたくしのこの手も、髪の一本も、金も権力も。この魂も、全て、貴方様のために使ってください」

 結局これも金持ちの道楽かもしれなかったが、自らを差し出してくるのだから、それだけはありがたく使ってやろうと決めた。
 差し出された掌に自分の手を添える、のではなく、その手首を鷲掴みして無理矢理立ち上がった。あまりに細っこい手首では当然ジブンを支えることもできず、イリスは滑稽にもその場に崩れて倒れてしまった。上等な着物が無残にも土に汚れて、洋傘からも手を離したせいでそれは転がってしまったし、陽の透けそうな白い肌が無防備に太陽に晒される。足元の無様な姿は気持ちが良かった。

「……ああ、やっぱり。なんて素敵なのでしょう」

 己を見下ろすジブンの顔を見て、イリスはうっとりと、そう零した。


20220426