短編
- ナノ -


 熱、かたはらに


 ああいい男だ、という印象は最初からあった。整ったかんばせについても、皆に慕われる度量についても。懐が広いのもいい。顔だけの男もいいが、中身が伴っていると更に良い。
 そんな、夜に迎えに来ると内緒話のように声を潜めてきた男は、けれど建前上は渋った私に、それでも優しく触れようとした。一目見た時より気に入っていたんだと囁いて甘く篭絡しようとするから、ここで素直に心を明け渡すのは得策でないと瞬時に判断して、金を要求したら、それでもいいと男がすんなり頷くものだから、元からそういうつもりだったろうが終いにはそういう流れになった。ヒスイに来る前は体で稼いでいたから今更純情ぶるつもりはさらさらないものの、金で繋いだ縁の方が何かと便利だから、それはもう癖のようなものだ。
 意外と乱暴というか、まぁ私は男の良い人ではないので扱いを壊れ物のように優しくしろとは口が裂けても言えないのだが、どうやら褥の中となると案外荒々しい男だったみたいで。切羽詰まると言うか、欲に溺れると言うのか。けれど理性を全く失っているわけでもない。金をもらった以上は客の好きにさせなくては基本的にご法度になるが、陽の下で快活に笑って団の皆に慕われる男の顔とは少し変わったから、単に驚いただけの話である。

 そうやってセキは一晩の間に繰り返し私の体を征服して、なのに時折情を交わした女にするように甘い声で睦言紛いの言葉をくれて、私にも無理にでも吐かせた。名前で呼べと言うのもその一つだ。褥の中では女に甲高い甘えた声で名を呼ばれて縋られたいらしい。男は大抵そうだったが、面白味もなくセキもそういう輩の一人らしい。
 むこうに体力があるせいか途中から本当に好き勝手されて、気が落ちたのは久々だった。商売柄意識を失うことの危険は重々理解しているし身に染みついていたのに、荒々しいのに甘ったるい雰囲気のせいか、はたまたこんなに体を使い倒したのは少々久しぶりだったせいか。セキの技量があるせいかもしれない。獣のようであれどこんなに悦い思いをしたのも久しぶりだ。今まで、金で女の体を買う男にろくなやつはいなかった。金を払っているからと強気になるのか変態趣味ばかりだったし、情を交わした男女のように褥で重なり合ったのは、一体いつ振りだろう。私を商売女ではなく、ほんの女として抱いた貴重な男は、もういつだか忘れてしまうくらいには遠い日にいた。
 最中、連動でそうやって嫌な記憶を思い出す度にセキは目敏く見咎めて、褥の中のことだけを考えろと乞うてきては容赦なく攻めたててきた。汗を垂らす獰猛な顔つきであるくせに一端に女の心も求める男のようだ。金で買った女に対してなんともまぁ。けれど、金で買ったからこそ自分の好きにしたいしさせたいのもまた心理ではあるのだろう。てっきり割り切った時間になるかと思いきや、その物言いと要求には少し面倒を覚えて、悦い思いはできたが僅かなりと体を渡したことを後悔した。

 気が落ちてどれ程経ったのかはわからない。窓から射す月明かりはまだ明るいことから、さほど時間は過ぎていないように思えた。
 隣に男はおらず、どこに行ってしまったかと首を微かに動かして、そんなに苦労せず見つけることができた。布団からは少し離れた位置に力を抜いて座り、窓を開けて、寄りかかって月を堪能しながら煙をふかしている。なんだかそれが、筆舌には尽くしがたい光景だった。裸に羽織り一枚だけをおざなりに羽織って、この辺ではまだあまり見かけない煙管をくゆらせて、ぼんやりと月を仰いでいる。言葉で表せばそれだけのことなのだが、つい息を潜めて魅入ってしまう程、その光景は美しかった。月明かりの中だけに浮かぶ、役者でもない男に美しいなどと使ったこともなかったが、あれは美しいという言葉でも、我ながら陳腐に感じるくらい絶妙な。

「起きたか?」
「……綺麗だねぇ、アンタ」
「おいおい、もう俺の名前忘れちまったのか?あんなに教え込んだんだぜ?」
「もう貰った金の分は付き合ったんだから、そういうのも全部終いだよ」

 自分は寝っ転がって枕に顔を乗せたまま、男のことを眺めた。乱れた髪もほとんどそのままに煙をふかすその様はやはり様になっていて、でもせっかく月を仰ぐその顔が良かったのに自分に向いてしまったのがいささか不服だった。

「なら、」
「もうお終いって言ってるでしょう」

 まだ金を払うって言い出すのかと恐れて慌てて言葉を被せた。さすがにこれ以上は体を考えても付き合えない。それに延々と許してしまったら、陽が出る前にムラへ帰れなくなりそうだと思って。体力がなければ集落の長など務められないのだろうが、それにしたって無尽蔵の体力なのだろうか。こんな男であれば寄ってくる女は多くいるだろうに。コンゴウ団の女ではだめなのだろうか、とも考えてもみたが、彼等は結局は身内だ。金で縁を繋ぐも切るも自由であった方が、何かと都合がいいことは子供でなければわかる。
 なのに、男は私には要らぬ言葉を吐いた。割り切るように、と伝えた筈なのだが。

「なぁ、イリスのこと、もっと気に入ったんだ。また会いたい。次はいつがいい」
「今回だけだって言ったでしょう。私、本当はもうこういう商売からは足を洗っているんだから。ムラの連中にバレたら追い出されかねない」
「ならここに住めばいい。俺が融通を利かすから」
「冗談じゃないね」

 バレたらの話なのか、それともすぐにでもなのか。どちらともとれる物言いをされたが、訊く気もなかった。どの道どうでもいい話だ。そもそも前に体を売っていた相手が相手だったから周囲の反感を買って故郷にいられなくなったのだから、力のある男とずっと懇ろでいるつもりは毛頭ない。だからこそ、今回だけと言って金で解決したかったのだ。それで諦めてくれればよかったものの、よっぽど女に飢えていたのか、金を払っても構わないとのたまうのだから、それ以上は私も言い出した手前言えなかった。
 それが、今この男の瞳を見ていると、そもそも勘違いだったのかもしれないだなんて、思わされてしまう。自惚れではなくあの瞳には過去に見覚えがある。ただ女に飢えていただけであれば、もっと話は早くて、簡単に済んだのに。

「アンタみたいな立場の人間は、もう御免だよ」
「なんでぇ、気掛かりがあるのかい?」
「……アンタには関係ないこと」
「関係なくはないだろうよ。もうイリスの体の黒子の位置も数も覚えた」

 にたりと笑うのにいやらしくはない笑い方だった。良くも悪くも、人となりが滲むのだ。セキという男は、多分叩いても埃が出ない人間で、善人であるとようくわかる。まぐわったからわかるのではない。言動の端々からもそれは前々から見て取れていた。
 でも善人であるからこそ、私にはダメなのだ。善人はその内、金で割り切れなくなる。金以上のことを求めるようになる。情で動いて、己の境遇も顧みず、そうしてやっかみを受けるようになったら、最後に切り捨てられるのは女である私。そうだった。遠い日に、私は金も要らずに心をあげてもいいと思った男に、周囲の猛烈な反対も相俟って有無を言わせず切り離され、元々体を売るしか能がないせいでそうしながら各地を転々としてきた。そうやって、ヒスイに辿り着くまでの私はどうにか生きてきた。
 もう辞めたつもりだったのに。そのお陰でコトブキムラに置いてもらっていたのに、こうしてのこのこと男についてきてしまったのは、遠い日の男の面影をどこかで見てしまったからなのかもしれないと、今更気が付いた。未練などないと思い込んでいたのに。昔日の男は、目の前の男程に度量も広くて色もある男ではなかった筈なのに。優しいかんばせに、あろうことか重ねてしまうだなんて。

「兎にも角にも、アンタとはもうこれで終わり。次はないよ」
「どうしたら、もう一度会ってくれるんだ?」
「……そういうのが、嫌なんだよ」

 まともに男の顔を見ていたくなくてとうとう背を向ければ、肩を竦める気配がした。こん、と煙管を置く小さな音がする。直後にパサリと衣擦れの音がしたから、男が羽織を床に落としたのだろう。ぺたり、足音が近づいてくる。だから布団の中から逃れて身支度をしてしまおうとしたら、それよりも早く肩を押されてまた布団に戻されてしまった。

「ちょっと」
「安心しなよ。もう抱こうってんじゃない」

 後ろから被さって、私の背中に男の、少しだけ空気に冷やされた肌が当たって、ぴったりとくっついてくるものだからその凹凸がよくわかった。人の熱を奪うその肌は次第にじんわりと温かくなって、少しずつ私の体との境界線をわかりにくくする。
 男は宣言通りそれ以上私の肌を暴こうと言う素振りは見られなかった。そろりと動いた手は胸の前で適当に置いた私の手の甲にそっと重ねられて、時折やわく握ってくる。真後ろにある男の顔が僅かばかり傾いて、私の首の裏や、耳の下辺りを唇で擽りだした。愛撫というまででもない。ただ滑って、唇の表面を当てるだけの。それが妙にこそばゆくて、身動ぎして逃れようとすると追いかけてくる。窘めるように手の甲をぽんぽんと掌が軽く叩いて、まるであやされているような気分になった。

「イリスは、心が冷えたままなんだな」

 嘯く唇が恨めしくて、やはり強引にでも逃れようとも思ったが、唇の感触と、手の甲を覆う大きな掌が存外心地良くて、結局逃れられない。私の口は否定をどうしても言えないから困った。私が何も言わなければ、男は、セキは私を包んでこうしてあやしてくれる。どうしてか、今ばかりは背中にある曖昧な境界線を思い出したくはなかった。次はもっと優しく抱く、とまた睦言みたいな声音。さっきまでの威勢を失ってしまったのか、もう終いだと言えない。抱かれて情が沸いたわけではないと信じたいのに、セキに呼ばれるこの身に名付けられた名前が一等特別に聞こえてしまう。もう少しだけ、この生温い時間が欲しい。


20220412