短編
- ナノ -


 証明


「自分のものにはちゃんと名前書いておいて!」

 母さんのその一言がきっかけだった。ホップが生まれて数年経って、段々と自分の意志で動けるようになってきた矢先。

 ホップの成長が嬉しくて、弟ができたこともこの上なく嬉しい。だけど、ホップが成長するにつれて少しずつ問題が出てきていた。俺のものがどんどんホップのものにされていくのだ。チャンピオンになってからあまり帰ることはない家だけど、気が付けば俺の服はホップのものになっていたり、もう使ってはいないが昔使っていた玩具がホップのよだれまみれにされていたり。でも別に怒ったりなんかしなかった。服だってサイズが合わなくなってきていたし、玩具だって遊ぶことはもうない。だから、特に困ることはなかった。
 だけどとうとう困ることが出てきた。久しぶりに帰省して、その時に後で食べようと思って冷蔵庫にしまっていたプリンは、次の日に目が覚めて一階に下りると、既にホップの胃の中にいた。目をぱちくりとして唖然とする俺に、同じように目をぱちくりとしたホップが見つめてくる。欠伸まじりでもにこやかに「おはよう」と俺が言わないから不思議なのだろう。

「……あ、もしかしてこれ、アニキの?ごめん、いつもそうだし、母ちゃんが買ってきたのかと思ってた……」

 罰が悪そうにホップが謝ってくれたが、少なからずショックがあったのは確かだ。何も、あのプリンが食べたくてどうしようもなかったわけではない。まだ子供だから甘いものはそれなりに好きだったが、特別楽しみにしていたつもりでもない。ただ、俺が家にいないことがもう当たり前の雰囲気になっていることと、それがまかり通っていることに少し衝撃を受けてしまっただけで。
 帰ればみんな笑顔で迎え入れてくれるし、チャンピオンとしての活躍を褒めてくれるし、ホップもあどけない顔に尊敬の眼差しで見上げてくれる。でも、もうホップの生活に俺は入っていないのだ。何年か前にジムチャレンジに参加して、当時ホップの年齢は片方の指でおさまる程度。そのままチャンピオンになって家を半ば出る形になってしまったから、兄が家にいない日々はもう当たり前のことで、冷蔵庫に見慣れないものがあっても、それが兄のものだなんて想像もつかないのだ。

 プリンが惜しかったわけじゃない。あれはスーパーで並ぶ普遍的なもので、大事にとっておきたかったわけでもない。けれどホップには兄の楽しみを奪ってしまったのだと思われたらしく、眉を下げてごめん、を繰り返してくる。その内母さんがこの場に顔を出して、どうしたのかと問うと、ホップが素直に白状した。母さんも「えっ」と顔をして、私が買ってきて忘れてるのかと思った、などとこちらも素直に白状する。
 そうして、できれば自分のモノに名前を書いておいてくれ、と言われてしまったのである。



 何度も言うけれど、自分のプリンを勝手に食べられたことを怒るつもりは毛頭ない。それよりも、普段一緒にいない人間のモノは、自分のモノである証拠を残さないといけないことが衝撃だっただけで。それも、家族にそんな扱いをされたことに憤りがあるわけでもない。

「イリス!」

 朝ごはんもろくに食べず、そのまま家を飛び出して、はす向かいの家へひた走った。さすがにほぼ目の前なので迷うことはなくて、最短距離で辿り着けたと思う。

「あれ?ダンデ?おかえり、帰ってたんだ」

 幸いにも家のインターホンを鳴らすよりも早く、庭にいたイリスを見つけられたから良かった。日課らしい、庭の花に水をやるイリスをすぐさま捕まえて、挨拶もそこそこに最近身長の差がついてきたその小さな顔を見降ろして。
 ――その柔らかくて白い頬に、マジックで自分の名前を意気揚々と書いた。ファンに書くようなエンタテイメント用のサインじゃない。ダンデ、と黒々と主張するだけの、俺の名前を。

「え」
「よし!」

 突然のことに事態に追い付けていない様子のイリスは、ぽかんと自分の頬に手を当てて、俺の手元を見て、最後に満面の笑みの俺を見上げる。まだまだ幼い少女の顔立ちに、しっかりと映える俺の名前。自尊心というか、何かが満ち足りていく感覚を覚えた。

「なに……え、マジック、待って顔にマジックでなんか書いた!?」
「これで安心してシュートシティに帰れる!」
「ひどい!マジックで顔に書くなんて!」

 怒りと焦りで顔を赤くするイリスは慌てて中へと戻って、数秒経ってから奇声のような、金切り声の怒鳴り声のような何かが聞こえた。恐らくは鏡で自分の顔を確認したのだろう。当然娘が朝から騒ぐので、彼女の両親が何事かとイリスと話す声がうっすらと聞こえる。次いで、泣き声のようなものが聞こえてきた。どうして泣くのかは正直わからないけれど、これで安心した俺は憂いなくシュートシティに戻れるというものだ。
 イリスのことはいつも頭にあった。ホップが生まれる前から顔を合わせてきたイリスと離れるときは不安もたくさんあって、俺がいなくて大丈夫だろうかとか、誰か邪な輩に目をつけられていないかとか、そういう悪い想像はいくつか持っていて、だけど毎日ハロンに帰れるわけでもないから。目の届く範囲に置いておきたいイリスを子供の我儘でシュートシティに連れていけるわけもないから、ずっと気を揉んできた。
 でもこれできっと大丈夫だろう。だって俺の名前を書いておいたのだから。だから、プリンみたいに、俺の見ていない所で誰かにとられることは、もうない筈だ。母さんありがとう。母さんのお陰で、自分のモノには名前を書いておけばいいんだって気が付けたよ。


  ◇◇


「ダンデ、サイン書くからペンとって」
「はい」
「……ちょちょちょ、ちょまっ!なんで私の顔に書こうとするの!?」

 イリスにペンを取ってくれと言われた瞬間。急に昔のことを思い出してしまったので、仕事に使う書類の前に座るイリスには手渡さず、ふざけてイリスの顔に自分の名前を書く素振りをすると、手早く手首を掴まれて阻止された。ぎりぎりと力いっぱいこめて俺の腕を阻止するイリスの必死さがなんだか可愛くて、にたにたと笑うのを止められない。そうなると火に油をだぷだぷと注ぐだけのようで、俺の気持ちとは裏腹にますますイリスは目尻を吊り上げる。

「それ油性じゃん!ちょっとでも顔についたら絶対許さないから!それになんでマジックなんだよ!ボールペンでしょこういう時は!」
「昔のこと思い出してつい」
「むかし!?…………そういえば、あったね、マジックで顔に名前書かれたこと」
「偉いだろう俺は。あの頃からイリスは俺のだってみんなに知らせていたんだ」

 イリスにとっては嫌な思い出なのか、口を「へ」の字にしてげんなりとした顔を見せる。俺としては小さい頃からあんなにイリスのことが好きだったんだぞって意味だったのに、イリスは不服全開にジト目で俺を睨むばかりだ。

「あの時は水性だったからまだ良かったけど……。ほんと、ショックだったんだからね。あの日は学校も休みでラッキーだったけど、いきなり人の顔にマジックで落書きするなんて信じらんなかった。お父さんは怒ってくれたけどお母さんはなんだか怒り切れてなかったし」
「落書きじゃない、俺の名前だ」
「落書きでしょ!」

 なんだ、未だに理解してなかったのかと、目を丸めてしまった。
 当時は俺の家とイリスの家の間で少し揉めて、騒ぎを聞きつけた母さんは顔を真っ青にしてイリスの両親に謝り倒し、イリスの父親は怒髪天を衝く勢いで俺に怒鳴りつけた。泣きじゃくるイリスを抱き締める母親も怒ってはいるが複雑そうな目で俺を見ていて、暫くの間俺はイリスの家から目の敵にされてしまった。イリスも俺と顔を合わせようとしないし、その父親と出くわしてしまうと殊更最悪だった。野生のポケモンを追い払うみたいに「しっしっ」とされて、中々イリスと会わせてもらえなかった。いくら子供のしたこととはいえ、イリスを泣かせてしまったのは事実なのだから。

 母さんにも怒られながら、何故こんなことをしたのか詰問されて、正直に「母さんが自分のモノには名前を書けって言ったから」と答えると、赤い顔から一転、青褪めた顔で絶望を見せ、頭を抱えていた。
 今思えば子供染みていたなぁとは思うが、幼い頃からイリスを独占したくて仕方なかったのだ。後々になって、どうしてイリスを独占したいと思っているのか気が付くことになるが、それも大分経ってからの話だ。

「落書きじゃないだろ。これと同じだ」

 まだ不服そうなイリスに、役所で発行してもらった結婚証明書をわざと見せつけて、なおかつ自分のサインを指差すと、イリスは呆れたような、でも満更でもないような顔でそっぽを向いた。少しずつ顔に怒りではない赤みが差し始める。子供の戯れと今でも許せはしないのだろうが、今は本当にイリスは俺のモノになっているのだから、それくらいどうってことない。


20220404