短編
- ナノ -


 渇いてしまう前に


 あの女と邂逅した時から、ああこの女は駄目だと、予感めいた、けれど確信めいたものがジブンの中に生まれた。だから、極力あの女との接触は控えた。イチョウ商会を贔屓にしているためにどうしても言葉を交わさなくてはならない場面もあるから、仕方のない時だけは話をするが、それ以外はなるべくあの女の側には寄らないようにした。イリスだけ避けようとするジブンに周囲は不可解な目を向けていたが、あからさまだと筒抜けてしまうくらいの態度をしていた自覚もあったし、それで周囲にどう揶揄されようと、どうでもよかった。

「ウォロさん、今日はお顔の色が優れないね。ちゃんと休んでいるの?」

 コトブキムラに常駐する役目はギンナンとツイリに押し付けているので、ジブンは滅多に居座ることもない。だけどムラに顔を出さないわけではないから、ムラに入る前から気構えをしていないと、ジブンの意志など関係なく、坂で頭から転げ落ちるようにあっさり傾いてしまいそうで、それも末恐ろしかった。
 イリスは、久方ぶりに口を利いたジブンを見るなり、そう悩ましそうに顔を顰めた。心配しているんだ、と顔からも口振りからもようくわかる。それは本心なのだろうともわかるから、余計に厄介だった。周囲もわかるくらい顔を合わせるのを避けられているとわかっているだろうに、そんな顔。
 イリスと話した後は、よく記憶の混濁が見られた。どう受け答えしたのかさっぱり覚えていないのだ。きっといつものように当たり障りなく会話をしていたと思うのだが、どうしてか曖昧にしか記憶にない。気も漫ろに相手していい女ではないのに、その目を見つめていられないのだ。

 言ってしまえば、良い女とも呼べるのかもしれない。女なんて欲の発散ができるだけの都合がいい存在でしかないのだから、一々比べることもなかった存在で、けれど初めてそんな形容の仕方が脳裏を過ぎるくらいには、イリスにこれまで触れた他の女とは違う何かを感じ取っていた。それは恐らく、本能に近しい部分で。
 所作が優美と言えばそうで。優しいと言えばそうで。子供にも慕われて、年寄りの世話も進んでしている。包容力とでも言えばいいのか、あの女に微笑まれると皆が同じように笑う。ムラの中で誰とも分け隔てなく接するイリスは評判も高い女で、虎視眈々と狙いをつけている輩もいた。今は裂け目騒動などのせいで自制を働かせているだけで、ゆとりが生まれれば隙を狙って、イリスをモノにしようと動く者も出てくるのだろう。それを想像して顔を歪めた所で、ハッと我に返った。
 あの女が誰に手籠めにされようとどうだっていいことだ。避けたい人間であるのだから、どうなろうと勝手である。

「ウォロさん、怪我してるの?もう……」

 ある日ムラでばったり、正面から出くわしてしまった時。駆け寄ってきたイリスが眉を潜めて、着物の懐から懐紙を取り出して、ジブンの頬にそれを当ててきた。阿呆なことに指一本まで硬直したジブンに背を伸ばして、そっと頬を拭うその顔が、今までで最も近しい距離にあった。ほんのりと女の息遣いが感じられて、ますます息が詰まる。経験上女の口の中などとうに知っているのに、本当に阿呆なことに。

「良かった、そんなに深い傷じゃないね。薬を塗ってあげるから家に……ああでも、ウォロさんなら薬くらい持っているわね。ちゃんと塗ってね」

 線引きのうまい女でもあった。足を踏み入れ過ぎない器量があって、それがまた絶妙。離れていく手を目で追ってしまった。着物の袖から覗いた腕は白くて細く、男の力でなら簡単に征服できるだろうと思わせる。

「お大事にね」

 ひらりと翻って、微笑み一つを残してイリスは去っていく。そういうのが絶妙な加減だと思わせる所以だ。気に掛けているのだと見せて、けれどあっさりと引いていく。けれどどこかに隙がある。他の男にも同じことをしているのであればとんだ狐だと思わせる程に、あの女の笑みがよく効いた。
 またふと、我に返って自分を罵った。現を抜かすような腑抜けではなかろうと、ジブンへ罵詈雑言を思いつく限り浴びせて、女になど欠片も興味がないのだと、まるで弁明のように。実際女への興味など今まで皆無だった。あれは欲を発散できる存在で、それが済めばもう用もない。割り切った女だけを相手にしてきた。人間など簡単に靡いて裏切るいきものだ。利害の一致で済む関係だけが生き延びていく最良の手段で、今日までそうして生きてきた。ジブンはそういう形をしている。
 崩されてたまるか。そう、女の背を睨みつけた。


  ◇◇


 行き場の失くした現状を憂うる気持ちは全くなかった。物語が潰えても、諦めたわけではない。余所者に何もかも阻害されて奪われたとて、簡単に諦められるようなやわな信念ではなかった。
 なのに、気が付けばムラの中へと入っていたのだから。門番の目を盗んで、ムラの人間の目を盗んで、ただ一つの家を目指した。ふらふらと、覚束無い足取りだったかもしれない。ムラの人間がジブンのことを聞き及んでいるのかはどうでもよくて確かめてすらいなかった。もうこのムラに出入りすることなど一度もないだろうと高を括っていたからだ。
 それがどうして。闇に紛れて、こうして人の目を盗みながら。
 目当ての家にはすぐに辿り着いた。中の灯りが漏れているから人がいることはわかるが、もしもあの女でなければとか、他に人がいたらだとか、そんなことはちっとも考えやしなかった。頭の中にこびりついた顔はただの一つで、時に鮮明に、しかし時に朧気に、蝋燭の火のように揺らめいている。

「あら」

 叩いた戸の向こうから出てきたのは、蝋燭の火のように揺らめいていた顔そのもので、湯浴みの後なのかまだ髪が乾ききっていなかった。それが妙に艶めかしくて、知らず喉が震える。ゆるく結った髪の先から一つ雫が落ちた。白い喉にそれは伝って、最後は着物に吸われて消えてしまう。

「……ふふ、まるで迷子みたいな顔」

 女は、イリスは、ジブンを見てそう白々しく笑った。ジブンのことを聞いていないのかと気が逸ったが、考えてもみれば、この女はきっと全てを聞かされていたとしても、こんな風に笑うのだろうと思えた。

「湯上りだから、このまま戸を開けていたら凍えちゃうの」

 百あることを百は言わず、それだけ囁いてイリスが戸の脇に寄る。人が一人分通れる隙間だ。ごくりと唾を呑み込んでしまったのが我ながら滑稽だった。だけど、誘蛾灯に引き寄せられるように、そろりと、中へと足を踏み入れてしまった。幸か不幸かイリス一人しかいないようだった。後ろで戸が閉まる。イリスが、俯いたジブンの頬をするりと撫でた。労わるようで、それだけとは思えない冷たくて柔らかい掌。

「つめたい。早く温めなきゃね」

 丸い爪の生えた白い指先がジブンの腕を引いて、囲炉裏の方へと導く。最早抵抗する気もなく、ただ女に引かれるがまま体は動く。女が顔だけで振り向いて、ゆるりと口元を上げた。それに、重たい頭からするすると何かが抜けていった気がした。難解なものは全て落ちていく。もう言葉もわからない。喉の奥が乾いて張り付いていた。この女にただ抱き締められたかった。

 ああ。だからこの女は駄目だと思っていたのに。


20220325