短編
- ナノ -


 いっそのこと潰せ


「おはようございます」

 人好きがしそうな笑みであるのに、どうにも信用ならないと悟ったのは、実のところここ最近の話である。隣のキネは明るい笑みで「おはようございます」と返事をしたが、私は彼女みたいに笑って返すことなんかできなかった。

「イリスさん、おはようございます」
「……おはようございます」
「今日もいい天気ですね」
「本当にねぇ!布が早く乾くからありがたいです!」

 ちらりと私を盗み見たキネが、内心呆れているだろうがそっぽ向く私にかわって相手をしてくれている間に、さっさと足を進めて本部へと入った。気が付いたキネが慌てて「それじゃあ!」と頭を下げ、けれどにこにこと愛想笑いしながらその場を後にする。救護室で上着を脱いで仕事をもう始めようとしていた私に追い付いたキネは、ほんのりと口を膨らませながら、腰に手を当てた。怒っていますよ、の合図だ。

「イリス、あの態度は駄目だよ」
「……」
「なんで急にあんな素っ気ない態度取るようになっちゃったの?ウォロさんと何かあったの?」
「……別に」

 手を止めない私にこれみよがしな溜息を吐いたキネだが、この数日彼と会った後の私はずっとこの調子だと、間近で何度も見ているからか、最近は聞いても無駄だと諦めに近づきつつある。私もあからさまだから言い訳した方が良いのだろうとは思うが、言い訳も虚しいと重々自覚もあった。話したところで、誰にも信じてはもらえないのだろう。少なくとも、あの彼は皆に分け隔てなく笑いかけ、怪しい商売をしているわけでもない。着実に信用を築いているのだ。そう易々と私の話は信じてもらえず、突拍子もないと鼻で笑われて、そこで終いになるに違いない。此度のことは、普段の失せ物探し程度の規模ではない。

 だけど、私はもう彼の前で、笑うことなんかできなかった。数日前に自分の心には丁寧に蓋をしたのだ。
 今の私は、彼が恐ろしいのである。


  ◇◇


「お帰りですか?」

 着替えて本部を出ようとした矢先、彼と出くわして思いきり顔を顰めてしまった。しかし彼は平素の笑みを崩さず、変わらぬ態度で私の前に立ち塞がる。

「今日もお忙しそうでしたね、怪我人がひっきりなしに運び込まれて。疲れたでしょう、肩でもお揉みしましょうか?」
「結構です。帰るので、そこをどいてください」
「暗いですし、詰所までお送りしますよ」
「キネと戻りますから結構です」
「今日のキネさんは本部宿泊の当番日だったと思いますがねぇ」
「……」

 終始笑っているウォロさんは、とびきりの笑みを浮かべて「さ、行きましょう」と私の隣に着いて歩くことを促した。有無を言わせぬつもりらしい。貴方の仕事は、と最後の抵抗をしたが、今日はジブン店仕舞いです、と難なく返されてしまって、うまいかわし方が思い浮かばずにとうとう手詰まった。調子よく店仕舞いだなんてと、ギンナンさんの頭の痛そうな顔が簡単に浮かぶ。走って逃げようかとも思ったが、仮にもムラの中の評判が上々の相手のため、こんな人目の多いところで無下にするとまた要らぬ噂を呼んでしまうかもしれない。ただでさえ、ここ最近の私の彼に対する態度の変化について、あれこれと言われているのに。
 暗い道中ではあるが、本部から待機している詰所までは距離などほとんどないに等しい。ムラの中は全て顔見知りだけであるし、突然背後からムラに侵入したポケモンでも現れない限りは危険とは遠い。どの家も扉はどこも簡単に開けられるし、女である以上は一概に安全一辺倒とは言い難いだろうが、少なくとも警備隊も回っているし、恐れ戦く程帰り道は危なくはない。皆が寝静まる頃合いでもないから家の灯りだってそこら中に漏れている。だから送りたいだなんて、ただの方便であると、私は気付いている。

「今日は調査隊の方々が随分と運び込まれていましたが、皆さんご無事ですか?」
「はい」
「毎日毎日大変ですね。ご入用のモノがあればなんでも仰ってください。数に限りがありますが舶来品も取り揃えてありますよ」
「備品管理担当がいますので、そちらから頼みます」
「つれないですねイリスさん。……本当に、つれない方だ」

 言い切ると同時に、ウォロさんは私の腕を取って、驚いて小さく声を上げた。さっさと別れたい一心で早足で帰路を歩いていたから、前触れもなくいきなり腕を取られると前につんのめってしまった。かろうじて倒れたりはしなかったが、彼に腕が触れられた途端にぞわっと震えて、咄嗟に腕を引こうとしたのに、彼は一切力を緩めようとはしなかった。それ程力が込められている感触ではないのに、どういう訳かどうしても彼の手から逃れることができない。何故いきなり腕を取られたのか理解不能で焦る私とは反対に、一面の暗い世界で、ウォロさんのいつもとなんら変わらない筈の笑みだけが、とにかく不気味に浮かんでいた。

「以前はそんなにつれない人ではなかったのに」
「はっ、はなして……」
「突然ですよ、貴女の態度が冷たくなったのは。何かした覚えはジブンにはないのですが、一体何故なのでしょう?」
「大声を出しますよ!」
「ご勝手に」

 そう言われるとつい口を噤んでしまって、自分の愚かさを呪った。本当に叫んでしまえば良かったのに、一度機を逃すと、すぐには体が動けなくなる。そんな私が丸わかりだとでも言いたげに、ウォロさんは目が閉じて見えるくらいにこりと笑う。この場にはなんてそぐわない笑い方だろう。

「もしかして、筒抜けだったのでしょうか、ジブンの貴女への好意が。いやはやお恥ずかしい」
「……冗談はよしてください。そんなことほんの少しも思っていないくせに」
「冗談かどうかお試しになりますか?」

 囁くようにして、ウォロさんが顔を寄せてくると背中が凍るようだった。この人は毛ほどもその気がなかったとしても、女と寝れるように思える。貞操観念が少しずつ変わりつつある昨今ではあるが、まだ情交は娯楽だと考える層も多い。彼がそういう輩と見えるというよりかは、手懐けるための方法ならばいくらでも心得ているように思えた。私が邪魔だともしも見定めたのならば、きっとウォロさんは私のことなどすぐにどうとでもできるのだろうと、そんな予感があった。

「口にしていただければそれでいいのですよ、何故突然ジブンへの態度を変えてしまったのか」

 口にできるものならばしてやりたいが、張本人に馬鹿正直に暴露したところで、私の身の安全が脅かされるだけに決まっている。だから唇を噛んで、睨みつけて精一杯拒否の意を示すしかない。力ではどうせ勝てないのだから、心で屈してはならないと、それしか無力な私では成せない。

「そういえば、ムラの皆さんが噂をされていたのを偶然耳に挟んだのですが。……イリスさんはとってもいい目をお持ちのようで、失せ物の場所であれば大抵イリスさんが教えてくれると。それ以外にも何かと言い当てることも多いと、前々から評判らしいですね」
「……!」

 思わず目を瞠ってしまうと、まるでさも答えを見つけたかのように、満足そうにウォロさんは笑みを深めた。大変観察力が優れておいでなのですね、といつも通りの声調なのに、どうしてか含みがあるように聞こえて、咄嗟に俯き「勘が当たりやすいだけなんですっ」と誤魔化そうとしたが、彼は改めて笑うだけだった。
 夢の話だ、全て。私はよく夢を見る。それは迷子になった子だったり、簪を失くしたと残念がる女性だったり、その都度中身が変わる。吉兆も凶兆も、自分の意志とは関係なく。毎夜見るわけでもないが、ただ、その夢は現実を映すかのようなものが多かった。夢で見た場所を警備隊に教えればそこで迷子が見つかったり、うっかり簪の場所を言い当ててしまったり。自分でも不思議で、時々恐ろしくなるから滅多に夢の中身を口にしたりはしないが、どうにもならない際には口にしてしまって、問題事を解決に導いてしまうことが間々ある。

 そうして、数日前にまた夢を見たのだ。それはあまりに恐ろしい夢で、誰かにおいそれと話せるようなものではなかった。おぞましい程の閃光。赤い空。神々の咆哮。目を覚ました時には汗で全身が濡れ切っていて、動悸が止まなかった。信じられない心地の中、無力らしくただ顔を覆って泣くしかなかった。それ以来、私はウォロさんの顔を、もうろくに見れなくなってしまったのだ。

「ふぅ。存外強情のようだ、イリスさんは。そういうところも素敵ですよ」
「……お褒めいただきありがとうございます」
「どういたしまして」

 私のなけなしの抵抗が功を奏したのか、或いはこの場は面倒だと思っただけか。ウォロさんは溜息を吐いた後に寄せていた顔を元に戻して、行きましょうとまた歩き始めた。瞬間、バクバクと心臓が暴れ出したのは緊張が解けたせいである。私の言葉如何では、あのまま手籠めにされていても可笑しくはなかった。
 当然のように私は無言を貫いたが、ウォロさんは詰所の前に辿りつくまで一方的に話を続けた。二人の雰囲気には全く似合いのつかない、明るい声音の、他愛のない話ばかりだ。私はポケモンに恐怖を感じて中々近づけやしないが、彼はボールを用いてポケモンを連れ歩いている。私達は見ている世界がそもそも違うのだ。

「さぁ着きました。では、また明日」
「……ここまでありがとうございました」
「大したことではないですよ」

 灯りがついているから中に誰かしらいるだろうし、さっさと中へ入ってしまおうと扉の前に立った瞬間。もうここまで来たからと偽りなく油断していたのだ。不意に肩を掴まれて、そのままぐるりといとも容易く反転させられた。こんなことを出来るのは、背後に立っていたウォロさんただ一人である。

「ジブンは、貴女と仲良くありたいですよ」

 口と口が危うく触れそうになるくらい、ウォロさんの顔があまりに近すぎて思わず息を止めた。いっそのこと心臓も止まってしまいそうなのに、気持ちとは裏腹にそこの鼓動は早まるばかりなのが、自分でもどうしようもなく可笑しかった。彼の言う仲良くは、どうせ私が期待するようなものではないのに。

「仲良くありましょう。物入りであれば遠慮なく声を掛けてください。雑貨屋にないものも可能な限り仕入れます。化粧品でも食べ物でも、都合をつけますよ。そういう商売は基本的にしないのですが……寂しい夜があれば、それも」
「っ」

 振り払いたいのに体はほんの少しも動かなくて、ただただ顔にかかるウォロさんの息遣いだけがあまりに鮮明で、艶めかしくて、なんだか身も世もなく泣きそうになってしまった。さっき顔が寄せられた時は背筋が凍る思いだったのに、今ばかりはどうしてか。そんな私が手に取るようにわかったのか、けれど慰めようと意味ではないのだろう、飄々と「貴女は澄ました顔よりも笑った顔の方が似合いますよ」とだけ言い残して、ウォロさんは私を解放した。乱暴でもないその最後の手つきに、無言で浮きかけた手を叱咤して丸めた。二人の間に風でも吹いたのか、距離が開いた途端体が急激に冷えていく。

「おやすみなさい。また明日」

 朝と同じ笑みを見せてウォロさんは私に背を向けた。その背を、しばしそこから動かずに見つめてしまったのだから、なんて救いようのない阿呆なのだろう。また風が吹いて顔にかかった彼の息の生温さを無情にも攫おうとする。丸めた拳は爪が食い込んでしまってとても痛い筈なのに、解こうとは微塵も思わなかった。痛みですら覚えておこうとでもいうような、浅はかさのせいだ。気を抜けば蓋をした心が彼への恐ろしさを無残にも食らって、私を女として突き動かしかねない。だからもう一度頑丈な蓋をしなくてはならなかった。

 私は明日も、ウォロさんとろくに顔を合わせることはできないだろう。今後誰にも、本人にも、その理由を話すこともないだろう。信じてもらえないという意味だけではなく、単に私が口にしたくはないからだ。彼もそれを察しながら、私に探りを入れつつ、先程のように声を掛けてくるに違いない。今度こそ手籠めにされてしまうかもしれない。恐ろしいのに、隠した心はそれを恐ろしいと思いきれていなかったから、また蓋でしまわないといけない。
 コトブキムラには、ヒスイの土地には、もう間もなく新たな風が吹いて皆を変えていく。そして、やがて彼は私の前から消えるだろう。今ほど、夢がただの夢であれと願うことはない。


20220212