短編
- ナノ -


 産声を上げる新世界


 友達が、彼氏と別れたいと相談してきた。束縛が激しいと億劫そうに嘆いて、溜息を吐いている。
 毎日必ずその日あったことを報告しないといけないし、何処に誰と何をしにいくかも許可をあらかじめ貰わなくてはならないし、色々と面倒だ、と。
 この前も、あらかじめ許可を貰った外出の際に偶然知人と会って立ち話をしただけなのに、それがいつまで経っても許されなくて大変な思いをしただとか。男性でなく女性だったし、たまたまだったとどれだけ説明をしても聞く耳を持たず、今もまだ機嫌が直らないらしい。

「もうやだなぁ。疲れた」

 ぼやきを紡いでいる唇を彩るピンクのルージュも、耳元で揺れているピアスも、膝の上に乗せたブランドのバッグも、その他にも数えきれないくらいあるが、全部その彼氏が彼女に贈った物だ。
 毎日恋人に貰った物で着飾って、何でも買ってくれるいい彼氏と、以前までにこにこしていたのに。

「愛されてるってことじゃない?」
「所有物だと思ってんだよ、私のこと。管理しときたいの」

 それってやっぱり、愛されているという理由以外に、なんと言い表せるのだろう。

「アンタのとこは?最近どう?」
「…まぁ、いつも通りだよ。仕事が忙しいみたいだし。この前は、一緒に出掛けたけど」
「でも何でも許してくれるんでしょ?いいなぁ」

 いいなぁと言われることなのかな、それって。



 ダンデは、チャンピオンを退いてからも忙しさから解放されることはない。チャンピオン時代と比べれば丸一日ゆっくりと過ごせる余裕もあるようだが、相変わらずポケモンが大好きだし、しかしかといって私を放置するわけでもない。それは、私を特別と思ってくれている証拠で、喜ぶべきことで、嬉しいことなのだろう。
 だけど、私はあの友達のことを、どうしても羨ましいと思ってしまうのだ。
 別に贈り物が欲しいわけでもないが、ただ、束縛されているくらいが愛されているなぁと実感できるから。

「ダンデ」
「ん?どうした?」
「明日仕事終わったら職場の男の先輩と飲みに行ってくるね。だから、一日中連絡できないや」
「そうか、わかったよ」

 私の愛おしい世界に唯一の恋人は終始泰然としており、そうしてやわいまなじりで微笑みを浮かべている。あっさりと了承をされてしまい、条件反射でもやっとした何かが胸で一杯になる。その先輩がどういう人なのか、とか、気にならないのだろうか。その先輩、男だって言ったんだけど。
 連絡も、いいの?帰りの事とかも特に心配してくれない?
 友達の彼氏はね、自分以外の男と飲みに行くなんて何があっても許してくれないんだって。それが仮に複数の中の一人でも、絶対に。同性と何処かに行くだけで文句を言うくらいなのに、ダンデは全然、何とも思わない?
 淡泊、とも言えるのだろうか、こういう反応は。恋人としての行為は悉くしてきたけれど、あまりダンデからの気持ちを痛感することができないと、燻る毎日。周りと比べることは褒められたことではないが、こうして何も追及されないのもまた、心に隙間風が吹いて寂しいものだ。

 優しい人だ、ダンデは。私を慮ってくれていることはよくわかっている。今日も泊まりにきた私に、とびきり優しくしてくれた。
 だけど、あまり熱を感じない。何をしても怒らないし、何をしても咎めない。誰と何処で何をしようと、楽しかったか?で終わってしまう。嫉妬されることなんて今まで一度もなかった。包容力があると言われればそれに当て嵌まるのかもしれないが、我儘でも私が欲しいのはそういうのではない。
 ダンデの情熱の大半はポケモンとバトルに注がれているから、私へ注ぐ熱量は、きっと然程多くはない。
 それでもずるずると関係を続けてきたのは、私がダンデのことを好きで、それ以外の理由なんてなくて、それだけでいい筈なのに。

 だった、のに。

「…そんな感じでまぁ…その…」
「愛されてる感じがしない?」
「そう…ですね……多分」

 先輩は酒を片手に適度な相槌を打って、私の無遠慮な話を聞いてくれる。長年付き合っているという彼女がいるその人が、もっぱら相談相手だった。
 ぐいっとグラスに残った酒を煽ればすぐに先輩が注意してくれるが、今日はどうにも酒のペースが早い。見えなくて座りが悪い不安を誤魔化しているだけなのだろうが、今だけは酒に逃げる人の気持ちが少しばかりわかる気がする。

「…先輩は彼女に怒られないですか、こうして私と二人で飲むこと」
「うちはもう長いからなぁ…。でも理解はしてくれるかな、割と」
「それって、先輩のこと信用してるからですよね。愛されてるって自覚があるから」
「どうなんだろうね。でも、そうかもしれない。俺もアイツのこと、今更余所見するような人間じゃないって思ってるし」
「いいなぁ…」

 重たい頭を支えているのに疲れてテーブルに突っ伏すと、そんなに勢いをつけていなかった筈なのにゴンッと音が鳴ってしまい、テーブルの上の食器がカチャッと音を立てた。寝るなよ、と言われても、もう起きる気力はない。
 酒のせいなのか、日頃の鬱憤のせいなのか、私には判別がつかない。

 結局千鳥足となった私は、先輩の肩を借りてアーマーガアタクシーに乗って帰ることになった。狭い車内でシートにぐったりともたれかかって、くらくらする頭が落ちないようになんとか頑張る。
 先輩は私には最低限にしか触れず、気を遣ってくれているのが嫌でもわかった。先輩とは距離を保っていても、私の鼻は優秀なようで、隣から香る匂いがダンデとは全く違うことに、虚しくも泣きそうになった。もうそろそろ、私もしんどいなぁ。

 自宅付近に着くと、タクシーを待たせたまま先輩が玄関まで支えて歩いてくれた。先輩の彼女には悪いが、こうして誰かが支えてくれないとその場から動けそうになかった。

「鍵出せる?」
「……あい…」
「しっかりしろぉ」

 鞄の中を掻きまわしていると、突然一人でに玄関が開いた。
 二人してビックリして固まっていると、中からダンデが顔を出すものだから余計驚きに拍車がかかった。

「おかえり。ああ、こんなに酔って」
「ダンデ!?」
「すまない、ここまでありがとう。後は引き受ける」

 ガチガチに固まった先輩は、ダンデに一瞥されてその場をロボットのような足の動きでもって去っていった。後で弁解しなくちゃ。ぐしゃぐしゃの頭の片隅に瑣末ながら冷静な部分が残っていて、弁解の矛先はダンデではなく当然ながら先輩にである。
 だってどうせ、ダンデは私を咎めないだろうから。

「だんでぇ〜〜」
「すっかり出来上がってるな」

 酔っ払いだからいいでしょっと甘えた声を出して抱き着けば、冷静に返されてしまった。そのまま私を中へ入れて、首に回した私の腕を丁寧に解いてからソファにそっと座らせて、水を取りに行ってくれる。
 ほんと、なんにも言わないの。そもそも、どうしてダンデは私の家に居たんだろう。飲みに行くってきちんと伝えたのだから、私がいつ帰って来るかもわからなかったのに。

「ほら」
「ありがと」

 ペットボトルの水を数回に分けて飲むと、ほんの少しだけ落ち着いた。相変わらず頭の中は洗濯槽のようにぐるぐるしたままだが、水を飲む前と比べれば大分マシだ。

「先輩びっくしりしてたね」
「ああ、そうだな」
「ふふ、後輩の家からダンデがでてくればそうなるよねぇ」
「水、飲まないなら貸して」

 ほうら、これだ。わざと先輩の話を持ち出しても、ダンデの顔色はすこうしも変わらない。いつも通り優しい笑顔で、私に接している。

 どうして何も言わないの。ダンデも私の事、先輩の彼女みたいに信用しているってこと?
 それならそれでいいの。だけど、ただの一度も、ダンデが嫉妬したり、口出しされたこともなければ、それに不安を覚えてしまうのはおかしなことなの?これって友達が口を尖らせたみたいに、贅沢な悩み?
 私だったら、嫌だよ。ダンデが他の女とご飯食べたり夜遅くまで飲んでいたら、絶対嫉妬する。仕事でも本当は嫌。幼馴染でも嫌。
 また堂々巡りの思考が始まってしまい、くらりと目眩がする。気持ち悪さはないが、ふわふわと体が浮いているような覚束ない感覚。
 そのせいだろうか、うっかりポロッと、口から予定のない言葉が零れてしまった。

「…先輩のこと気にならないの?」

 あ、今嫌な声のトーンだった。不機嫌さを前面に出して、責めるような声音。
 これまであんまり出さないよう気を付けていたのに、頭が緩くなっているからと言って、今この時に出てきてしまうなんて。

「…ごめん、違うの、ごめん」
「何をそんなに謝るんだ?」

 ん?とでも言いたげないつも通りの顔に、少しだけホッとする。追及されれば簡単に仮面が剥がれてしまうかもしれない。
 なのに。胸を撫で下ろしたのも束の間、ダンデは静かに口を開いた。

「君は気にして欲しいのか?」

 心臓が嫌な音を立てた。ずん、と体が重くなる。一瞬走った寒気にも似た衝撃が、身を竦ませた。なんだろう、今、どうして。
 ダンデを見上げても、そこには正真正銘“いつも通り”があるだけだった。
 そのせいで体だけでなく心も揺れてしまったのかもしれない。酒のせいで火照った体は、そのまま頭も一緒にうだるような熱を持っている。
 ようやく貰えたレスポンスに、多分、気が逸っていた。

「…うん」
「あの先輩のことを?」
「ううん、もっと、色々」

 ダンデの指先が頬をするりとなぞってから、そのまま首筋へ降りていく。心地良くて、ふわふわとした頭のまま擦り寄った。

「例えば?」
「誰とどこにいって、何をしても、ダンデ怒らないの?どうして?今だって男の人と二人きりでお酒飲んだのに、なんで?」
「他には?」
「友達はね、凄く口を出されるの。女の友達と出掛けるだけで不機嫌になって、あらかじめ全部申告しないとろくに遊びにもいかせてくれないって」

 首筋を抜けて鎖骨を擽った後、指先が上へと戻ってくる。口紅が剥げた下唇を人差し指が心許ない力で押した。

「それを、どう思った?」
「愛されてる証拠だって、思った。その子は鬱陶しがってたけど、それだけ気にされて、嫉妬されて、羨ましい」
「俺はそうじゃないから?」
「そう、そうなの。もっといっぱい嫉妬して欲しいし、もっとたくさん興味持ってほしいの。もっと愛して」

 舌を出してチロ、と下唇に未だ留まる人差し指を舐めると、ダンデは目を細めてそれをじっと見下ろしていた。

「…こんなに、愛しているのに」

 指を舐める舌を急に引っ掻かれて、ビックリして舌を引っ込めて唇を閉じるが、元から間にダンデの指があったから、そのまま唇で食んでしまう。

「我慢を重ねて君を最大限尊重していたが…君がそれを渇望するなら、応えなくてはな」

 咥内に含んでしまった指先が、再び舌を引っ掻いた。


  ◇◇


『元チャンピオン・ダンデ 電撃入籍』

 新聞もテレビも、報道する内容はどれもかしこも同じ。ずっとそう。
 ダンデはたったの一人だけで書類提出も会見も済ませて、私が家にいる間に全ての手筈が整えられてしまった。
 でもしょうがない。だって、ダンデが家にいろって言ったから。

「いい子にしてたかい?」
「うん」

 帰ってきたダンデに抱き着いて唇を重ねてから、大きな手が私の腹を撫でた。まだ全然目立たないそこをダンデは大好きで仕方ないらしい。

「スマホ、見せて」
「はい」

 言われた通りスマホを差し出すと、画面を手早く操作して中を見分される。日課だ。そして、段々と眉間を寄せて険しい表情を浮かべ出した。

「…勝手に友人に連絡したな?」
「ごめんね、どうしても結婚したこと伝えたくて」
「言っただろう?君が俺以外と連絡を取り合う必要はない。もう二度としないでくれ」
「わかった」

 気分がいい咎めだった。私がずっと欲しかった言葉。欲しかった眼差し。欲しかったダンデの顔。
 ダンデの指がまた画面をいじりだす。多分、そのまま友人の連絡先も削除されてしまうのだろう。今まで良い子にしていたから、かろうじて残すことを許されていた最後の友人と、もう連絡が取れないようになってしまった。これであのスマホにはもう、ダンデの連絡先しか入っていない。
 二度としないでくれと口では咎めながら、自分の手で手段を封じてしまうのだから。

 私を今成立させているのは、ダンデだけだ。
 身に着けるものは全部ダンデが用意してくれる。友人もダンデが選別したが、徐々に数を減らし、こうして全てがたった今消えた。
 ダンデが外に出ている間、ダンデの言いつけを守り続ける。家で、大人しく。帰ってきたらその日為したこと全部の話をする。何処で何をするにも、全てダンデと一緒。
 そういえば先輩には弁解、出来ずじまいだなぁ。最後に会ったのは飲みに行った日だから、大分経ってしまった。このまま何も話せず一生が過ぎてしまうのだろう。
 まぁ、弁解することなんて、何一つなくなってしまったのだが。


 でも、なんだってかまわない。私にはダンデとこの子がいるもの。

 だからね、大丈夫。私、全然困ってもいないし、寂しくもなんともないよ。


20200608