短編
- ナノ -


 さよならリトルベイビー


 ゆっくりと進むことにしていた。最初はアーマーガアタクシーで移動しようと思っていたのだが、私がそれを口にするとマリィが首を静かに振って、けれどその瞳には小さな不服が混じっていたから、これが最後になるだろうからと彼女の我儘を叶えてやることにした。そもそもが今マリィと一緒にいること自体が、今日というこの日全てがマリィの我儘と言ってもいいものなので、これくらいならば至極ささやかなものだ。どうやらマリィは、私といくつもの場所を巡るよりも、とにかく私と長く時間を過ごすことの方を選んだらしかった。
 一番近い最寄り駅から乗って、目的たるシュートシティに向かうことにした。あそこまで行くのなら、列車での移動距離も長いし、マリィもそれでいいかと期待したらまたもや不服そうな瞳をしていた。最初はどうしたかと思ったが、すぐにハッとして「ごめんね」と謝ると、余計に不服そうな瞳を向けられてしまった。

「何が?」
「別の場所にすればよかったかなって」
「構わんけん」

 構わないって顔してないよ、とその柔らかな頬をつつくと、むすり顔を強くされたが最後にはくすくすと笑ってくれたので、ちょっとばかし安堵できた。それにしてもいきなりシュートシティなんて、いくらなんでも私も配慮が足りなかった。何のために今日一日マリィと過ごすことに決めたのか。

「向こうについたら何しよっか」
「アイス食べたい。この前オープンしたとこ」
「服も見ようね。マリィの服選んであげる」
「あたしも、イリスの見繕ったげるよ」

 隣り合って座るシートの上で、首を傾けて寄り添い合いながら他愛ない話で華を咲かせていると、不意に指先を冷たい指に握られた。突然のひやっこいものに一瞬ドキッとしたが、特に嫌な気持ちもないからそのまま握られたままにいることにした。マリィと手を繋ぐなんて昔からよくあったことだし、今更とやかく言うものでもない。ただ、この隣の女の子はそれがいささか気に食わないらしく、またむすっとして、自分の不満さを主張するためにか私の手をにぎにぎしてくる。

「マリィの手は冷たいなぁ」
「もっと他に言うことないの?」
「もうあとちょっとで成人だっていうのに、いつまでも子供みたいだ」
「……そうだよ、マリィ、まだ子供だから。だからたくさん我儘言うの」

 ニューエイジのファッションリーダー、みたいに巷で言われるようにもなったマリィのこんな顔、きっと限られた人間しか見られないのだろう。私だって小さな頃から近所で一緒に過ごさなければ、同じ町に暮らしていようとこんなにマリィの顔をたくさん見られやしなかった。
 でも、そういう世間の評価が少なからずマリィを悩ませもしたのだ。ダンデがいくらか騒ぎ立てるメディアを窘めてはくれているが、人の心いうものは簡単に制御がききにくいものだ。崇拝的なファンというのは、どの業界にも存在する。自分の目に映る、良い部分しか見えない、都合の良い頭と目を持った輩だ。

「しょうがないねぇ」

 顔を隠すための帽子とサングラスが、マリィの精一杯の防御だ。私もそれくらいしか思いつかなかった。せめてもと髪を結ってやったが、それしきでマリィの傷が癒えることはない。ここ最近の世間でのことも、私のことも。
 だから、こうして我儘に付き合ってやるくらしか、私にはできない。甘えを許して、しょうがないと受け入れてやって。大人にまだなれないマリィが、ちゃんと受け入れてくれるまで。
 私はマリィの気持ちに応えてやることもできないのに。



 シュートシティについたら予約を取っていたホテルに荷物を預けようと考えていたが、マリィがこのままでいいと言うので迷ったけれど、結局意向を汲んでやることにした。移動し辛いよ?と言いたかったが、そもそも長距離を望んだマリィだ、それくらい煩わしさがあった方がいいのだろう。
 一泊分とはいえ女の荷物はそこそこあったが、抱えたまま早速マリィご要望のアイスを食べた。シングルよりダブルの方がお得ですよ、という店員のお姉さんの言葉に素直に乗っかって、二人揃ってダブルのアイスをスプーンでつつきながら、時折「味見」なんて悪戯気に笑いながら食べさせっこして。
 アイスをダブルで食べてしまったからそれなりにお腹も膨れたので、そのままブティックを梯子した。マリィが最初に目を惹かれていたのに、触れもせずすぐにその場を逃げたワンピースを渡すと「それはかわいすぎ」なんて言うから「可愛いマリィにぴったりじゃん」と笑うと、ほんの少し目を泳がせた。自分が着たいものを着ればいいと再度促してやると、渋々と受け取るだけ受け取ってくれた。それにするなら買ってあげるよ、そう追撃すると、不承不承と言った雰囲気を醸しつつもやっと試着までする気になってくれた。
 試着室から中々顔を出してくれないマリィに何度か懇願すると、恐る恐る、顔はいかにも「仕方なく着たよ」とでかでかと書いて、私の前に現れてくれる。

「かわいいー!」
「……やっぱり、ちょっと」
「マリィはやっぱりこういうワンピースが似合うね」
「……」

 本当は欲しいくせに。でも、成人を控えているとはいえまだまだティーンの、大人と子供の狭間の女の子は、服一つとっても自分からは素直になれない。

「私が買いたいから買います。それ着たまま行こう」
「え」
「すいませーん!」

 マリィが動揺している隙にタグを切ってもらって、私が選んだワンピースを着せたまま歩かせることに成功した。結局強く抵抗しなかったのだから、マリィの気持ちはやはり私が睨んだ通りなのだ。
 外に出て、隣を歩くマリィはどこか居心地が悪そうである。落ち着かない様子でワンピースの裾をつまんだり、伸ばして直すような素振りをしたり。だから忙しない手を掴み上げてやった。

「嬉しいなぁ、私が選んだワンピース着たマリィとこうやって歩くの」
「……かわいい?」
「世界一キュート」
「……次!次のブティック行こ!イリスの選び損ねた!」

 私に手を引かれていたのが、今度は私が引っ張られる形に逆転した。まだすんなりと認めることはできないようだけれど、今すぐじゃなくてもいいから、マリィがこの服をなんのフィルターなしに受け入れることができればいいと思う。世間が抱くイメージなんて気にしていいのだ。

「あ、ねぇマリィ、ほら、ネズだよ」
「?……ああ、今度の新曲の宣伝やね」

 メインストリートのあるショッピング施設の街頭モニターに我らがネズの顔がどーんと映っていて、相変わらず哀愁たっぷりに歌いあげていた。あれもまた昔から馴染みのある人間で幼い頃からよく見知った男だが、こうして一歩引いて見ると、やはり俗人とは違う何かを感じさせる。だからこそ、この手の人間は誘蛾灯の如く人を惹き付けてしまうのだろう。兄妹揃って難儀なものだ。

「かっこいい?」
「そうだねぇ」
「アニキかっこいい?ねぇかっこいい?」
「かっこいいかっこいい」
「……むぅ」

 かっこいいと答えたのにも関わらず、私の返答がまた気に食わないらしい。マリィのむすっとした顔は見慣れだから何もおっかなくもないが、ここでマリィの言いたい「かっこいい」の真の意味に同調することはどうしたって出来ないのだから勘弁してほしい。わかっていて言わせたいのだから、マリィは。

「あ」

 モニターがパッと変わり、今度はダンデの顔がでかでかと映し出された。ダンデはチャンピオンを退いてからインタビュー時は真剣ながら穏やかな顔で答えることが増えた。取り繕うところは取り繕うが、チャンピオン時代と比べて僅かなりと肩の力が抜けている。

「いこっ」
「わっ」

 モニターのダンデを黙ってじっと見つめていると、マリィに勢いよく手を引かれてしまって、足が危うくもつれるところだった。でもマリィはそんなこと知らない、と言った風に、ずんずんと先を歩いていく。私も、マリィを咎めることができなかった。
 今日の私は、私の役割は、マリィの我儘に付き合って、子供染みた甘えを許してあげることだから。
 今日という、短いたったの一日だけ。


 ◇◇


 ショッピングをして、スイーツも食べて、そうしたら次は観覧車に乗りたいとマリィが言い出したからまっすぐ向かった。平日な上に観光シーズンでもないからか混雑もしておらず、すんなりと二人で乗り込むことができたのは幸いである。

「わ、高いね」
「イリス高いとこ平気やったよね?」
「そうだけど、観覧車はほとんど乗ったことないから少しびっくりした」

 二人きりの狭い空間で、ゆっくりと回転するゴンドラの中で、マリィは私の隣にぴったりとくっつきながら、外と私の顔を何度も交互に見やった。私の反応が一々面白いのか時折くすっと笑い、けれどそれはとても穏やかな笑みだった。ここのところ張りつめていたようだから、こういう凪いだ空気は久しぶりに感じる。頂上に程良く近づいたのと、左右のゴンドラには誰もいないのが良かった。自宅以外で、周囲の目も声も気にせず振る舞えるから、私も二人きり、ということに若干の懸念はあれど、だから観覧車に付き合う気になれたのだ。
 ただ、そうして私が気を抜いたのが伝わってしまったのだろう。そもそもぴったりとくっついていたマリィが、更に、私との距離を詰めてきた。膝に置いた手の上に自分の手を置いて、私の肩に頭をこてんと預けて、上目遣いで私を。これは初めての格好ではない。しかしその唇が何も語らないことが、却って少しばかり怖かった。年下の女の子の、それも生まれた頃から知っているようなマリィに対してそんなことを感じてしまうなんて、と自己嫌悪に途端に陥って、咄嗟に顔ごと目を逸らしてしまった。
 そんな私が飽きもせず不満なのだろう。爪先で表面だけを掠るように、私の手の甲をマリィの指先が這い出した。

「イリス、」
「この前ね、リザードンに乗せてもらったの。この観覧車の天辺よりも高い所を飛んだけど、さすがに怖くてね、それで」

 かり、と爪先が微かに手の甲に食い込んだ。マリィも無意識なのかもしれない。言葉は何もなく、それでも責められているとはわかっていても、私はわざとらしく明るい口調で話をするのを止められなかった。わかっている。手の甲にある痛みは、マリィの痛みだ。今しがた私がこの女の子に傷をつけたのだ。それが自分に返ってきただけの、とても単純で明快なことだ。

「……ばかっ」

 今しがたまでの空気をあっさりと散らした、子供の頃と同じ顔の、拗ねたように口を尖らすマリィに安心してしまった私は、きっと理想や幻想を押し付ける世間と大差なかった。悪い大人だ。


  ◇◇


 予約していたホテルにチェックインして、入った部屋の中で仄かな緊張を覚えている私をよそに、マリィは静かだった。入り口の前で突っ立ったままの私は「荷物置けば?」と、さっさと荷物を置いて上着も脱いで身軽になったマリィに言われてしまって、慌ててその通りにしたくらいである。

「高かったんじゃないの?ここ」
「ロンド・ロゼと比べればそうでもないよ」
「ふぅん」

 自分から訊いてきたくせに興味の薄そうな声だ。静かではあるが、それはもしかすれば、私と同じだからなのかもしれない。私が今更マリィを相手に緊張するなんて、とも自嘲するが、それがこの子には気に食わないのだろう。きっと、本当はずっと前から。
 いつからマリィは私と二人きりになることに、淡い期待と緊張を抱くようになってしまったのだろう。マリィが生まれたくらいからずっと側にいた私を相手に、どうして。

「……マリィ、夕食はどうしようか。下のレストランでビュッフェもあるし、近くにいくつかお店もあるみたいだし」

 荷物を置いて、必要なものだけ取り出して並べながら背後にいるマリィに話しかけたが、何も返事がない。でもそれは特に不思議がることではなかった。ネズもそうだが、兄妹揃って気まぐれなところがあって、話を聞いていないことも多い。だから返事がないなんてことも珍しいことではなかったから、気にせずぺらぺらと調子よく話を続けた。

 それが、つまりは油断していたということになるのだ。マリィの様子を気に掛けもせず自分の中の緊張をどうにかしようと、自分のことばかりに注意を向けていたから。
 現実を直視した時には、マリィはもう私の背中に張り付いていた。ぎゅ、と抱き着いて、顔を埋めているのかそこは息がかかって生暖かい。反射で荷物をいじっていた手がぴたりと止まった。

 わかっていた。わかっていて、私は今日一日マリィに付き合うことにした。
 わかっていて、私はマリィを受け止めてあげることが、どうしてもできない。マリィもそれをわかっているのに。

「……マリィ、私ね」
「なんも言わないでよ」
「あ」

 口にしなくてもわかっていて、けれどこうしたことをするのならば、残酷でも言わなくてはならない。私はずるい大人だ。だから口を開いて酷な言葉を伝えようとしたのだが、その途端先回りするようにしてマリィが私の背を押した。大した力でもなかったのにあっさりと体は崩れて、柔らかなベッドの上に顔から落ちてしまった。さすがにびっくりしてマリィを見上げようとすれば、その動きを利用した正面に転がされる。そして目に入ったのは、まだまだ十代の女の子ながら、歳に見合わないくらいに切羽詰まって、けれどどうしようもない感情を持て余してどう形にすればいいのかわからない、苦しさが零れていた。

「……」

 マリィはそのまま動きを止めて、揺れが収まらない瞳で私を見下ろし続けた。押し倒されたまま私もアクションを起こせず、しばし静寂が場には下りた。でも、私がマリィに応える日はこないのだ。それだけは、いくらずるい大人でもわかっている。いや、ずるい大人だからこそわかっているのかもしれない。
 ただ、それでも私にとってマリィは大事な子だ。彼女が生まれた頃から一緒にいたような、甘えてくれて笑ってくれる、大好きと言ってくれた特別な女の子。若くして兄からジムリーダーを継いで、世間のあれこれに揉まれて、晒されて、自分と幻想の乖離に少なからずの傷をつけられた、大人と子供の狭間。リーグ委員長が交代したことで昔と比べれば大分過激さは失ったようだが、人というのはどんな時代でもそう容易く変わらないものだ。
 守ってあげたかった。大事にしてあげたかった。安心できる場所でいたかった。でも結局それが全て悪手だったのかもしれない。いつか手を離れる時が来るとわかっていながら、マリィに良い顔だけしてしまった私は、やはり正しくずるい大人だった。

「……マリィ」

 いつからだろう、マリィが私を見る目が変わってしまったのは。私にとってのマリィが身近にいた年下の女の子であったように、マリィにとっても身近にいた年上の女、というだけだったはずなのに。ネズと三人でいることだって日常茶飯事だったし、特別なことはなかったように思う。小さい頃も、マリィがジムリーダーになってからだって。

「……」
「マリィ」

 何がきっかけになったのかは知らない。きっかけすらあったのかどうかも。マリィの複雑な心を紐解くには私にはもう難しい。
 でも、何があっても私はマリィを見限ることができない。それが軽々しくできるくらい薄情になれれば楽だったかもしれないのに、そうできないくらい私達は一緒にいたし、マリィへの愛情が強くなり過ぎた。私とマリィの中の愛情は似て非なるものではあるが、何があっても私はマリィの味方でありたい。それがマリィには、酷なことだとしても。
 目の前にいる泣きそうなのに泣けない女の子が愛しくて哀れで、その頬に手を滑らせた。観覧車のゴンドラで揺られていた時とは違って、恐ろしさはなかった。
薄くファンデーションを塗った、けれどティーン特有の柔らかで滑らかな肌。色が白くて、陽の下で振り向いてくれた際の笑顔がいつだって眩しかった。お姉ちゃんって呼んで無邪気に手を伸ばしてくれるこの子が愛しかった。思えば、私を名前で呼びだした頃には、私に対する感情が変わってしまったのかもしれない。

 私はマリィに応えられない。私はマリィを愛しているが、それは人として。マリィが私に向けているものとはどうしたって別物だ。本当なら乱暴にでも拒否してあげた方がいいのかもしれないが、マリィを傷付けるのが結局恐ろしい私は、ここで大人らしく諭すような口もきけなかった。

「……ひどいね、イリスは」
「え?」
「もしあたしのことを本気で意識してくれてたなら、こんな風には、しないよ」

 こんな風に、を指すように私の掌に自分の頬を軽く擦り付けた。結局私はマリィに傷をつけてしまったのか。色々と言い訳してきたが、蓋を開けてもみれば私は悲しいかな、矛盾で出来た女であった。
 そのまま私の顔の両脇についていた腕をそっと折って、胸元に顔を埋める。縋られているみたいだ。子供みたいに二つの手が服をぎゅっと握り締めて、それがどうにも昔「あにきとけんかした」と泣きついてきた頃そっくりで、こそばゆいくらいの懐かしさに否が応でも襲われた。あの頃のように抱き締めて頭を撫でてやろうとしたところで、はたと、行き場を失くした手を音もなくベッドの上に戻した。今、私はマリィを決して慰めてはならないのである。

「せめて……せめてアニキと結婚してほしかった」
「ネズと結婚したら曲のネタにされそうだ」
「とびきりのラブソングやけん。アニキあれで情深いからきっと歯が浮くような歌詞つけるよ。でもマリィ、百枚は買う」
「そうだね、ネズが誰かと結婚することがあって、それを曲にしたら、私も買うよ」
「意地悪、イリスの意地悪」

 震える小さな肩が、声が、愛しくて哀れで。慰めにもなれない私も酷くて。中途半端が一番可哀想なことをしているとわかっているのに、今たくさんのことで傷付いたマリィによりによって私がとどめをさすなんて出来なかった。嬉しさは正直なところあるのだ。でも、戸惑いだって大きくある。私はマリィを特別な女の子とは思っていても、愛情を抱いていても、それ以上には大きくならないし変化もしない。

 泣き疲れたらしいマリィがしょぼしょぼになった目を気にして外に出るのを嫌がったので、食事はルームサービスを頼んで夕食は取った。交代でシャワーも浴びて、それぞれのベッドに潜り込んで、でも向き合って夜通し話をした。昔マリィが髪留めを失くして大泣きした話とか、私がスクールで赤点ギリギリの点数を取って絶望した時の話とか。ジムチャレンジ中のことは私は詳しく知らないし何度も本人が教えてくれていたが、飽きもせず同じ話をした。私達の思い出はほとんど重なっているからいつまでも話が尽きない。ネズとマリィの家に泊めてもらってマリィと同じベッドで眠った時や、私の家に泊まりにきたマリィとやっぱり同じベッドで眠った日みたいに。
 そうやって二人きりの夜の中で、過去にばかり浸っていた。



 翌朝、チェックアウトを済ませようとロビーへ降りると、見知った顔が二つ、いつからか待ち構えていたことに気が付いた。マリィはすぐに目を見開いて、顔を見た途端に泣きそうな顔になった。自分の子供のような我儘の効力が切れていたことに、今ようやく思い至ったように。
 これは正しく、マリィのストライキが終わった瞬間だった。

「マリィ」
「……」

 ネズに呼ばれて、マリィは僅かなりと逡巡を見せたものの、まるで観念したように一歩ずつ、ゆっくりと、自分の兄の元へと向かった。私もまた、ネズの隣に佇むダンデの元へ向かう。流れるように私の手から荷物を預かってくれたダンデは、随分と控えめに笑っていた。

「帰ろうマリィ」
「……うん」
「楽しかったですか?」
「うん、楽しかったよ」

 ダンデを真似したのか、はたまた妹を気遣ってなのか、ネズもまたマリィから荷物を預かろうとしたら、身を翻すようにして交わして、これまた流れるように私の手を取った。チェックアウトは一緒にしたいらしい。
 最後の望みのままに二人並んでチェックアウトを行う間、マリィはどこか憑き物が落ちたように見えたのは、下手をすれば私の願望なのかもしれない。側に家族がいる影響かもしれないが、私と二人きりだった時と比べてどこか凛とした顔つきが、なんだかポケモンの進化のように急な変化を遂げてしまったようにも思えた。
 滞りなくチェックアウトを済ませ、今度こそ荷物を預かりたそうにしていたネズであるが、マリィは頑なに自分の荷物を手放さなかった。私は一人でも大丈夫よ、とでも言いたげな妹に兄は密かに溜息を吐いていたが、マリィは全く気にもしていない。

「俺達も帰ろう」
「うん」

 四人でホテルを出て、それぞれの家に帰らなくてはならない時。マリィがダンデを呼び止めた。その固そうでありながら悪意の含まれない声音に、どうしてか私の方が緊張してしまった。ダンデも「ん?」とマリィに向き直り、その顔を見たせいか、控えめに笑っていた顔から一転、横目にしても真面目そうな顔つきに変わった。

「……ありがとう、ございました。マスコミのこととか、色々してくれたってアニキとイリスからきいた」
「リーグ責任者として当然のことだよ。トレーナーを守るのは俺の責務だ。ジムももう開けられるか?」
「はい、明日からは必ず。昨日一日イリスと一緒にいることを許してくれたのも、ありがとう」
「それほどでも」
「大事にしてね、イリスのこと。マリィの大好きな人やけん。イリスのことちゃんと守ってね、約束」
「……ああ、約束するよ。これから二人で、守って守られて、そうして生きていくよ」

 マリィがダンデの言葉にハッとして、次いで唇を噛み締めた。私もダンデの言わんとしていることがわかるので、口を挟むこともしなかった。

「……約束破ったら許さないから!イリスのこと連れてっちゃうから!」

 最後に大きな声で張り上げて、そうしてマリィは、私とダンデにとうとう背を向けた。ばいばい、は要らないから私も引き止めなかった。ネズが私達に首を竦めてみせ、じゃあねお幸せに、と呟くようにお祝いの言葉をくれてからマリィを追いかけだす。こうして改めて一歩引いて見てみると、昔と比べて二人の身長差は随分と埋まっていた。そうしたら、マリィはもう、私が甘やかして守ってあげたかった頼りない女の子ではないのだと、今更になって突きつけられたような気分になって、私もまたマリィを傷付けていたのだと急に気が付いてしまった。気持ちには応えられないことの傷ではなく、私もまた、あれこれ決めつけていた世間とやはりそうそう変わらない人間だった。味方でありたいだなんて、なんて傲慢だったのだろう。

「……行こう」

 ダンデに促されて頷きはしたが、中々足は動き出せなかった。名残惜しむように、夜通し語り合ったことで私達に蘇った、過去の残滓がぱらぱらと空に消えていくような背中を目に焼き付けていたかった。
 可愛い私のマリィ。ちっちゃくて泣き虫だった、ちょっと我儘だった特別な女の子。気持ちに応えてあげられなかったマリィ。大人と子供の狭間にいた君は、最後にあの空に消えて、もう大人になったんだ。


20220104