短編
- ナノ -


 いらないもの


 拾った女にイリスと名付けた。
 家の近くで蹲って泣いていたイリスは、俺の顔を見た途端酷く怯えた顔をして、なのに震える体では逃げることもままならないのか引き攣った顔のまま後退りした。どうしたのか、とか。こんなところで、とか。敵意はないぞ、と示すためいつも通りの笑みを浮かべて話しかけたが、彼女は泣いて震えるばかりで一向に聞き入れようとしない。

「×××」
「え?」

 この時イリスが口にしたことは、一切意味がわからなくて困った。他地方の言葉のいくつかはチャンピオンの教養としてある程度教えられていたが、覚えのある言語のどれにも該当しない言葉の羅列だったのだ。一見すればカブさんのようなホウエンの人のようにも見えるが、口から出てくる言葉はホウエンのそれとは全く違う。
 迷いはしたが、好奇心もあったのだと思う。だから泣いて怯える見知らぬ女を担ぎ上げて、家に連れて帰ったのだ。
 担がれている間、女はずっと泣いて嗚咽を漏らしていた。殺されるとでも思っていたのだろうと今になってもみればわかる。あるいは、殺されるとまではいかなくても辱められるとでも考えていたのだろう。いきなり知らない、言葉も通じない男に連行されればそう思わざるを得ないとは理解できる。

「ほら」
「……」

 家に入ってそのままテーブルに着かせたら、とりあえず冷蔵庫にあるものを適当に並べると、それはもう困惑した顔をしていた。目の前に並ぶ食べ物と俺とを交互に見て、でも俺と目が合いそうになると慌てて逸らす。警戒をしているのだろうと見られたので並べたものの一つを自ら食べてみせると、食い入るように見入っていた。

「食べていいぞ」

 またなるべく柔らかく笑って手で食べ物を進めると、恐る恐る、本当に恐る恐る、女は汚れた手で食べ物を持った。先に洗わせてやればよかったかなと今になって気が付いたが、もう触ってしまったからしょうがない。
 それからはあっという間だった。一口齧って、また一口齧って。害がないとわかったのか吸い込むように並べたものを全て腹に納めていた。途中咽ていたので背中をさすってやると、体が跳ねるくらいびっくりされて怯えられたが構わず続けて、水持ってきてやるからな、と声を掛けてから未開封のペットボトルをとりだして差し出してやる。おっかなびっくりしながら蓋が開いていないことを確認して、喉を鳴らしながら、口の端から零れようと構わないといった様子で呷る。

「ゆっくりだ。また咽てしまうぞ。ゆっくり飲むんだ」

 相当腹も減って喉も乾いていたのだろう。すっかりと汚れた肌や服を見るに、数日は野宿でもしていたのかもしれない。足らないかもしれないな、と思って自分が食べようと取っておいた栄養バーも渡してやると、また恐る恐るといった風に受け取って、でも誘惑には勝てなかったのか貪り始めた。またぼたぼたと涙を流して、時々しゃくりあげながら、食べて、飲んで。

「よしよし。大丈夫だ。外は寒かっただろう。お湯を溜めるから入っておいで」

 懲りずに体に触れると相変わらず震えてしまうが、ぺったりとしてしまっている頭を一つ撫でてから風呂の用意をしに向かう。こっそり後ろを伺うと、目を不安そうに揺らめかせてはいるが縋るように俺の背を追いかけていて、それに悪い気はしなかった。
 女物の服なんてないから余っているシャツを着替えとして用意してやって、まだ怯える女を風呂場に誘導してやった。その間に寝床を用意してやらないと、と考えたものの、ソファとベッドと迷って、ソファは可哀想かなとも思って唸る。ベッドに寝るなんて久しぶりそうだからそっちの方がよかろうと、ベッドに寝かせることに決めた。
 女が風呂に入っている間にストックの歯ブラシを用意して、他に女が必要なものはなんだろうかと思い出そうとしたが如何せん疎くて、以前メンズブランドのスポンサーから貰ってたオールインワンをとりあえず渡そうと探した。化粧落としも昔女が置いていったものがどこかにあったはず。あけて大分経つがないよりはいいだろう。後はよくわからないから、明日にでも欲しがるものを与えようかと。見つけ出したらそれを持って風呂場のドアをノックするとばしゃばしゃ!と派手な水音が中から聞こえたから、驚いてうっかりバスタブの中に沈んだのかもしれない。この家が一般家庭のようにバスタブで全部完結させるタイプだったら、今頃床がびしょびしょになっていたに違いない。
 暫くしてから、ぺた、と音がしたので振り向くと、縮こまりながら俺のシャツを着た女が立っていた。ぶかぶかのシャツはかろうじて体を隠しているが、しゃがむと危なさそうだ。下着は洗ってしまっているから本当にシャツ一枚しか身につけていないせいで居心地が悪そうだが、汚れていたものよりよっぽどマシだと思う。

「あれ、裸足で出てきてしまったのか」
「?」

 つい笑ってしまうと、女は不安そうに首を傾げる。自分の足を指差して見せるとつられて女の黒い目が追いかけて、あ、という顔をした。靴を脱いで家の中を歩く文化の地方があることは知っているので、そういうところから来たのかもしれない。
 そそくさと風呂場に戻って、一分も経たない内に女は戻ってきた。きちんと靴を履いてきたようだが、また居心地が悪そうである。体を綺麗にした後に外行き用らしき靴をまた履いたからだろう。あとで靴も買ってやろう。
 歯ブラシを持って洗面所に行って、女の分を渡す。まだ恐る恐る、女は受け取った。
 歯磨き粉の共有はこの際許してくれよ、と笑いつつそれも渡して、先に歯を磨くと、真似するように女も歯を磨く。ちら、と盗み見る気配があったので横目に見やると、予想通り目が合った。でも今度は逸らされないから、なるべく優しく笑いかけてやった。俺が口を漱ぐと、また真似して漱ぐ。子供が大人の真似っこをしているみたいだ。

 寝室に向かうと、あからさまに動揺していて少し面白かった。けれど指を示して誘導すると、困惑が透ける顔で、ゆっくりとついてくる。布団をめくって先に寝転がって、隣を軽く叩いてやると、泣きそうな顔になってしまった。まるで死刑執行寸前の囚人のようだった。散々渋っていたが、とうとう覚悟を決めたのかのろのろとベッドに上がって、横たわろうとした。最後には死刑を受けいれたかのように仰向けに寝転んで、きをつけ、の格好で目を瞑ったからまた可笑しくてつい笑うと、それに気づいて目を真ん丸にしているのもまた可笑しい。

「おいで」

 嫌がるよりも先に肩を転がして向かい合わせにさせたら、軽く抱き締めてやって、息を呑んだことに気が付きながらも黙ってその背中を撫でてやる。頼りない厚みで、数日飯を抜いていたのかは正直俺にはわからないが、この女がいかに頼りない存在であるのかを教えてくれるような薄さだった。

「疲れただろう。眠ってしまいなさい」

 眠っている間に何をされるかわからないから、必死に瞼を開けていようと試みていたが無駄な足掻きだった。抵抗虚しく瞼は開いている時間が短くなり、数分も持たずに眠ってしまった。寒くないようずっと抱き締めて、俺も眠りに就いた。
 翌日、俺は女にイリスと名付けた。適当に思い浮かんだ名前だったが、彼女はそれに頷いた。どうやら自分の名前らしいことを言っていたようだが、彼女の言葉は何一つわからないので知らない顔をした。
 イリスは、俺の元でこれから生まれ変わるのだ。


  ◇◇


 最初こそ言葉を覚えようと俺に教えを乞う態度を取っていたが、俺は毎度首を振って教えようとはしなかった。お互い言葉は通じないので紙とペンを持って、近場の文字を指差していたからそういうことだとわかった。家を空けている間にこっそり勉強しようとしていたようだが、全く知らない言語を誰の説明もない、自国の言葉での解説もない独学で学ぶのには無理があって、結局諦めたらしい。でもそれでいい。俺も家の中で不必要な言葉は喋らなかったから、そこから盗むことも無理な話だった。テレビを見せても欠片もわからなさそうだったから安心して見せられた。
 俺のバトルの映像に最初は驚いた顔をしていたが、どのチャンネルを見せても大体同じような反応をしていたから、俺がチャンピオンだと理解してこんな顔をしたわけではなさそうだ。多分、ポケモンがわからないのだと思う。リザードンを初めて家の中で見せた時は腰を抜かして目玉が零れそうなくらいだったから、きっと。それもまた奇妙な話だが、大したことじゃない。

 言葉が一切通じないままでも二人で生活はできた。家の中の勝手もすぐに覚えてくれて、俺が家にいない間掃除も洗濯も料理もしてくれる。休みの日は一緒にやると嬉しそうに鼻歌をいつの間にか歌いだして、笑って眺めていると気が付いた瞬間に恥ずかしそうに体を縮こまらせる。時々買い物の為に外に連れ出したが、一々怯えて俺から少しも離れようとしなくて動き辛かったのにどうしようもなく満たされて、イリスのためということにして外へ連れ出すこともやめた。
 俺に対して怯えることもなくなって、寧ろ進んで隣にやって来るし、触れても嫌がらず心地よさそうにする。もう「おいで」と言わなくても自分からベッドに入るし、そうしたら目で抱き締めてくれと控えめながらも訴えてくるようで。
 イリスは真面目と言えば真面目で、言われたことをきちんと守る人間だった。言葉がわからなくても俺の表情や身振りから察して行動する。空気を読むのに長けた人だった。簡単な言葉なら俺の素振りやテレビから少しだけでも覚えたようで、ノーと言ったことも理解してきっちりと守る。もちろんそれは俺のご機嫌伺いの一つでもあるのだろう。ここで捨てられたらまた食べ物もベッドもない生活に逆戻りするのだから。

 それにつけこむためではないが、数日家を空けることになって、いつも通り表情や身振り手振りで伝えると、最初はわからなさそうだったのに、食材なんかをイリスだけで事足りる分をまとめて用意すると、何かを察したのか急にショックを受けたような顔になった。家の中を幼い子供のようにずっとついてきて、トイレの時もドアの前で待って、シャワーを浴びている間だって脱衣所に座り込んで俺が出てくるのを黙って待っていた。ベッドの中でも同じで、自分からしがみついてしくしくと泣いていた。
 出掛ける日の朝は今にも死にそうな顔をして、鼻にキスをしてやったらいかにもびっくりした!と言わんばかりの驚き顔になって、それがやはり可笑しくて笑う。
 家を空けている間、俺を見送ったイリスの顔が忘れられなくて思い出す度に顔が緩んでしまった。結局泣きそうな顔になって、おろおろと手を伸ばそうとしていたのに伸ばしきれなくて、ドアが閉まる瞬間まで目をひしゃげて俺を必死に見つめていた。当然スマホなんか持たせていないから、俺が今どこで何をしているかイリスには微塵もわかりやしない。生放送の中継があることも、きっと不安で仕方ない、今頃縮こまって泣いているだろうイリスは気付かないかもしれない。

 家に帰ったらお利口にドアの向こうで待っていたので目が合ったら笑いかけた。ただいま、とそれで伝えると、弾かれたようにイリスは飛びついてくる。ぎゅうぎゅうにしがみついてきて、それから本当にくっつき虫よろしく1ミリも離れようとはしない。予想以上に不安で寂しかったようだ。捨てられたと悲観していたかもしれない。この数日俺のことしか考えられなかったに違いない。
 泣きながら食事を用意してくれるイリスはちらちらとテーブルについた俺を振り返って、まるでそこにいることを確認しているみたいだった。俺はきっと見るからに上機嫌で、嬉しそうな顔にホッとしたら顔を戻すのに、また数秒も経たない内にこちらを確認する。食事を持ってきてくれた後はいつもなら向かいに座るのに、今日はわざわざ隣に椅子を移動させて座った。可愛いから頭を撫でてやると、飽きずに泣き始めた。そのまま半分抱き着いてくる。お互い言葉は何もないのに、イリスの頭の中なんて手に取るようにわかる。なんて弱い生き物だろう。

 シャワーを浴びようとしたらやっぱり追いかけてきたから、わざと手を引いて脱衣所の中に入れた。さすがに戸惑っていたが、目の前で服を脱ぎ出したらぎょっとしていた。気にせず全裸になって浴室に入る。振り返って、目で「どうする?」と訊いてみた。目が延々きょろきょろと泳いで、また面白い。
 腹を括ったらしいイリスは、それはもうぎこちない手つきで服を脱ぎ始めた。度々俺の視線を気にしているが、そこでリビングに戻らないのだから。俺と同じように服を全て脱ぎ終えたら、心なし体を小さくしながら近寄ってくる。手を掴んでやったら初めの頃のように体をびくりとさせる。先にバスタブに入ると、倣ってゆっくりと続いた。それなりに広さはあると思ったが、二人で入ると幾分狭い。二人だからお湯もいつもより少なめにして、普段ならバスソープを入れるがわざと何も入れなかった。
 イリスの体はとてもきれいだった。ガラルの人間のようにすらりとはしていないが、丸みがあって、かといって肉が多くついているわけでもなく。肌も白くはないが傷もない。胸もほどほどにあって、体を隠すように畳んで座るせいで肉が寄って少し盛り上がっている。足先が小さくて丸くて、それも可愛い。
 先に頭と体を洗って交代した後、ずっとイリスが洗う様を観賞していた。そこから洗うのかとか、指の動かし方とか。まじまじと体を観察することもできて満足だった。むずがゆそうにしていたが気にせず眺め続ける。俺が洗っている間はずっと俯いていたから、男慣れしていないのか、はたまた。まぁどっちでもいい。

 さっぱりして、イリスはスキンケアを終えて、そのまま二人並んで歯を磨いた。俺が先に終わったから眺めながら待っててやると、恥ずかしそうに頬を赤くしていた。終えたら手を差し出す。最初は「?」という顔をしていたが、俺の目を見て察したらしく、本当にそっと、手を重ねてきた。子供みたいな手だ。
 寝室に入って普段と同じく隣り合ってベッドに入って、俺は待った。向かい合って抱き締めて眠るのがいつも通りで、期待を隠して素知らぬ顔のままその通りにすると、イリスは迷う様子を見せていた。でも俺が目を閉じようとすると慌てだし、肩を叩いて眠ってしまうのを阻止し、そして、自分からキスしてきた。ぎゅっと目を閉じて、ふに、とくっつけるだけのキス。期待は超えなかったがここは及第点としておこう。そう心の中で許してやってから、こっちから噛みついて面食らった隙に舌を入れた。


  ◇◇


 ソファでイリスは隣り合って座る日もあるが、チョロネコのように丸まっている日もある。そういう時は俺の膝に頭を乗せて、髪を梳かれるのがお気に入りだ。俺が買った服を着て、俺が買った化粧品を使って、すっかり俺が用意したもので出来上がった。
 もう家の中に音はないといっても過言ではなかった。俺もイリスも口を開けることはほとんどない。言葉はなくても相手のしたいことがわかるようになっていて、特にイリスの方がそれに秀でている。機嫌を損ねないためと言うよりも、したくてしているように見えた。どこかで尽くさねばならない、という意識は少なからずあるのだろう。
 唯一ベッドに入ったら声は漏らしてしまうし、イリスも甘えた声をあげる。ガラルの女とは違う鳴き方だったから最初は驚いたが、必死に縋りついてくる様があまりに可愛かったからとんと気にならなくなった。俺を喜ばせたいと必死になる姿もとても可愛い。

 音がない生活が心地よかった。イリスの気配と温もりだけを感じて、余計な言葉が、余計なものが何もいらない空間。久しくテレビの電源だって入れていない。ポケモン達と過ごす時は俺だけ外に出るから、本当に俺とイリスの音しかなかった。
 喧騒が、煩わしいたくさんのものが、一切合切遠い。誰にも内緒のイリス。俺しか知らない、俺だけのイリス。俺のために生まれ変わったイリス。きっと君は俺のためにやって来たのかもしれない。


20211218