短編
- ナノ -


 これが最後の恋にしたい


 イリスは、俺の前となると奇妙な笑い方をする人だった。以前俺がひったくりから助けて以降俺から持ち掛ける形で細々と交流が続いているのだが、俺がいない時は明るい笑みを浮かべているし穏やかな空気を持っているのに、俺の顔を見た途端奇妙な笑い方をする。眉を力なく下げて、覇気がないというか、ちょっと困った様子というか。泣かれても困ってしまうのであまり深くは追及できないでいる。なにせ彼女の泣く顔は、酷く堪えた。
 警察署の前で泣いてしまった時は、どうやら顔見知りだったらしいのにすこんと忘れた俺にショックを受けたのだと思ったが、突然のことに動揺してうまく涙を止めてやれない俺を責めるでもなく、向日葵が好きだと答えた最後には一瞬でも笑ってくれたのが、なんだかとても嬉しかった。向日葵は元々好きな花だったので、どうして今それを訊ねてきたのかまではわからないが、俺の答えに綻ぶように一瞬でも笑ってくれたのが、あまりに、とても。

「ダンデさんまた?いいのに、いつも悪いよ」
「そう言わないでくれよ」

 イリスと会う時は、いつも何かしらプレゼントを携えるようにしている。あれこれ渡して反応を窺っては、どれに一番喜んで笑ってくれるのかを観察するのだ。向日葵の話をしたのだから本当は向日葵をプレゼントすればいいのかもしれないが、なにせ季節に依存する花だ。何より、単なる直感ではあるが、別に彼女は向日葵を好んで飾りたい人間のようには思えなかったから。
 前回はショーウィンドウに飾られていた新作らしいバッグを渡すと思いきり顔を顰められてしまったので、彼女が以前好きだと言っていたチョコレートの詰め合わせを持参した。高額商品ばかり渡されても気が引けるとぼやいたイリスだが、俺はどうにもあのバッグが彼女に似合うと思ってしまったのだ。ブランドのバッグが、というよりも、値が張っても丹念に仕上げられた一級品が似合うというか、それを身につけていても違和感がないというか。持たせてみるとあまりにぴたりと嵌るから、本当はそれを持って堂々と外を歩いてほしくても、本人が首を振るのだから致し方ない。
 それと、何故だか、イリスがそうやって首を振る姿も含めて、どことなく嵌るものがあった。どういうことだと自分でも言葉には表しにくい、へんてこな気持ちである。どこか高貴さと謙虚さを同居させるイリスは、そんな経験はないと明後日の方向を向きながら否定していたが、重役達の、なんなら王族も集うようなパーティーに突然放り込まれても卒なくこなしてしまうような、そういう予感をさせる。

「今日は元気か?」
「元気元気」
「悲しくない?」
「ないない」

 出会いがあまりに衝撃だったものだから、ついつい今もそんなことを脈略なく訊ねてもからからと笑い飛ばすのに、イリスは率先して俺を見ようとしない。自宅に上げてもらうようになっても、一人暮らしなのでそこまで広さはない部屋の中で、それなりに二人の距離が近くても。紅茶を淹れてくれる彼女に手伝いを申し出ても、いいから座っていろの一点張りで、茶葉を蒸らしている僅かな時間でさえ背中を向けてしまう。本当に奇妙な人だった。俺をどうにか懐に入れようとしているように見えるのに。言葉は柔らかいのに、絶妙な線をいつも引いている。少しでも俺がその線に足を乗せると、慌てて距離を取るような感覚。目が合っても逸らすか、数秒そのままでいても、あの瞳は俺を見ていない気がする。
 イリスは本当に不思議な人だ。張り付けたような笑みは嫌だけど、それでも俺を真っ向から拒否はしないし、彼女は彼女で俺に歩み寄ろうとしている節は時々見られるが、結局自分で引いている線を壊せないで、一人で傷付いているようにしか思えなかった。何か不安があるのか、恐らくは彼女にしか見えないものがある。

「どうぞ」
「ありがとう」

 かろうじて隣には座ってくれるが、物理的な距離はいつだってある。俺達は恋人同士でもない。友人くらいなら言ってもいいのかもしれないが、関係性も判然としていない間柄だ。なのにこうして家には入れてもらって他愛ない話をするのだから、我ながらどっちつかずだとは思う。でも、線に足を乗せればそそくさと逃げられてしまうので、野生のポケモンを追いかけるのとは勝手が全く違って、中々どうしてうまくいかない。
 隣のイリスを盗み見ると、落ち着いた顔で紅茶を飲んではいるが、どこか白々さもある。あるいは俺とする話を必死に悩んでいるのかもしれない。いつも二人の会話は大いに盛り上がりはしないが、淡々と進む感じで、気兼ねなく話せる、というところまでは行っていない。当たり障りない話ばかり敢えて選んで、イリスは俺に向けてくる。
 それが近頃はどうにも気に食わなかった。

「なぁ」
「あ、紅茶まずかった?」
「いい加減話を逸らすのをやめてくれ」

 思い切ってそう告げると、面食らった顔をした後に、いかにも「しまった」という色を見せてすぐに全くの逆方向を向かれてしまった。隠すにしてはあまりに遅い。

「わかっているだろう、イリス」
「……自覚はあるけど、しょうがないと思ってよ。貴方はチャンピオンなんだから。偶然にしたってこうやって隣にいるのが不思議な気分なんだよ」

 ぺらぺらと薄っぺらい言葉だ。これは心からの真実ではない。イリスが俺という人間の立場を気にして萎縮しているわけではないと、ずっと前から気付いている。

「嘘はいけない」
「嘘じゃないって」
「なぁ、俺とイリスはどこで初めて顔を合わせた?」
「だから気にしなくていいよ。もしかしたら私の勘違いだったのかもしれないし」

 またいつも通り、嘘ばかり。どうしてこんなに頑なな人なのだろう。

「イリス、こっちを見てくれ」
「今ちょっと鼻が垂れてるから、寒くて」
「垂れててもいいから」
「それはデリカシーなさすぎ」
「イリス」

 線をどうしても死守したくても、それを守る人は結構脆い。距離感を図りかねてこれまでは俺もそれに準じてきたが、そろそろ我慢も限界になってきている。線を切って踏み込みたいと思っているのだ。どうしてこの前までは見ず知らずだったイリスに対してそう願ってしまうのかまでは実は自分でもわかってはいないけれど、こうして頑なに線の向こう側で蹲って一人で傷付いているようにしか見えないイリスが嫌だった。
 半ば強引に肩を引き寄せてこちらに向けさせても、顔は頑固にあちらを向いている。覗き込むと反対を向き、追いかければまた反対を向く。いたちごっこに少しばかり苛立ってきた。

「……いいだろう、そのまま聞いてくれ」
「……」
「イリス、俺は、君のことを良い人だと思っている。こうして少しだけど一緒にいて、そう思うよ」

 ぎこちない笑い方が苦手だった。イリスはもっと堂々とすべきだとどうしても考えてしまう。控えめに立ち振る舞ってもそれはそれで不思議なことに違和感はないが、イリスはもっと顔を上げて、それこそ向日葵のように天を仰いで歩いて欲しい。願わくは、俺の近くで。

「俺はもっとイリスと一緒にいたい。俺の前で笑ってほしい。……正直どうしてそう考えてしまうかまではわからないんだ。だけど、あの日俺の前で泣いた君が最後には笑ってくれたことが、本当に嬉しかった」

 向日葵のようだった。子供の頃から一等好きな花だ。花には特に興味もないのに、あの花だけはどうしても目を惹かれる。けれど本当は好きかどうかというよりも、自分に近しい何かを昔から感じていた。露をつけて陽の光に煌めく向日葵。笑ったと思ったらまた大粒の涙を流し始めてしまったけれど、あの一瞬の笑みはいつまでも忘れられないのだろう。

「ちゃんと俺を見てくれ、イリス。顔を見ろって話じゃない、俺を見てくれ。本当にいつイリスと出会ったのかは悪いがわからないし申し訳ないとは思うがけれど、虫がいいが過去よりも今を意識してくれ」

 急にハッとしたイリスの目が揺らいだのを、見逃さなかった。

「俺は今のイリスしか知らない。ひったくりから偶然助けて、俺の目の前で泣いて笑って、向日葵が好きかって聞いてきて、無邪気に笑うのにしおらしいところもあって、紅茶を淹れるのがうまくて、俺が知らない何かに苦しんでる」

 イリスは俺とは別方向を向いたまま、静かに俯いた。潤んだ瞳から零れそうになると慌てて目元を覆って、あくまでも俺から隠れようとする。

「俺に話せるなら話してほしい。話せないならそれでもいい。そういうイリスでもいい」

 どうしてこんなにイリスが気になるのかをしつこく模索するよりも、自分の気持ちに素直になった方がいい。解答を探すよりも、今目の前にあるものを大事にしたい。過去とは成功の導きとなるものを見つけることで、そうやって俺はずっと今を生きてきた。

「……まるで私のこと、好きみたいな言い方」
「そうかもしれない。……まだこの気持ちの名前がわからないけれど、イリスと他人に戻るのはどうしても嫌なんだ」
「なんにも知らないくせに。私のことなんか、なにも」
「これからもっと知りたい。イリスのことを。だから、俺をちゃんと見てくれ。俺とイリスで一から始めたいんだ」

 逡巡するのが顔を見ていなくてもわかった。こうして葛藤をしてくれるだけでも進歩だと思う。
 たっぷりと時間を開けた後、あまりに恐る恐ると、イリスは目元を覆っていた掌を外した。まだ潤む瞳の端っこを指でさすると、ぎゅっと唇が歪む。

「……貴方のこと、知りたいの、本当は。今の貴方。今度こそ」
「ああ、いくらでも聞いてくれ」
「許してくれるなら、ちゃんと、今を大事にしたい。先が見えない約束より、側にいるだけで」
「約束は嫌い?」
「どうだろう。でも、気が遠くなるくらいの時間、約束に縛られてきたから」

 また遠くを見る目になりかけたから、もう一度目の端を擦ると、また俺に向いてくれて少しくらいは満足できた。

「ねぇ」
「ん?」
「名前を呼んで」
「イリス?」
「……うん。私も、ダンデってたくさん呼ぶから。貴方の、貴方だけの名前を」

 そう、くしゃりと笑ってとうとう泣くから、名前を繰り返しながら何度もその涙を拭った。ようやっと開けてくれた線の内側で、死ぬまでこの笑顔を、一番近くで見ていたいと思った。


20211209