短編
- ナノ -


 バニラの夜


 最近イリスから知らない匂いがする。デオドラントには気を付けるが香水はあまり好まない彼女から香るスパイシーというか、まぁ香水の、特に女性向けの物については知識も薄いので断定は出来ないが、なんとなくも女性向けのジャンルではないような気がした。仕事柄香水を纏う人間と接するのは男女問わず多く、取り分け同性が身に付けていたそれに近いと思う、彼女から香るものは。
 別に香水は男女関係なく好きな香りを使えばいいものだろうが、にしても突然イリスから嗅ぎ慣れない匂いを感じ取ってしまったわけで。それに少なからずの動揺を覚えたのは確かだった。洗剤や柔軟剤の柔らいのにどこか湿った匂いとは違う。けれど手首や首筋から放たれるそれに、つい眉を顰めてしまった俺にイリスは気付きもしないで、久しぶりに顔が見られて嬉しい、なんて呑気に笑うのだ。

 久しぶりに、なんて言われてしまうほど会えていない自覚はあった。今も昔もイリスは時々子供っぽく口を尖らせて文句を言うことはあれど基本理解を示してくれる人で、甘えている自覚もあるがつい口にされたその言葉には、ああそんなに自然と漏れてしまうくらいには顔を合わせられていなかったのだと、今更のように気が付かされた。少し前までと比べても格段に会えていると思っていたのに。連絡は合間を縫って取り合っていたものの、直接顔を見たのは本当に、文字通り久しいことである。

「どうしたの?眉間に皺よってる」
「……その」
「ん?」

 これは勘に近しいのだと思う。イリスが香水をつけるようになったからなんだと言うのだろう。そう窘める側面もありながら、妙な勘繰りを入れたくなるのは滑稽だなと我ながら自嘲できてしまうわけで。遠慮しあう間柄でもないのだから軽いノリで訊ねてしまえばいいのだろうに、どうしても言い淀んでしまって「……いや、俺も久しぶりに会えて嬉しくて」などと取り繕ってしまった。
 女々しいと思われたくないのが本音だったし、他の男の気配らしきものを感じ取ったのだと言ってしまうのも恐ろしかった。言葉は魔法で呪いなので音にはしたくない。それも確証がないことである。イリスを好いて信じている自分を、自分で崩してしまうのも嫌だった。

「……私もうれしいよ」

 甘えるように胸元に擦り寄ってくる小さな存在を、とても愛している。他の誰にも奪われたくない。横から取られそうになればきっと相手の手をちぎってしまいたくなるかもしれない。こういう幼稚な自分もまた確かな一部で、それを気取られて嫌な顔をされたくもない。
 ――独占欲。自分からは程遠いものだと、今までは思い込んできた。誰かに執着するだなんて、イリスに出会うまで知らなかった。

 家に招いてすぐにシャワーを進めたのも早計だったかもしれない。ぴくりと跳ねた肩を見逃さなかった。そういう誘いだと思われたかもしれなくて、しかし正直下心があったかと言えばそうでもなかった。ただただ、俺の知らない匂いをつけたイリスを放置できなかっただけのことで。なのにうっすらと頬を染めて控えめに頷く顔があまりにいじらしくて、つい我慢も出来ずにキスしてしまったのだから。そうして自分の首を余計に絞めたわけである。嗅ぎたくない匂いが肺を刺すようだった。
 ソファで腕を組み、先に浴室に入れたイリスを待つ間そわそわと落ち着かなくて、やはり女々しいのかもしれないだなんて思い始めていた。大舞台で、大観衆のど真ん中で演説も厭わないような自分が、愛した女の知らない匂いにこんなにも動転して問うこともできないなんて。万が一を考えると、らしくもなく足先が冷えて固くなっていく気がした。こんな不安も久方ぶりでついついと溜息ばかり吐いてしまう。

「ダンデ」
「っ、早いな」
「待たせたら悪いなと思って」

 湿って熱で赤らんだ肌が色っぽくて、腹の中の懸念も今ばかりは消えていった。結局は単純な男なわけである。
 何より間近で感じるよく知った匂いに安堵できたのも大きかった。俺の家に置いてある、イリス用のボディクリームの匂い。バニラの甘い匂い。いくつか変えては俺の反応を観察して、最後にようやく落ち着いたものだ。なにせこれが一番うまそうだと思った。

「わっ、くすぐったい」
「……ふぅー……」
「へへ、お気に入りだもんねこれ」

 躊躇いもせずその首筋に顔を埋めてめいっぱい息を吸うと、驚く程に心地よくなれた。程良い酩酊と似ている。この香りを取り込むと反射で体が熱くなってしまうわけだが、そんな昂ぶりすら腹の中の懸念を追い払ってくれる要素になって、たまらず華奢な体をきつく抱き締めた。イリスはけたけたと笑っているが、その顔も盗み見て、やっと心の底から安心できた。この腕の中に、俺のようく知るイリスが今になって帰ってきたような気がして。俺の知らない、遠い旅路を一人気ままに往って、こうして懐に戻ってきたような感覚。
 嬉しくてたまらなくて甘噛みすると、くすぐったそうにイリスは身を捩るから追いかけて絶対に腕の中から逃がしてやらなかった。だけど少し追い縋り過ぎたのか、イリスが不思議そうな顔をしてしまった。女の勘も中々どうしてあなどれない。すぐに、どうしたの、と落ちてきた優しい声。耳から浸透したその声音に喉が微かに唸った。

「……幻滅しないか」
「え、幻滅するようなこと何かしたの?」
「違うような違わないような……」
「はっきりしないね」

 催促したいのか落ち着かせたいのか、子供をあやすように頭の裏を撫でられて、今ばかりはそれが世界で一番尊いもののように感じられた。俺の手を握って、頭に触れて、背中に縋りついて時たま引っ掻いてくる愛しい手。湯上り、俺のために仕上げたバニラの体。俺だけの。

 だから、俺の知らない匂いは嫌だ。

「……知らない匂いがした」
「えっ」
「香水なんか好きじゃなかったのに、今日は、俺の知らない匂いをつけてきた」

 とうとう口から出てきたそれは、こうして口にしてみるとなんだか本当に子供っぽかった。魔法だ呪いだと言えないくらいに駄々をこねる子供の我儘のようで、ああいわなければよかったかもしれない、とまた子供っぽく後悔してみるも、口に出してしまったのだからもう取り消せない。
 だと言うのに、一瞬だけ固まっていたイリスが噴き出したのだ。抱き締めた体が小さく振動を始めて、そのゆりかごみたいな体から埋めていた顔を上げて覗き込むと、やはり隠すことなくイリスは可笑しそうに笑っていた。ぽかんとした俺に更に笑いを大きくしていく。

「笑う?」
「笑うっ……ごめっ……!はぁー……!……これね、ダンデの匂いだよ」
「はっ?」
「正確には、イメージしてもらったやつだね」

 そうして笑い転げそうな勢いのイリスが語った事のあらましは、俺の女々しい懸念なんか馬鹿馬鹿しくなるような単純なことだった。
 会えなくて寂しかったから、俺の匂いをイメージして香水を作ってもらったらしい。体臭や、家の匂いや、シャンプーの匂いとか。そういうのが一緒くたになった俺の匂いをオーダーして、会えない間それで凌いでいたのだと。

「昼の間はつけて買い物してたから、それが残ってたんだね」
「……俺、あんな匂いなのか?」
「中々うまく作ってもらったと思ってるよ。バッグに入ってるから嗅いでみる?にしても、自分の匂いは自分じゃ気付かないって言うけど、ほんとうだねぇ」

 楽しそうに笑うイリスに体の力がみるみると抜けていった。途端に全てがあほらしくなって脱力すると、尚も笑い続けるイリスが、抱え直すように俺に抱き着いてきた。目がきらきらと輝いているのに、新しいおもちゃを見つけたようなその顔がちょっとだけ腹立たしい。

「自分に嫉妬しちゃったの?」
「どうやら。認めたくないけど」
「え〜言わなきゃよかったかなぁ」
「よしてくれ。どれだけ不安になったと思うんだ」
「……不安になったんだ」
「……そうだ。もう、俺がイリスにあげられるものなんか、数少ないんだから」
「チャンピオンじゃなくなったからってこと?」
「ああ」

 他の男に取られるなんて許せないし奪わせない。そう強く思うけれど、そうとなれば決して離さないけれど、何が起こるのかわからないのが世界というもので、人生だ。俺ができることは人よりも多いが、結局成せなかったことだって現実にある。大きいと思っていた俺の手は、本当は誰よりも大きいわけじゃなかった。

「……弱音吐くの珍しいね」
「幻滅したか?」
「ううん」

 それ以上の言葉はなかった。余計だと思ったのか、はたまた言葉にしなくても、と思ったのか。どちらでも構わなかった。だってイリスの顔が何よりも雄弁なので、額にキスをくれたからその頬を挟んで同じ場所にキスを贈った。花開くように丁寧に綻んだ笑みに、やっぱり放し難いなと抱き締め直して唇にキスをしてやると、自ずと口を開くから乱暴にしないよう気を付けながら食む。甘く香るバニラの匂いに包まれながら、優しい愛を分かち合った。

「……私の匂いの香水でも作ってもらう?」
「要らない。必要ないくらい一緒にいる」
「期待してる」

 シャワーを浴びなくてはとわかっていても分かち合う愛からまだ抜け出せそうになくて、もう少しだけこのままを許してほしい。月はまだまだ明るいのだ。


20211115