短編
- ナノ -


 変わらなかったもの-1


 記憶というのは得てして薄れていくもので、風化が当然のことだ。下手をすれば無意識に自分の都合良く改竄してしまうこともあるし、正しい記憶をいつまでも覚えていることなど、コンパクトで精密故に限度がある人間の脳では土台無理な話。
 けれど、いつまでも色褪せない記憶というものも、この世には確かに存在するのは存在するもので。

『チャンピオンタイムだ!』

 ――街頭モニターにでかでかと映り、高らかな声を街中に降らしたその男を、私は昔からようく知っていた。正に色褪せない記憶の中において。都合良く改竄もされず、風化もされず。私はその男を、昔からようく知っていた。
 正しくは、その男ではないのであるが。
 私と街頭モニターの男は一度として面識がない。偽りない言い方をすれば、その男のことなど何一つ――本当は名前とか相棒とか出身地とか、そういう公開されているプロフィールくらいなら知っているけれど。知っているのに知らない男であるのだ、あれは。
 私はその男を、ようく知っていた。今と名前も顔も声も瞳の色も違うのだけれど。違うのだけれど、笑うときの頬の持ち上げ方とか、意外と感動屋で涙脆いだとか、大剣をふるって敵を薙ぎ倒していった鬼神のごとき強さだとか。愛を不器用ながらも真っ直ぐに紡いでくれた唇の柔らかさだとか。恐る恐る私の肌に触れた掌のマメもカサつきも。
 私はあの男を、ようく知っていた――もう三百年以上も前から。

 ことの始まりはまだまだ他国との争いが絶えぬ戦乱の只中の出来事であった。身分制度も著しい、貴賤がはっきりと分かれていた時代。私は贅沢に刺繍とレースが施されて、ふわりと裾が厳かに揺れる豪奢なドレスに身を包む立場にいた。
 対してその男は私の護衛隊の筆頭であり、国の片隅にぽつねんとあった村の出身者だった。平民という身分のせいで、本来ならば私の側につけるような立場にはなれぬのがその時代の道理だったわけだが、戦場における彼のあまりもの腕の立つ姿が名声となったことで父の目に留まり、晴れて私の身を守る者と相成った。
 頭が可笑しいと重々承知の上で言うが、その豪奢なドレスに身を包んでいた私は、世間知らずで世俗のことには疎かったその女は、今の私ではない。顔も名前も声も異なるそれは、私の昔の姿。私が今の私として生まれるよりも遥か以前のこと。
 それに加え、それとはまた異なる自分のことも記憶にあった。その男もまた、私の護衛ではなく顔も名前も、また立場も違う。
 私にはいつからか、生まれるよりも前の記憶があった。それも、複数の。


  ◇◇


 最初の始まりは、あの男が私の護衛の筆頭になったことだ。恭しく頭を垂れて片膝をつき、私の手の甲に口付けを施してその身を捧げることを誓った。リザードンと共に空も地も駆け、最近までの戦場では一騎当千の誉れを受けし、まるで騎士のような男。世間知らずで屋敷の外をほとんど見たこともない私は、彼に外の話をねだるのが好きだった。あまり下界のことを気にしすぎると父が怒るので二人きりのときにこっそりと。田舎の出身でして、と恥じるように口にしてから、それでもと私があまりにもねだるものだから少しずつ生まれ育った故郷のことや、この屋敷の下に拡がる街の様子を教えてくれる彼に、いつしか淡い気持ちが芽生えていったのがいけなかった。

「……あり、がとう」
「お気を付けください、大事なお体なのですから」

 部屋の窓から屋根にとまったココガラに触れようとしたとき。決められた、安全なポケモンにしか近寄ってはならないと生まれた時からしつこく注意されていたけれど、本当は悠々自適に過ごす野生のポケモンが気になってしょうがなくて、指先だけでも触れてみたかったのだ。そのために身を乗り出したせいでうっかりと体が落っこちそうになって、偶然声を聞きつけて部屋の外に控えていた彼が引っ張ってくれなければ、危うく落下して柵に串刺しになるところだった。

「……」
「お嬢様?」

 私を助けるために戦場を風のように駆けられる脚力でやって来てくれて、がっしりとした体躯に半分抱き上げられる形で助けてくれた、彼の温もりがどうにも手放しがたかった。わかっているのだ、無知で世間知らずの籠の鳥だとしても。彼が私を守ってくれるのも、気遣ってくれるのも、優しくしてくれるのも、全部私の立場のお陰だということは。それ以外のなにものでもなく、それ以外の理由などあってはならない。そういう身分の差が顕著で絶対的な時代だった。
 けれど、彼も私を咎める口は弱くもするくせに、そっと首に巻き付けた腕を振り払おうとはしなかった。無論私に乱暴を働こうものならどのような人間でも首を刎ねられかねないせいだとしても、息を呑んだ彼の息遣いすら、愛おしくてたまらなくて、そのままずっと触れることを許して欲しかった。

「貴方って、向日葵みたい」
「向日葵?」
「そう。おっきく笑った顔がそっくり」
「鬼だ何だと言われたことはありますけど、花に例えられたのは初めてですね」

 少し照れくさそうに笑った顔も、とても好きだった。

 
 転機はよくあることだ。私の結婚が決まったのだ。次の月には隣の区画の領主の長男に嫁ぐことになった。この頃は各地にいくつかの城があって各区画を治めており、隣街には鉱石の採掘場もあるため、政治的な繋がりが必要なのだ。
 私に拒否権など当然のようになかった。女として生まれた以上従うしかない。それに顔もろくに覚えていない人の妻になることは、ほとんど生まれた時から決まっていたようなものなのだ。今更首を横に振るなんてこと、許されるわけもない。

「……おめでとうございます」

 彼の口からそんな言葉聞きたくなかったのに。聞きたくなくても、私は笑って頷かねばならない。ありがとうって返すのが最適解。けれどそうして顔を動かしたら、どうしたものか涙が湯水のように溢れて止まらなくなった。せめて彼の前でだけは笑って祝福されなくてはならなかったのに、よりによって。

「……っ、やだ、やっぱりやだよぉ……ッ」
「お嬢様いけません!そんなめったなことを口にされては、」

 慌てふためきながらも周囲を警戒するように確認する彼に叱られても、溢れたのは涙だけではなくて。だってこのまま素直に嫁いでしまったら。私の心はとっくに目の前の彼にしか傾いてなどいないのに。許されなくても、それが本当のことなのに。

「……貴方を愛してるの、よその人の妻になるなんて、いやなの」

 目をみはった彼は口をわなわなとさせて、体を震わせて、自分の顔を覆った。まるで隠すような仕草にとうとう言ってしまったと後悔に襲われるが、ここで言わなくてはきっと一生口にはできなかったと思う。もちろん一生口にしてはならないことだったけれど、溢れた感情が言葉としてどうしても出たがったのだ。実ることは決してなくとも、私の心をここに置いていきたかった。

「……っ、なん、で」
「……?」
「なんで、言ってしまうんですか……どれだけ俺が、俺が、自分と戦って、己を殺してきたか」

 信じられない気持ちで、掌の下の顔が見たくて指を伸ばしたら、乱暴にそれを掴まれて、その懐に抱き寄せられた。燃えるような熱さの体躯に驚く間もなく、押し殺したような息遣いに気付いて、ああ神様と、そっと瞼を閉じた。
 皆が寝静まった夜の帳が落ちた頃合いに私の部屋に二人きり、許されないことをした。嫁ぐまでは純潔でなくてはならなかったが、この時の私は目の前の彼に溺れていたから余計なことは考えないようにしていた。しょうがない、しょうがないと言い訳で急場の蓋をして。
 月明かりに照らされた服の下の彼の肉体美と、初めて見る雄の顔に羞恥を覚えていたら、簡単に寝間着を脱がされてしまってそれどころではなくなった。肌寒さに身震いすれば彼がそっと抱き締めてくれて、その背に腕を回して温もりを分けてもらうことに恍惚を覚えて。交わした口付けも、身が燃えそうな快感も、何もかもが幸せだった。丁寧に、されど情熱的に触れてくれた彼の指も、口も、顔も、生涯忘れないと誓った。愛してる、と囁いてくれた一等大切な声も。名前では呼んでくれなかった彼が私の名前を繰り返し呼んでくれたことも何よりの幸せだった。

 互いにわかりきっていた。こんなことをしても何にもならない。体を重ねても私達は絶対に結ばれることはないし、私は別の男のものになる。彼は私が嫁げば護衛の任から外れて恐らく再び戦場へと戻っていく。私はたったの一人で行かねばならない。わかっているからこそ赤い染みを残したシーツの波に二人きりで溺れたのだ。
 この夜の全てが罪だった。事が露見すれば彼は首を刎ねられるとわかっていても、リスクを理解した上で、私を何度も丁寧に愛してくれた。そうして、この家から去る日に気持ちに封印をして、そのまま死ぬまで大事にしまって生きようと決めた。それ以降、私が嫁ぐまで人目を忍んでは罪と愛を重ね合って、不器用だけど真っすぐな愛を貰って、嫁ぐ日を指折り数えては涙ながらに呪った。

 ――悲しいかな、この時の気持ちは鮮明に覚えているし、当時の影も残さないこの体にも未だに刻まれているけれど、今となってはあの唇の感触も忘れてしまったのだが。何せ三百年は昔のことだ。

 結末もまぁなんともありきたりなものだ。私が輿入れする日、颯爽と皆の前に現れた彼が私の手を引いて走り出したのである。唖然として手を引かれるだけの私を振り返って彼は、私だけを選ぶと言ってくれた。何もかも敵に回してでも私と共にいると。気持ちが同じだとはっきりと確かめ合ってしまった以上そうするのだと、彼は逃げようとしてくれた。
 しかし一騎当千は誇っても所詮は一人の人間だ。屋敷の人間総出で追われ、矢で射抜かれれば強靭な体でも動きは鈍るし、銃弾など受ければ血が止まらなくなる。私という荷物を抱えて逃げようと言うのだから障害は大きい。だから私は彼を咄嗟に庇ったのだ。歯を食いしばりながら脂汗を滲ませ、出血のせいで視界が眩んでも剣を握って立ち向かおうとしてくれた彼を、死なせたくなくて。

「どうしてだ!何故……ッ!」

 どうしてだなんて、彼に生きていて欲しかったからだ。私を置いてでも、生きて欲しかった。捕まればどの道無事ではいられないのだから、せめて一人ででも。

「貴女がいなければ何の意味のないのに……!」

 だとしても体は勝手に動いてしまったの。ごめんなさい。愛してる。ちゃんと言葉になっていたかわからないまま、私は息を止めた。
 今になってかつてのことを調べても、当時の記載は文献にはあまり詳細に残ってはいない。まぁ貴族の娘が従者と駆け落ちしようとしたことなんてわざわざ残すわけもないよなとも思うので、その後彼がどうなったのかはわからないが、どうやら死んだ私の代わりにまだ年端もいっていなかった妹を隣街の長男は娶ったようで、政治的な繋がりはきちんと出来上がったようだ。
 きっと彼はすぐに捕まって殺されたのだと思う。願望かもしれないけれど、私を失くしてそのまま一人で逃げてはくれなかった気がする。


  ◇◇


 モニターに映ったダンデは、あの頃の面影を影も残してはいない。顔立ちも髪の色も声も、何もかもが異なっている。当たり前のことだが奇妙な虚しさが胸にはあった。だとしても、しっかと前を見据える鋭い眼差しだとか、リザードンに向ける敬愛と信頼を寄せるような面持ちなんかには少なからずの既視感があった。貴方はあの後、私が先立ってしまった後、本当はどうしたのだろうね。

 もう一つ、私はあの男の別の姿を知っている。次の私は貴族などではなく一介の村娘で、粗末な家の娘であった。恐らくは最初の私が死んでから百年近くが経っていて、まるで前の私とは正反対な暮らしぶりと身分で、質素倹約に励み、病弱な母を世話するつまらない女だった。
 そこに突如縁談話が舞い込んだことからまた事は始まった。その物好きはここら一帯を全て取り仕切る領主様で、当然貴族様だった。突然家にやって来た、その時初めて顔を合わせた領主様にお前を見初めたと告げられたことから諸々狂い始めるのだが、その時の私は驚きのあまり卒倒して病弱の母に介護される羽目になってしまったのである。

 二度目の私は前世のことなど全く覚えてはいなかったのだが、その領主様と言うのが、顔も名前も瞳の色も違う、あの彼だったわけだ。


20211013