短編
- ナノ -


 ひょんなジレンマ


「セックスがなければ」

 イリスの顔は至極平然としていて、今日の天気を気にするのと同じような顔色だった。先に弁解しておくが、昼下がりのカフェで俺達がしていたのは猥談などではなかったのであり、正しくは俺が思いの丈を彼女になんとか打ち明けたのである。
 それに対しイリスは最初に首を左右に振り、俺の気持ちを叩き落としてみせた。しかし俺とて簡単に気持ちを手放すことは難しいので、どうにか彼女の気持ちを動かしたいと思ってつらつらと更に気持ちを言葉にすると、段々と美麗な顔が歪み始め、眉間に少しばかりの皺を寄せた。縋る男をみっともない、しつこい、と言いたげというよりも、どうやら微かにも彼女の頑なな心が動いた表れのようなのだ。
 一方的に喋り続けてはイリスの反応を伺っていたが、今正に彼女の固まった心が傾いた。それも、僅かなりと俺に向けて。そうわかった途端喜びと興奮とで、汗が滲んできたくらいで。いつの間にかイリスを愛し、日々愛しく思わざるを得ない俺にとってそれは神からの恵みのようでもあったのだ。

 そうして、汗ばんだ拳を膝の上で握る俺に、イリスは平然と言い放ったのである。
 セックスがなければ、と。

「……え?」
「それがなければ、まぁ」

 俄かには信じ難くて、なにせイリスの口から日頃中々に出てこない単語であったものだから、相当な動揺をしてしまった。彼女は物腰が柔らかいとは言いにくい、一見すればクールで自立した女性で、情熱家というよりも常に冷静で在り続けるような人だった。同年代の女性と比べても大人しく、しかし芯のしっかりとした態度を取る。それが、俺の目にはずっと昔からいたく魅力的だった。その彼女の赤みの薄い唇から零れた言葉が、セックス。それがすぐには彼女に対する俺のイメージがそぐわなくて、耳で理解するのに少々時間を要した。
 妄りがましいことを想起させないような仕草を普段より見せるイリスの口から、よりによってセックスの話。

「付き合うって、行き着く先はつまり、そういうことでしょう。私、ちょっと神経質というか、潔癖というか、汚いものは嫌いなの。手洗いは外でも絶対に欠かさないし、綺麗にしていない指で食べ物は口に入れない。汗をかくのだって好きではないし、他人に触れるだなんて、それこそ」

 食後の紅茶を音も立てずに飲み込むその様は、昼下がりの光に照らされて、まるで一種の絵画のようでもあった。けれどその口が紡ぐのは、決して美しいとは言えないこと。人間であるのだからそれは切っても切れないことなのだと思っていたが、考えてもみればそういう欲を持たない人間だっているのだから、特段可笑しなことでもないのだろう。俺だってかつてはそうだったではないか。イリスと出会うまでは、女性に欲を持つこともなかった。触れて、あわよくば触れられて。薄いのに柔らかそうな唇を食みたいだなんて、少しも考えつくことはなかった。
 でもイリスはそれに異を唱える。触れ合うこと自体を忌避して、俺が夜な夜な抱いた幻想を目の前でいとも容易く打ち砕いてしまった。

「好きではないの、汚れることも」

 カップの中の液面だけを見つめるイリスの価値観がどこから生まれてその身に浸透していったのかは、俺にはわからない。だけど、彼女にとって誰かと恋人になることは、すなわちはそういうことらしい。

「もしもそれでもいいのなら、考えなくもないよ」

 食後までこの答えを先延ばししたのも、きっと食事中にする話ではないとイリスとて自覚があったのだろう。そもそも、この手の話はしたいとも考えなかったのだと思う。俺があまりにしつこく言い寄るものだから、とうとうこうやって断る理由を提示せざるを得なくなってしまった。
 骨もない一般的な男ならば、ここで諦めるのかもしれない。色事についての体験談は興味がなくてほとんど耳にしてこなかったから、あくまで俺が予想する一般的の範疇にはなるけれど、確かに行き着く先は互いの体に触れることだろうし、行き過ぎれば別だが愛する人にそう思ってしまうのは特に指差されるようなことではないと思う。セックスの得手不得手はあっても、丸ごと否定されてしまうと、そこで一考して諦めてしまう輩だっているに違いない。事実、イリスにそこを否定されて悩む自分もいた。これはきっと下手をすれば手を繋ぐこともキスをすることも嫌がるかもしれない。はたして、俺はそれに堪えられるだろうか。

「……わかった」
「えっ」
「それでいい。それでいいから」
「本当に?理解できてる?」
「もちろん」

 ――いや、堪えるとか、そもそもそういう問題でもない。

「イリスが好きなんだ、本当に。心の底から。だから、君の側にいられるのなら、それで構わない」

 体を好きになったのではない。俺は彼女そのものに好意があるのだから。

「……」

 見るからに困惑が透けるイリスは、一度目を逸らし、ついでに窓の向こうを見つめて、ゆっくりと視線を手元のカップに戻してから、微かに顎を引いたまま俺をおずおずと見上げた。

「……その、お試しというか、まずはそういうのなら」
「……!いいんだな!?」
「だけどもちろん私に許可なく触ったらだめだから。会う時も清潔でいて」
「わかったぜ!!」

 瞬時に舞い上がった俺に、イリスは何か言いたげにしながら罰が悪そうにまた目を逸らした。


  ◇◇


 潔癖を人間の形にしたようなイリスは、俺が汗を流したままだとか、汗だくのシャツをすぐに取り替えないことも嫌だったらしい。これまでは単なる友人同士であったから何も言わずにいてくれたようだが、晴れて恋人同士――お試しではあるけれど、になったのだから、容赦なく嫌なものは嫌だと態度で示すようになった。
 出掛ける際には汗を拭く用にハンドタオルを必ず持ち歩き、汚れた手では絶対にイリスには触らない。残念ながら一言断ってからでないとそもそも触れることもできないのだが、存外、彼女は触れたいと言うと断りはしないのだ。綺麗にした手で、というのが前提でも、なのであっさりと手を繋ぐことには成功してしまった。仮にも恋人、というのをイリスも意識してくれているのだろうと思う。イリスが嫌なのは俺ではなく、あくまでも汚いこと、なのだ。
 しかしそれ以上は中々許可を貰えない。汗を少しでもかいていればイリスは俺に近づけないし、この前急遽家に訪ねてきてくれた時なんかは最悪だった。トレーニング後、ということで全身汗が垂れ流しで、その熱気が彼女にも伝わってしまったのか、一切玄関にも入ろうとしなかった。限りなく距離を開けたところですっ……と無言で差し出された袋の中身は、頼み込んでイリスにようやく作ってもらった料理だったのに。行くって連絡忘れてたごめんねってさっさと帰られた後は、しばらくソファで頭を抱えて溜息を吐いていた。

 嫌われたくない。やっと、お試しでも、イリスの恋人になれたのだから。キスもセックスもできなくても、時折見せるほんのりはにかんだ笑みだとか、意外と怖いものが多くてゴーストタイプに弱いだとか、そういう愛らしい一面を間近で見られるようになったのだから。たったのそれだけで、俺の中の恋心がパッと明るい光に祝福されるように照らされて、どくりと心臓を跳ねさせるのだ。

「……?もうシャワー浴びたの?」
「ああ。イリスが来るから」

 イリスもあれから家に来る前には事前に連絡を怠らなくなり、そうとなればこちらは準備することが山ほどあるわけで。部屋の隅々まで掃除をして汚れを残さず、換気もしたし、体だって綺麗にした。服の皺も確認したし、髪もぼさぼさになっていないか何度も鏡で確認した。会う時は清潔に、それを決して怠りやしない。そういう関係がもう半年以上続いていた。触れないことが当たり前の関係をしていると、不思議なことに次第にイリスがそういう神聖なもののような、不可侵領域のように思えてくるのだから、我ながら妙なことだった。だからか、必要以上に触れられはしなくてもなんら苦痛でもない。

「……」
「どうした?……はっ、まさかどこか汚いか?ちゃんと確認したつもりだったんだが」
「……そうじゃないよ。ごめん、なんでもないの。お邪魔するね」

 何か物言いたげに見えたのに、そうやってイリスは小さく首を振って、行儀よく家の中へと入った。
 自宅に招き入れたところでいかがわしいことは何もないのが常だ。二人でテレビを見たり、飯を食ったり。その合間に他愛ない話をして、至極穏やかな時間が二人でいると流れていく。バトルの映像を見る際には興奮して一人でずっと喋り続けてしまうこともあれど、イリスは時折微笑みながらそれに耳を傾けてくれるから、調子に乗って後でこっそり反省することもある。
 今も正にそうだった。流していたテレビで他地方のバトルシーンが映され、夢中で見入ってしまって。けれど隣にイリスがいることを思い出して慌てて前のめりになっていた姿勢を戻して気まずい思いをしていると、イリスが「今どっちが優勢?バトルはまだまだよくわからないから」なんて訊ねてくれるのだ。単純に嬉々として解説をしても、イリスは嫌な顔一つせずに聞いてくれたからありがたい。あまり熱を入れ過ぎると興奮のせいで汗をかいてしまうので、適度に力を抜きながら。

「ダンデ、本当にバトルが好きだね」

 試合が終わった頃合いで、俺が興奮冷めやらぬ顔を見て、イリスはくすりと笑う。その控えめなのに優しい笑みが、どうしようもなく愛らしくて魅力的に見えて、ごくりと喉を鳴らしてしまった。CMに入ったテレビにはもう用はなくて、目の前のイリスしか見えなくなる。隣に座ってはいてもしっかりと人一人分は隙間の開いた向こうにいる、イリスしか。
 そうして、気付けばおずおずと、我慢もできずに口を開いていたわけである。

「なぁ」
「ん?」
「キスしても、いいか」

 言い切ったと同時に我に返って慌てて口をおさえたもののもう遅い。イリスは大きく目を見開いて驚き満載の顔をしていて、唖然と俺を見つめている。あ、とか、ちが、とか。動揺でどもってしまう自分が情けなくてたまらないが、取り返しのつかないことを言ってしまった事実に一気に背筋が凍った。これが他の女性ならここまで動揺する必要はないのかもしれないが、相手はイリスなのだ。触れることにすら許可を貰わねばならない、それを受け入れた上でこうして隣に座ってくれている人を、相手に。

「……」
「ごめっ、ちがうんだ、その、」
「…………、……いいよ」
「勢いあまって…………えっ」

 視線をあちこちに逸らしながらどう弁解しようとどうしようもない、と思った矢先。耳を疑うような返事があったものだから、目を見開いたのは今度は俺の方である。

「いい、のか?本当に?」
「うん。その、すこし、なら」
「……は、歯を磨いてくる!手も洗ってくる!」
「あ」

 まさかのイエスに瞬く間に鼓動が高鳴り、今にも手を伸ばしそうになった寸前に、約束を急に思い出して逸る気持ちのまま立ち上がって洗面所へ駆けた。早く早く、と思いながら歯を磨くのは滑稽かもしれなかった。けれど気が変わってしまうのは困るから、手早く磨いて、爪の間まで洗って、いそいそとソファへと戻ると、所在無さげに俯いているイリス。前に垂れた髪のせいで横顔はうまく見えなくて、もしや嫌になっただろうかと一人で焦っていたら、そっと、イリスは顔を上げてくれた。それを目の当たりにすれば焦りなど弾け飛んで、俺の心臓の躍動を乱暴にさせたのだ。
 薄く頬を染めて、潤んだ瞳で俺を見上げた、イリス。煽情的なのにどこか少女みたいな、無垢な顔。

「……イリス」
「ん……」

 自然と小さく名を呼ぶと、同じように小さな声が。隣に座り直して「頬に触れてもいいか?」と思い切って訊くと、うん、と微かに首が動いた。恐る恐る手を伸ばしてやっとの思いでその頬に触れると、洗ったばかりのせいか「つめたいね」とイリスがほんの少し身じろいで笑った。初めて触れたそこはあまりに柔らかくて、触れる力を意識して制御しないとうっかり潰してしまいそうで少し怖い。

「……ほんとに、いいんだな?」
「何度もきかないでよ……」
「ごめん」

 羞恥のせいか薄赤に染まる頬に期待は鳴りやまない。手には触れられたけれどそれ以上の接触は今の今まで皆無だった。健全に健全を上乗せしたような、ティーンよりも純朴な毎日。いかがわしいことはしないと条件をつけて、それを受け入れたくせに、いざ触れてもいいと言われると緊張してきてしまって。結局、こうして触れたくてどうしようもない男だったのか。もちろん今は唇にしか触れるつもりはないが、それだって相当高い山を難関の末に乗り越えたような気分なのだ。
 意を決して顔を近づけると、きょろきょろとイリスの目が忙しなく動く。どうしたらいいのかわからないらしい。あまりに初心すぎる反応に知らず体が熱くなる。キスくらいでなんだ、と自分に必死に言い聞かせるものの、体が正直過ぎて心臓も痛い。
 目を瞑って、と囁くと、ぶるりと長いまつげが震えた。微かな逡巡の後、きゅっと口を結んで瞼を下ろす。薄い色のアイシャドウとやっぱり薄い色のリップ。艶を帯びたそれらが微かに煌めいて見えたのは下手な色眼鏡だとも思う。
 ゆっくりと唇を寄せて、念願の柔らかさを一瞬だけ貰ったらすぐに顔を遠ざけた。本当に文字通り表面をくっつけただけの他愛ない行為だった。気分が高揚してたまらず緊張のせいか強張って見えるその肩を抱いてしまいたくなったが、それはまた別のお許しが必要なのでなんとか耐え抜いてこれだけに留められた自分を褒めてやりたい。

「……おわり?」

 なのに、息を止めていたイリスがそんな寂しそうな声を出すのだから。

「……あっという間なんだ、こういうの」
「……あんまり煽らないでくれ」

 あっという間のものというかあっという間に俺がしたのに。これ以上理性をぶちぎられても困るのでそっと距離を開けようとした。したのだが、なんと、イリスが俺の服の袖を遠慮がちにも掴むのだ。予想外のアクションにぴしりと体が固まった。俺からイリスに触れることに許可を貰う機会はあっても、イリスからの求めはこれまでなかった。イリスが受け身で、俺が請う立場。それで良かったし、そういうものとして始めた関係だったのだから不満はなかったけれど、こんな、たどたどしい手つきで引き止めるような素振りを見せられれば、あれこれと勘違いするなと言う方が酷だろう。

「……はなれないで、いいよ」
「で、でも」
「手も洗ってたし、シャワーだって浴びてるんでしょ。……ごめん、違う、そうじゃなくて」
「?」

 下を僅かに向いた顔では、残念ながらはっきりとは表情が伺えない。しかし袖を掴む小さな手は心なしか震えている。

「……嘘なの」
「嘘?」
「うん。私別に、潔癖症だから触って欲しくないんじゃなくて……ああでもだからといって、汗とか汚れが全然気にならないわけじゃなくて、綺麗であるに越したことはないけど、それだけで拒んでいたんじゃなくて」
「イリス、イリス、落ち着いて」

 興奮なのか緊張なのか、途中から忙しない口調になったので一度口を挟むと、ハッとして少しだけ息を吐いてイリスは肩の力を抜く。はっきりとは見えなくても、その顔は曇っているようで。

「……その、男の人を、あんまり信用できなくて」
「イリスは魅力的な人だから、色々と不躾な輩がいたんだろうな」
「それも違くて……いやでもそういう失礼というか欲望丸出しの人もいたけど、それも嫌だったけど、なんで嫌かって言ったら別の理由で……。……父親に、その、浮気癖があって」

 ――それから言いにくそうになんとか話しきってくれた内容は、概ねはこうだ。
 イリスが子供の頃からずっと父親に浮気や女遊びの癖があって、それで母親と共に大変苦労したこと。度々金銭の絡む女関係のトラブルも起こして、慰謝料沙汰にもなったこと。数年前にようやく離婚できたようだが、小さな頃は浮気相手の女と遊ばされたこともあって、男というものに簡単には信用を置けなくなったということ。
 そうやって男性不信に陥っているとは知らず欲丸出しの誘いが後を絶たず辟易とした結果、そういう輩をあしらうために体の関係は一切持たないと断る理由として最初に告げてきたこと。そうすれば下賤な輩はノーと首を振って去ってくれたし、最初は約束を守ってくれる男だったとしてもさほど時間も経たない内に本能に負けて体を求めてきて、段々と接触そのものを忌避するようになっていったこと。
 だから別に、汚いことが嫌で俺に断りを入れてきたわけではないということ。

「……ごめんなさい」
「謝る必要はないだろう。汚いものは嫌だし、セックスが嫌なのも事実なんだろう?」
「だけど、嘘は嘘だし」
「だとしても、俺は別に怒ってなんかいやしないさ。でもどうした?何故今になって」

 特に怒りの感情はない。そうだったのか、という気持ちはあっても、糾弾したいとは思わない。寧ろ複雑な事情を容易には口にしにくいだろうことも推察できるし、実際潔癖症だから拒否していたわけではなくともかなり潔癖症には近いし、嫌なものはやはり嫌なのだろうし、理由は少し違っていても今後の接し方に何も変わるものはない。寧ろそんな事情があったのにキスを受け入れてくれたのだからありがたいのはこちらである。なんやかんや、好きな人に触れたいのは正直な気持ちだったのだから。約束は絶対に守っても、触れたいのは触れたいのが悲しいかな性なのである。

「ダンデなら……いいかなと、思って」
「…………え」
「他の人と違って、ダンデ、ちゃんと全部約束を守ってくれて、私が嫌なことは絶対にしないで、大事にしてくれるなって、少しずつわかって。まだ半年くらいだったとしても、みんな結局は我慢できないって怒ってた。でもダンデは違った。……あとね、さっきみたいに、すぐ離れていっちゃうの、最近はやだなって、思っちゃうの」

 色々と強制させてきたのは私なのにごめんね、そう最後には完全に俯いてしまったイリスは、申し訳なさのせいでそうしているのだろう。だけど今は俯いてくれて良かったと思ってしまうわけで。
 見せられるわけがなかった。きっと、こんなに締まりもなくゆるくなっただろう顔なんて。

「……イリス、それってつまりは、その、俺が都合よく受け取ってもしょうがないような言い方、だぞ」
「…………。うん、いい、よ」
「これからはもっとイリスに触れるぞ。手も繋ぐし、キスもするし、体にも触れたいって言うかもしれない」

 ここで体には触れない、とまでは言い切れなかった。俺はアセクシャルでもなかったようだし、好きな女を前にそこまで殊勝ではあれない。

「ダンデなら、いいよ。……ダンデだから、」
「……抱き締めても?」
「うん」

 まだどこか信じ切れていない気分のままそっと近寄ると、逃げることなくイリスはその場にいてくれる。顔を上げて、と小さく催促すると、これまたゆっくりとその顔を上げてくれた。ほんのりと頬の赤いままの、潤んだ瞳の煽情さと消えない可憐さ。他の誰かはダメでも、俺ならいいと言ってくれた唇。居てもたってもいられなくなって少しばかり勢いよく腕に抱くと、最初は座り悪そうにしていたイリスだが、そっと腕を背に回してくれて、胸元に頭を預けてくれた。

「……くさくないか?触られて、嫌じゃないか?」
「ぜんぜん。ボディソープと、柔軟剤の匂いがする。それにね、ちょっとくらい汗の匂いがしても、ダンデならいいよ。……好きだから」
「……もう一回」
「もう一回?」
「もう一回、言ってくれ」
「……好きだよ、ダンデのこと。ごめんね試すようなことばかりして。我慢ばかりさせて。ありがとう、だいすき」

 しまったなと思った。自分で自分の首を絞めにいってしまった。こんないきなり、触れたことがなかった柔らかくていい匂いのイリスの体を知ってしまったら。

「……知らなかった。本当に好きな人になら、色んなこと許せるんだって。もっと触れたくて、触れて欲しくなるんだって」

 どういう意味かって訊く勇気は、不可侵領域のように思ってしまっていた手前、まだない。


20211012