短編
- ナノ -


 狭き道を往け


 ギーマと会ったのも寝たのも何年振りだろう。また顔を合わせる予定もなければ当然寝る予定もなかった筈なのに、忘れたくて忘れた自分のつもりでこの数年生きてきたのに、偶然再会したからってこんなことになるとは夢にも思わなかった。
 思い出した、というよりも。どう言い表せばいいのかはわからないが、あまりに久しぶりに触れたギーマの体は相変わらず線が細くてしなやかであるのに、きちんと固い男の体で、記憶の通りだった。少し薄くなった気もするが、首に腕を回して抱き着くこの感覚が焦がれていた正にその通りで、少なからず混乱をきたした。残念なことに忘れたというのは本当にそう振る舞っていただけだったのだ。

「太ったか?」
「最低」
「いや失礼、言い方が率直過ぎたな。でもこの辺は昔よりも肉付きがいい」
「そういうギーマは痩せたね」

 よもやまだしたいのだろうか。散々上に乗ったり乗られたりとしつくしたのに。裸の胸に触れる手つきはさっきまでとは違って色気を持たないが、昔からギーマの心なんて何一つわからなかった。確かに愛を囁いてくれるのにどこか信憑性を疑ってしまうような軽い口ばかりきいて、不安になった夜は数知れない。そのくせ絶妙なタイミングで確信をつくのだ。
 浮気とか、よその女に目をくれることはなかったけれど、ギャンブラーという種のせいか大抵のことは真実味が薄いと言うか、本当のことを言っている筈なのに嘘なのではないかと、疑心に駆られてしまった私もまぁ経験も浅くそれなりに若かったのだろう。肉体の年齢の話ではなく、精神の話だ。

「ちゃんと食べてるの?」
「ああ。でもイリスと別れてからは食事が中々喉を通らなくて」
「嘘ばっか」

 これくらいだったら難なく看破できるのに。それに、そんなに私へ未練を抱いていたようにも思えない。まず別れたのは何年前の話だと思っているんだって。こちらが泣きそうになるくらい易々と私と別れたくせに。ギーマには四天王という立派な仕事があったのだし、ギャンブラーとして金を賭ける趣味だってあった。私なんかいなくても楽しい人生はいくらでも送っていたのだから、女々しく引き止められることもなかった。それに体丸ごと刺されたのも、刺したのも、全部私だ。

「……食事があまり喉を通らないのは本当だよ」
「私と関係ないことで、でしょ」

 いや喉を通らないどころか、少なくとも私が全部払ったレストランでたらふく食べていただろ。少しばかり驚いたのは正直なところで、あんな姿は初めて見たし、かつてはもっとスマートで気品よく食事していたのに。それに、昔は絶対に私に支払いだってさせなかったのに。後腐れも嫌だしと思って「出すよ」と今回申し出たらあっさりと「そうか、なら甘えよう」と、それこそ平然と言ってのけて、思わず三度見くらいしてしまった。
 食事中に近況を訊ねた限りだと、四天王は既に引退したようだし、何やらイッシュでギャンブルによるトラブルもあったみたいで、懐は確かに寂しいのかもしれないが、そんな何の躊躇いもなく?と支払いをするって言い出した側のくせに変に悶々としてしまった。

「今どこに住んでるの?ていうか、アローラに住んでるの?」
「気ままなモーテル暮らしさ。金はかかるが、ファイトマネーは一応入るからな。しばらくはここにいるつもりなんだ。ここはいいな。自由で、開放的で、何よりサーフィンは楽しい」
「そんなアウトドアな趣味ができるなんて不思議」

 汗をかくことを嫌うような人だと思っていた。セックスの最中には汗をかくが、終わったらすぐにシャワーで流すし、バトルに情熱はあるが興奮して汗水垂らしながら身を乗り出すようなタイプじゃない。それが、なんとサーフィン。しかも着流しで。まったく、人間何があるかわかったもんじゃないな。

「今度イリスにも教えよう」
「いやいい。もう会うつもりないし」
「……そうなのか?」

 ――だなんて、急に、そんな寂しそうな声を出されたらドキリとしてしまったのは秘密だ。
 胸で遊んでいた手がぴたりと止まって、「ほんとうに?」とでも言いたげな瞳で隣に寝転ぶ私を見つめてくる。私が知らない反応。足先がもぞりとするようで、目を合わせていられなくて背中を向けた。それが気に入らなかったのか、背中に張り付いてきて後ろから私を抱き締めるようにするのだ、ギーマは。これもまた可笑しな。昔は私が背中に縋るように張り付いて顔を埋める立場だったのに。

「寂しいことを言わないでくれ」
「いや寂しいって……」

 何が寂しいと言うのだろう。私とギーマはもう恋人同士ではないし、とっくの昔に別れているのに。食事の後流れでホテルに入ってしまったけれど、なんだか今のギーマを放っておけないというかそのまま離れ難くて寝てしまったけれど、でもそれはこの一夜だけの話だ。明日になったらリセット。ギーマはまた浜辺に行くのだろうし、私も仕事がある。抱かれている間昔を思い出して情けなくも泣いてしまったし、何度もギーマの名前を呼んでしまっても、全てが一夜だけのマジックだから。私はもう、背中に縋りつく必要もなくて、ギーマとの関係を望んではいない。
 なのに、まるで機嫌を取るかのように首筋や肩にキスをしてくるなどとは。本当にこれは私がかつて愛した男なのかと、妙に疑いの気持ちが這いあがってくる始末である。はたしてこんな男だっただろうか。何年も経っているのだから変わることはあるだろうし、変わったと言えば変わったと言えるかもしれないが、私を抱く間は顔色を変えないまでも快感と興奮に隈のできた目をぎらぎらとさせて、ああ私だけが見られる光景だと体の中身が若い頃は恍惚を覚えたあの顔で、私を容赦なく翻弄したのに。だのに終わってみればどうだ。
 とっくに縁の切れた女に慰めて欲しいと言っているようじゃないか、これでは。

「……正直、イリスのことは忘れていたんだ。君のことは愛していたが、終わってしまえばもうそれで全部幕引きだ。誰かに追い縋るような情熱だってあの頃はなかった。だけど、今こうしてたくさんのものを失くしたまっさらな自分になってみたら」
「……なってみたら?」
「イリスがなによりも可愛く見える」

 なんだそれ、と目を閉じて溜息をこれみよがしに吐いてみても、体に巻き着くギーマの白くて長い腕も背中に張り付く程良い厚みの体も微動だにせず、寧ろ巻き付く力を増してくる。汗と体液でべたついていても気にしないのか、自らそんなこと。レストランのことといい、私の前で今は見栄も張れない男。

「昔はなによりも可愛くなかったんだ」
「揚げ足を取らないでくれ」

 愛されている筈だった。だけど嘘か本当か私ではわからない言葉遊びのような、そんな口ばかりだったから。服や化粧やら、ギーマに愛されるために色々と作った私を口では褒めてくれても、どうにも温度は上がったように思えなくて。風で穴でも空きそうな言葉ばかりだった。あの頃は、もっとありきたりでも人間味のある言葉がとどのつまりは欲しかったのだと思う。飄々として、人をあしらうのがうまくて、そんなところだって魅力の一つだとは思っていたが、芯のない言葉を真っ向から信じきれなくて、勝手に不安ばかり覚えて。そうやってギーマから逃げて、忘れたいと願ってこうしてアローラまでやって来た。
 なのに、そのギーマが今度は同じ場所までやって来てしまったのだから、これは運が悪いのか、尽きたと言えるのかもしれない。こうして蓋を開けてみれば、結局私はギーマの体温を忘れられないままの女だったのだから。

「……また私のこと、好きになれるの?」
「もう好きさ」
「セックスしたいだけじゃない?」
「違うよ」
「本当だって信じるからね」
「ああ。いくらでも信じてくれ」
「お金はちゃんと稼いでね。ヒモは要らないから」
「ホテル代は出すさ。知らない間にそんな手厳しい口をきくようになったんだな。そういうところも可愛い」

 また嘘か本当か悩む日が戻ってくるのだろうか。でも不思議なことに、それならそれで楽しもうという気になっている自分が既にいた。博打でもあるまいに。でも首だけ振り返って間近にあるギーマの口に噛みついたら、面食らった顔をするものだから内心笑ってしまった。あのギーマの不意を小さくともつけたらしい。
 偶然再会して燃え上がってしまっただけの、こんなの一時の気の迷いかもしれないのに。それを楽しもうと思えるくらいの大人に私はなれたのか。


20211005