- ナノ -




(5)イミテイション・ゴールド


 公演後、流れで共にホールを後にし、石畳の上を二人並んで歩く。私は列車で帰るけれど、ダンデさんは何で帰るのだろうか。隣にいる大きな人を横目で見やると、真っ直ぐに前を向いていた。

「……あの、私、駅に」
「ん?そうか、俺はアーマーガアタクシーだ」
「そうですか」

 そりゃそうか。チャンピオンが列車で移動なんて想像つかないし、雨が強いからポケモンの背に乗ることは難しいだろう。
 なら、そこの角でお別れですね。簡単にそう告げればいいのに、私の口はぴったりと閉じられてしまって、口内に言葉が溜まっていく。なんで、だろう。今まで別れるときはいつだってすんなりできていたのに、今日はありがとうございましたさよなら、なんてとっくに言い慣れている文言なのに。いつも私から、挨拶していたのに。
 足取りが重くて、少しずつ歩くペースが落ちる。その影響かわからないが、いつの間にかダンデさんの歩調も私と同じペースになっていた。それに気付きながらも、それを指摘するような勇気はない。いつもはさっさと前を歩いて行くくせに。

「……」

 いつもペラペラと喧しい人が今ばかりは大人しくて、何も喋ってくれないから、私達の間には風ばかり吹き抜けて行く。そのせいか足の先が重くてたまらない。腿がだるぅくて、そうしたら体全体に重く重力がかかっているかのような感覚を覚え、ギュッと心臓が痛みだした。胃の上辺りが押されるようで、苦しい。
 しかし、どれだけ遅々とした歩みでも前へ歩いているのだから、時間がかかろうと終着は待っている。角にまで到達して、私は重い歩みを止めた。ダンデさんも私にならって立ち止まる。さよならの挨拶、しなくちゃ。

「……じゃあ、お気をつけて」

 どうにか声を絞り出してへにゃりと笑う。多分、笑えている筈。頬の筋肉が凝って動かしにくかったけれど、きっと、笑えている。
 これからはまた当分、会うことはないだろう。まだジムチャレンジは中盤に差し掛かったばかりで、チャンピオンのバトルまでは遠い。だからといって暇であるわけがないし、来るべき日に向けてやらねばならないことが山程ある筈だ。
 今日は偶然にもこうして相まみえることができたが、今度は、いつ会えるだろうか。

 ――は?

「なぁ」

 悄然として声も思考も失っていると、ダンデさんがおもむろに口を開いた。
 ご丁寧に私に向かい合って、ヒールの爪先を眺める私の頭に、彼の言葉が力なく降ってくる。

「……まだ、時間あるだろうか」

 引き寄せられるように鈍い動きで頭を持ち上げれば、美しい瞳をたずさえた人が、目を細めて優しげに私を瞳の中に飼っていた。
 まだ言葉を紡げないでいる私の手を壊れ物でも扱うように取り、雨粒を滑らせる傘の下で微笑んでいるその人に、私は。

 私、は。


  ◇◇


 手を引かれて入ったのはナックルシティの端にあるホテルで、建物が見えた時に少し躊躇した。でも、ダンデさんの纏う雰囲気があまりに穏やかなものだったので、結局黙って大人しくついてきてしまった。
 部屋に入って、手を放され、追い縋ろうとして慌ててひっこめた。何をしているのだ、私は。
 ダンデさんは羽織っていたジャケットを脱ぐとハンガーにかけて、そのままベッドに背中から倒れ込んだ。そして、入口の扉の前で未だに棒立ちしている私をついと見やる。明かりをつけていない部屋の中は外が暗いせいもあって薄暗く、金色に輝く瞳だけが美しい。
 ドキリと、心臓が鳴いたのがはっきりとわかった。

「おいで」

 どこに?なんて訊かなくともわかる。仰向けだった体の向きを私の方へ変え、自身の隣をポンポンと叩きながらその人は私を待っている。

「大丈夫さ、何もしない。話をしよう」

 なんだ、なんて思っていない。決して、期待など、していなかった。
 くっ、と肩に力を入れて、恐る恐るベッドへと近付く。きっと彼のことだ、本当に何もしないのだろう。それでもこんな反応をしてしまうのは、信用していないとかそういう問題ではなくて。
 ――触っても、いいのに。
 言葉を失くしたままダンデさんの隣へ静かに寝転ぶ。ドレス、と考えなかったわけではないけれど、ここまでくればどうでもよかった。

「しおらしいナマエも新鮮で愛らしいな」

 大人しく隣にやってきた私に満足そうに笑ったダンデさんは、私と同じように不必要な言葉を殺しているように見えた。すっ、と向かい合うように寝転ぶ私の髪に手を差し入れて、頬にかかる髪を耳にかけられる。気障だな、なんてもちろん口にしなかった。

「……私もね、あそこに立ちたかったの」

 優しくて温かい手に触発されたのか、自然と私の口からは言葉がポロッと漏れ出てしまって、すぐにハッとしたけれど、ダンデさんは催促するように「ホール?」と問うてきた。話をしようって言ってくれたから、場所と雰囲気を作ってくれた人に乗りかかることにした。

「ピアノだけじゃなくて、音楽の世界にいる人はみんなそうなんです。あそこは特別。私もあそこを目指してコンクールに参加した。でも、ダメだった」

 世界的に有名な音楽家の名を冠したコンクールで勝ち進み優勝すれば、あの場所でたったの一人だけで演奏することを許される。それまで多くのコンクールに参加したが、そのコンクールのことを知ってからはそれが私の目標だった。
 なのに、どうしてもあの子には勝てなかった。
 何度も何度も数あるコンクールに挑んできたが、何度も何度もあの子に負けた。あの子と被ったコンクールは全部準優勝。選ばれるのはいつもあの子だった。
 あの舞台へ立つための切符をかけたコンクールも、課題曲が決められているから同じ曲を演奏しているのに、選ばれたのは私ではなくあの子だった。

「私も、あそこに、立ちたかった」

 もう永劫にあの舞台に上がることはないだろう。まだそのコンクールの年齢制限には余裕があるものの、一度諦めたのだ。ピアノを手放した私では、もう到底辿り着けない遠い頂き。

「……すいませんこんな話。貴方は強い人なのに、挫折した話なんか聞かせて」

 込み上げてくるものがあったから強制的に話を切った。もう、あの頃の思い出で泣きたくなどない。枯らす程に涙を零したのだ、今更泣いてどうなる。
 でも、鼻がつんとして喉の奥が焼けるようで、明かりをつけなかったから部屋が暗いせいもあり、制御がききそうになくて。こんな情けない姿見られたくないから体を反転させようとした途端、急に背中に腕が伸ばされてグッと引き寄せられた。
 ビックリして瞠目している私に、今まで黙って私の弱々しい吐露を聞かされていたダンデさんが囁く。

「大丈夫だ」

 胸の奥が、やわく引っ掻かれた気がした。
 何が、大丈夫なの。貴方いつも調子いいことばっかり言うもの。言葉も足りないし、強者である貴方と弱者である私では決定的に違う事柄がある。それなのに、どうしてそんなに優しい声で、そんなことを言えてしまうのだろう。

「大丈夫」

 顔が近付いてきて、突然のことに頭の中の動きが停止してしまい、反射で目を瞑って顔を後ろに反らそうとしたけれど、それよりも早く右目の下に唇が触れた。多分、泣きボクロの所だ。
 ほんと、気障だなぁ。抑えきれなくてへらへら笑ったら、同じように笑われた。


 そのままお互いの子供の頃を話しながら横になっていたからか、いつの間にか二人揃って眠ってしまったようだ。
 雨が上がったのだろう、カーテンの向こうから射しこむ光に目が覚め、目の前に私を抱え込んだままあどけない顔でまだ寝入っているダンデさんの顔があって、眩しい朝の光を背にするその姿に、私は無性に泣きたくなった。


  ◇◇


 チャンピオンの防衛線まで残り僅かという時期になって、ダンデさんのメディアの露出が一気に増した。どこを見回しても佳境に入ったジムチャレンジの話題で持ちきりになり、こんなにも日々の中にチャンピオンの話題があったことに、いかに自分の興味が皆無に等しかったかを痛感する毎日だった。
 どの番組でもダンデさんは自信満々で、自身の勝利を疑ってすらいない振る舞いだった。そんな姿に民衆は沸き立ち、同期も「今年も決まってる、ダンデが勝つ」と鼻息を荒くしていた。彼もまた真っすぐに、チャンピオンの勝利を信じている瞳で。
 あの子のリサイタルを最後に一度も言葉を交わしていないダンデさんは、今頃最終調整でもしているのだろうか。今年は誰が彼に挑戦するのだろう。やっぱり、キバナさんだろうか。今や頭の中の引き出しにしまわれるようになってしまったダンデさんの交友関係や手持ちのことなどが浮かんで、私は自分の胸が鳴く音を聞いた。
 ――あの人は私とは決定的に違う。価値観も、モノの見方も。根本から別の構造をしているのに。

 防衛線が終わればしばらくは余裕ができるだろうか。ジムチャレンジが終わって事後処理が終わればシーズンオフだから、関係者は休暇なりなんなり与えられるだろうか。そうすれば、また、連絡が取れるようになるだろうか。
 ――何のために距離を保っていたかったのか。いつか傷付くかもしれない。いや、そうに決まっている。どれだけ額を合わせられても、きっと、分かり合えない。

 うだる頭に辟易して、スマホを放り出して座っていたベッドにバタンと背中から倒れた。目元に腕を置いて視界を潰す。頭が沸いているようで、体に熱が籠っている。“大丈夫”、優しい声がリフレインする。
 考え事に没頭していると、着信音が枕元のスマホから鳴ったから緩慢な動きでとそれを取り、画面を見て、目を瞠った。ドク、とまた胸が鳴く。
 メッセージの送信者はダンデさんだった。逸る気持ちを抑えながらそっとメッセージを開くものの、心配が先に立っていた。こんな大事な局面に平気なのだろうか。でも連絡をくれたということはかまわないということだろうか。
 送られたメッセージに目を走らせる。外で会おうというお誘いで、わっと胸から頭へ何かが突き抜けるような感覚があった。胸の内がじんわりと温かくて、頬も熱い。嬉しい。忙しいのにダンデさんがまたこうして私に会いたいと言ってくれて、凄く、嬉しい。

 私も、会いたかったの。
 日時は、問題なかった。週休二日制だからその日は休みだし、きっと予定があっても空けていただろう。
 気になったのは、場所だった。


  ◇◇


 指定された日になって、私は列車の中でゆらゆら揺られていた。下げた視界の中に映る黄色いスカートになんとも言えなくなる。無意識のうちに選んでいたそれは、裾が僅かに滲んでいて、ハアと小さな溜息が零れる。どうしてこういう時に限って雨は降るのだろう。コントロールできない事象に文句言ってもしょうがないけれども、どうせなら晴れやかな日になってほしかった。せっかく、あの人に会うのに。
 私とは違って、ダンデさんには太陽が似合うのだから。

 もはや行き慣れたナックルシティに降りて、迷いなく道を進む。目的地に着いたが、私が先に着いたようだ。腕時計を確認すると待ち合わせまではまだ余裕があるものの、はたして、ダンデさんはそれまでに辿り着けるだろうか。
 しばらく振りのコンサートホールの前にあるベンチに座って待とうと思ったが、びしょびしょだったし、そもそも待っていた所でちゃんと来れるのだろうか、あの人は。迷子にならずに最後まで共にいれたのは最初にナックルシティを歩いたときだけで、それ以降は待ち合わせにも時間がかかったし、一緒に歩いていても知らない間にいなくなって探し回ったものだ。ようやく見つけた私にダンデさんはいつも「すまないな」などと笑うばかりで、もう少し悪びれてくれと怒ってばかりいた。
 物思いに耽って暇を潰していたが、なんだか心配になってきた。迷子になっていないだろうか。スマホを確認したが何も連絡は入っていない。事故にあっていないだろうか。明後日の方向に行っていないだろうか。
 じっとしていられなくて右へ進んで辺りを見回して、左へ進んで見回して、姿が見えないと落ち着かなくなってきた。
 どうしよう、迎えに行こうかな。どうやってここまで来るのかも知らないから迎えなど無理だろうに、そんなことまで考えていた。
 そもそも、どうしてこの場所なのだろう。ナックルシティに呼ばれるときはいつもジムの横のポケモンセンターが指定だったのに。

 もう一回、と止まったままいられずに右方向へ進んでいくと、なんとダンデさんを見付けてしまった。傘をさして立ち止まったまま首を傾げており、あまりにも見覚えがありすぎる姿に額を押さえた。やっぱり迷子だった。
 声を掛けようとしたら、体が私とは逆方向に走り出そうとしてギョッとした。そっちは違う!

「ナマエが声を掛けてくれて助かったぜ!」
「いやほんとそう思います」

 我ながらタイミングがよくてナイスだったと思う。あのまま大人しく待っていたら会えなかっただろうな。
 朗らかに笑っているダンデさんの笑顔をついつい見つめてしまい、キュッと心臓が鳴いたのに気が付いて、そっと視線を外した。ドクドクと、煩いものだ。
 さて、無事に合流できたもののこれからどうするのだろうか。日時と場所しか指定されていなかったし、忙しかろうと予定を伺うのは控えたので、この後どうするつもりなのかさっぱりわからない。
 外した視線を戻してダンデさんを見上げていると、彼はにっかりと笑って、ホールを指差した。

「こっちだ」
「え?あ、ちょっと」

 返事も待たずにダンデさんは入口の扉を開いて、また私をギョッとさせた。
 今日は休館日なのに、しかし扉は開かれた。休みなのに鍵かかってないの?と驚いたまま固まる私に、ダンデさんは早く早くと手招きしている。
 仕方なく背中を追うと、ロビーでダンデさんと職員らしき人が話をしていて首を傾げた。一体、何なのだろうか。他に人の姿はなく閑散としていて、張り出される公演スケジュールを確認したが、やはり休みなのは間違いない筈なのだ。
 一体何事かと話し掛けようとすると、職員の人が一礼してどこかへ行ってしまう。その姿を目で追っていたら、手首が掴まれた。大きな褐色の手。ダンデさんの手で間違いない。

「こっちだ」

 さっきから貴方それしか言ってないぞ。色々聞きたいのに引かれる速度が速くて、口を開けられぬまま足を動かすしかなかった。
 ダンデさんが一際大きな扉を開ける。
 ねぇ、どうしてメインホールなの。

 

 無観客のそこはしっかりと照明で照らされていて、ますます疑問が募る。調整か何か入るのだろうか。けれど見渡しても私達以外に人影はなく、一つのピアノが光り輝くばかりである。
 今度こそ声を掛けようとするとダンデさんは再び歩みを始めて、真っ直ぐ舞台の方へと向かう。たった一つしかない可能性に、嫌な予感がした。
まさか、舞台に上がろうとでもいうのだろうか。
 予感が的中し、高さのあるそこを軽々と乗り越えて舞台へと乗り上げたダンデさんは、躊躇する私の手を引き同じように上がるよう促す。しかし躊躇してなかなか動かない私を見下ろし、あろうことか脇の下に手を差し入れて無理に体を持ち上げられ、私は暴れ出したかった。
 ダメだ。私がこの舞台に上がっては。私が足を着けてよい場所ではない。
 あまりのことに胸が上からギュウと押し込まれているように苦しく口から音が出なくて、拒否したいのに言葉で伝えられそうになくて、とうとうダンデさんの腕から降ろされてしまう。
 私の足の裏が、舞台へと、接地する。
 カツンと、ヒールの音が反響する。

 ――なんてことだろう。

 恐々と私をこの舞台へと上げた張本人を見やると、満足そうに笑っていて、心臓がバクバクと破裂しそうな程に躍動する。全身の細胞が、悲鳴を上げていた。

「良い眺めだな。これで観客がいれば申し分ない」

 自分の心臓の音に邪魔されてダンデさんの声が上手く聞こえない。彼は空席の客席を見渡して私へ再び向き直った。
 そして。

「でも、ナマエの演奏を独占できるんだから、文句はないぜ」

 何かが、割れた音がした。
 耳の中のざわつきが酷くて、息がしづらい。貴方が側にいてくれるのに、私の呼吸が奪われていく。
 この舞台を用意した人が一歩後ろへ下がり道を譲る。その先にあるのは、美しいピアノ、ただ一つ。
 憧れて、触れたくて、ついぞ届かなかった、ピアノ。

「さあ、弾いてくれ」

 はにかむその姿に、私は理解した。
 ――ほら、やっぱり。

「……ど、して」

 ようやく発せた言葉は掠れていて、あまりに醜い。

「どうして?…ああ、今日が休館日だから、貸してもらったんだ」

 そんなことを聞いているわけじゃないの。私は、そんなこと、どうでもいいの。

「なんで、私、に」

 どうしても言葉を吐きだせない。苦しくて心臓の辺りを指を組むようにして押さえる。指先は血が抜かれたように冷たくて、ゾッとした。
 顔が上げていられなくてどんどん下へ向いていく。場違いな程の鮮やかなスカートの色と、雨に濡れたヒールが目に入って、唇が震える。

「私に、ピアノ、を」

 何故私にあのピアノを弾けというの。
 少ない言葉でも伝わったのだろうか、顔は見えないけれどダンデさんのことだ、笑みを浮かべたまま私がピアノの前へ進むことを待っているのだろう。

「聴きたいからだ、ナマエのピアノが」

 予想通りの答えに頭が痺れだした。くらくらと、眩暈がする。

「この場所に、あのピアノに憧れていたと言っていただろう。ならばと、ここへ招いたんだ」

 ヒールの先がぼやけている。視界が悪い。喉奥が、目の奥が、焼けるように熱い。

「ナマエも、君のピアノを聴かせてくれると言ってくれただろう」

 だから、とダンデさんの言葉が一度切れる。俯いていると耐えられそうにないから、思い切って顔を持ち上げる。

「聴かせてくれ、ナマエのピアノを」

 とろけるような笑みは、シャンデリアの光に照らされて、物語の王子様のようで。
 その人の誂えたような佇まいを見て、私は――。

「……どうして、こんなことするの!?」

 ――もう、耐えられなかった。

 突然怒鳴り声を上げた私にダンデさんの目が白黒して、驚いたことがわかる。それもそうだろう。あの人は、私が喜ぶと思っていたに違いないのだから。
 それが、勘違い甚だしいことに気付きもしないで。

「な、何かおかしかっただろうか…?あ、足りないものでも」
「そうじゃない!そうじゃ、ないっ……!」

 我慢しきれなかった涙が溢れてきて一気に視界が濡れていく。ぼやけた向こう側で、ダンデさんが困った顔をしていることはわかった。
 わからないのだろう、どうして私が泣いているのか。何故喜んでピアノを弾かないのか。貴方にはわかるわけがないのに。

「どうして、泣くんだ」

 どうしてだなんて、そんなことを私に問うなんて、残酷な人だ。
 やっぱり、私とあの人は、決定的に違ったのだ。
 この場所は、あのピアノは、確かに特別だ。憧れてやまなくて、この場所で演奏することを、称賛されることを夢見ていた。
 だからこそ、今、こんな形で立たされて、どうして喜べるというのだろう。

「だって、弾けないから」

 こんな場違いな恰好で、何より演奏など不可能な、指で。

「……ピアノはね、毎日触らないと簡単に弾けなくなるの。一日でも欠かせば指がなまって、一晩寝るだけでも前日の半分は下手になる。欠かした分は全部マイナスになって、取り戻すために練習してもマイナスを埋めるだけでプラスにはならない。私、二年は、弾いてないの」

 最後のコンクールであの子にもう勝てないと悟って、目の前が真っ暗になってから、私の指は一度も鍵盤に触れていない。立派なブランクで、いくら楽譜をいくつも暗譜していようと、私の指は、もう動かない。
 よく勘が鈍るなんて長年ブランクを持つ人が言うことがあるが、ピアノは決してそうではない。脳の領域でも経験による勘でもない。要の指から、忘れていくのだ。

「もう、弾けないの。そんなに簡単に、この指は音を生めない。こんな指で、この舞台で、あのピアノになんて、触れないっ……!」

 ぶわっと急に込み上げてくるものがあって口元を両手で覆った。汚い嗚咽がくぐもって、静かに響く。
 いつか、貴方に聴いて欲しいって思ったのは本心なの。でも、それは、今じゃなくて、ここでじゃない。
 もし仮に街の中の、なんでもない場所の、なんでもないピアノならば、不格好ながらも触れられただろう。指が全然動かないや、なんて笑いながら曲にもならない音を出せただろう。

「どうして……なんで、よりによって、ここなの」

 そんなの私が憧れていると言ったからだ。あのピアノに触れたいと言ったからだ。あの人はそれを叶えようとしただけだ。そして、私のピアノを聴きたいという自分の満足のためだ。
 でも、それこそ、私とあの人が絶対に違う生き物だと、証明することだ。
 私は貴方に、挫折したと、はっきり教えたのに。

「俺……は、俺は、ナマエの望みを、叶えようと」

 ほうら、だから違うのだ。

「……ダンデさん、ライバルが、いるんですよね。それも長年の」

 ――いつからか貴方の話ばかり耳に入れるようになった。貴方の姿ばかり探していた。それが画面の向こうでも、貴方の太陽のような笑顔を見るだけで心が安らぎ、早く会いたいと願うようになった。

「ずっとずっと、貴方に挑戦し続けて、負けても必ず挑んでくる、素敵なライバルが」

 ――振り回されて疲れることもあって、悪いと思っていないようなことばかり言うから腹が立つこともあった。でも、子供みたいな爛漫な顔に文句が引っ込んでいって、しょうがないなぁって、許してしまうことが増えた。

「その人に、冗談でも言えますか?チャンピオンの座を、少しでも貸してあげるって」

 ダンデさんがわかりやすく息を呑んだのがわかった。色を急速に失っていく顔色を、シャンデリアの光が白々しく照らしている。

「言えないのなら、それが答えですよ」

 私を掬い上げた貴方が、私を突き落とすなんて。
 王者である貴方には、本当に私達のことなど、理解できないのだ。


  ◇◇


 外はいつの間にか土砂降りで、アーマーガアタクシーを呼んでくれた好意に従って乗り込む。ヒールで歩いていくのは大変なのでありがたい。
 どこまでとの運転手の伺いに、シュートシティの…、そこで言い淀んだ彼は私を見て困った顔をする。どこまで私を送ればいいのかわからないのだろう。

「広場のポケモンセンターまでお願いします」

 そこだと家まで遠回りになってしまうが、近場で降ろされるのは勘弁なのでかまわなかった。
 狭い車内だ、隣の人の熱が伝わってくる。体温が高くて、肌が直接触れ合っているわけでもないのにじりじりする。
 じきにタクシーが動き出し空へ上がっていく。アーマーガアについてはタクシーを運んでくれること以外何も知らないが、いつも感心してしまう。大人二人を詰め込んだ車体を持ち上げて遠くまで運び、こうして大雨に打たれようと最小限の揺れでもって飛行する。ポケモンって凄いんだなぁ。
 窓に激しく打ち付ける雨は大粒で、沈黙が落ちる車内に空しく音が満ちる。雷でも降ってきそうな勢いだった。

「……すまなかった」

 隣の人が似合わない声音でそんなことを口で吐き出す。私に対してなのだろうが、はたして、何に対しての謝罪なのだろうと首を傾げたかったけれど、私は窓の向こうばかり見ていた。

「ナマエの気持ちを考えなかった。本当に、申し訳ない」

 大丈夫よ、私も貴方の気持ちなど到底わからないのだから。貴方だけではない、あの子の気持ちだって何一つ私はわからないし、知ろうともしなかった。貴方達のように人の上に立つような人は色々と大変なのだろう。私には、想像もつかないくらいに。
 ああでも、一つだけ貴方は教えてくれていたか。激情のような、胃の上が冷たいような、もやもやというか、よくわからない感情、と。

「……私こそ、すいませんでした。貴方が善意で私の為にしてくれたことなのに」

 貴方の意に沿えなくてごめんなさい。だって私は、貴方みたいに強くないの。弱音ばかりで抜け出せていない私が悪いの。
 それきり隣の人は沈黙した。一体どんな顔をしているのか、何かを言い掛けて言えないのか、それとも言葉が間に合わないのか。窓の向こうばかり見ていたから私にはわからなかった。
 やがて目的のポケモンセンターが見えて、緩やかにタクシーは地面へと降下する。トレーナーではない私は有料だから料金、とバッグを開くと首を振られたので、意地を張らず甘えることにした。傘の準備をしてドアを開ける。彼はここでは降りないようだ。

「それでは、失礼します」

 会釈して立ち上がる。雨が酷くて家まで歩くのは憂鬱だが致し方ない。

「……月並なことしか言えないですけど、防衛線、頑張ってくださいね。チャンピオン」

 去り際に後ろへ顔だけ向けて試合を応援していることを伝えたのだが、チャンピオンは何故か唇を引き結んで私を見ていた。溶けだしそうに金色の瞳が揺らめいている。
 どうして、そんな傷付いた顔をしているの。