(if)君の笑顔が花開くまで-2
電話であらかた話はしたが、実際にダンデさんと対面させるとネズさんはパッカリと口を開いて固まり、やがて俯いて顔を覆ってしまった。そんなに驚かなくてもいいじゃないか。二人共元からの知り合いなんでしょう?
「アンタが……アンタがそうだったと……」
「え?」
「ネズ!ナマエをよろしくな!」
ダンデさんが連絡してから数日経ち、今日ようやくスパイクタウンのネズさんの練習場に私とダンデさんがお邪魔させてもらっているのだが、ここの持ち主たるネズさんのこの反応はいかに。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
ネズさんの妹さんだというマリィちゃんからお茶を受け取り、なんだか緊張してふにゃっと表情を崩して笑うと、ふいと目を逸らされた。なんてことだ。そんなに不細工な顔をしてしまったのだろうか。心の中でしょげて紅茶に口をつけると、ネズさんの隣にマリィちゃんは座った。相変わらず私から目を逸らしたままだ。一体何故。
「ありがとうマリィ!うまいぜ!」
「……どうも」
しかしダンデさんが話し掛けても同じ調子なので、元々あまり人と話すのが得意な子ではないのかもしれない。その可能性にかけたい。そうでなければ流石にへこむ。
「で?ネズはさっきからどうしたんだ?」
「自覚がなさすぎる……ッ!」
顔から覆っていた手を外してくわっと目を見開くネズさんに、うっ、と私の体が後ろに下がる。ショッピング施設で迫られた時もそうだったが、ネズさんのその表情は迫力が凄まじい。今日は背中のソファがストッパーになっているし隣にダンデさんがいてくれるから大丈夫だが、正直あの時は本気でビビった。
だが、今回はビビるどころではない事態が、直後に起こったのである。
「……ダンデを腑抜けにした女」
「……んん?」
「マスコミにどぎつい制裁をくわえさせ、ダンデを骨抜きにした挙句、よそに飛んだ女」
「は?え?」
「逃げられて消沈する鬱陶しいダンデのケツをみんなで叩き、やっとのこと追いかけさせて、晴れて物にさせられてこっちは心の底からホッとした」
「待って待って待って」
ネズさんの口から訥々と語られる話が聞き間違いでなければ示唆されているのは私のことなのだが、あまりに人聞きが悪すぎる内容に私の混乱がどんどん加速していく。
骨抜き?なんだって?よそに飛んだ……まぁ確かにカロスには一度飛んだが……。別にやましいことがあって高跳びしたわけではないのだぞ。
「その魔性の女が、アンタだったとは……」
泣いてもいいだろうか。
「その言い草は酷いぞ、ネズ」
「だ、ダンデさん……!」
腕を組んで真っ直ぐ真剣な顔でネズさんを見据えているダンデさんに、不覚にもときめいた。そうだ言ってやれ、確かに事実は大いにあるし大筋としては間違ってはいないのかもしれないが、あの言い方ではあまりに不名誉だ。
そう期待に目を輝かして隣のダンデさんを見上げていると、不意に肩を抱かれて引き寄せられた。ぐいっと引き寄せられたものだから逞しい胸板に鼻をしたたかにぶつけて「ぐがっ」と変な声が漏れてしまった。
「今はナマエも俺に骨抜きだ」
「黙って元チャンピオン!」
「惚気はここではやめやがれ」
あまりに不名誉な称号を背負わされているなんて今の今まで知らなくて生きた心地がしないが、どうにかその後本題に移ることができて、既に疲労が凄まじい。あとでダンデさんをとっちめよう。
さて、それから気を取り直してネズさんと今後のスケジュールの擦り合わせをしたのだが、まず第一の関門はレコーディングだ。新曲発表と合わせてライブをするとのことだが、その物販でCDの販売もするから、まずは音を形にしなくてはならない。他の楽器の音源はまとまりつつあるから、本格的に私の問題になる。
「遅くとも二ヶ月以内には音、録りたいですね」
「二ヶ月……」
「その後すぐにライブ。場所はスパイクタウンの会場。まぁ俺等にとっちゃあ代わり映えのしない場所ですよ」
二ヶ月以内には曲を完成させる。そしてこのアンダー感漂う町でライブ。想像するとごくっと生唾を呑んだ。
「打ち合わせやら音合わせがありますんで、その一ヶ月後くらいですかね、ライブは」
「は、ハードですね……」
「いつもこんなんです」
よそがどんな風に曲を作りライブまでしているのかは全く知らないが、少なくとも私にはハードスケジュールだ。二ヶ月の間に、完璧に弾けるようにならなくてはならない。
「……がんばります」
「よろしくお願いしますよ」
ネズさんに右手を差し出されて、そっと右手を重ねる。随分と骨の形がはっきりとわかる手だ。ダンデさんよりも肉の薄い手。この手があの曲を作ったのかと思うと、失礼かもしれないが感動した。
「……やっぱり、綺麗な指だ」
「え?ありがとうございます……?」
重たそうな瞳が私の指をじっと見つめていて、反射的にお礼の言葉が出た。キュッと握られる力が込められる。そして、ん?と首を傾げた。なんだか、前にもあったな、こんなの。
むむっと唸りながら思い出していると、握手する私とネズさんの手の上にドン!と何かが勢いよく落ちてきた。かなり見覚えのある色のそれは、ガッシリとそれぞれの手首を掴み、左右にググッと力任せに引っ張りだした。
「長い」
隣から低い音が聞こえてきた。不機嫌さを隠しもせず丸出しのダンデさんは、握手を無理矢理終了させてネズさんの手首をポイッと放り、私の手を自分の手と重ねてギュッと握りしめた。見せつけるように隣り合う私とダンデさんの間で宙に浮かせたまま、指と指も絡めてにぎにぎしている。いや、子供過ぎるぞ。恥ずかしいから人前でやめてほしい。でも嫌だったのね。前に私達も同じやり取り、したものね。
「……ダンデも大概だけど、アンタも相当ですね」
「え?私?」
呆れたような顔をするネズさんと後ろを向いて肩を揺らしているマリィちゃんに、私はまた首を傾げた。
ところで、さっきから不思議だったのだが、どうしてマリィちゃんもこの場を共にしているのだろう。もしや彼女も今回の新曲に関わっているのだろうか。
素直に訊いてみると、マリィちゃんはまだ肩を小刻みに揺らしたまま首を横に振った。
「挨拶、しとかんとっと、思って」
「挨拶?」
なんの挨拶だろうか。ああ、私がお兄さんと一緒に音楽をやるから、とか?などと顔から疑問を読んだのだろう、マリィちゃんはあっさりと答えてくれた。
「ダンデの女なんだから、今後も顔合わせることになるってこと、でしょ?」
思わず目を見開いてネズさんを見てしまったが、ネズさんも同じ顔をして自分の隣の妹を見ていた。おたくの妹さん、言い方がいっちょ前過ぎません?マリィちゃん、まだ十代半ばくらいだと思うのだが、もう既に完成された風格がある。
マリィちゃんの言葉に今度は顔がボボボッと熱くなる。私の方が年上なのに余裕がないぞ、これじゃあ。
「そうだ!だからよろしくなマリィ!」
「おん」
ダンデさんも嬉しそうにしないで。
◇◇
家に帰ってから、早速練習に入った。
音源を何度も聴き返し、楽譜を何度も読み返し、何度も指を動かし、何度も間違えた。さすがに初めての曲を簡単に弾けはしない。いくら指が動くようになったとはいえ、昔と比べればまだまだ、だ。指が鈍って、弦から弦への移動も遅い。それでも毎日楽譜と睨めっこして、一先ずは通して弾けるようになった。
とても、楽しい。こうして誰かに聴いてもらう為の練習は文字通り久しぶりで、胸の高揚がずっと静まらない。ご飯を食べている間も、シャワーを浴びている間も、頭の中はネズさんの曲ばかり流れていて、絶えず音符が動いている。定期的に進捗報告をネズさんにはしては、今後のスケジューリングを修正してもらう。
ピアノに打ち込んでいる時が、やっぱり一番楽しい。生きているって、実感する。昔はこれが当たり前で、普通のことで、何も疑う余地はなかった。
『いい?日にちが決まったら真っ先に連絡するのよ?』
「はいはいわかってるよ」
『いいわね?絶対よ?忘れたら承知しないわよ?』
「しつこいって」
『……楽しみに、しているから』
「うん。ありがとう」
通話を切って暗くなった画面に、ふふっと笑みが零れた。視界にカップが横切って、私用のそれの中になみなみと注がれた紅茶の液面が揺れていて、顔を上げるとダンデさんも丁度隣に座るところだった。
「アメリアか?」
「はい。来てくれるって」
「そうか、良かったな」
「うん」
ソファに並んで同じ紅茶を飲む。すっかりと紅茶を美味しく淹れられるようになったダンデさんと私が、今でも絶対に欠かさない銘柄。私達の思い出の紅茶。
「引き受けて良かっただろ?」
目を細めて片方の口端だけ上げて悪戯そうに笑うダンデさんに、私もふはって空気が抜けるように笑い返す。
笑っているダンデさんが、カップをテーブルに置いた。私の耳に髪を掛け直して、雰囲気を察して私も口を付けていたカップを放してダンデさんに顔を向け直す。顔が近付いててきて、右目の下の泣きボクロに一つキスを落としてから、やんわりと唇同士がくっついた。音もない軽やかなキス。
引き受けて良かったって。本当にね、そう思うよ、私。
◇◇
今日は朝から雨がずっと降っていて、洗濯物がリビングを斡旋している。
ルーティンの家事をさっさと終わらせて、ピアノに齧りついていた。
何度も繰り返し、繰り返し、ただ一つの曲を演奏し続ける。私の足元ではププリンが微睡んでいるが、それを気にしてあげることができない。
指が、止まる。押した弦から、指先がくっついたまま引けない。気持ちも止まってしまったから。
また、間違えた。最近弾き間違いばかりだ。ついこの前まではすっかりと弾ききれるようになったというのに、ここ最近は些細なミスばかり繰り返している。初歩的な、弦の弾き間違え。リズムの狂い。ボンヤリしているわけでもないのに、小さな粗相ばかり目立つ。
レコーディングでならリテイクもきくだろう。でも一発本番のライブでは、そうはいかない。私がミスをすれば全体が狂い、せっかくのネズさんのライブも曲も駄目になる。先日ライブに参加するバッグメンバーの人達と顔合わせをして軽く音合わせをしたのだが、みんな完璧だった。慣れないキーボードに手こずったせいもあったが、うまく合わせることができなかった。誰も私を責めなかったが、それで私の心が晴れることはなかった。今日は一発目だし、予定してなかった軽い合わせだし、そう優しい言葉を掛けてもらっても、依然と心の靄が晴れることはない。
少し前までは順調だったのに。あれができるようになったらこれが下手になる。下手を補おうとすれば別でミスをする。そういう日が、ここのところずっと続いていた。
私、ちゃんとやらなきゃ。もっとうまく、もっと完璧に。私のせいで全部台無しにしたくない。レコーディングだってやり直しを前提に考えているなんて失礼も甚だしい。ちゃんと、うまく、弾かなきゃ。
延々と指を動かし続ける。ああでもないこうでもないと、音を奏で続ける。それでも、何一つ納得なんかできやしなかった。
ブランクのせい。私がピアノを一度手放したから、だからこんなに下手になってしまった。どうしてピアノから離れてしまったのだろう。諦めない言い訳などいくらでもできた筈なのに、どうして。
「プッ、プ」
足元から何か聞こえたが、今はそれどころではないといつの間にか止めてしまった指を再度動かす。
たくさんの人を、ライブに呼ぶのだという。ジムリーダーの人達や、長年のファンの人達。誰もがネズさんの為に集まる。大事な舞台。それを壊すなんて、絶対にできない。
しかし突然視界が明るくなって、ハッとした。指が宙で固まる。ビックリして辺りを見渡すと、入口の扉の横にダンデさんが立っていた。その指は電気のスイッチにかかっていて、いつの間に暗くなっていたのかと、それすら気が付いていなかった。
「……ダンデ、さん?」
「ただいま」
「おかえりなさい……え、もうそんな時間?」
「ああ。連絡もしたんだが」
「あっ……スマホ、リビングに置きっ放しだ。やだ、ごめんなさい、夕飯まだ何も支度してない」
「何か頼もうか。今更思ったが、あまり包丁は握らない方がいいだろう?」
「それくらい大丈夫ですって……すいませんすぐ用意します」
慌てて立ち上がってダンデさんの横を抜けようとすると、不意に手首を掴まれた。乱暴ではないが、少し強い。どうしたのかと見上げると難しそうな顔がそこにはあって、どうしてか心臓がドキリとした。
「最近、根を詰め過ぎじゃないか?」
「……そんなこと、ない。寧ろもっと必死にならなきゃ」
「後ろを向いてごらん」
「え?」
言われて背後を振り返ると、ピアノの足にしがみついて下を向いているププリンがいた。その瞳が、きらりと光っている。涙、だ。目をパチパチさせて、動揺する私を責めるように天井の照明で照り返されるそれが、ポロリと大きな瞳から一つ零れ落ちた。
「ププリン!?」
駆け寄って小さな体を抱えると、私の胸元にしがみついたププリンが顔をグリグリと押し付けてきて、涙が服に吸い込まれていく。そんな悲しそうなププリンを見下ろして、胸がグサグサと刺されたように鋭く痛んだ。
「かまってほしかったんだろう、きっと」
ダンデさんの言葉を肯定するように、ププリンの顔がとんとんと胸を叩く。
なんてこと。私、ププリンの事、忘れてた。ずっと足元にいたのに、多分何度も鳴いていたのに、ピアノの音以外何も聞こえていなかった。違う、聞こうとしなかった。
最低だ、私。
「ごめん……ごめんね……!」
鼻の奥がつんとして、私もつられるように泣き出してしまった。胸元の小さな命に額を擦りつけて、ぐずる子に謝ることしかできない。ただでさえトレーナーとして半人前なのに、ププリンのことを、自分勝手のせいで泣かせてしまった。
でも、ごめんね。それでも私はピアノを弾かないといけないの。完璧に弾かなきゃいけない。頼んでもらったのだから、なんとしても、成功させなきゃならない。
「今日はもうピアノ、終わりにしよう。ご飯を食べて、ゆっくりしよう」
「……それは、できない。食べたら、また練習しなきゃ」
「ずっと練習していたんだろ?また明日にして、」
「まだまだ全然練習が足りてない。間違えてばっかりで、完璧には程遠い」
ププリンが不安そうにまんまるの瞳を揺らめかせながら、私を見上げる。なるべく頬の力を抜いて優しく笑い掛けたつもりだが、どうしてだろう、ププリンの顔はまだ泣いたままだ。
「完璧になんて、そんな必要なものではないだろ」
――瞬間、ダンデさんの言葉に、体が固まった。
今、この人は、何と言った?
この、どこまでも探求心が深くて、情熱的で、完璧を追い求めて体現していたような人が、今何を。
「……何、それ」
「だから、完璧なんて」
「どうしてダンデさんがそんなこと言うの!?」
沸々と湧き上がってきた感情を抑えきれなくて感情的に叫んでしまった。ダンデさんが目を丸くして、中途半端に口を開けたまま一切の動きを止める。でも沸き上がった感情は私の意思を離れてしまって制御できない。
貴方なら、わかってくれていると思っていたのに。
ポケモンとバトルのことになるとそれしか目に入らなくなって、食べる事よりも寝る事よりも、そっちを優先して。もっともっと先がある、まだまだ足りないって、飽くことなく貪欲に道を進んできた貴方が、完璧は必要ない?そんな貴方を見てきたから、私は一度貴方から離れて明日を探しに行ったのに。
ぐっと奥歯を噛み締めて、ダンデさんを睨み上げた。私の形相にダンデさんが何かを言い掛けて、それを遮るように、また、私は吠えた。
「よりによってダンデさんに、そんなこと言われたくない……!」
「っ、ナマエ!おい!」
足は勝手に動いていた。部屋を出て、玄関に走って、外用の靴を引っかけて飛び出す。腕にププリンを抱えたまま、脇目もふらずに雨の下を構わずに走る。プッ、と小さな声が聞こえたが、応えてあげるだけの声が出せなくて代わりに抱え直した。途中でアーマーガアタクシーが見えたから、そのまま乗り込んだ。
とりあえず飛んでほしいと伝え、運転手が訝しがる様子だったが、客の言うことを聞いてくれてそのまま上昇しだした。浮遊感に一瞬体が縮こまり、ププリンをギュウと抱き締める。高い場所が怖いわけではないが、外を見られなかった。
一定の高さまで昇ったところで、どうしましょうかと再び行き先を尋ねられる。
「……バウタウンまで」
行ける所なんて、そこしか思い浮かばなかった。