- ナノ -




(if)君の笑顔が花開くまで-1


※ifエンドから派生した話です。あくまで、あるかもしれない未来です。



 食料品を買い込む為に大型の複合ショッピング施設までやってきたのだが、ついふらりと楽器コーナーへと足を向けてしまった。グランドピアノや電子ピアノも、毎年最新式が登場するわけでもないのだが、やっぱり惹かれてしまってついつい売り場に寄ってしまう。

 楽器コーナーの中でも、やはりピアノは目立つ。大きさもあるし、色のせいでもあるだろう。
 五年前に発売になった大手メーカーのグランドピアノを吟味している老齢の女性。
 三年前に発売になったコンパクトな電子ピアノを囲む家族。
 数多くある音楽の中で、ピアノを選ぶ理由は人それぞれだ。私の場合は、たまたまテレビで演奏を聴いたからだった。澄んだ音に聞き惚れて、親にねだってピアノを買ってもらった。思えばどうしてもピアノをやりたくて、自分だけのピアノが欲しくて、相当な駄々を捏ねたものだ。
 電子ピアノを囲む家族の輪の中心にいるのは十歳もいっていないであろう女の子で、あちこちのピアノの鍵盤に触れてはポーンと一音を鳴らし、その度に目をキラキラと輝かせている。自分の小さな指で、何にもまだ成っていない自分で生み出す一音は、筆舌に尽くしがたい。経済的な理由でどの種類を選ぶかも変わってくるが、これだと思える運命に出会えれば、きっと大切なパートナーになる。

 うろうろしていたからかスタッフの人に声を掛けられたが、ふらっと立ち寄っただけだったので案内は断った。ぜひお試しくださいね、なんて言葉に笑って首を縦に振り、目についたグランドピアノに近寄る。国内最大手メーカーの最新式だ。最新とは言っても五年前に発売になったもので、技術者の粋を集めた一級品であることは間違いない。
 磨かれて艶を出している美しい鍵盤の整列。
 明かりを照り返す黒の筐体。
 私が愛してやまない、最高の輝き。
 コンサートグランドピアノとも呼ばれているこのシリーズは、演奏者一人一人にしかできない演奏があるように、その一台一台に芸術性を持っている。この子は、どんな音を出してくれるだろう。どんな音で私に応えてくれるだろう。基本形を作って、十本の指を鍵盤の上にそっと置き、指先を沈ませる。
 とても、美しい音だ。切れ味が良くて、耳障りがとても良い。音の反響に長けたホールであれば、音が粒立ち和声に優れた演奏になるに違いないだろう。自然と胸が逸って、軽い気持ちで試し弾きするだけのつもりが、指が止まらなくなってしまった。
 簡単な曲を弾いていると、視線を感じて指を止めて辺りを見渡す。私の隣に小さなお客さんがいつのまにか立っていた。家族でピアノを囲んでいた、多分今日の主役だろう女の子だ。

「おねえさん、ピアノじょうず!」
「ふふっ、ありがとう」
「ねぇアレ!アレ弾ける?」

 ぷくりと艶のあるさくらんぼ色の唇からリクエストされたのは最近流行りのキッズアニメの主題歌で、うーんと曲を思い出しながら「弾けるよ」と答えると、パッと笑顔が咲いた。
 キッズ向けらしい明るく前向きな歌詞の歌だ。ピアノで演奏してもテンポの良い軽快なリズムで、女の子の体がリズムに合わせて少しだけ揺れているのが横目に見えて、小さな笑みが抑えられなかった。
 歌詞の一番が終わる所で一先ず演奏を止めると、女の子が満開の笑顔でパチパチパチと何度も拍手してくれて、へへっと頭の後ろをかいた。小さい子供だからか拍手がちょっと大袈裟で恥ずかしいぞ。

「すごいね!すごいね!」
「本当?ありがとう。お姉ちゃん凄い嬉しいや」
「わたしもこれにしたい!」

 女の子と私の演奏を、少し距離を置いた所で見守っていたらしい父親と母親に向かって、女の子が興奮した様子で私が弾いたピアノを指差した。おっとこれはお父さんお母さんには酷なことをしてしまったかもしれない。ごめんよせっかく私が火を付けたのに。これはお姉ちゃんも喉から手が出る程欲しい子だけど、残念ながらお財布どころかお家の家計と相談になるようなお値段なんだよ。
 女の子が父親に突進して、困った様子ながらも笑いながらその子を受け止めて、でもやっぱり眉をへの字にしているからお困りのようだ。母親が会釈してくれて、私も同じように会釈した。あの笑顔から察するに、どうやらお礼を言ってくれているように見えてしまって気恥ずかしい。いえいえとんでもないですよ。小さなお客さんが聴いてくれて私も楽しかったです。
 ピアノからピアノへちょこちょこと移動している女の子は、これでピアノを好きという気持ちが少しでも強くなっただろうか。私と目が合って、ぶんぶん手を振ってくれたから私もへにゃっと笑って振り返す。
やっぱり、嬉しいな、ピアノを好きになってくれると。カロスでピアノを教えていたあの子のように、こうして一人でも多くピアノを好きになる手伝いをしていきたい。

 さて、嬉しい誤算だったが長居してしまった。
 そろそろ食料品を買いに売場へ行こうかと鞄を抱え直すと、すぐ近くからどったん!と派手な音がして、ビックリして肩が跳ねた。な、なんだ一体。
 恐る恐る音の発生源だろう方向を振り返ると、更にギョッとしてしまった。
 白と黒の長細い何かが、床に落ちている。
 よくよく目を凝らせば、それには手が、足が生えている。人だ。白と黒は髪で、長い髪が散らばっている。床に落ちる何かは人間であった。ビタンと床に貼りついていることから、多分さっきの派手な音はこの人が倒れたから響いた音だったのだろう。何かに躓いたのだろうか。ちょっと待て、人?
 お客様!?とスタッフさんが慌てた様子で駆け寄って声を掛けるが、目の錯覚でなければ、なんとなく、その人の手が少しずつ前へ伸びて、宙に浮かせた状態で指先を動かしていて、その矛先が私であるように見えるのだが。

 いや、確実に指の先が、私なんだけど。
 わけわからんとんでもない光景に慄いていると、床に倒れ伏す人が突然起き上がってまた肩が跳ねた。ゆらりと起き上がって、俯かせていた顔をこれまたのそりと上げた。目を縁取る黒はメイクだろうか隈だろうか。一見不健康そうにも見えるが、恐らく男の人で、あれどっかでこういう人見たかも……。と脳内で思い当たる顔を検索するが、答えを弾き出す前にその人は揺らめいたと思うといきなり距離を詰めてきて、反応するよりも早く私の二の腕を両方ともガッシリと掴んできた。

「ヒィッ!?」
「あ、アンタだ……!アンタしかいねぇ!」
「お、おまわりさーん!」

 薄いグリーンの瞳をかっぴらいて叫ばれ、私の叫び声が売場にこだました。


  ◇◇


「……ということが、あって」
「さすがはネズ、目の付け所が違うな」

 何やらうんうんと感心している様子のダンデさんだが、私の方はゲッソリである。
 ネズさん、というのが白黒の細長い人の名前らしい。どこで見たのかと言えば、テレビだった。確かダンデさんが現役チャンピオンだった頃のジムリーダーの一人だ。ジム業の傍らミュージシャンとしても活躍していたようで、今はジムリーダーを引退してそちらに専念しているらしい。
 そんなネズさんに何故私の二の腕を鷲掴みされてしまったのかというと、私の演奏を気に入ってくれたから、らしい。なんでも今度の新曲にキーボードの演奏を取り入れようと思っていたらしく、演奏者を探していたとのことで。キッズ主題歌を聴いて?と訊くと、最初の試し弾きの時点から聴き入ってくれていたらしい。

「やればいいじゃないか」
「簡単に言わないでください」

 もっしゃもしゃと夕飯を口の中いっぱいに詰め込んで、ダンデさんは淀みなくそう言う。
 ハアと溜息を吐いて、目を輝かせているダンデさんに更に溜息は深まった。

「俺には正直善し悪しがまだわからないが、昔と比べてかなり指が動くようになったんだろう?」
「それはまぁ……そうですけど」

 別室にあるピアノを思い浮かべ、まさかこんなことになるとは、と嘆かずにはいられなかった。
 
 ダンデさんの家で暮らすと決まった時に、最初にダンデさんから提案されたのは、なんとピアノのことだった。「君の為にピアノを買おうと思うんだがどれがいいだろうか?」と、私の為にピアノを用意したいと言いだした時は目が飛び出るかと心配になるくらい驚いて、馬鹿なこと言うなってちょっと怒った。そんな通販ショッピング感覚で言うような話じゃないだろう。
 勝手に買っても良かったんだぞ……と目に見えてしょんぼりするダンデさんに良心は痛んだが、本当にお手軽に買えるようなものじゃないだろう、ピアノは。
 ピアノとは、高価な物だ。種類にもよるが、ゼロの数がえげつない物だってある。そんな高価な物をどれがいいだって?
 こんなところで価値観のハイブリッドさを見せつけないでくれ…と、ピアノは考えているよりも高いんだぞ、と説明したのだが、どうしてもダンデさんは折れてくれなかった。
 確かに、勝手に用意しようと思えばできたのだろう。こうして私の意見を聴いてくれただけ前より進歩したに違いない。
 それでも、私だけが使うであろう高価なピアノを、おいそれと軽い感覚で買ってもらうというのは、すぐに頷けるようなことではない。

 ほとんど毎日買う買わないの攻防が続いて、結局負けたのは私だった。ピアノの先生になるためには、まず第一に演奏がうまいこと。ピアノが下手では話にもならない。確かに昔と比べれば滑らかに動かせるようにはなったが、それでもまだまだ、だ。カロスでは電子ピアノばかりで、グランドピアノというかアコースティックピアノの類には教えていた子の家でくらいしかろくに触れていなかった。
 今後誰かに教えるようになるためにはきちんとした物が必要だろう?と真剣な顔を作るダンデさんに反論なんて、できるわけがなかった。
 チャンピオンだった頃から部屋を持て余していたお陰で私の寝室とピアノ専用ルームを設けてもらい、ますます頭が上がらなくなってしまった。分割もせず一括でどーんと支払いを済ませてさっさと部屋に運び込んだダンデさんは行動力の塊過ぎる。しかも、ゆくゆくは引っ越す予定も、あるのに。

 そんな訳でまぁ立派なグランドピアノを買ってもらってしまい、いつだって弾き放題なのだが、いかんせん人様の曲の演奏に加われなどと、まぁ。
 ネズさんに捕まり、なんとか場を鎮めて施設内のカフェへ移動して話を聞いたものの、ネズさんには悪いがまず真っ先に思ったのが「なんてこったい」だった。ネズさんからデモ音源をスマホで聴かせてもらったのだが、ガシャガシャと耳が痛い音楽で、きっと眉を顰めてしまっていただろう。曲を知った今ネズさんの格好にも成程な、とよくわからない納得をしつつ、こりゃ難しいな、というのが正直な感想だった。
 バンドというか、ロックというか、シャウトというか。

「何をそんな迷う理由があるんだ?」
「逆にどうして迷わないと?」
「ネズはファンが多くて、ライブでは常に満員御礼だ。きっと楽しいぞ」
「いやだって…まず第一に…音楽のジャンルが違うし……」

 ネズさんとは、音楽性があまりに違いすぎる。彼の音楽はギターのメロディがメインのバンドタイプで、片や私はピアノオンリーのクラシック畑。融合されたケースだって多くあるが、私が触りもしてこなかったジャンルだ。別に新曲にグランドピアノの音源を入れる、という訳ではなくキーボードなのだが、にしたって。

「俺は、いいと思う」

 優しく笑っているダンデさんに、行儀悪くフォークをくわえたまま「むーん」と唸る。
 ネズさんから、楽譜をもらった。話をされた当初は咄嗟に無理だと断ってしまったが、ネズさんは頑なに首を振らなかった。けだるそうな物腰なのに熱い炎を灯している瞳と、考えてほしいという言葉に、つい受け取ってしまった。私の部屋には彼から渡された楽譜と直接連絡が取れる番号が書かれたメモがある。それと、キーボードだけが抜かれた状態のデモ音源。
 ネズさんからの依頼は、簡単な話ではない。もし依頼を受けるならば、後日私のキーボードを収録した後に曲は世に出回り、新曲お披露目の為にライブも開きたいと思っているらしく、依頼された新曲の演奏のために、私もそれに参加することになる。
 ダンデさんの顔を見ていれば、純粋に私を思ってくれているとわかる。応援してくれて、いい機会だって。私だって思う。こんな恵まれたチャンス、きっと二度とない。でも、だって。

「……もう少し、考えてみます」

 私はもう、何年舞台に上がっていないのだろう。


  ◇◇


 自室でネズさんに渡されたデモ音源を聴いて、楽譜を読んで、隠しようもなく胸が高鳴った。
 落ち着いて一人じっくり聴いてみると、何故あの場ですぐに感動できなかったのか不思議だった。激しい楽器の音に耳が傾いてばかりいて、なんて失礼なことをしてしまったのだろう。
 とても、良い曲だ。クラシック以外には明るくないから月並みな事しか言えないが、胸を打つ歌詞と哀愁漂うメロディライン。スマホでネズさんのこれまでの曲を聴いてみたが、この曲は比較的前向きな曲のようだった。これのバッググラウンドに、私に、入ってくれって。
 気付けば体が動いていて、ピアノの元へ走っていた。私の足元に寝転がっていたププリンがビックリしたのかコロンと転がってしまったが、心の中で謝るしかない。ごめんねププリン、あとで目一杯撫でてあげるから許して。
 ドタバタと煩く足音を立てて、途中滑ってずっこけそうになりながらも防音のその部屋になんとか辿り着き、鍵盤の蓋を少し乱暴に開ける。楽譜を立てて、最初の音符の場所に指を置いて、すぅっと息を吸って。心臓がドクドクと脈打っていて、随分と興奮していた。
 指が止まらない。まだ鍵盤と同化できない、未だにブランクが埋められていない指ではつっかえることも多かったが、とにかく私の衝動は止まらない。目の前の音符しか目に入らなくて、私の指がまだ完成されていないそれを打ち出して音に変換していく。リズムにはうまく乗れない。なんて美しくないリズムだ。それでも、私は止まれない。
 どうにか最後まで弾いて、息も絶え絶えだった。何度も指を間違えて、何度も音が止まって、でも、やっと想像できた。私のピアノを、キーボードを重ねて、この曲はもっと人に響く音楽にどうか、なってほしい。

 私、この曲を弾きたい。
 ジャンルとか人前で弾くとかそんな小さいことどうでもいい。私が、この音楽の中に生きたい。

 自分の中の音の余韻に浸っていると、パチパチと急に軽快な音が耳を叩いてハッと我に返った。音の方向へ顔をやれば扉の前にダンデさんが立っていた。その足元にはポムポム小さく跳ねているププリン。穏やかに笑んでいるダンデさんが鳴らしてくれる拍手の音に、楽しそうに体を動かしているププリンに、胸がグッと詰まる。何も言わないが、きっとダンデさんは、全部わかっている。

「……私、やりたい。この曲、私が弾きたい」

 自然と口から零れた声に、ダンデさんがにっかり笑って「ならすぐにネズに連絡だな!」と部屋を出て行った。風圧に負けてププリンの体が転がってしまい私の足元までやってくる。つぶらな瞳で見上げてくるププリンに苦笑いして頭を一撫でしてやる。ふぅ、ふぅ、とまだ荒い呼吸を少しずつ整え、さぁもう一度、と鍵盤に指を置こうとして。

「……ん?」

 すぐ、ネズに、連絡だな?
 その意味の行きつく先に思い至ると愕然とした。ダンデさんが走っていった扉を見つめて、数泊置いてから椅子から勢いよく立ち上がった。あまりに勢いをつけすぎたせいで膝をぶつけてしまい、ププリンがまた驚いてころころ転がっていく。でも、私まで痛みに転がるわけにはいかなかった。

「ま、待ってダンデさん!」

 ダンデさんの寝室に走れば、予想通りにスマホを耳にあてて通話している姿があって「あああ……」と膝から崩れ落ちた。なんで私じゃなくて貴方が連絡するんだ。

「あ、ネズ!君が依頼したキーボードの件受けてくれるそうだぞ!良かったな!お、ちょうどいいところに!ナマエが来た!代わる!」

 項垂れている私にスマホを向けるダンデさんはえらくにこやかで、画面を見れば相手の名前が表示されており、言わずもがなネズさんである。

「……もしもし」

 仕方なくスマホを受け取って通話を代わると、ネズさんの戸惑いに満ちた声が届いた。

『……俺の確認不足なのを棚に上げるのはすいませんですけどね、詳しくお願いできますか』

 何を、とは言われずともわかる。私は観念して「はい……」とだけ答えた。
 恨みがましくダンデさんを見るとわかっていなさそうで、無邪気な子供みたいに笑ったままだ。
 私、ネズさんにダンデさんとのこと、言ってなかったのに。