- ナノ -

特別がなくてもいい


 なんでもない、何もしなくていい日というのがよくわからないらしい。ダンデ曰く、何もしなくていい日なんてあってもいいのかだって。怠惰が許せないのか単に性に合わないのか。多分そのどれでもなくて、忘れてしまっただけなのだと思う。きっと、好きでやっていたことが義務になってしまったことも大きいのだろう。風に吹かれるがまま自由気儘に歩けていた子供の頃とは違って、大人はただ歩くことすら時に困難になってしまう、風が吹けば立ち止まって動けなくなってしまいがちな生き物だから。

「やっぱりここら辺の空気は好きだぜ」

 一応アイロンはかけてあるが、それでもぺらぺらなシャツにジーンズ姿のダンデが、思い切り背伸びして肺いっぱいに呼吸していた。ぐぐ、としなやかな軽い曲線はバランスがよくて、たゆまぬ鍛錬がそれだけでも伺い知れた。でも誰もそれに注目したり、或いは揶揄するなんてこともない。
 ここはダンデの町だ。誇張もなく、謙遜でもなく。ダンデが生まれ育った町は朝から夜まで長閑な空気だけれど、みんながダンデが生まれた頃からようく知っているから、今更とやかく詰ったりはしない。ヒーローとして見ている節はあるが、それでもこの町の一人の人間として、みんな思っているようだ。

「ねぇ〜。都会とはほんとに違うや。あ、馬鹿にしてる意味じゃないよ?」
「わかってるぜ」

 豪快に笑うのに肩の力が入っていないダンデは、シュートじゃ見られない。あそこもまたダンデの街と言ってもいい。元はローズさんが発展させた場所だが、今やあそこの中心もダンデだ。この前まではガラルの中にこれでもかとあったダンデの面影は徐々に失われつつあるが、それでもダンデの燃え盛る炎の中に照らされる姿は人々に感動と勇気を与えたわけで、新チャンピオンにお祭り騒ぎになったとしてもダンデの顔が全てなくなることはない。それを悲しめばいいのか、喜べばいいのか。本人もなんだかわかりかねているみたいだった。

「あ、風船」
「え?どこ?欲しい」
「違う違う、あそこ」

 突然ダンデがそう呟いたのできょろきょろと辺りを見渡したが、見る限りは配っている人も喜ぶ子供の姿も見えず首を傾げていると、ダンデの指は頭上へと伸びた。つられて見上げると、遥か頭上の青い空を流れていく青い風船があった。可哀想に、誰かが手放してしまったのだろう。時々鳥ポケモンが不思議そうに並走したり悪戯につつこうとしているが、結局先に飛んで行く。軽いとは言え風に吹かれるがままの風船と、自分の翼で自由に飛んで行ける彼等では、当然ながらスピードも違った。

「……昔、風船なんか目にもくれなかったな」
「そうなの?私は絶対貰いに行った」
「風船を持ったままだと走るのに邪魔だったから。ホップの手を繋いでやるにも片手が塞がれてしまうし、ボールを出すのにも苦労する」
「まぁそうだね」

 私にはなんだか特別なものに思えたけれど、ダンデにとってはそうでなかったのだろう。風船よりも、もっとずっと特別なものがダンデの世界にはたくさん広がっていたのだから。風船でお手軽に喜べるような子供ではなかったらしい。

「ほら、もう少し歩こうよ。今度あっちね!」
「お、そっちはなぁ、いいものがあるんだ」
「なに?」
「秘密だ」

 楽しそうに笑うダンデは意気揚々と舗装がされていない道をまた進み始めた。都会ではほとんど見ることのない、砂と土の道だ。先導させると多分道を逸れるに違いないが、今日はそれもまた楽しみの一つだから後を追うことに甘んじることにした。道が逸れて目的地に外れたとしても、ここはなにせダンデの町だ。歩いているとふと感じるのだが、この町の空気はダンデを歓迎しているように思うことが多々あった。人々の雰囲気もそうだが、町そのものが、ダンデを受け入れているような不思議な心地。などと言っても、ただ私が安心できているせいなのかもしれない。
 灰色じゃない町並。澄んだ空気に高い空。整列しない木々。ダンデの生まれ育った場所というだけで、ここは一等特別な地だ。

 暫く他愛なくてくだらない、中身のない話ばかりを選んで歩くダンデの隣を歩いていると、予想に違わずダンデは道の途中で足を止めた。案の定道を間違えたらしい。ダンデは盛大に首を傾げて、可笑しいなぁとでも言いたげな顔をしていた。ほとんど一本道だったのにどうしたらずれるのだろうかと甚だ疑問ではあるが、私とダンデが見ているものはきっと違うだろうから。
 だけど私は別に、困っていないし、寧ろ満足である。見たことのないダンデの景色を見たがったのはそもそも私だ。ここで一度立ち止まるまで手を繋いでゆっくりと歩いて、辺りに拡がるウールーの牧場や広い畑を眺めながら進むのは悪くなかった。時間にも追われず、ダンデが幼い頃に見ていた景色をただなぞるだけ。シュートのような大きくて人も物も大きく交差するような所にいると、なんだか一分一秒を急き立てられるような焦りや、胸を張って背筋を伸ばして歩かねば、などと感じることが間々あるが、この町にいると不思議なことに決してそうならない。それは繋がれた手の先にいるダンデもきっと同じだった。シュートにいる間は、ダンデのこんな顔ほとんど見られないと言ってもいい。

「可笑しいぜ」
「さっき突然林の中に突っ込んでいったから、あの時かもねぇ」
「多分逆方向だ」

 ごめん、と眉を下げるダンデに思いっきり笑ってやった。すると面食らった後、私と同じような顔で笑いだした。このまま進んでもいいよと言うと、じゃあそうしようとダンデもにこにこと笑いながら乗っかった。秘密の場所は今度でもいいし、なんならなんとなく進んでいたら偶然辿り着けたとか、それくらいでいい。別にいいのだ、私は。ここはタイムイズマネーを謳うような場所ではない。一秒も、一分も、ロストしても構わない。生産性なんかくそくらえだ。ハロンという長閑な町の、林の木々に隠された木漏れ日の下の私達は、今ばかりは時計やモニターとしか付き合えないような人間ではない。

「あの木は見覚えがあるぜ。丁度根元の方に窪みがあるやつ。あれを通り過ぎたら近所のおじさん家の畑のど真ん中に出る」
「挨拶してく?」
「そうだな、最後に会ったのは随分と前だし。いいか?」
「いいよ」

 目印があれば歩けるダンデはちゃんと窪みのある木の奥へと進んで、そうすればちゃんと拓けた場所に出られた。本当に畑があって、ど真ん中だ。
 ちょうど畑にいたおじさんが突然出てきた私達を見て、一瞬目を丸めていたが、そこにいたのがダンデだと気付いた途端破顔して、「なんだまたそっから出てきたのか!」と豪快に笑っていた。

「お、噂の彼女か?」
「はじめまして」

 こうやって町の人には既に存在を知られていることを、田舎だから話が回るのが早いんだ、とダンデは眉を下げて笑う。全く知らない人たちに認知されていることにちょっとドキドキとはしたが、みんなが笑顔で歓迎してくれるから、私も笑みを返し続けた。



 昼時になったので、持ってきていたランチを食べることにした。朝にお邪魔したダンデの家のキッチンを借りて作ったやつだ。勾配のなだらかな草むらに並んで座り、ダンデが持っていてくれたバッグから昼食とペットボトルを取り出すと、早速ダンデの指がサンドイッチを掴もうとしたので、すかさず「拭いて!」と怒った。しゅん、となって、けれど言われた通りいそいそと手をウェットティッシュで拭き始めたダンデに、まるで子供みたいだとつい笑ってしまった。本当に、ハロンに来てからというもの、いつも以上に子供みたいに無邪気だった。
 生まれ育った場所では気もゆるくなるのだろう。でも本当は、ハロンで過ごした時間よりもシュートで過ごした時間の方が圧倒的に長くなっていたけれど、それは特に掘り起こす必要のない話だ。ダンデがハロンを大切にするのであれば、それを尊重すればいいだけ。

「うまいぜ!」
「そろそろ感想のレパートリー増やしてほしいな〜」
「え、でも、うまいものはうまいんだぜ……」
「もっとたくさんゆっくり噛んで味わって、隠し味を当ててください」
「隠し味?」
「そう。当てた人にはもれなくご褒美があります」
「ご褒美!?」

 目をきらっとさせる様は文字通り子供だった。ハロンの空気は、とことんダンデという屈強で強靭な、けれど不器用な人間を昔に帰すらしい。シュートにいるダンデが嫌いでも苦手でもないが、このゆるゆるな空気で呑気なダンデを見ていると、なんだか心が軽くなる。多分私の心も軽くなっているからだ。喧騒のない町が、こんなに穏やかにさせてくれるなんて知らなかった。田舎なんて何もないから不便、と思っていた時期もあったし、都会の便利さと比べれば確かに不便なところは不便だが、時計とモニターに追われない時間はこうして体験してみると悪くはなかった。
 でもそれはきっと、結局は隣にダンデがいるという事実が、大きいのだと思うけれど。考え込んで答えを弾くような、何も難しいことではない。

「うーん……なんだろ……マスタード?」
「残念それはおもっきしかかってるやつね」
「マスタード……師匠に会いたくなってきたぜ!師匠とバトルして、しばり組手がしたい!」
「あ〜〜〜だめだった〜〜〜」

 目を違う意味でキラキラとさせ、その瞬間ぱくぱくぱく!とサンドイッチはダンデの口の中に吸い込まれていった。今にも立ち上がってどこかに走っていきそうなダンデだが、すぐにハッとして私を見やったら、またしゅんとして心なしか小さくなった。さっきまで手を繋いでのんびり散歩している間は良かったのに、こうして一度興奮したら頭がポケモンとバトルに占領されてしまったようだ。

「すまない……また飲み込んでしまった……」
「ご褒美はお預けかなぁ」
「……なんだったんだ?ご褒美」
「秘密」

 まぁでも、正直ポケモンとバトルのことを考えているダンデの顔は嫌いではない。世界で一番美しいものを見ているようだったり、世界で一番尊いものを見ているようだったり。けれど世界で一番胸を熱くする。ダンデを構成するものの大半なのだ。下手をすれば呼吸をするのと同じことで、生きることと同義だ。ダンデに何があったとしても、絶対に切っても切り離せない。彼等は正しくダンデの世界だ。
 ゆっくり食事できなかったこと、許してやろう。長い時間、右を向いても左を向いてもポケモンとバトルを追い求めていたような男だ。自ら追い求めながら、ガラルからも追い求められてきた。ひたすら何かに追われるような時間でもあった。私だって仕事に追われたら食事を疎かにすることも多い。そういうのって、何もダンデだけが特殊なわけではないのだ。ただ、人よりも割り振るものの度合いが極端なだけで。

「次は、次はゆっくり食べるから……」
「……思ったけどさ、別にゆっくり食べる必要はないのかもしれないね」
「え?」
「しっかり噛んでゆっくり食べたほうが確かにいいんだろうけど。だらだら食べればいいってものではないし」
「初めて言われた、そんなこと。みんなはいつも、もっと落ち着いて食えって」
「落ち着いて食べるに越したことはないけどね。誰と食べるか、そういう物の方が大事なのかも。私もダンデと一緒だと一人きりの時よりもご飯が美味しいよ」

 ゆっくり噛んで、落ち着いて食べたほうが健康にもいいことはわかっている。食事を疎かにしてもいいことなんか一つもない。ないけれど、もうたったの一人きりで、時間を惜しんで味わいもせず飲み込むだけになってほしくない。

「でもやっぱり目の前で味わいもせず吸い込まれたら嫌かなぁ」
「努力するぜ……」

 肩を丸めて私を見つめるから、やはり許しを乞う子供のようだった。全く大変な男だ。いつも子供染みていたら困るが、今日だけはつつかないと決めているので、場所も場所だし子供扱いしてみることにした。思い切り頭をわしゃわしゃと撫でてやったわけだ。わ、と驚いた声をあげたダンデでだが、次の瞬間には思いっきり嬉しそうに笑って「ポケモン扱いされているみたいだ!」だなどと喜び始めた。そっちかよ、とまた笑ってしまった。
 恐らくは子供なのにあまり子供扱いしてもらえなかった人生だ。そんなことすら、わからないのかもしれなかった。一見すれば誰もが頼る、先導してみんなを牽引するような、自分で何でも片付けようとする、大人なのに。


 ランチが終わっても、私達はその場を動こうとはしなかった。草むらに寝転がったダンデはぼんやりと青空を見上げて、細くたなびく雲の動きを眺めている。私も、寝転びはしなかったがただぼんやりと、頭上の空や目の前の景色を眺めた。会話はほとんどなくて、時折思い出したように話はするが、あまり続かないですぐに途切れる。多分今は言葉が要らない時間だった。昨今はどこにいたって言葉が溢れる時代だから、敢えて触れない選択を取らないと距離を置くことも難しい。しかし、この時間はダンデが忘れてしまっていた、何もしなくてもいいことなのである。

「昔は、シュートの街が嫌いだったな」
「そうなの?」
「ああ。ここに帰りたくてごねた時もあった」

 高層ビルとネオンの光。一日中かしましい街中。時間と戦うみたいな人達。街中に飾られたダンデの顔。自分に置き換えて考えてみれば、逃げ場所がないな、が率直な感想である。いきなりハロンからシュートに移されて、大人に管理されて自由が制限される生活は、栄光を掴んだからと言って、想像していたよりも楽しいものばかりではなかっただろう。

「俺はただ、楽しいバトルがしたかっただけなのに」

 本人は取り繕いやしなかったが、つい漏らしてしまった言葉のようだった。
 理想とのギャップに苛まれて、私の知らない子供は泣いたのだろうか。私が知らない子供のダンデは、どうやって一人の夜を超えていったのだろう。あまり昔のことを教えてくれないダンデだから、かいつまんで話は聞いているとはいえ私もあまり詳しくは知らなかった。だけど、ハロンに連れてきてもらってお陰か、ダンデもぽつぽつと、少しずつ、昔のことを教えてくれた。風船の話だってその一つなのだろう。

「人間の真価を早い内に見たような気がする」
「また達観した言い方して」
「はは、そうだなぁ」

 冗談ぽく笑ってはいるが、私が過ごした子供時代とは全く異なる子供時代を過ごしたダンデは、どこかで一線を引いている節はあった。人や、世界と。自分を卓越しただとか、特別だとか自称しているわけではないが、少なくとも周りとのずれは早々に感じ取っていたのだろう。良くも悪くも聡い子供だったのだと思う。だからこそ、ますますポケモンとの世界に没頭してしまったのかもしれない。家族や大切な人たちを強く大事にする思いも、多分そこから生まれてくるのだろうな。

「……なんだか眠くなってきたぜ」
「寝ちゃえば?」
「そうしたらナマエがつまらないだろう」
「つまらなくないよ。こうやってぼんやりしてるだけで楽しい」
「ぼんやりしていて楽しいって言うのは初めて聞いたな」
「良かったね、今日は初めてがたくさんだ」

 ちょっとだけでも寝ちまえよ、とダンデの前髪を梳いて撫でてやったら、目をとろんとさせて、ごめん、と小さく呟いてから段々と瞼を閉じた。ここは生まれた街とは言え、今まで自分のテリトリーの中でしかうまく眠れなかったダンデがこんな草むらで眠れるのだから、隣で眠られたとて悪いことではないのだ。それにダンデの可愛い寝顔が見られて得した。明るい陽の下で無防備に眠る、長い間ガラル中に愛されてきたダンデを愛でていいのは、今は世界で私ただ一人だ。


  ◇◇


「なんでもない、何もしない日はどうだった?」
「本当に何もしなかった」
「ははっ」

 陽が暮れかけの橙の世界は、ハロンという町にあまりにマッチしていて、それだけで絵にしてもいいくらいの景色だった。陽が沈むのに合わせて行動するような町では、元々人通りが限られているとはいえ人の気配は一気に薄くなっていて、ぽつぽつと建つ家の灯りがつきだしている。シュートであればこれから酒場が賑やかになったり、夜を後回しにする光景ばかりが日常である。それが悪いものとは一概には言わないけれど、こうして一日をのんびりと過ごした身としては、あそこの喧騒がなんだか遠いもののように思えた。それは手を繋いだ先のダンデも同じらしく、駅まで歩く足取りは酷くゆっくりだった。

「……またここに二人で来たいな」
「うん。私もダンデと来たいよ。シュートシティもいいところだけど、私もハロンが気に入った。またのんびり歩こう」
「次こそいいものを見せるぜ」
「期待してるよ」

 静かな空気に遠慮するみたいな二人の会話は限られてはいるが、互いに取り繕う必要もなかった。
 見送ってくれたダンデの母親から渡された、冷めても美味しい料理の手土産を二人で携えて、これからシュートの街に戻らなければならない。昔は風船一つでも手が塞がるのを嫌ったダンデが、こうやって最後まで手を塞いでくれたことは、口にはしないがとても嬉しい。

「でも、俺ってやっぱりゆっくりするのが苦手なのかもしれない」
「そう?」
「ああ。結局、夢の中でもバトルをしていた」
「それで、明日からも私の作った料理を丸のみするわけだ」
「だから努力するってば……それに、師匠を思い出すまではゆっくり噛んでいられただろ」
「まぁいいけどね、それでも」

 どういうことだ?とでも言いたげなダンデの顔が微かに私に向いたが、私は繋いだ手をぶんぶんと振りながら笑うだけだ。

「何もしなくていいって言われても一人じゃうまくできない、そんなダンデでもいいってこと!」
「……ナマエは俺を甘やかす天才なのか?」
「もちろん少しずつでも“何もしなくていい”を覚えて欲しいけど、ダンデはダンデだから、それでも私はいいよ」
「今すぐ抱き締めても?」
「シュートまで我慢、我慢も覚えていこう。でも手だけは絶対に離さないでね」
「情熱的だ」
「ここで迷子になられても困るからだって」

 ちょっとだけ眉を下げたダンデが面白くてまた笑ってしまった。まぁ迷子になったとしてもちゃんと見つけに行くよ。
 肩の荷が下りたばかりなのだから、焦らなくてもいいのだ。難しくないのに難しいものはまだまだたくさんあって、ダンデは何が簡単で難しいのかすらわからない。私にとっては当たり前で簡単だと思っていたことが、私よりも立派に生きてきたはずのダンデにはそうもいかない。それが偏に悪いことだとは豪語できないが、ダンデが望むのなら少しでも、こうやって気儘に散歩するだけの一日のような、何でもない日を一緒に増やしていきたいなと思う。