- ナノ -




一、夢は脆くとも力強く


 ソニアに恋人ができたと聞いて、正直なところ、ダンデは相当安堵した。
 だから思わずうっかり研究所にネモと一緒にアポなし突撃をしてしまって、「おめでとう!」だなどと開口一番叫んでしまったわけである。小さなネモはまだ恋愛についてはよくわからないが、「おめでとう」のニュアンスはなんとなく伝わるようで、「おめぇと!」とパパに倣って同じような顔でにぱっと笑った。ネモにとってその言葉は誕生日だとかに耳にする言葉で、良いことであるとはわかるようだ。

 対してうっかりアポなし突撃を食らった、恋人ができたことで幸福度が跳ね上がっている筈だと、ダンデが思いこんでいたソニアと言えば。
 ダンデの言葉を聞いた瞬間、なんともまぁげっそりとした顔で。片手に印刷したらしい論文のレポートと、もう片手には何故かフォークという不思議な格好で、アポなしでやってきた親子を半目で見返した。どうしてフォーク?とダンデは思うも、キッチン前のテーブルに白い皿が一枚置かれていたから、そこに載せた何かを食べていた名残なのかもしれない。
 リリーと結婚して以降は、リリーに人の迷惑を考えろと叱られたようで、しっかりとアポをとるようになっていたのだが、偶にこうしてうっかり忘れて突撃してくることは多少あった。ネモに関係することならば事前に連絡をきちんと入れてくるのだが、今日はそれとは関係ないことのため、またもついうっかりを発動させてしまったらしい。それがわかっているからソニアはあんな顔をしているのかとてっきりダンデは思ったのだが、あまりの酷い顔の出迎えに、いつもならにっこり笑ってくれるのにと、小さなネモも不思議そうな顔をした。

「……何が?」
「恋人ができたんだろう!良かったな!おめでとう!」
「……ああああああ〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!うわーーーーーーーッ!!」
「えっ!?」
「……っ!?……!……ッ」

 満面の、一応は他意のない笑みと言葉だったのだが、何故かソニアは突然しゃがんでレポートをぐしゃりと握り潰し、フォークを床にガンガン!と突き立て始めてしまった。あまりに異様な光景と叫び声も相俟って、ダンデとネモは目を見開いて硬直した。ネモは慕うソニアの奇行に言葉も出ないのか、自分を抱っこするパパに必死にしがみついた。心なしか丸くて小さな拳がぷるぷるとしている。

「あれ、アニキとネモ。今日来るって言ってたっけ?」
「ほっ、ホップ、あれっ」
「ああ、そっとしておいてやってよ。一時間くらい前にフラれたんだって」
「っ!?」

 丁度折よくと言うか、この場面だとタイミングがいいのか悪いのか。買い物袋を肩に掛けて今正に研究所に入ってきたホップが兄と姪っ子に気が付いて、即座に驚いた顔をした。きのみが布の袋の中にはたんまり入っていることから、市場に買いに出ていたらしい。

「フラっ……」
「ふ?」
「ネモ〜、元気か?」
「げんきっ!おじさんは!?」
「元気だぞ〜」

 ホップおじさんが覗き込んでいつも通り笑ってくれるから、ネモも凄く嬉しくて、しがみついていたパパの腕の中からそっちに移りたいのか、身を乗り出してしまうから慌ててダンデが抱え直して、それからやっとホップの腕の中へと移動させた。最近体が大きくなり始めたホップは、器用にも難なくネモを支えてくれる。きゃっきゃっ、と満足そうに笑うネモだが、やはりソニアの奇行は目に入るらしく、今はフォークを床に突き立てたまま蹲って項垂れるソニアをちらちらと見やる。

「……ホップ、ネモと外で遊んでもらえるか?」
「いいぞ!ソニア、きのみここ置いておくからな!」

 どうやらきのみは頼まれものだったようで、どさりと袋をキッチン前のテーブルに置いたら、ホップがネモと顔を見合わせて快活に笑いかける。おじさんが遊んでくれるんだ、とわかったネモもにまにまと笑って、その腕の中で嬉しそうに手足をぱたぱたとさせた。


  ◇◇


 死神でも背負っているような顔色のソニアをどうにか椅子に座らせて、きのみを剥いてやる隣で本人から聞いた話によると、本当につい一時間前に一方的に別れを告げられたらしい。寝耳に水とはこういうことを言うのかもしれない。なにせ、ソニアの恋人の話はたったの数時間前に入ってきたばかりなのだ。

「なんでまた?」
「さっきいきなりここに来てさぁ……この格好見た途端そりゃあもういやっそうな顔して……」

 よれよれの白衣に、乱れた髪。毛艶も顔色もお世辞にも良いとは言えない。髪もいつもの髪型にまとめてるが、結んだ髪からぴょこぴょこと毛先が不揃いな髪が数本跳ねているし、顔色の悪さはすっぴんのせいもある。なにせ今は学会に向けて準備の真っただ中なのだ。調査結果の洗い直しに、再考察。レポートのまとめ直しに、配布用に資料の作成。やるべきことは山ほどあって、自分の身なりを気にしている暇など正直ないのだ。
 来客があると事前にわかっていれば当然ソニアも身綺麗にしてくるが、如何せん今回はダンデと同様に先方もアポなしだった。ダンデならまだしも、その先方というのがここ最近恋人になった男となれば、まだまだ互いに夢を見る時期と言えるだろう。先方は今のソニアに自分で描いた夢が脆く崩れたと思ったのかもしれない。

「ソニアが博士って向こうは知っているんだろう?」
「ファンです!なんてのが開口一番だったわ」
「どこで知り合ったんだよ」
「ルリナとバーで飲んでたら口説かれて、なんか好きなものとか結構同じだったから意気投合して、少ししてから付き合おうって」

 ソニアのファンだと豪語したのなら研究職であることも最初からわかっていた筈だし、今は忙しい時期なのだから気を遣えと、これくらいの格好目を瞑ってやれよと、これまでの自分のことは綺麗に棚に上げてダンデはソニアに同情した。
 多分、相手の方はソニアに幻想を抱いていたのだろうとダンデは思う。外面は中々いいのがソニアだ。先方はまだ体も心も着飾ったソニアしか知らないから、抱いていた幻想というか、自分の中のソニアという人間の像が少しでも崩れたから、あろうことか「違う」と感じてしまったのだろう。憧れは時として残酷なものだ。
 ダンデはソニアが大切だが、それは幼馴染だからで、ずっと関わってきたからで、たくさん助けてくれたから。ソニアもそれは同じだ。ダンデに対して思うところが以前はあっても、リリーへの気持ちを知ってからは純粋に応援したし、晴れて二人が結ばれて、リリーがネモを妊娠したなんて報告を受けた時なんかははしゃぐように祝福した。リリーが亡くなってからは進んでサポートを引き受けてくれて、ソニアもネモが自分を慕ってくれるのは嬉しくないわけがない。あんまり踏み込み過ぎるのは良くないと、何年か前にダンデが雇っていたナニーの件も知っているから、自分の中で作った線はきちんと見ているつもりだ。

「は〜……こんなすぐフラれるなんて思ってもみなかった……ていうかなんの連絡も寄越さないで来るのが悪いんじゃん!そんで勝手に幻滅してもう会わないって……つまり私の見た目だけが結局好きだったんじゃん!何がファンだよ!」
「ほら、食え」

 バンバン!とテーブルを叩いて荒むソニアに、そっと剥いて切ってやったきのみを差し出すと、貪るようにするから、相当荒れてるな、とダンデは苦笑した。

「……どっかの誰かは、そんなこと露も知らず、おめでとうだってさ」
「ごめん。まさかそんなことになっているなんて思わなくて。でも、本当に嬉しかったんだよ、ソニアに恋人ができて」
「なんでダンデ君が喜ぶのさ?」

 じとりと睨まれて、ここで白状すべきか、少し悩んだ。ソニアだってリリーとのことを応援してくれただろ、と曖昧に終わらせようとしてみたが、ソニアは疑うような目つきを止めない。研究者としての勘か女としての勘か、残念なことに正直に話さないとこれは収まりそうもない。

「……お前、俺に遠慮してただろ」
「え」
「リリーが死んだから。俺がネモを一人で育てているから。だから、色々と、遠慮していただろう」
「……」
「ありがたい気持ちはいっぱいだけど、悪いなと思う時だって当然あるんだ。マグノリア博士にだって。本当なら、ソニアの家は関係ないことなのに」

 ナニーの件以降、ソニアの家は全面的にネモの面倒を見ることに協力してくれている。ソニアの家で預かってもらうときもあれば、この研究所に預かってもらうことも。それは全部、人の時間を使うことだ。ソニアはネモとは何の血縁もない、言ってしまえば赤の他人なのに。ネモがお姉ちゃんみたいに慕うソニアは、ネモと家族ではない。親戚でもないソニアは、ダンデの幼馴染という理由だけで、ネモの面倒を任せられている。母親が博士にも話をしたと言っていたが、よくよく聞いてもみれば、向こうから申し出があったというのだ。ソニアも二つ返事で頷いたと聞いて、サポートしてもらえることにあの頃憔悴していたダンデは安心と嬉しさもあったが、申し訳なさが全くないわけではない。だからこそナニーを雇うと決断するまでは、母親へ頼ることだって最低限に留めてきたのだ。もちろん母親やホップに対しても感謝も申し訳なさも同じではあるが、ソニアはまた話が変わる。
 ソニアはまだ若い。結婚もしていない彼女は、ポケモン博士として着々と道を作っていて、今もこうして次の学会に向けて準備をしている最中だった。そういう時期にはなるべくネモは研究所に預けないようにはしているが、ソニアにはソニアの生活があって、人生があって、それは本来、ネモともダンデとも関係のないもののはずだったのに。

「自分だけ幸せになってもいいかって、思ってただろ」

 リリーが亡くなって、ネモだけが残った。ダンデはそれを天地がひっくり返ろうと捨てることなんかできるわけがなくて。身近にそんな存在がまとわりついているから、ソニアは無意識なのか意識的にか、自分の恋愛を後回しにするような素振りが見られた。ネモのこととなればそっちを優先して、優先できない場合ははっきりと教えてくれるが、自分の為に使う時間をネモに譲ってくれた。家族ではない、他人であるソニアは。

「だから嬉しかったんだ。やっと自分の人生に目を向けてくれたのかって」

 避けているようにも見えた恋愛に、ソニアは向かってくれた。ダンデもネモも関係ない、自分の為に。それが、ダンデはとても嬉しかった。遠慮などしないでほしい。ソニアに甘えている自覚はあるからあまり言わなかったし、言えないことだったけれど、ソニアにはとにかく幸せになってほしいから、ダンデは。
 隣のソニアは、神妙な顔でそれを聞いている。半分ほど俯いて、ダンデが皿に置いた切り分けたきのみを指で摘まんだまま、じっと見つめる。もちろん、ただ黙ってきのみを観賞しているわけではない。

「……正直さぁ、遠慮してたのはしてたんだよね、多分。リリーが死んじゃって、ダンデ君が一人で子育て頑張ってるのに、私が恋人作って浮かれてもいいのかな、なんて。それがいいことなのか悪いことなのかもわからないで、だけどそうやって心のどっかで。傲慢だよね、改めて思うと」
「そんなことないさ。気を遣ってくれてありがとう。でもいいんだ。その……今は恋人はいなくなってしまったけれど、これからも俺に遠慮なんてしないでほしい。ソニアには幸せになってほしい。今更かもしれないけど、ネモのことは気にするな」
「……っとにバッカだよなぁダンデ君は!」
「ええ?」

 ダンデが切ったせいで大きさが不揃いで断面もがたがたの、小さく切られたきのみを摘まんだ指をダンデに向けて、ソニアは怒っているのに怒り切れていない、でも妙な笑い方をする。いきなり馬鹿と言われて、ダンデも面食らって変な声が出た。窓の向こうからはネモとホップの笑い声が聞こえてきて、足音が止まないから多分駆けっこでもしているのかもしれない。重たい足音から推察するに、ネモと競っているのはザマゼンタだろう。

「私、ネモを好きじゃないとか、一言も言ってないからね!邪魔だって思ったこともない!迷惑だとも言ったことない!私がネモを好きだから、大事にしたいから一緒にいるの!友達の子供を大事にするのって、いけないことなの?」

 あ、とダンデの口が小さく開いた。そこに摘まんだきのみを突っ込んでやろうとも思ったが、自分が手を引いてやった小さな子供時代でもないのだから、ソニアは結局きのみを自分の口の中に放った。

 リリーもダンデも、お人好しだなと、ソニアはずっと思っていた。結婚したのだし、愛する人がいるのだからこんな遠方の幼馴染のことなど疎遠にすればいいのに。二人していつもにこにことやって来て、食事をして、遊んで、誕生日を祝ってくれて。でもそういうのを改めてしてくれるようになったのは、ダンデがリリーと結婚したからこそだ。ダンデがリリーと出会わなければ、本当の意味でソニアとダンデの関係は希薄になっていったと思う。希薄というよりかは、遠くはないかもしれないが決して近くもない間柄。トレーナー時代から抱いていた、ダンデに対してのわだかまりが博士となったことで溶けだしたのは嘘じゃないが、男と女でもただの幼馴染で、それ以上もそれ以下もなかった。ダンデとソニアの縁なんて、本当はそんなものだった。
 でも、リリーと結婚して、二人はまるで昔からの親友みたいに接してくれた。ソニアは、リリーのことが好きだ。優しくて温かくて、どこかで抜けていて、遠慮するくせにいざという時自分の意見を曲げない強情さもあった。夢想するのは責められることじゃない。ここに、リリーがいてくれればって。ダンデと、リリーと、ネモと。三人で、ソニアの前で幸せに笑ってほしかった。

 ソニアはネモのママじゃない。ママになるつもりも毛頭ない。そんなつもりでダンデからネモを任せてもらっているわけじゃない。自分で線は常に見ている。リリーの分まで、なんて見当違いなことも考えたことはない。ただ、ネモが好きだから。小さくて、自分のことを慕ってくれるあの女の子が、可愛くて大切だから。だからソニアは、ネモのために自分の時間を使うのだ。それは全部、ソニアがしたくてしていることに過ぎない。ネモが幸せになるのなら、それを手伝いたいし、見守ってやりたい。もちろん、自分で見ている線の内側で。

「でも、ありがとう。恋人のことを喜んでくれて。残念ながら逃げられちゃったけど、もし新しい人を見つけたら言うね。……でもさぁ、幸せって恋愛とか結婚だけじゃないんだかんね!自分が結婚して幸せだったからそういう言い方するんだろうけど、そこんとこ忘れないでよね!少なくとも私は今、自分のやりたい研究できて幸せなんだから!」
「……ああ。そうだな」
「でも結婚するときはネモも連れてちゃんと式に来てよね!」
「もちろん」

 未来なんてどうなるかわからない。ここにいる誰もがそれを痛い程に知っていた。
 だから今を精一杯生きている。甘えながらでも、甘えではなく助け合っているだけなのだと笑ってもらいながら。ソニアも明日のことなんかわからないから、自分の人生がどうなるかなんてわかるわけない。だから、今やりたいことをやって、楽しむだけだ。自分が博士になれたこと。ダンデのチャンピオン戦敗退。ホップの新たな夢。ダンデとリリーの結婚。ネモというみんなにとってかけがえのない存在。たくさんのことを経て、ようやく、ソニアはそう思えるようになった。