- ナノ -




一、瞼の中で鮮やかに


 迷いはあった。けれど、水滴を垂らすだけ垂らす髪が煩わしいと思ってしまうことも、正直なことだった。
 ダンデがチャンピオンとして関わってきた人たちの中でも、子供を産んだ後にばっさりと髪を切る人を見てきたことを思いだした。長さも量もあった髪を、思い切りよくばっさりだ。子供ながらにストレートに髪型の変化を指摘すると、彼女たちはこぞって「子供の世話が大変だから」と苦々しく笑っていた。その頃はよく、意味がわかっていなかった。子供の世話と髪に、一体何の関係があるのだろうかと。子供を産んでも髪に変化のない人もいたし、ますます謎を深めるばかりだった。
 けれど、今はそれがとてもよく理解できた。パートナーがいたとしても髪を切るのだ。それくらい、自分にかける手間を惜しむ程に、子供のことに時間を使わなくてはならないから。

「こらネモ!勝手にそっちに行くんじゃない!」
「きゃ〜〜〜〜」
「リザードン!ネモがそっちに行った!」

 風呂は戦場だ。風呂に入っている間も戦場だし、家の中のどこも戦場であることに変わりないが、風呂から上がってもそれは綿々と続く。目を離した隙に予想だにしないことをするのが子供だ。ダンデが自分の体を拭いたり服を着ている間にもネモは勝手にとことこと。一瞬の隙をついてパパの手から逃れて、髪も濡れたままどこかに行ってしまう。慌ててリザードンに向けて叫ぶと、のしのしとやってきて自分の体でネモの道を塞いでくれた。遊んでくれるのかと思ったのかネモはそのままリザードンに抱き着いて、くふくふと笑っている。

「ネモ、こらっ、髪を乾かさないと」
「いや〜〜〜!」
「風邪を引くだろう。こんこん苦しいから、嫌だろ?」
「やっ」
「ネモが苦しいと、パパ悲しいよ」
「かなし?」
「うん」
「かなし〜のやぁね」

 肩にかけたタオルを走っている間にネモが落っことしたから、それをダンデが拾ってまた髪を拭いてやりながら、覗き込んでわざとらしく悲しそうな顔を作ると、ネモは首を傾げながらもうんうんと頷いた。本当に理解しているのかは定かでないが、ともかく無事に捕まえることに成功したので、ダンデはもうそれでいい。自分の着替えもなんとか手早く終えて、髪も水滴がだらだらと零れるままだが、先にネモの髪を乾かしてやらないといけないから、そんなのは後回しだ。
 だから、ようやくダンデは気が付いたのだ。母親になった彼女たちが、どうして大切にしていた髪を切ってしまったのかを。


  ◇◇


『ダンデ君の髪、とっても綺麗だね』

 リリーが褒めてくれたそれに、ダンデはこそばゆい思いをした。実際はそんなに手間暇をかけて労わってはいないから枝毛もあったし、乾かすのが面倒な時はそのまま放置することもあった。ローズ委員長からのお達しで伸ばした髪だったが、面倒だしあまり意識したこともない。
 けれどリリーがそう慈しんでくれたから、少しは大事にしようと自分でケアをするようにもなった。結婚してからはリリー自らケアしてくれたこともたくさんあった。リリーが触れた髪は、ダンデにとってかけがえのないものの一つになった。
 長い髪はネモも遊ぶのが楽しいらしく、抱っこやおんぶをすると知らない間に髪をハンドル操作するみたいに握って引っ張ったり、ぐちゃぐちゃにまとめたり、玩具の感覚なのだろう。髪で遊んでいる間はそれに夢中になって大人しくしてくれるから、ダンデも痛かったり数本引きちぎられたりと、そういう目にもあったが、ネモが楽しそうなのが嬉しいので口先だけでしか注意しない。
 でも、ネモが歩けるようになってからは話が変わった。もちろん歩ける前から自分のことなど後回しにしていたが、あらゆる場面でネモを優先しないといけない。風呂だってそうだ。ネモが風邪を引かないように体を真っ先に拭いてやって、手早く服を着せて、髪も乾かして。自分が素っ裸のままでもそうしないとならない。そうでなければ、ネモも裸のままとことこと走って逃げてしまうこともあるから。不思議なもので、昔は濡れた髪を放置していてもめったに風邪なんか引かなかったのに、この頃は何故かそうもいかない。ぐずつく鼻に、まさか、とようやく思い至った。

「ねぇ、本当にいいの?」
「しつこいぜ」

 ――ネモを連れて遥々とハロンまでやって来たダンデは、母親に開口一番にお願いした。
 髪を切ってくれ、と。

「美容室行けば?」
「あんまり好きじゃない。それに、関係のない他人に触ってほしくないんだ」
「だけど今までは何度も、専門の人にやってもらってたんでしょう?」
「……今回だけ、頼むよ。次からは専門の人に整えてもらうから」

 手先が器用という理由でソニアも候補としてあげていたが、きっと切る理由を話したら嫌がるだろうと思ったから、結局母親に頼むことにした。それに、子供の頃はよく母親が髪を切ってくれたことを思いだしたから。あの頃は髪を切るときでさえなんだかむずがゆがったり、じっとしていられない子供だったから、母親も散々だったに違いない。そう懐かしんでしまったら、ダンデの足は実家に向かっていた。
 最初は祖父母にネモを見てもらえたらと思ったが、最近祖父が腰が痛いと言うので、研究所でソニアとホップにネモをみてもらう間に、さっさと髪を切る準備をする。庭に椅子を運んで、ごみ袋をケープ代わりにして巻いたら、いよいよだ。

「ねぇ、本当にいいの?」
「何回訊くんだよ」
「だって……」

 母親も、リリーがダンデの髪を好きだと言っていたことを知っているのだ。だからいつまでも渋って、もうあとは切るだけ、という状態になっていても、足踏みしている。

「いいんだ。リリーの言葉は、何も死んでないから」

 リリーが死んでから一度も切っていない髪は、随分と伸びた。否応なくダンデの手でネモを育てることになってしまったから、仕事に育児と、まるで台風のような日々に髪を強く意識する余裕すらもなかった。適当に前髪や毛先くらいは切っていたが、今のように、ばっさりやろうとも、最近までは思いつかなかった。そうやって、良くも悪くも、親になった人間は徐々に変化していくのだろう。

「愛してくれた事実がちゃんとある。言葉も、手の感触もぬくもりも覚えている。だから、いいんだ」

 何度も触れてくれた。隣に座った時も、風呂の時も、ベッドの中でも。子供をあやすみたいに撫でて梳いてくれたりもした。リリーは確かに、ダンデの全てを愛してくれた。
 だけど、いつまでも髪を伸ばし続けるわけにもいかない。何より、今後の育児を思えば。
 別に切る必要だってないのはないのだ。自分の中の面倒加減の話で、切らない人だって大勢いる。でも、なんとなく、いつまでもこのままでは、いけない気がするのだ。漠然とでしかないが、このまま変化を嫌うことは、あまり良いことではない気がする。悲しみが消えることはなくても、ダンデもネモも、今を生きているのが現実だ。

「……思い出すなぁ。私も、髪切った」
「そうなのか?」
「アンタはちっちゃかったから全然覚えてないだろうけど、母さん、昔はもっと髪長かったのよ」
「そういえば、昔の写真だと長かった気もする」
「アンタがあんまりにもやんちゃだったから自分のことにかまける暇もなかったし、時間ももったいないことばかりだったから、ある日思い立ってそのままばっさり切ったの。お父さんは目ん玉ひっくり返るくらい驚いてたなぁ。それから短いことの楽さに慣れちゃったから、もうずっとそのまんま」
「もう伸ばしたいと思わない?」
「別にまた伸ばしてもいいけど。長いと髪型いじる楽しさはあるけど、ケアする面倒も多いし、今のとこ特に必要はないのよね」

 自分もそうなるのだろうかと、ふと空想した。もう髪型一つで制約が強いられるわけでもないし、ダンデはダンデなりの自由がある。でもその自由は、ネモを中心にした自由だ。子供を持つというのはどうしたってそういうことなのだろう。
 今を犠牲にしたいわけじゃない。ただ、ネモに健やかであってほしいだけ。その為なら、髪を切るくらい、いいのだ。名残惜しさも大きくあるけれど、ダンデは、リリーを愛して、愛された。優しい笑顔も怒った顔も泣いた顔もダンデの、みんなの中にある。時間と共にぬくもりがダンデから消えてしまったとしても、リリーの言葉はちゃんと、ダンデの中で生きている。



 首がすーすーするのに慣れなくて、何度も首の後ろに手をやってしまう。祖父も祖母も落ち着かない様子のダンデに「あら似合うね」と笑ってくれた。母親も自分の手で仕上げたそれに満足そうで、「気が向いたらまた切ってあげる」なんて言い出した。気が向いたらね、とダンデも笑っておく。次にメディアに登場したら、きっとネットニュースにでもなりそうだななんて思ったりもした。
 礼を言って実家を後にしたら、研究所へ真っすぐ向かう。とはいえダンデの力だけじゃまっすぐ往けないかもしれないから、リザードンと一緒にだ。

「ネモ!迎えに来たぞ!」
「ぱぱっ!………う?……???…………??」
「わ〜ほんとばっさり切ったね」
「こんな髪の短いアニキ見たことないな」

 バイウールーに顔を突っ込んでいたネモがパッと顔を上げて、勢いよく突入してきたパパの方をぐりんと振り返ったと同時に、目を真ん丸にして、口もぽかんと開けたまま硬直した。ソニアとホップは笑いながら短くなった髪を褒めてくれて、でもしばらく見慣れそうにない、と可笑し気にまた笑う。照れくさいようなそんな気もして、また首の後ろに手をやったダンデは、ネモが口を開けたまま自分を見上げて固まっていることに気が付いて、にこにことしながら態勢を低くして、ついでに手も広げながらいつものようにネモを抱き上げようとしたが。

「……」
「えっ」

 ひょいっ、とネモの軽くて小さな体がパパの手を避けた。まるで追手から目を離さないぞ、とでも言いたそうな目でダンデを見上げつつ、ひょこひょこと移動して一番近場にいたソニアの足にしがみついた。ぷっ、とソニアがその一連の光景を見て腹を抱えて、堪えようとした甲斐虚しく結局爆笑しだした。

「ちょっ、まじでッ!?ネモあれ誰だかわかんないの!」
「ネモ!?」
「ネモあれパパだぞ!」
「パパだぞ!?」
「やっ」

 目をぱしぱしとしながらパパを盗み見て、でもソニアの足に顔をぐりぐりと埋めて座りこんでしまったネモに、ソニアがしゃがんでその頭を撫でてやるが、ネモは「あれ知らない人」みたいな背中でしがみつくだけだ。殴られたようなショックを受けたダンデが慌てて抱っこしてやると、ネモはまだ不思議そうに目を丸めていたが、自分を抱っこする腕の感触だとか、匂いだとか、そういうのでやっと知らない人じゃないって理解したようで、でもまじまじとパパの顔を見ながら「ぱ?」と未だに首を傾げている。パパだぞ!と繰り返すと、パパだってちゃんとわかってきたようだが、すかすかの首の周りをばしばしと叩いている。

「ネモ、ほら帰ろう。ソニアもホップもありがとう」
「ネモまたおいでね〜」
「ネモまたな!」

 大好きな二人ににこにことして手を振ってばいばいできないくらい、パパの突然の変化に驚いているネモは、いつもみたいに髪をハンドルみたいに握ろうとして、でも何をしてもないものは掴めないものだから、架空のハンドル操作をするように空っぽの握り拳をひたすらにぶんぶんと振り回した。
 これから暫くの間、抱っこやおんぶをする度に架空のハンドル操作をして、それはネモが飽きるまで続くことになる。