- ナノ -




一、二本の足で歩く準備(前)


 いつまでも仕事を休んではいられなかった。だからダンデはもうずっと、正直のところ頭を抱えていて、けれどそうして悩む暇なくすっかりと立つのがうまくなったネモがあちこち歩き回ったり、口に入れてはならないものを入れようとしたり、目を離した隙にころんとすっ転んで泣いているものだから、やっぱり仕事に行っていられやしないと、ようやく眠った娘の寝顔を見たらゆっくりと息を吐いた。自分のシャワーすらままならず、本当の意味で息つく暇もないとはこのことかと、今更知ったわけだ。
 だとしても可愛い娘の愛らしい寝顔を見れば疲れが吹き飛んでいくようだった。そう思えるのもきっと幸せなことで。数時間後には夜泣きするだろうが、ぱぱ、ぱぱ、とたどたどしく自分のことを呼んで、小さくて短い、握り潰してしまわないかと危惧して冷や汗を最初は流してばかりいた、最愛の娘。
 妻を亡くしてから少しの間、茫然自失となったダンデを救ってくれた、正気でいさせてくれた、世界で一番可愛い娘。ダンデの、いや二人の宝物。
 かといって、現状このままというわけにはやはりいかない。立場がある以上、ダンデが表に出なければ解決できない仕事は山程あるのだから。

 娘を産んだと同時にこの世を去った妻の話は、当時世間をこれでもかと騒がせたからリーグもバトルタワーもダンデには同情的だし、融通を利かせようとしてくれてはいるが、いつまでもそれでは回るものも回らなくなる。当然いなくても回る仕事はあるのでそれについてはリモートで済ませたり、家から指示を出して行ってはいるが、如何せんまだまだ幼く言葉も曖昧な娘から長い時間目を離してはならないから、集中できる時間も限られている。
 タワーとリーグ、顔を出さねばならないときは仕方なくネモを実家に預けるか母親に来てもらう他ない。でもそれはあまりに心苦しいことだった。なにせ本来であればそうなることはなかった筈なのに。

「少しだけでもうちで預かるってば」
「いや、いいから」
「家事だってろくにできてないのに」
「……」

 見かねた母親がもう何度もダンデにそう提案するも、ダンデは頑なに首を振る。ほんとに少しだけでも、と尚も食い下がる母に、情けない顔で返すこともすっかりと板についてしまっていた。
 ダンデとてわかっているつもりだ、心配されているということを。母親だけではなく弟にも、祖父母にも、幼馴染にも。バトルだけを通じて生きた、友と呼んでもいいのかわからないが、それでも声をかけてくれる人間もいる。マサルもダンデに遠慮しているのかバトルタワーに顔を出しても話だけして帰っていくことも増えている。
 けれど、これはダンデの問題だから。妻と共に育てる筈だったネモを、自分一人で育てなくてはならない。大いに責任のあること。ポケモンの育成とは何から何まで勝手が違うと日々頭を痛ませてはいるが、何より、ネモを愛しているから。妻が注ぐ筈だった愛を、その分、いやそれ以上に注いでやりたいから。

 だから平気なのだ。
 仕事にろくには行けなくなっても、バトルの時間が減っても。夜中に大泣きされて朝まで眠れなくても、オムツ替えが失敗して漏れたものに服を汚されても、洗濯がうまくできなくて自分が着るものがなくなっても。料理がうまくできなくても買ってくればいいし、掃除機はかけられるが片付けが苦手で、だけど必要なものはその辺に転がっているし。時々うっかり踏んづけて痛みに悶えることもあるけれど。
 ネモが笑えばいい。ネモが「ぱぱ」って手を伸ばして、元気でいてくれればいい。まだ自我も薄い、善悪すらも知らない、言葉を覚え始めたばかりの、ママがいないこともわからない娘。妻がいなくても、家事がうまく出来なくても、仕事が滞っても、バトルができなくても。置いておいたお気に入りの帽子を攫われて、齧られて、涎まみれにされても。
 ネモが笑えばそれでいい。


  ◇◇


 預けなくてはならない時だけ実家に預けて、極力三人で暮らすために建てた自宅でネモの面倒を見る。実家に連れていくのもネモが幼いため移動には細心の注意を払わないとならないし、そのせいでダンデにもネモにも負荷がかかってしまう。だからもっぱら母親に来てもらってばかりいるが、もちろん母親だって本人は口にしないが大きく負担がかかっているだろう。
 そういう生活がもう一年近く続いていた。ネモが自力では動けない時も大変だったが、歩けるようになると更に大変になって、うっかり目を離すと取り返しのつかないことになるのだと、日々頭を痛くするばかり。無論決してそうなってはならないと、眠気や疲労と戦いながらダンデは常々思う。娘に何かあったら、今度こそ自分はまともに生きていけやしないだろう。

「委員長、ベビーシッターやナニーは雇わないんですか?」

 ネモを実家に預け、偶然リーグに顔を出した折。部下が突然そう言いだして目を丸くするダンデだった。
 言われてようやくその存在に気が付いたのだ。そういえばそういう仕事が存在していたと、今更のように思い出した。それはダンデの反応からも部下は察せたようで、呆れる素振りもなく、寧ろ丁寧にいかに助かっているかと教えてくれた。

「私も数年前に子供が生まれましたが、ナニーを雇ってからは育児も大分楽になりましたよ。特に妻は機嫌もよくなって、今じゃ私よりもナニーの方を大事にしていますから」

 そう自ら笑い飛ばそうとする部下に、本当に目から鱗のような気持ちだった。
 ダンデが興味を持ったとまたわかったら、部下は更に詳しく契約するナニーについて説明してくれた。彼の家では住み込みで雇っているらしいが、通ってもらう形もざらにあるし、金はかかる分信頼できる派遣会社もあるはずだと。饒舌に語ってくれる部下は、過去の栄光も見えない程に疲れた顔をするダンデをきっと慮ってくれたのだ。
 一般的な制度である筈が今まで一度も思いつかなかったことに、しばしダンデは眉を寄せて頭を悩ませた。


 ネモは良くも悪くも好奇の目に晒されやすい。ただでさえダンデの子としてこの世に誕生したのに、その母親が出産と同時に亡くなってしまったのだから、どうしたって世間の注目を集める。生まれた直後よりも今は沈静化されてきたが、一緒に外を歩くだけでダンデの顔がガラル中に知られてしまっているがためにどうしても視線を向けられやすい。
 肌の色もそうだった。ダンデの色を受け継がなかった色は正しく亡くなった妻のリリーの色で、それについてもゴシップ記事は一時騒ぎ立てていた。ネモのようなケースは数多くあるのにも関わらず、もうそんな指を指すくらいに珍しくもない筈なのに、自分達が相手しているのがあのダンデ、という理由だけであることないことを勘繰るのだ。さもそれが真実のように、苛烈した憶測を鎮めるには時間が解決した節もあったが、少々労を要した。
 ダンデはネモに辛い目も、嫌な目にも、極力あってほしくはないと思う。生きていくには避けては通れぬものも当然あるだろうが、父親や母親のことに関して傷つけられることなど、きっとネモよりもダンデの方が堪えられないかもしれない。

「どうして私に、そのような相談を」
「他に優秀な腕を持った人を思い浮かべられなくて」

 アポもなしにわざわざ炭鉱に出向いたダンデに、オリーヴも最初は驚いた素振りを見せたものの、埃と土の匂いが微かにするプレハブの休憩所へ案内してコーヒーを淹れる気遣いくらいはできる。ダンデの顔色を見たらかつて敏腕の秘書で副社長でもあった彼女の足は自然と動き、こうして来客用のカップにそれを注いでいたわけである。
 そうしてダンデは言いにくそうな顔を一つしたら、礼儀で出されたコーヒーを一口だけ含んで渇いた口を湿らせた後、オリーヴに相談をもちかけたのだ。
 信頼のできるナニーを探してほしい、と。

「貴方はローズ委員長の下で長年働き、マクロコスモスを支えてきた人だ。その優秀さは傍らで見てきた俺も十分知っています。こと、情報収集とその有用には舌を巻く。ローズ委員長もいつも関心していました」
「今は貴方が委員長ですよ」
「……癖で、つい」

 これは多数の人間からも指摘されてきたことだ。けれど最初からダンデにとってのローズは委員長で、そう呼び親しんできたものだからいつもそう呼んでしまう。でもそれは、まだ自分がリーグ委員長として未熟者であるという自覚と自戒もあってのことだった。まだまだ若輩であのローズには及ばないと、リスペクトの気持ちだってずっと残っている。

「……それで、お願いできませんか」
「ご息女のためですか」
「そうです」

 葛藤はしたが、結局出した答えはこれだったのだ。
 子育てと家事の両立が、このままではままならないだろう。特に家事の方は。元々不得手で、生前のリリーにアプローチの一貫として料理を教えてもらったこともあったが、それは本当に少しだけで。少しだけでダンデは良かったのだ。いくらでも教えてもらう機会はあると思っていた。だって、結婚して、死ぬまで隣にいると思っていたから。二人で、ゆくゆくは三人とか四人とかで、時に失敗しながらも楽しく生きていけると思い込んでいたから。

「……噂は、かねがね。荒唐無稽な話には私も腹を立てていました」
「お恥ずかしい話ですが、俺は家の中のことはてんでダメで。娘と家事と、両方見てくれる人がいてくれれば、と」
「それでシッターではなくナニーを。……確かにナニーを派遣、もしくは住み込みで雇うことも一般的です。けれどハロンにはご家族もいらっしゃるでしょう。赤の他人を家に入れてもいいのですか?」
「母親にはもう既に何度か助けてもらっていますが、なにせシュートとハロンでは距離がありますから。家には高齢の祖父母もいますし、俺がチャンピオンだった頃いくつも面倒をかけたので、これ以上の負担はかけたくなくて。毎日つきっきりで面倒見てもらうわけにもいかないし」

 物理的な距離のせいで弊害はいくつもあった。ダンデの仕事の拠点はシュートシティで、そこから正反対の位置にあるハロンタウンでは時間も金もかかる。今はまだ多くても週に数回だからいいが、これが頻度をあげていけば相当な負荷が家にかかってしまう。元々は家に面倒をかけるつもりはなかったものだから、ダンデの頭はそういうことばかりで埋まってしまった。ただでさえ昔からやんちゃしては母親を振り回し、チャンピオンとなってからも振り回し続けたのだ。
 ダンデはチャンピオンとしてずっとガラルに愛されてきたが、同時に人というのは時に他人の都合も迷惑もお構いなし、と痛感するような案件にも見舞われてきた。それも家族を巻き込むような、だ。ダンデ自身のことも、ダンデにまつわることでもたくさんの迷惑と面倒をかけて、それを自分のせいだからと自分の手で収拾をつけてきたのだから、いくら一人で娘を育てなくては、という事態になったところで自分でどうにかしなくてはという考えは変わらない。

「リーグにもタワーにも託児スペースがあった筈ですが」
「確かにありますが、好奇心に満ちる人間というのは、どこにでもいるものですから」

 人の口に戸は立てられない。実際、ダンデが顔を出す日に限ってブン屋と疑わしい輩が隠れて待ち構えていることもある。SNSも普及した現代で、いくら自分の下で働いてくれる彼等を信用しようと、人間何があるかなんて、誰にもわからない。もちろん特別に人の目に触れないよう配慮する、とスタッフは言ってくれたが、ダンデはやはり首を振った。

「娘を、絶対に安全な環境で育てていきたいんです。まだ歩けるようになったばかりで、言葉もろくに喋れない。知らない人間に囲まれて泣く姿は胸が痛いし、あまりあちこち移動させるのも心身共に障るでしょう」

 オリーヴは、黙ってダンデの言葉に耳を傾けていた。
 テーブルの上で手を組み、握り締め、微かに俯いて語り続けるその顔は、かつてのように快活に染まってはいないことを、炭鉱で自分を訪ねてきたその時から気付いている。オリーヴに子育ての経験はなくとも、それが慣れないことをしているせいだとも。

 オリーヴの記憶の中にあるダンデという子供は昔、あまりに猪突猛進だった。敬愛するローズも苦笑するほどに突っ走りやすく、けれどシンパシーが合うのか楽しそうに語り合う様子もしばしば見かけた。ローズはダンデをトレーナーとして、そしてチャンピオンとして大層愛し、時にダンデが無鉄砲でありながら情熱家過ぎてやらかしたことのカバーだって率先して行い、それを助力したのもオリーヴだ。
 そして今目の前にいる、隈のできた、かつてキラキラと眩しい輝きを放ちガラルに君臨し続けた子供は、こうして大人になり、結婚もして、父親にまでなった。予想外にもあんなに仲睦まじかった妻は亡くなってしまって、子育てに家事と、経験のなかったことのせいで疲弊している。ポケモンとバトルだけに熱中していた頃の眩しい面影もなく。
 そんな、かつて子供らしからぬ子供時代を生きたダンデが、わざわざこうして炭鉱まで足を運んで頼み込みにやってくるとは。

「……一週間程、時間をください」
「っ!いいんですか!?」
「貴方がそんな顔をしているようでは、あの子が可哀想ですから」

 弾かれたように立ち上がったダンデに、オリーヴは平素通りの顔を変えずに返し、すっかりとぬるくなったコーヒーに口をつけた。たったの一度しかこの目にしたことはないが、あの無垢な笑みと小さすぎる手が自分に伸びた時のことを、オリーヴはずっと覚えている。
 ダンデはこのままでは遅かれ早かれ潰れてしまうような、そんな予感がしていた。あんなに栄光の光の下でガラルを熱狂させてきた男も、一人で赤ん坊の世話など簡単にできるものではないと、オリーヴとて思う。それも、親しい人間の手をまるで拒むように振る舞っているのだから。赤の他人でも金銭の絡むプロであればと、そういう結論を出してしまうくらいに。
 オリーヴの腕は使おうと考えられるのに。

「ナニーはどのような雇用形態をお望みで?」
「俺が仕事に行っている間だけでいいんです。家事と、ネモの面倒を見てもらいたい」
「では、派遣もしくは個人契約という形でよろしいですか」
「はい」

 まぁ、ダンデの場合は住み込みというのも何かと問題が出てきそうだし、曜日と勤務時間を固定した方が良いのだろう。オリーヴは頷いた。

「ありがとうございます」

 安心したように力を抜いて微かに笑うダンデに、オリーヴはコーヒーのカップを傾けたまま、最後に口添えた。

「……今まで貴方は、ずっとたくさんのことを成し遂げてきました。貴方の力で」
「?ええ」
「子供の頃からそうで、罷り通ってきたものですから、自分を変えることは容易ではないのでしょう。あまり人のことは言えませんが、時には思い切って力を抜くことも、周りに目を向けることも大切だと思います」

 そうして最後までコーヒーを飲み切ったオリーヴに、ダンデは首を傾げるばかりだった。

 またぜひ娘に会ってください、と言い残してダンデが去り、二人分のカップを片している間、オリーヴは自分の最後の言葉を思い出して自嘲した。本当に人のことは言えないなと、嫌に自覚があったから。自分を変えるだなんて、そんなこと。自分だってまだ変わりきれてやしないのに。もっとも、この期に及んでは変わろうとも思えないのだけれど。
 明日ローズの面会に行った際にはこのことを話そうと、オリーヴは決めた。きっとローズは、相変わらずですねぇとくつくつと笑って、叶うならわたくしも早く直接会いたいものです、と遠い目をして、ダンデが持参した写真だけで知るくしゃくしゃ顔のネモを思い出すのだ。