- ナノ -




一、世界は君を愛している


「ネモー、ご飯〜」
「もってく!もってく!」
「お手伝いしてくれるの?ありがとう、これテーブルに持っていってね」
「うん!」

 おばあちゃんのご飯がネモは大好きだ。パパが作ると時々失敗して焦げたり苦かったりになるけれど、おばあちゃんのご飯は味に不安定さがなくて、特に大好きなのは特製のスープ。野菜とコンソメがきいた優しい味のやつ。

「腹減ったぁ……」
「ホップもネモ見習って手伝いなさい」
「でも俺が手を出すとネモ怒るんだよ……」
「ネモひとりでできる!はいおじさん!」
「ん、ありがとな」

 せっせと短い足でキッチンとテーブルを何往復もするネモは、よたよたとしつつもしっかりとスプーンとフォークをセットで握り締めて、椅子に腰かけたホップに渡す。にこりと笑って受け取ってもらえれば、ネモのミッションはそれだけで達成となるのだが、最近なんでもやりたがる背伸びの時期のネモではそれしきでは物足りない。だから本当は熱々のスープが注がれるお皿だってテーブルに運んであげたいのに、危ないからってそれはどうしても許してもらえない。不服で頬を膨らますネモの周りをうろつくチョロネコがからかうようにくすくすと笑うが、代わりにホップがその小さくてまんまるの頭を撫でてやれば、自然と機嫌は戻ってくる。おませになってはきているが、大好きなホップおじさんに甘やかされるのが一等大好きだから。
 ネモが来る日には研究所ではなく自宅で勉強に勤しむホップは、結局のところネモを構う羽目になるとわかっていながら、こうして家の中にいてくれる。ネモが家の中の遊びに飽きたら手を繋いでブラッシーまで買い物にいったり抱っこをしてやって、庭でバイウールーの毛に埋もれて遊んだり、ザマゼンタと追いかけっこもしたり。不思議と追いかけっこはネモが必ず勝つから、ネモはザマゼンタとこうやって走ることが得意だ。

「あなた、おなまえは?ネモね、ネモだよ」

 家の前でエースバーンと一緒に地面にお絵描きしていると、時々草むらから出張してくる野生のポケモンがいた。今日はホシガリスが頬いっぱいにきのみを詰め込んだまま走ってきて、ネモの前で攻撃心の欠片もなくけたけたと笑っている。最初はエースバーンも警戒する様子を見せるのだが、ネモがとたとたと近寄って顔を撫で始めても野生のポケモンはいつも嬉しそうにするばかりで、危害が加えられそうであればいつでも戦闘態勢に移行できる心積もりのままながら、エースバーンもその長閑な様子にはホッとして、その横に座ってネモと野生のポケモンが戯れる光景を穏やかに眺められる。

「ぱぱは?なかよし?」

 生まれたときからママを知らないネモが口にできるのはもっぱらパパの話だけで、時々ママらしき親と連れ立った野生のポケモンを見かけると、不思議そうに首を傾げる。ホップがいれば優しくその小さくてまぁるい頭を撫でてやるが、今日はホシガリス一匹だけだからその必要もなさそうだった。
 お外に飽きればまた家の中に戻って、ひいおじいちゃんとお話ししたり、ひいおばあちゃんとデカフェの紅茶を飲んでのんびりしたり。おばあちゃんが買い物に行っている間は遊んでもらうのはホップとチョロネコだけで、チョロネコのゆらゆらと揺れる尻尾を手で追いかける遊びをしていたら、休憩なのかホップが二階から降りてきた。ネモにも尻尾がついていたらぴんと伸びた後にぶんぶんと振っていたかもしれない。それくらい、ホップおじさんの顔を見ただけでネモは嬉しくなってしまう。

「おじさんおべんきょおわり!?あそぶ!?」
「……遊ぶかー!」

 抱っこして空中移動させてくれたり、おままごとに付き合ってくれたり。ネモが眠たくなるまでまだまだ年若くて元気盛りのホップが全力で遊んでくれて、絵本だって読んでくれる。ネモは、たくさんのポケモンが一つの島で暮らし、そこへある日小さな男の子がやってくる話が最近のお気に入りである。
 ホップの足の間に入れてもらって、背中にあったかい熱を感じながら優しい声を聴いていたらどんどん眠くなってきて、それは追いかけっこの疲れが今頃やってきたようで、すこんとその場で寝落ちてしまった。ホップがそっとベッドに移動させてやり、愛らしい寝顔に心和ませると、こっそりとその寝顔をスマホロトムで撮影して、自分の兄貴に送ってやった。兄程ではないが、画像フォルダはこの数年で可愛い姪の写真ばかりになっていた。この子に無邪気で無垢に笑いかけてもらえるならば、その歳でおじさんと呼ばれることにだってまったく抵抗なんかない。
 一時間と少しくらい眠ったネモが不意に目覚めて目をぱちぱちさせながら起きたら、そこにはホップがいてくれて、ふにゃふにゃと気付いたネモは笑う。起きても寝ぼけるネモにくしゃりと笑うホップが大きな手でさらさらの髪を撫でてやり、そうしてとっておきの秘密をお披露目するみたいに教えてくれるのだ。

「パパ、もう少しで来るって」

 ぴん。ネモの透明な尻尾が立った。起き抜けに残る眠気など瞬時にどこかにいってしまって、がばりとベッドから起きたネモが興奮した面持ちで窓を見やると、すっかりと赤らんでいたから、ネモは立ち上がってベッドの上でジャンプした。

「ぱぱくる!?もうくる!?りじゃどんも!?」
「晴れてるからリザードンに乗ってくるだろうな。こら、危ないから跳ねないんだぞ」
「きゃあ〜〜!」

 跳ねるから仕方ないとホップが抱き上げると、その腕の中に攫われたネモがそれすら楽しそうにきゃらきゃらと笑う。兄が定時上がりということは、今日は夕飯も一緒ではないし、風呂上がりの髪を乾かしてやることもないし、同じベッドで寝かしつけることもない。それをちょっと寂しいと感じているのはホップおじさんだけらしい。おじさんだいすき、それはネモの本当の気持ちだけれど、やっぱりどうあっても、世界一のパパには勝てないのだ。

「ぱぱあっち!?」
「あっちかなぁ」

 ホップに抱えられたままリビングの窓に張り付いて、暗く染まり出した赤い空の彼方を探し続けるネモに、おばあちゃんも、ひいおじいちゃんもひいおばあちゃんも、チョロネコも、微笑ましく見守った。
 寂しい思いをさせたくないのは全員共通の気持ちだからあれこれしてあげても、結局ネモの一番はパパだから。ネモがある程度大きくなるまでこの家に二人いればいいと提案したのはおばあちゃんだったけれど、それをしなくてもこうしてネモは元気でいる。家の中に飾ったネモのパパとママの結婚式の写真を見て首を傾げ、まだまだママって存在がいないことについてよくわからないネモだが、生まれたときから一緒のパパの隣が何よりも安心できて、大好きで。

「きた!」
「こら暴れるな!」

 パパ譲りで目が良いネモは、まだまだ小さい点のようでもすぐに発見できる。見つけた瞬間じたばたとするものだから慌ててホップが下ろしてやると、弾丸のように走り出して玄関へと一目散に。ふぅ、と溜息をつくホップだが、その顔は笑っている。おばあちゃんなんか「ダンデの小さい頃にそっくり」ってくすくすと可笑しそうにしては目を細めた。
 玄関を開けて、ちょっと進んだところで空を見上げる。少しずつこちらに近づいてくる赤い影は、翼を上下させ、安定した軌道で宙を渡る。ぱぱー!ってネモが叫んだら驚いた鳥ポケモン達がどこかで飛び去る音がしたが、当然ネモには自分の所にやってくる影にしか目も耳も働きやしない。

「ネモー!」

 陰から声が返ってきた。ネモが大好きで大好きでしょうがない声。パパみたいに満面の明るい笑みで、ネモは地上から手をぶんぶんと振り続ける。ネモここだよってパパへのサイン。
 やがてリザードンの姿もくっきり視認出来るくらいになると、高度が下がり地上へ降りる段階へと入る。風がネモの頬を擽り、その強さが少しずつ増していく。リザードンの翼が生む風だ。でもきちんとネモがまだ壊れやすくて丁寧に扱わないといけない体であると利口なリザードンはわかっているから、ネモが吹き飛ばされないよううまく飛んで主人を無事に地へ降ろしてくれるのだ。

「ネモ!」
「ぱぱおかーり!」

 シュートシティに家も職場もあるが、ネモを好奇の目に晒さず安全に過ごさせるにはここしかない。少なくとも、ネモがある程度成長して、たくさんのことを理解出来て一人で世界を見れるようになるまでは。だからバトルタワーで仕事が終わったらわざわざハロンまで飛び、またシュートへ戻る。ネモも空の旅は大好きだからそれに関して何も不満はないし、何より、自分の元へ飛んできてくれるパパとリザードンの組み合わせは、ネモのお気に入りである。

「イイコにしてたか?」
「いいこー!ネモいいこ!」
「そっかそっか」

 リザードンの技量のお陰により無事風に飛ばされなかったネモは、きちんとパパが地に足をつけてからその場を駆け出して勢いよくパパに飛びついた。ネモにあわせてパパもしゃがんで受け止めてくれるから、ネモはパパの膝にごっつんとぶつかることもなくて。
 おばあちゃんやホップ達にばいばいをしたら、パパに抱っこしてもらってリザードンの背中に乗せてもらいゆっくりと薄く黒がかった茜色の空へと飛び立った。陽が落ちるこの時間は頬を撫でる風がちょっと冷たいけれど、足元のリザードンの背中は凄く温かいし、何よりネモの体を包むパパの温度がとっても心地良いから、ネモはちっとも寒いとは思わない。

「今日は何をして遊んでたんだ?」
「かけっこしたの!ばいうーうと、ざまじぇんと!あとね、おそとであそんだ!おじさんとね、えほんもよんだ!」

 まだ口が発達しきっていないから舌ったらずながら一生懸命パパを見上げて、今日したことを楽しそうに話すネモに、パパもうんうんと笑って頷いた。いつもそうだ。パパはどれだけ疲れていてもネモの話をちゃんと聞いてくれるし、空の上だからなかなか頭を撫でてはやれないが、顔をネモに寄せてネモと同じ顔で笑ってくれる。
 ネモはパパが大好きだ。世界で一番大好き。ネモに構ってくれて遊んでくれる人はたくさんいるけれど、やっぱりパパが一番。もちろんリザードンも大好き。
 リザードンは、最初は小さな赤ん坊に自分の火が当たらないようおっかなびっくりしていた様子だったが、段々と小さな生き物に慣れてくると率先して様子を注意するようになった。それは主人で小さな生き物の親たるダンデが一人で手が足りていないのを感じたからなのもあるが、リザードンなりにこの小さくてぴょこぴょこ予測不可能な挙動をするネモを守ろうと思ったからこそである。

「パパもえほんよんで!」
「ああいいぞ」
「いっしょにねるの!」
「もちろん」

 ネモがにぱりと笑うと、パパも笑う。それが嬉しいからネモはずっとにこにこと笑っていた。
 ネモはママを知らない。ママっていうものもあんまり。でもパパがいる。生まれたときから一緒にいてくれて、抱き締めてくれて、頬にキスしてくれるパパ。だから、ネモはずっと笑う。